紺碧の海の下に

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 7〜8世紀ごろパッラヴァ朝の重要な交易港として最盛期を迎えていたマハーバリプラム(現ママラプラム)は、現在では世界遺産に登録されている遺跡群で有名だ。
浜に建つ海岸寺院に加えて六つの寺があったとする「セブン・パゴダ」の伝説とともに、かつてこの地を襲った大洪水によりかつての港町が海に沈んでしまったという言い伝えがあることもよく知られている。
 昨年12月26日に起きた津波直前に潮が大きく引いた際に、その伝説の寺院らしき遺構が姿を現したといい、押し寄せた大量の海水が周囲の砂を運び去ったことにより、これまで埋もれていたヒンドゥー寺院が新たに発見されることにもなった。
 今回の津波災害で犠牲となった方々のことを思えばはなはだ不謹慎かとは思うが、「突然海が遠くへ引いていき、大昔の石造寺院が忽然と姿を見せた」「津波の奔流が過ぎ去ると、誰も見たことのないお寺が出現していた」といった光景そのものは、実に神秘的であったことだろう。
 
 近年、今のママラプラム沖合の海底に残る遺跡を検証すべく調査が進められている中、年末にアジア各地で未曾有の大災害をもたらしたこの津波は、この伝承にかかわる調査研究活動にとっては追い風となっているようだ。
 2月10日から25日までの間、海底に沈んでいる遺構についてインド考古学局と同国海軍の共同での調査が行われた。ダイバーたちが遺跡のある海底に潜って様々な構造物を検証する際に陶器片などの遺物も見つかっているという。
 海底に散在する遺構の姿が明らかになるのが待たれるところであるが、それらが水面下に沈んでしまった理由についてもぜひ知りたいところだ。徐々に海岸線が後退していった結果により水面下になってしまったのか、あるいは伝承にある「洪水」(地震による津波あるいは地盤沈下?)のような突発的な災害によって起きたのかわからないが、当時の文化について知るだけではなく、この「稀有な自然現象」の貴重なデータも得られるかもしれない。
 観光開発の目的から注目している人たちもあるかと思う。やがてインド初の海底遺跡公園として整備されて「グラスボートでめぐる水中遺跡」「遺跡ダイビングツアー」といった形で海面下に散らばる遺跡を公開することはあるだろうか?
 亜大陸反対側、グジャラート州のカムベイの海面下にはハラッパー文明のものと思われる遺跡が沈んでいるというが、こちらは9000年以上も昔のものではないかという説もあるそうだ。
 歴史と遺跡の宝庫インドは、まだまだ多くの不思議と謎が隠された玉手箱のようである。
津波の置き土産(BBC NEWS South Asia)

巨木にお別れ

 バスに乗ってカルナータカ州の国道を走っていると、突然前方が詰まって渋滞してしまった。ピクリとも動かない。反対側の車線は、車がパッタリ途絶えている。交通事故だろうか?
 他の乗客たちとともにバスを降り、前の様子を見にいってみると、そうではないことがわかった。道路わきの大木が倒れ、道路を遮断しているのだ。
巨木にお別れ こんな作業があちこちで行われていた / photo by Akihiko Ogata
 「走っている車の上に落ちてこなくて良かった!」とほっと胸をなでおろしたが、よくよく見れば、倒木は事故や偶然ではなく人為的なものだった。現在、バンガロールからマイソールを経由して西へと進む幹線道路の整備が急ピッチで進んでいるが、この「作業」もその一環なのだ。
 倒木の上で木こり(?)たちが、斧やノコギリで大きな幹や枝を細かくばらしては、道路の外に放っている。枝はちょっとした木の幹みたいに太く、すべてを取り除くのは大変な作業である。ようやくバスが再びエンジンをかけて走り始めたのは小一時間も経ってからだっただろうか。
 工事によっては片側二車線に拡張される道路もある。州の大動脈らしく立派な道路となって、人びとの往来や物資の輸送の便を格段に向上させることだろう。それにしてもこうやって平気でクルマの交通を長い時間遮断する作業がまかり通ってしまうのはいかにもインドらしい。
 しばらく進むと、また同じように道路がブロックされていた。幸いこちらでは迂回路があり、それほど待たされることなく先へと進むことができた。
 この翌日も翌々日も、クルマで走っていると幾度か同じような「渋滞」に遭遇した。相当な勢いで工事が進行していることがわかる。

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浄土へ渡った僧侶たち

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 JR紀勢本線那智駅近くにある補陀洛山寺を訪れた。このお寺は「補陀洛渡海」で知られる。行者たちは、南海の果てにあるとされる観音菩薩の住む山「補陀洛山」を目指し航海していた。この行法は穂平安時代からおよそ千年もの間つづいていたそうだ。
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 当時使われていた船の復元が、境内で見ることができる。四方に鳥居がついているのは、神仏混交の地・熊野らしいところだ。
 船にはひと月分の食料や水を積まれたが、外に出れないように小さな船室の扉は釘付けされた。船旅に出た僧侶は、生きてこの世に戻ることはなかった。間違いなく浄土へと至る旅ではあるが、まさに捨て身の荒行である。
 井上靖の小説『補陀洛渡海記』で描かれているように、誰もが信仰のもとに死をも恐れずに浄土へと旅たったというわけでもないのかもしれない。
 「補陀洛」とは観音浄土を意味するサンスクリット語「ポタラカ」の音訳。かつてダライラマ法王が起居していたチベットのラサにある宮殿の名前「ポタラ」とも同意であるとか。 
 伝説では、補陀洛山は南インドにあるとされる。昔の人びととって地理的には遠く離れていても、観音信仰によって馴染み深い憧れの聖地となっていたのだろう。
 補陀洛山寺近くの海岸から船出した僧侶たちが、心の中に描いていた浄土=インドのイメージとはどんなものだったのだろうか。