ダージリンヒマラヤ鉄道 4年ぶりに全線開通のニュース

大規模な崖崩れのため4年間ほど部分的にしか運航されていなかったダージリンヒマラヤ鉄道だが、このほどようやく全線開通となったとのこと。

DHRS NEWS UPDATE – 31 MARCH 2015 (DARJEELING HIMALAYA RAILWAY SOCIETY)

2013年にダージリンを訪問した際には、ダージリンから発車したトイトレインはカルセオンで折り返していた。

ダージリンでトイトレイン乗車 (indo.to)

上記記事には、崖崩れの現場の様子を伝えるDARJEELING HIMALAYA RAILWAY SOCIETYウェブサイトへのリンクが張ってあるので、参考までご覧いただきたい。

道路沿いに走るルートが多いため、被災地域では車道も同様に崩落してしまったため、当時は従来のルートよりもかなり道幅が狭い迂回路をクルマが通行するようになっていた。

多雨に見舞われる山岳地の宿命ともいえる災害だが、復旧作業にあたってはそれに関わる人々の多大な苦労があったに違いない。

Hooghly Tales

かつて「10 SUDDER STREET」で取り上げたように、タゴール家の持家のひとつがここにあった。同家から出た詩聖ラビンドラナート・タゴールがしばらく起居したこともあるというがあったと聞く。そんなサダル・ストリートは、今のような安宿街という趣とはまったく異なる閑静な住宅地であったのだろう。

大きな商業地域を抱えるチョウロンギー通り界隈に隣接しているが、ごく近くにインド博物館、Asiatic Society、サウスパークストリート墓地のような植民地期の白人墓地があるとともに、由緒ある教会もある。

また、「サダル・ストリート変遷」で紹介してみたように、19世紀あたりから、ユダヤ人たちも多く居住する時期もあった。著者であり、主人公でもあるSally Solomonという女性が、この作品内で描いた自分自身の子供時代から新婚時代までにかけての物語は、彼女ら家族が居住していたエスプラネード北側のBentinck Street、そして引っ越した先でSudder StreetとMarquis Streetの間に挟まれたTottee Laneで展開していく。

彼女の先祖はシリアのアレッポから移住したShalom Aaron Cohen。カルカッタのユダヤ人社会では伝説的な偉人だが、彼女の時代にはごくありふれたロワー・ミドルクラスの家庭のひとつとなっている。

先祖が日常的に着用していたアラブ式の装いや家庭内で使用していたアラビア語は、彼女の世代にとってはとうの昔にエキゾチックな存在となっており、これらは洋装と英語に置き換わっている。これは17世紀初頭から19世紀にかけて、中東地域からインドに移住した、いわゆる「バグダディー・ジュー」と呼ばれる人々に共通した現象で、インドに定着するとともに生活様式が洋風化していったのは、偶然の所作ではなく、商業の民の彼らの稼ぎ口が当時インドを支配していた白人社会にあったからである。

英領時代のカルカッタの街のコスモポリタンぶり、市井の人たちの暮らしぶりを知るための良い手がかりになるとともに、カルカッタを旅行で訪れた人にとってもなかなか興味深いものとなるのではないかと思う。20世紀前半のサダル・ストリート界隈での暮らしや出来事、ごく近くに立地するニューマーケットの様子などが活写されており、カルカッタで現存する最古の洋菓子店あるいは様式ベーカリーとして知られる「ナフーム」も出てくる。

サダル・ストリート界隈に、今なお多く残る昔はそれなりに立派であったと思われる屋敷や建物(たいていは内部が細分化されて貸し出されていたり、転用されていたりするが)のたたずまいから、そうした過去に思いを巡らせてみるのはそう難しいことではない。

Hooghly Tales – Stories of growing up in Calcutta under the Raj (English Edition) [Kindle版]
著者 : Sally Solomon
ASIN: B00EYTNNMK

植民地末期ビルマでの暮らしの回顧録 Every Common Bush

著者である主人公の女性、パトリシア自身の英領ビルマでの生活の回顧録。彼女は1923年にラングーンで生まれて、日本軍の侵攻により1942年にインドに脱出するまで、ビルマで暮らしている。

彼女の先祖は、1840年代に軍人として赴任した初代(1857年のインド大反乱の際、アラーハーバードで死亡)とその妻、彼らに伴われて渡ってきた二代目となる子供たちがインドに根を下ろした。インドに暮らしてきた家族がビルマに移住したのは主人公の親の代であったようだ。主人公は本国から離れてアジアに移住した家系の五代目であり、植民地で暮らす最後の世代となる。

彼女の父親は自動車整備工。やがて企業して自らの自動車販売会社を持つようになり、順風満帆な生活を送るが、いつしか事業が不振に陥ってしまう。仕事に行き詰った結果、行政関係の仕事に就くが、独立運動とともに社会不安が高まる中、身の危険を感じて運輸関係の民間企業に転職。

