ラダックの願い

社会/環境活動家、教育者として有名なラダックのソーナム・ワンチュク氏。彼がモーディー首相が国民に語るプログラム「MANN KI BAAT」にかけて、ソーナム・ワンチュク氏自身がモーディー首相に語りかける「MANN KI BAAT FROM REMOTE LADAKH」を公開したのは今から3年前のこと。

2019年10月に突然、ラダック地域を含むJ&K州がUT(Union Territory=連邦直轄地)化されるとともに、カシミール地域から分割された。ラダックにおいては長年の悲願であったカシミールとの分離は好評であったものの、その後の行方は大いに不透明なものがあった。州としての自治、その中でのラダック自治山岳開発評議会としての自治権で保護されてきたラダックのステイタスは、中央政府による直轄統治によりどのようになっていくのかはまったく示されていなかったためだ。

この部分についての不安の声は分離当初からあったのだが、こうした思いを代弁する形で分離から3カ月後に発表したのが、前述のワンチュク氏による「MANN KI BAAT FROM REMOTE LADAKH」であった。

モーディー首相への支持の表明、カシミールからの分離についての感謝の意を示すとともに、ラダック地域の人々はインド平地に出ると差別的な扱いを受けることが少なくないながら熱烈な愛国者であることなどを語るとともに、ラダックが部族地域であり保護されるべき対象地域であることを説いている。

また環境的にも繊細な地域あること、文化的にも大きな岐路にあることを挙げた上で、ラダックの保護のために新たな法律の制定を求めているわけではなく、インド国憲法付則第6の対象地域にラダックも含めてくれるようにと求めているだけなのだと訴えている。そして「インド政府は私たちに翼を与えてくれた。私たちに飛翔する自由を与えて欲しい」と詩を引用してその想いを説くワンチュク氏。

ラダックが現在置かれている状況について、「人々のインドへの愛情が失われる前に・・・」「(インドからの)分離要求が持ち上がる前に・・・」という思いは、果たしてモーディー首相に、そして中央政府にしっかりと届いているのか、それともこのまま黙殺してしまうつもりなのか、と気になっているところだ。

「インド憲法付則第6」にいても少々説明しておこう。

インド憲法における12の付則(Schedule)の中にある付則第6とは、以下のリンク先のある内容である。

Sixth Schedule(BYJU’S EXAM PREP)

この対象地域にラダックも含めてもらいたいというのが、ソーナム・ワンチュク氏を始めとするラダックのおおかたの人々の願いである。インドの他の地域と同じように人々の移住や投資が自由なものとなり、地域外から大勢の「インド人たち」が押し寄せてくるようになると、たちまち土地は彼らに買い上げられてしまい、長年ここで暮らしてきたラダック人たちがインド人の大海の中のマイノリティーになってしまう。また大規模な投資を背景に大きな産業が興ったり、資源開発など乗り出すことになってしまうと、自然環境も大きくバランスを崩し、これまで大切に育まれてきたラダックの大自然の上に成り立ってきたラダックの人々の生活も成り立たなくなってしまうであろうからだ。

What’s driving the protests against the Centre in Ladakh? (Scroll.in)

ディバイダー(中央分離帯)

信号機はほとんどないため、気を付けて横断することになるが、道路の上下線の境にディバイダーがあるかないかでずいぶん渡りやすさというか、安心感が違ってくる。

どちらからもクルマやバイクが途切れなく走っていて、バスやトラックなどの往来も多いと、ディバイダーのない中央部分で途切れるのを待つのは不安だ。両側から大型車がやってきて、自分のところで上下行き違ったりすると、それこそ全身が縮み上がる思いがする。中央をはみ出して走行してくるクルマもあるし、よく見えなくなる日没後は恐怖である。

そんなわけでディバイダーがある道路だと安心して渡ることができる。だが幅員の大きな道路ではディバイダーが超えられないくらい高かったり、フェンスが張ってあって渡ることができなかったりする場合もあるので、なかなか油断がならない。

ディバイダーがないため渡りにくい道路
ディバイダーがあるため渡りやすい道路

熱波のインド

記事によると、デリーで観測史上の最高気温が45.6℃とのことだが、それとて一定の条件での計測なので、路上や空調のない車両の中などではこれよりも数度高かったり、50℃を超えていたこともあるはずだ。

先日は49度を超過とのことで、従来の記録を4度ほど上回ったことになる。これも同様に実際街なかで働く人たち、路上で商う人たちは実質55℃のような過酷過ぎる環境で働いていたのだろう。

今の東京のような快適な気候からはちょっと想像が及ばないし、お盆あたりの東京の状況とも比較にならない。いくらこの時期のインドは湿度が低く、日本のお盆は湿度が高いとはいえ、ベースになる気温がまったく違うので、比較にすらならない。

たとえ湿度が低くても、体温を超えると相当消耗するし、さらには風呂の温度を超えると、とても耐えられるものではない。50℃という気温は死の世界とも言える。26℃と30℃がぜんぜん違い、30℃と34℃も相当異なるように、45℃と49℃もずいぶんな差だろう。

地球温暖化で氷河が痩せ細ったり、海岸沿いの低地が海の下に沈むことなど、懸念されていることは多いが、インドあたりの緯度の内陸部の酷暑季では人々の生存が困難なものになりそうだ。

