宿の部屋には中国メーカー「ハイアール」のエアコン。レスポンスは早いし、静かでガンガン冷えるし、温度調節も的確だし、設定温度が本体の目立つところに大きく表示されるのも良い。設定温度は躯体に大きく表示されるのも良い。良品を造ってますね。


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ボンベイ市政公社(BMCいわゆるムンバイ市役所)の建物内はこうなっているのか。外から眺めるばかりで入ったことはなかった。見事なヴィクトリアン・ゴシック建築なので、当然内側も壮麗である。
向かいにある同じ様式のヴィクトリア・ターミナス駅(ムンバイCST駅)を思わせるものがあるが、実はどちらも同じ建築家、フレデリック・ウィリアム・スティーヴンス(F.W. Stevens)による設計。
ここまでは広く知られているけど、他にも市内に彼による建築物がないかAIに聞いてみると、いやーこれまたすごい!
建物:Chhatrapati Shivaji Maharaj Terminus
年代:1878–1888
※世界遺産
建物:Municipal Corporation Building
年代:1884–1893
建物:BMC本庁舎
建物:Maharashtra Police Headquarters
1872–1876
建物:旧Royal Alfred Sailors’ Home
建物:Army and Navy Building
年代:1890年代
建物:BB&CI Railway本社(現Western Railway HQ)
年代:1890年代
建物:Oriental Life Assurance Building(現Oriental Building)
年代:1893–1896
建物:Post Office Mews
年代:1890年代
建物:Mulji Jetha Fountain
年代:1894頃
建物:Standard Chartered Bank旧館
年代:1902年
また、これらの建築の周辺にある同じような時期の建物の多くが、やはりスティーヴンスの影響を受けた建築家たちによるものらしい。
「ヴィクトリアン・ゴシックの鬼才スティーヴンスの作品群と影響を受けた建築家たちのボンベイ」を見るだけでもムンバイを訪れる価値があるわけだ。
ちなみにスティーヴンスはこういう人物。ご参照いただきたい。
Frederick William Stevens(ウィキペディア記事)

カングラー渓谷鉄道が4年ぶりに全線復旧したとのこと。モンスーンの豪雨で鉄橋が流されたのを含めて複数箇所分断していたためだ。
以前と違うのは始点のパターンコートから終点のジョーギンダルナガルまで通しで往復するのではなく、起点からも終点からも途中駅のバイジナート・パプローラーで乗り換えとなること。加えてパターンコートからバイジナート・パプローラーまでは上下1本ずつしかなく、しかもそこからジョーギンダルナガルへは同日接続できないダイヤ。
不思議なことに始点パターンコートの3つ先の駅、ヌールプル・ロードからは日に4本程度あり、最も早い時間帯の便であれば同日接続できるらしい。しかしここは始点から終点まで完乗にこだわりたいものだ。
このような変則的な運行になっているのはこれまで部分運行していた際、先述のバイジナート・パプローラを軸にかたやパターンコート、かたやジョーギンダルナガルへと走らせていたことがあるようだ。おそらくバイジナート周辺でも路線が途絶するような豪雨被害があったのだろう。将来的には以前と同じく、パターンコートからジョーギンダルナガルまで通しで走るようになると思われる。
実は全線復旧となったのはここひと月くらいのことらしい。パターンコートを出て次の駅、ダルハウジー・ロードとその次の駅カンドワル(ヌールプル・ロード駅のひとつ手前)の間にあり、河を渡るチャッキー橋(路線の見どころのひとつ)が先述の豪雨で落ちている。この部分の復旧に一番手間取り、ようやくこのひと月の間にその橋を渡れるようになった。そのため長らく暫定の始発駅となっていたヌールプルから本来の起点のパターンコートまで繋がり、ようやく全線通じたというわけだ。
この路線の列車は「トイトレイン」と通称されるものの、スイッチバックを繰り返して上っていく山岳鉄道ではない。メーターゲージで、その名の通り渓谷内を往来するもの。乾季であればヒマラヤの雄大な景色が楽しめるそうだ。ダージリン、シムラーなどの山岳鉄道と異なり、基本的に観光用ではない地元の生活路線。予約のない「ジェネラルコーチ」のみである。もちろんエクスプレスの運行はなく、鈍行列車のみの路線だ。
起点のパターンコートから乗るとバイジナートで1泊して翌日以降にジョーギンダルナガル行きに乗り換えることになるが、バイジナートのひとつ手前のパーランプルは風光明媚な場所として知られているとともに茶園でも有名だ。バイジナート駅にはよく知られた名刹もある。
終点のジョーギンダルナガルからはバスでマンディーに行けるし、そこから日帰りできるレーワルサルも良さそうだ。レーワルサルは小さな湖で、スィク、ヒンドゥー、そしてチベット仏教の聖地とされる。「え?チベット仏教の?」と思われるかもしれないが、ここでグルー・リンポチェが修行したとされる。マンディーは小さな元藩王国の首都だったところ。発展や変化から取り残された分、地域の歴史的な建築や伝統の宝庫らしい。
ここからカルカーはバスで楽に行ける距離なので、さらにはシムラーへトイトレインで往復することもできる。ダージリンに較べて本数は多いため、予約は少し楽かもしれない。
インドという国の素晴らしく、そしてものすごいところは、どこに足を向けても味わい深い風物や風景があり、巨大な建造物がなくても、目を奪うような美にと豊かな伝統に溢れているところだ。もう降参するしかない。


