パハールガンジの「見どころ」

ニューデリー駅で降りて宿に寝に行くだけのパハールガンジ、とりあえず泊まるだけのパハールガンジとしておいてはちょっともったいない部分もあるアメ横みたいな雑踏。

ムガル時代の城塞に囲まれたシャージャハナーバード時代は、このあたりが「郊外」であり、今のパハールガンジあたりは主に穀物を扱うマーケットとなっていたという。その頃のデリーは大した広がりはなく、すぐ外は農村だったため、ここに農民たちが持ち込んだ米穀だの豆類だのが取引され、それが牛車に載せられて城門の中へも運ばれていったのだろう。(城壁は1857の大反乱平定後、ほとんどが撤去され、城門は今も北デリー各地に「アジメーリーゲート」「カシミーリーゲート」等々多数残る。)

そんな牧歌的だったはずのパハールガンジが大きく変容したのは20世紀に入ってから新都市地域、ルティヤンス・デリー、つまり計画都市として、カルカッタから首都移転させるために築かれた都市地域の建設がきっかりだったようだ。コンノートプレイスのすぐ北側に位置し、ムガル期からのデリー市街地と接続する地域に当たるため、当然活況を呈することになったようだ。

当然、この地域で相当儲けた人たちもあったわけで、豪壮な住宅も実は点在している。

同様にパハールガンジの商業としての発展の大きな背景としては、まさにそのデリー遷都の1931年に合わせてニューデリー駅の開業。これでインドの新首都の玄関口の街となり、さらには1947年の印パ分離独立により、パキスタンから流入した人たちが日々の糧を得るための稼ぎの場を提供する場ともなり、今のような人口稠密なエリアになることが運命づけられたらしい。おそらく、場所柄、オールドデリーの商業地同様に、ムスリムの有産階級の中から新生パキスタンに脱出する者も少なくなく、空きとなった屋敷をチンピラたちの仕切りで細分化し、店舗や住宅として貸し出したりもしたはずだ。

そんな中でも、よくよく目を凝らしてみると、珠玉の逸品では?と思われるような物件を見つけることは珍しくない。この建物なども、駅からバハールガンジの奥の方向に向けて進んだ野菜マーケットすぐ手前あたりにあり、特に顧みられることもないのだが、なかなか立派なたたずまい。往時は相当立派なハヴェリー(お屋敷)だったことと思われる。

個人の住宅だと、おいそれと「中見せてください」とは頼めないのだが、ここは幸いにして自治体が運営する小学校。(ナガルニガム・プラートミク・ヴィデャーライ」とあり、ちょうど学校が終わるあたりの時間帯で、勤めている先生に話をすれば見学くらいさせてくれるだろう。その日は帰国前日で翌日は休日で学校は閉まっている。また次に来るときにしよう・・・と思っているうちにコロナ禍で2年以上過ぎてしまった。

「東洋のローマ」「遺跡と共存する大都会」デリーでは、数えきれないほど見どころが多いので、わざわざパハールガンジに残る古いお屋敷に構っている必要もないのかもしれないが、よく宿泊するエリア内で、朝食や夕食に出かけるその途中に何か風雅なものが転がっているのならば、そこを訪れてみない理由はない。また、こんな混雑していて、四六時中観光客が往来しているエリアであっても、そうしたものとまったく縁のない人たちにとっては、初めて直接接点を持つ外国人だったりすることも珍しくなく、いろいろ興味深い話を聞かせてくれたりすることもある。こうしたところで新しい会話の糸口を持つことも、インドを旅行する楽しみのひとつであったりする。

長大なプラットフォーム、遠大な貨物列車

京都駅の0番線は、「日本一長いプラットフォーム」として知られる。全長なんと558mもあるのだ。もっとも実際に0番線として使用されている部分は323mで、実質同じ構造物上の延長線上は、関空直行の特急はるか専用ホームとなっている。これらを合わせて558mという途方もない長さとなっているとのこと。

インド国鉄は、というと、これまでしばらくの間、インドナンバルワン、つまり世界でも最長のホームを誇っていたのは、ゴーラクプル駅の1,366mという途方もないものであった。これに次いでカラグプルが1,072mでインド2位で世界でも2位、世界3位はアメリカのシカゴ駅1,067mだそうだ。そしてインド3位以降はビラースプルの802m、ジャーンスイーの770m、ソーネープルの738mという具合になる。なお、この記録はすでに昨年半ばに塗り替えられており、現在は最も長いプラットフォームを持つのはフブリー・ジャンクション駅で、1505mという、端から端まで見渡すことのできない長さのものだ。

インドの特急、急行などの長い旅客列車は25編成となり、一両はおよそ24mの長さ。つまり合計で600mくらいにはなるため、インドの特急や急行が停車するホームは総じて長く、初めて訪印する人はたいてい驚くはず。それでも1kmを越える長さは、必要ないように思えるかもしれないが、インドは貨物列車大国でもある。積荷に上げ下ろしや積み替えのハブとなる鉄道駅では、長大な貨物列車が停車するため。