India heatwave: Delhi records highest ever temperature at 49C (The Telegraph)

エジプトはナイルの賜物。新首都はカイロとスエズの中間点。

かつてどこの国でも大きな交易都市=大都会は水際に造られ、「都心」はその水際、そこから弧を描くように郊外へ広がるものであった。水運・そして生活用水の確保こそが都市の生命線であったがゆえのこと。これはインドに限らず世界中で同じだ。

デリー、アーグラー、ラーホール、アーメダーバード、バトナー等々、いずれもこうした形で築かれた街であるし、かつては湖であった時代もあったとされる盆地内にあるカトマンズもこうした利に恵まれている。あるいは水運ではなく陸運のみで他の地域と繋がるジャイプルやボーパールにしても、大きな湖等による水資源あってこその市街地造営であった。

とりわけ大航海時代を経て欧州列強がアジア等に築いた植民地の都市は、まず例外なく河港あるいは海港に面しており、その港に近い部分に港湾関連施設とともに行政に係る大きな建物が集まる官庁街を形成した。ムンバイしかり、コールカーター、チェンナイ、ヤンゴン、コロンボ等々、どの街も同様だ。

そんな状況に変化を生んだのは鉄道、道路などの交通ネットワーク、遠隔地へも水資源を分配する水道の他、電気・ガス等のエネルギーの普及、通信網の整備等を含めた今に通じる基礎的なインフラの普及。これによって本来は水際にしか拡張しえなかった市街地がより周辺へと広がり、水が手に入らず利用できなかった土地でも人が住んで商工活動を行うことができるようになった。

そんなわけで、ミャンマーのネーピードー、エジプトの新首都(名前は未定か?)などのように、かつては街を築くことすら無理だった場所に、よりによって巨大な首都を造るということが可能になったわけだ。

そうは行っても平穏無事で成長が続く時代だけとは限らないので、立地・環境面からハードルの高い場所への首都移転というのはいかがなものなのだろうか。もちろんそういう場所が選択された背景には、解決しなくてはならない入り組んだ利権がなく、開発の青写真を描きやすいという前提があってのことなのだろう。今回はインドに係る話ではないのが恐縮ではあるのだが。

エジプトの新首都建設、莫大な費用をまかなう「砂漠の錬金術」(asahi.com)

インドメディアにおけるパキスタン関係者の討論番組

「AAJTAK」の討論番組から

インドのニュースプログラムAAJTAKにおける討論番組。普段はインド国内の政局や隣国等との国際関係などを巡る議論が国内各界や関係者等を招いて行われる。近年はコロナ禍もあり、出演者をスタジオに集めてではなく、オンラインでの開催となっている。

そうなってくると、ヒンディー語プログラムなので出演者はヒンディー語話者のみという縛りはあっても、もはや国境はあってないようなものなので、トピックによっては、ときにはインド国外からの参加者もあった。ウクライナ情勢を巡ってはアメリカの国務省のインド系職員の参加もあったりした。この日は混迷するパキスタン政局を巡っての議論で、パキスタンの現在の与党、パキスタン正義運動や野党のムスリムリーグなどの関係者を招聘しての開催だった。

同時に複数の者が大声で発言を続け、司会者が割って入ってもなかなか収まらないことかしばしばあるのはインドもパキスタンも同じだが、途中、パキスタンの退役軍人でもある軍事専門家が、あまりに横柄な態度で司会者や他のパキスタンからの出演者に悪態をつくため、しびれを切らした司会者が厳しい言葉で退席を命じられ、この人物が画面から姿が消えるという、普段はまず見られないシーンまであったが、そこまでヒートアップするほど盛況であったとも言える。

インドの討論番組で、インド人キャスターの司会のもと、パキスタンの人たち、つまり当局の関係者、軍事専門家、ジャーナリスト等々が議論を交わす。インド側のお膳立てで、パキスタン人関係者たちの喧々諤々の討論がインドのニュース番組上で進行し、それをインド人聴衆が観るというような企画をいつも簡単に実現できるようになった。ある意味、歴史的な出来事といっても良い。

こうしたものは初めての試みというわけではなく、昨年夏にはターリバーンの手中に陥落したアフガニスタンに関して、インド及びパキスタン双方の与党関係者、外交や軍事の識者等を交えての討論会がこのAAJTAKで実施されていた。

それはともかく、従前は隣国からのニュースをそのまま流用するか、あるいはインド側のジャーナリストや識者が論評する内容を伝えるのがパキスタンに関する報道のありかたてあったが、このような形での取り上げ方はとても新鮮だ。まさにコロナ禍のポジティブな面がこれで、たぶん数年程度ではなし得なかったことが、一気に進んだ感じだ。それを私のような第三国の野次馬が見物できるのだから、これまたありがたい。

蛇足ながら、デーヴァナーガリー文字で書かれるヒンディー語とペルシャ文字で書かれるウルドゥー語は、まったく別の言葉だと思っている人もいるようだが、このようにヒンディー語のプログラムにウルドゥー語話者が母語で出演して、ヒンディー語による司会のもとで、ごく当たり前に討論を展開し、それをヒンディー語話者である視聴者がこれまた当たり前に聴くことが出来るというのが、ヒンディー語とウルドゥー語の関係性でもある。