空港から市内中心地までは、ちょうど「首都高」みたいな高架の自動車専用道路が縦断しているハイデラバード。とても未来的な光景に思える。
そして驚くのはその「首都高」沿いにあるいくつもの高いビルになぜかジムが入っていて、もう深夜近いのに黙々と機械でトレーニングしている人たちがいることだ。これまたインドの未来的な眺めに思える。
深夜になっても繁華街では開いている飲食店はとても多く、なんとも賑やかである。

地雷博物館を運営しており、地雷除去の団体を率いているアキ・ラさんの話が大変興味深かった。5歳のときに両親がポル・ポト派に殺害されて孤児に。ポル・ポト派のもとで成長していくわけだが、やがて少年兵として各地を転戦。彼は「私は元クメール・ルージュの兵士でした」とおおっぴらに話す。普通はそのような過去は隠しているものらしいが、この人はバンバンしゃべる。ちょうど西洋人のツアーグループが来ていて、その中に混じって彼の話を聞いたのだが、私はぐいぐい引き込まれていった。
行く先々で地雷を敷設したり、戦闘で人を殺害したり、味方が落命したりという大変な思春期を過ごしたという。それでも少年だったその頃は、一般の市民よりも上の立場であることに誇りを感じ、夜には兵士仲間たちと食べて踊って、余興のひとつのように銃を夕暮れ空に撃ったりするのも楽しかったという。
そして「当時の兵士生活は楽しかった。市民よりも上の立場にある優越した存在であったから」とか、「クメール・ルージュの兵士として首に巻く赤いスカーフは誇らしかった」と、ギョッとすることまで言うだけではなく、「戦闘で相手をたくさん殺した」ことまで口にする。彼は少年兵としてポル・ポトの軍隊に放り込まれ以外に生きていく選択肢はなかったし、当時は洗脳されていたであろうから、当時はそのような心境であったのは自然なことであったのかもしれない。
そんな彼に転機が訪れたのはベトナム軍との戦闘。味方が散り散りになり、彼は沼に身を沈めて戦闘が止むのを待ち、水から上がってしばらく歩くと、ベトナム兵に捕まり、一緒にいた仲間たちはその場で射殺された。アキ・ラさんはその中でとびきり若かったためか、情けをかけてもらい命拾いしたとのこと。
その後は、持ち前のフレンドリーさとマメさでベトナム兵士たちの心を掴み、食料調達で銃によりゾウを倒したところ、ベトナムの部隊に大変喜ばれ、兵士として登用されたのだという。その結果、つい先日のまでは味方だったポル・ポトの軍隊に銃を向ける立場となったが、「こればかりはどうしようもなかった。選択の余地なし」とのこと。それが戦争というものの残酷さと虚しさなのかもしれない。
「ついこの間まで私が所ほ属していた軍と戦い『元味方の兵士』を殺害することについては何の躊躇もなかった」と言う。投降した兵士ということもあり、戦闘が始まると常に最前線に送り込まれていたとのこと。まさに「捨て駒」の立場だが、相手が誰であろうと、とにかく戦って死なずに生き延びなければ現在の彼はなかったわけだ。
平和な時代がやってきて、除隊して故郷に帰ると、村や周囲には地雷により足などを失う人たちが絶えず、かつて敷設していた自身を後悔するとともに、「敷設のプロ」から「除去のプロ」に転じ、国際機関等での専門家としての勤務を経て、自身の団体を立ち上げて現在に至る。とにかく明るくてエネルギーに満ちた感じの人なので、そんな暗い過去があったというのはにわかに信じ難い。
本日、彼の団体はシェムレアプ近郊とタイ国境で除去活動をしているとのこと。こういう人たちの地道な活動があと100年続けば、これまでに敷設された地雷はほぼ無くなるというから、気の遠くなるような話だ。
※この人を題材にしたマンガがある。書名等は以下のとおり。
タイトル:密林少年-Jungle Boy 1&2
著者:深谷陽
出版社:集英社