第二次大戦開始による暗雲はアジアにも着実に影響を及ぼし、日本による真珠湾攻撃のニュースはビルマに暮らす主人公やその家族たちの生活にも暗い影を落とすようになる。

父は、勤務する運送会社がビルマから中国に至る「援蒋ルート」で軍需物資を運搬するという危険な業務に従事するようになるとともに、子供たちはビルマ中部のシャン高原にあるヒルステーション、メイミョーに疎開。

1942年、ラングーンに侵攻した日本軍はまもなくビルマ中部以北にも進撃を続ける中、まだ任務から離れることができない父親よりも一足早くインドに脱出。飛行機でチッタゴン、船でカルカッタ、そして鉄道でデヘラドゥーンへと向かい、主人公はしばらく看護婦として勤務することになる。

すでにビルマから外に出るフライトが無くなってしまった父親は、仲間たちとビルマからインド北東部を経て逃れる決断をしなくてはならなくなってしまう。

道中、命を落とす仲間たちも出る中、なんとかインドにたどり着くことができた父は家族と再会。家族はボンベイを経て、バンガロールに落ち着くこととなった。

作品の前半から中盤にかけては、主人公のどかな子供時代と家の中での出来事、彼ら家族を取り巻く人々の平穏な日常と在緬イギリス人たちや地元の人々の様子が描かれている。幼い子供だった主人公が成長していくとともに、植民地ビルマで暮らしていた様々な人たちとの付き合いも深まり、家や学校の外の社会に対する観察力が深まっていく。青春時代を迎えた主人公が、第二次世界大戦の戦況やビルマの独立運動の盛り上がりなどに対して、冷静に観察していた様子がうかがえる。

植民地在住のイギリス人とはいえ、ワーキングクラス出身で、5世代に渡ってインド・ビルマに在住。決して特権階級などではない主人公たちは、当時のラングーンの社会各層との繋がりは深く、そうした中で巧く世渡りをしていくたくましさを持っていたようだ。家庭内での英語以外に、ビルマ語やヒンドゥスターニー語(現在よりもインド系の人口が占める割合が高かった)をごく当たり前に使用する多言語・多文化環境にあったようだ。

バンガロールに落ち着いたあたりでストーリーは終わる。その後まもなくインドは独立を迎えることになるが、パトリシアとその家族たちはその後どうなったのだろうか、と少々気になるが、おそらく他の多くの英領インド在住のイギリス人たちがそうであったように、英国に「移住」あるいは第三国に転出し、その後は大過なく暮らしていたがゆえに、こうした本を出版することになったのだろう。

植民地末期の生活史として貴重な一冊であるが、amazonから手軽なkindle版が出ているので、多少なりとも関心があればご一読をお勧めしたい。

ゴーンダル3

ナウラーカー・パレスの入口

オートでナウラーカー・パレスに移動。こちらは前述のふたつのパレスに比べるとかなり古いが実に豪奢な造りである。オーチャード・パレスでもそうだったが、ここでも自由に歩きまわることはできず係員がついて周り、いちいちカギを開けて室内の電気を付けて、という具合になる。やはり管理上の理由からであろう。ここでのコレクションは主に古い文物であったりして、あまり印象に残らなかったが、それらとはかなり異なる展示物もあった。王家の子どもたち、おそらく女の子たちのための人形がたくさんあり、これらは欧米からのものだろう。いかにも俗っぽいところが、ちょっと微笑ましくもあった。

王女たちの人形コレクション

「藩王の執務室」であったのだとか。

また子どもたちのものが中心と思われるが、膨大なミニカーのコレクションもある。現在の当主はロンドン在住だが、若いころはヨーロッパでレースに出場するなど、やはりクルマ好きであったそうだまた、ここの宮殿には馬車のコレクションがあるが、これまた大変な数である。これらの車両は英国からの輸入らしい。自動車出現前からこの一族はやはりクルマ狂であったらしく、やはり血のなせる業なのだろうか。

オーチャード・パレスの自動車コレクション同様、ナウラーカー・パレスの馬車コレクションも秀逸

パレスの塀には無数の割れガラスが刺してある。こうした「防犯装置」は庶民のそれと特に変わるところはない。

過去の王家の人々のポートレート

王家の子供たちの遊戯室

朝、宿を出る前にトーストとチャーイしか腹に入れていないので、非常に空腹である。しばらく付近を散策してからマーケットで見つけたレストランで軽食。まったくもってひどい「ピザ」だが、まあ味は悪くない。

食事を終えて、オートでゴーンダル駅に向かう。この駅からラージコートまでは10Rsと、バス代の四分の一くらいである。本数が少ないので日々の行き来に利用するのはたいていバスだろう。だがここからラージコートに向かう列車に乗る人たちはけっこうあった。ここには一日に数本の急行も停車する。

