今回のインド訪問のテーマはアウラングゼーブ帝。アウランガーバード周辺には当地に居を移した彼ゆかりの史跡等が沢山あるとともに、数々のムガル建築が本来ならば「ムガル圏外」だったデカンのこの地に残されることとなった。
先代までの皇帝が少数派であるムスリムの自分たちが「ヒンドゥーの大海」の中で統治をしている現実を踏まえ、マジョリティに対して融和的な政策を取ってきたのとは裏腹に、今で言うところの「イスラーム主義者」であったアウラングゼーブは大きな対立と禍根を残したことでも知られている。
そうした意味では、アウラングゼーブはこの地にあって「災厄」でもあったわけで、はるか後世の人たちが地名から彼の痕跡を消して「サンバージー」と入れ替えたことは、当時彼の圧政で苦しんだ人たちへの供養と言えなくもないかもしれない。
いずれにしてもムガル最盛期を代表する皇帝のひとりで、タージ・マハルに葬られているムムターズの息子のひとり。数多くいた息子たちのうち、病気その他で亡くなることの多かった当時、無事成人できたのはアウラングゼーブを含めて4人。
ダーラー・シコー、シャー・シュジャー、アウラングゼーブ、そしてムラード・バクシュ。この4人は同じ父母から生まれ、おそらく母親ムムターズのもとで一緒に育った(一夫多妻のムスリム貴人たちの家庭で母親と自身が生んだ子供たちが直近の生活単位を構成する)彼らは跡目争いで激しく攻防を繰り広げることとなる。
最有力だったダーラー・シコーに対して、当時ベンガルの統治を任されていたシャー・シュジャーは皇位継承をかけて挑むも押し返され、なんとか講話を結ぶ。同時にアウラングゼーブとムラード・バクシュも共同で戦線を組み、強大なアウラングゼーブを攻略していき、苦戦を強いられるも、最後にこの長兄を殺害して除去に成功。
講話後はダーラー・シコーと協力関係にあったシャー・シュジャーは、進路を絶たれ、地盤であったベンガルをも後にしてアラカン地方(ビルマ西部)へ逃亡したが、そこに安住の地を得ることなく、その後の足取りはよく知られていない。
これで皇位継承有力候補のダーラー・シコー、そしてこれまたまともにやりあっては抗し難い強大な勢力の一角であったシャー・シュジャーは倒され、強い紐帯に結ばれたアウラングゼーブ、ムラード・バクシュの兄弟が天下をどう分け合うかというところにまできた。
しかし当時の各地のイスラーム王朝の多くでそうであったように、敵の敵は味方、昨日の友は今日の敵。宴会の席を利用したアウラングゼーブの策略にて、シャー・シュジャーは拘束されて幽閉されてしまう。当然、彼の手下たちも首尾よく処理されてしまったのだろう。
そして不運なシャー・シュジャーはアウラングゼーブの命令により処刑されてしまう。
同じ母親のもとに生まれて、母ムムターズの愛情をたっぷり注がれて仲良く健やかに育ったであろう4人の王子たちが血みどろの抗争を展開していく背景には、個人的な確執だけではなく、取り巻きの家臣たち自身の将来、しかもまさに「Dead or Alive」という、熾烈な生存競争による支援・支持、敵対や裏切りなどもあったはず。
あたかもカタツムリが新たな宿主を求める寄生虫にマインドコントロールされて、わざと目立つ行動をして鳥に食われてしまうように、彼ら王子たちも自らに寄生した家臣たちにより、操られていた側面もあったのではないかと想像する。取り巻きにちやほやされて長じた王子たちが、老練で手管に長けたタヌキオヤジ家臣たちにそそのかされて、いいように操られるという構図は想像に難くない。
古今東西、王家のお家騒動というのは、そうしたものであったというのはよくある話。皇位継承抗争の本当の主役たちは王子たちではなく、彼らの背後に控える腹黒タヌキたち同士で、現実にはそうした影の主役たちによるパワーゲームだったのかもしれない。