ここがオープンしたのは最近のことではないのだが、私自身が訪問するのは初めて。フマユーン廟、ニザームッディーンのダルガー、ローディーガーデンなどの近くにあり、アズィームガンジと呼ばれたムガル時代のキャラバンサライを含むムガル時代の遺跡が点在するエリアでを遺跡公園として整備したものだ。



敷地内には美しいペルシャ庭園もしつらえてあるが、これは往時からここにあったのではなく、公園としての演出のようだ。ペルシャ庭園自体は、ムガルその他のイスラーム王朝が造ったように、ペルシャ起源ながらもインドに定着した伝統的な庭園スタイルと言える。


ここで面白いのは、通常遺跡の遺跡整備はASI(インド考古学局)が実施するのだが、スンダル・ナーサリーは官民協働の事業であったことだ。ASIとPWDいずれも政府機関が民間のアガー・カーン財団と手を組んで整備したものである。そんなこともあって、遺跡の修復と保存のみならず、新たな市民の憩いの場の創出としての事業となったのかな、と想像している。


ペルシャ庭園、そして子供たちのための遊び場、遺跡敷地内での洒落たカフェの営業、日本の盆栽庭園などもあるなど、通常の遺跡整備では見られない、なかなか画期的なものだ。


それにしてもデリー市内なのに、木々が生い茂る環境下で、まるで鳩かカラスみたいにクジャクたちがウジャウジャたくさんいる。特徴的な声もなかなかうるさい。


ここのみならず、実はデリー市内には今も手つかずの原生林がある。野生動物たちにとっては大都市のすぐ傍らに残された楽園なのだろう。
その深い森、英語でインドを含めた南の国々の生命力に満ちた、同時に人間にとっては危険を秘めた森のことを「jungle」と呼ぶが、これはインドの言葉「jangal」をそのまま借用したもの。イギリス人にとってこの地の深い森は彼らの国の「forest」とは明らかに違う異質なものと認識されたのかもしれない。




朝食を食べようと出かけたのだが、どうやら入る店を間違えたらしい。「レイクビュー」という名前に惹かれて入ってみたのだが。

古いハヴェーリーの屋上にあり、眼下の湖やガートはもちろん、プシュカルを見渡せる位置にある。サヴィトリー・マーターの山もその向こうに見える。前日登ったときには近くに感じたが、こうして見るとけっこう距離がある。 
しばらくすると注文していないパンケーキが出てきた。よく見ると何やらフィリングが入っているので、どうやら私が頼んだ「アールー・パラーター」のつもりらしい。
こういう店では「サンドイッチ」「トースト」にしておいたほうが良かったらしい。
手を伸ばしてみたが、たぶんロクに調理をしたことのない男が「たしかウチの母はこんな感じでやっていた気がする」というおぼろげな記憶で手を動かしたのだろう。
超厚焼き、生焼け、なぜかターメリックを「これでもか!」とブチ込んでオレンジ色に近くなったジャガイモとタマネギのフィリング。ターメリックの臭いが鼻を刺激してくしゃみが出そうだ。
一等地にあるのに、食事どきにお客がひとりもいない食事処にはワケがある・・・らしい。
それでもここからの眺めは素晴らしい。ガートからの喧騒を耳にしながら、このひとときをしばし楽しみたく、チャーイのお代わりを注文する。