バクティナガル以降はガラガラの車内

ラージコートまでの間にひとつだけバクティナガルという停車駅がある。駅だ。さきほどまでは車内はいっぱいだったが、ここで大半の乗客が降りてガラガラになった。ラージコート郊外の住宅地である。スマホの地図を表示すると、Bhaktinagar Stations Slumというのが駅の西側に表示されたが、そちらに目をやると、周囲の落ち着いた住宅地とはずいぶん環境の異なるひどい状態のスラムが広がっていた。

ラージコートに到着。駅に表示されている主な列車の中にラメースワラム行きのものが週に2、3本あることに気が付いた。ここからだとかなり時間がかかることと思うが、かつてはメーターゲージだったはずのこちら(ラージコート)とあちら(ラメースワラム)が直接繋がったのは、インド国鉄が全国的に進められている線路幅の共通化、つまりブロードケージ化への努力のおかげである。

インド亜大陸の鉄道は、他ならぬ大英帝国の偉大なる遺産だが、かつては幹線鉄路はブロードゲージ、支線は往々にしてメーターゲージであったことから、旅客や貨物の輸送に支障をきたすという「負の遺産」も抱えていた。大量輸送と高速化に有利なブロードゲージで統一するという、大きなコストや手間と時間のかかる作業にインド国鉄は取り組んでいる。

ちなみに、異なるゲージ幅の鉄路への対応として、隣国バングラデシュは、これとは異なる「デュアルゲージ化」という手法で対応している。つまりひとつの軌道に三本目のレールを敷設することにより、どちらの車両も走行できるようにするというものだ。

線路は続くよ、どこまでも 3 (indo.to)

鉄道輸送に依存する度合が相対的に低く、低予算という面からは効率の良い手法だろう。

〈完〉

ゴーンダル2

ゴーンダルのもうひとつの宮殿はオーチャード・パレス。これは比較的新しい洋館である。入場料は中のいくつかの展示と写真代を含めて120Rs。王家のクルマのコレクションが大変なものであった。とにかく大きくて豪華なクルマが好きであったようで、多くはアメリカ車だ。

職員の説明によると、どれもが今でも走ることができるコンディションに保たれているとのこと。1950年代の黄金期のアメリカ車を中心にその前後の時代のクルマやその後のものもあった。こんなにたくさんのクルマを購入して、それらすべてを頻繁に乗り回すことはなかったのではないかと思う。収集癖というものだろう。

こうした高価なクルマをしかもこんなところまで運ばせるには相当なコストがかかったことと思う。すでに藩王国が廃止されている時代以降のものでもあるわけで、インド独立により共和国に編入されてからしばらくは政府からの年金が補償的な意味合いで支給されていたにしても、それだけ多くの蓄えがあったわけである。独立前、1930年代に王は自分の体重と同じだけの金を貧窮のために寄付したこともあるとのことだが、それにしてもそれ以上に人々から収奪していたということになる。

宮殿中は大半が洋風である。だがラウンジ(Baithak)のみは、室内は洋風であるものの、フロアーにマットレスを敷いて、枕状のものが置かれており、いかにもインド式だ。宮殿内は、豪華絢爛というほどではないが、美しくまとめられている。ゴーンダルの宮殿は、政府に接収されていないので、また王家が今でもメンテに費用をかける余裕があるということもあるのだろうが、実に美しく保っている。これが政府のものになっているところだと、かなり悲惨というか、過去の栄華をあまり感じさせない苔むした感じであったり、すっかり日焼けしてしまったりするものだ。ふと思い出したが、2008年にネパールの王室が廃止されてから1年余り過ぎたあたりの頃、博物館として市民に開放されるようになった王宮を訪れたことがある。当時、まだ王室が放棄してから日が浅かったため、とてもいいコンディションであったが、今はどんな具合だろうか。

ゴーンダルの旧王家の人々は、現在ロンドンでビジネスを展開していているとのことだ。その中にはホテル業もあるという。時折、ゴーンダルに戻ってくることはあるとのことで、その際には本日見学した宮殿の少し裏手にあるもう屋敷に滞在するのだそうだ。

ここで働くスタッフについて興味深いことに気が付いた。ここで働いている人たちの多くは、藩王国時代から世襲で雇われている人たちであることだ。王家の人たちとの長年の信頼関係ということのようだ。彼らは、ここの敷地内に住居が与えられている。

宮殿のすぐ横にはロイヤルサルーンと書かれた、王家が鉄道で移動する際に使用した専用車両が置かれている。嬉しいのは、その車内に入って見学できることだ。キッチン、シャワー室、トイレ、リビングが装備されている。これまた豪華である。こうした車両で移動したならば非常に快適で疲れることはないだろう。こういう車両は、単独で機関車に接続して独自の時間で走ったのか、既存のエクスプレスに連結したのか、質問するのをつい忘れていた。

王室専用車のキッチン

王室専用車のシャワー室
王室専用車のトイレは意外なほど普通な印象

〈続く〉