プシュカル郊外の丘の上にあるサヴィトリー・マーター寺院へ。今はロープウェイがあると聞き、利用するつもりだったが1時間以上待つとのことなので歩く。

しかしこの暑さの中ではなかなかたいへんで、登るまでに1リットルの水を消費し、寺の横にある売店で半リットルのコーラを飲み干す。下りはまだ楽にしても単純化して言えば上りと下りで3リットル消費しそうな勢いだ。

でも上からの眺めは素晴らしく、30年前の記憶よりもプシュカルが大きく広がっている。緑が多くなったように感じるのは雨季という季節柄だろう。



国として承認されていない地域の代表たちが参加する大会。チベット代表選手たちには大いに頑張ってもらいたい。
チベット代表に限ったことではないかと思うけれども、みんな仕事を持っているため選手を招集しても来られるとは限らず、チームのマネジメント側も大変らしい。
そして他国から合流する選手もいるし。もとより資金集めからして容易ではなく・・・という具合であることダラムサラにあるをTNSA(チベットナショナルスポーツ協会=事実上のチベットサッカー協会)事務局でお話を伺ったことがある。
それでもサッカーこそがチベット亡命社会では心の支えになるのだとも。
インドにおける亡命チベット人社会で「ナショナルスポーツ」とはクリケットではなくサッカーであるとのこと。クリケット大国インドでチベット人が同じことをやってもなんぼのもの、ということに加えて独自性とより多くの国々との交流の可能性となると、やはりサッカーであるらしい。
年に一度、ダラムサラではインド各地のチベット人コミュニティ代表が参加する全国大会「GCM Golden Cup」が開催される。
個人的に興味があり、開催時期に滞在して選手たちから話を聞いてみたいと考えている。


宿での朝食後にオートでサンガムへ向かう。
ここにクンブメーラーの開催時にはボートの客引きがたくさんいるのだが、いずれも大変吹っかけてくるため、乗る気を失う。単に観光だけでなく散骨のために来て入る遺族たちもある。




とにかく汚い河岸だが、ここでクンブメーラーの大きな祭礼が行われ、たくさんの行者たちと無数の信者たちが押し寄せるわけだ。
ここにはムガルの巨大な城もある。アクバル・キラーだ。ムガル時代の城塞で、現在はインド軍駐屯地になっている。ちょうど廃藩置県の後の日本で、お城を警察や軍隊が使用したように、インドでもかつての王宮や城が軍施設となった例は多い。まとまった広さがあること、城壁内なので秘密とセキュリティーが守れること、そして権力の象徴を継承するという意義もあったことなど、その理由はだいたい同じだろう。

ごく一部だけ、お寺が入居していて、参拝することができる。お寺と言っても建物らしい建物があるわけではなく、地下に掘った細くて狭い構内に数々の神々が鎮座しており、それぞれに専属のプージャーリーが付いている。みんなものすごい売り込みようで際限なく賽銭を巻き上げるシステム。
城塞の中には、このお寺以外は特に見るべきものはない。大半が軍施設となっており、立ち入り禁止であるからだ。

近年は、「サナータン・ダルム」(永遠不朽の教え)という言葉をしつこいほど耳にするようになっている。
昔からヒンドゥー教のことを、そう表現することはあったが、最近はイスラー厶教、キリスト教などと対比させての「真理」というような具合での言質であったり、インド固有の文化背景をも含めたそういう物言いであったりする。
とりわけBJPのリーダー、活動家などが口にしてきたが、今や市井の人たちもよくそういう言い方をするようになった気がする。テレビなどで幾度も幾度も耳にすると刷り込まれてしまうものらしい。
私ですらインドの人と話していて、ついつい「サナータン・ダルム」などと言ってしまうほどだ。影響されやすいのは誰もが同じ。

マニカルニカーガートからしばらく上がると、素性の良さそうな洒落たお寺があった。
ビハールの人が寄進した寺とのことで、建てたのはまだ100年ほど前とのこと。お寺と植民地建築が合体したかのようで、背丈の高さの部分はいかにもお寺だが、上階は往時に流行った印洋折衷のハヴェーリーにしか見えない。
不思議なお寺があるものだ。ここでは祭司としての若い見習いの者たちもいたが、お坊さんになるにも、小洒落たところに住むことが出来るのは、なかなかいいなぁと思う。