貨物輸送といえば、昨年のデルタ株が猛威を奮った際、インドのニュース番組でその雄姿が繰り返し伝えられていた。重篤な肺炎を起こすケースが全国で多発し、これに対応して中央政府が全力で治療用酸素ボンベの調達に奔走したときのことだ。国内のメーカーによる努力はもちろんのこと、シンガポール、マレーシア、UAEにサウジアラビアなど、インドの近隣国も協力し、不足しているボンベ供給へ拍車がかかった。これらを専用貨物車に載せて、インド東西南北へと疾走する様子が繰り返し画面に流れていたのは壮観であるとともに、インドの人々はとても頼もしく感じたことだろう。

さて、そのインドの長い客車よりもさらに長い長い貨物列車だが、本当に長いものになると、2.8kmにもなるし、最近は3.5kmに及ぶものさえある。踏み切り待ちしていて、いつまで経っても開かないので、「いったい何両繋いでいるのか?」とイライラしたりもするかもしれないが、そんなときは先頭の車両から数えてみるといい。けっこうな暇つぶしにもなるものだ。最後の車両までカウントし終えて、その数の多さに仰天することだろう。

Hubballi’s world’s longest railway platform waits for PM’s date for inauguration (DECCAN HERALD)

カナダの客家印度中華料理屋

カナダを訪問する機会があったらぜひ訪問してみたいと思うのが、カルカッタから移住した華人が経営する中華料理屋。

カルカッタからカナダへの移住はルートが出来上がっているためたいへん多く、「華人流出」の主な行き先はカナダなのだ。その中でもトロントとその周辺が主流。ちょうどカルカッタ華人(客家人と広東人でほぼすべて)の先祖の大半が今の広東省の梅県が出自であるように、地縁血縁を頼って移住するケースが多いためらしい。

そんなわけで、カナダ、とりわけトロント(やその周辺)に行くと、カルカッタの旧中華街や郊外のテーングラー地区で食べられるような「客家印度中華料理」や「広東印度中華料理」といったものにありつくことが出来るという。

揚げ物や点心類を除けば、おかずものはグレイビーを含むアイテムが多い(カレー類のようにご飯にかけて食べるため)とか、インドアイテムもレパートリーに含まれるなどといった特徴がある。

とはいえ、一般的なカナダ人は客家料理、広東料理の区別はつかない(日本人ですらよくわからない)だろうし、ましてやカナダ移住前に香港にいようが、インドにいようが、まったく関心はないはずなので、そうした背景は「知る人ぞ知る」違いでしかないのかもしれない。

それでもこうしたインドからの華人移民たちは、親族や同郷の仲間たちと集まると、インドの映画音楽をかけて踊ったり、祝い事の際にはミターイーを配ったりという具合と聞くので、何か接触できる機会があると勉強になりそうだ。

トロント近郊のヴォーン市にある「Royal Jade Restaurant」は、そうしたカルカッタ起源の華人たちが営むレストランのひとつ。今も親族が経営する店がカルカッタにあるという。どちらもぜひ味わってみたいものだ。

インド入国最新情報 (2022年2月)

オミクロン株騒動もある程度落ち着き、世界の往来は少しずつ、それでも着実に復活しつつある。日本の鎖国状態もわずかながら緩和されるとともに、今後感染力がさらに強い変異株が出てこない限り、牛歩のようなペースでありながらも、次第に元あった姿に、本来あるべき形に戻りつつあるのだろう。

そんな中で、ティラキタさんが公開された現時点でのインド入国についての準備と注意点のまとめ。こういう具合に簡潔にわかりやすくまとめていただけると大変ありがたい。もっとも状況はどんどん変化していくものなので、「だいたいこういう具合か」と把握したうえで、実際に渡航される際には再度自分自身での確認が必要になるとは思う。

もう3年目に入ってしまった新型コロナウイルス感染症に係るさまざまな問題に加えて、ロシアによるウクライナへの侵攻という、これまで長く培われてきた国際秩序が音を立てて崩壊していくような危機を迎えて、私たちの世界は今後、どのような変化と展開を見せていくのかとはなはだ不安にならずにはいられない。

パンデミックの終焉と国際平和というふたつの事柄は、目下、世界中の誰もが切に願っていることであろう。

コロナ禍中のインドへ インド入国についての必要な準備と注意点  TODO リスト付き【2022年2月版】(ティラキタ駱駝通信)

イスラーム化前のスィンド地域

パーキスターンの英字紙DAWNのウェブ版に興味深い記事を見つけた。

紀元7世紀から8世紀初頭にかけての同地域における仏教徒王朝内での宮中クーデターによるバラモンの大臣による全権掌握、そして西方からのイスラーム勢力の侵入による王朝の終焉までを簡潔にまとめたものである。

HISTORY: SINDH BEFORE THE ARABS ARRIVED (DAWN)

美しい王妃と夫である王の重臣との禁断の愛と彼らが示しあっての権力簒奪という映画さながらの展開。王となった父の跡を継いだ息子のモラルの反する行動による民心の離反、この頃勢力を伸長させていたイスラーム勢力による王国の陥落・・・。

今となっては、その痕跡を見つけることすら容易ではないこの土地だが、かつては玄奘三蔵も訪問しており、無数の仏塔が建ち並ぶ国土であったという。

アラビア地域に発したイスラーム教は、この時期まさに「イスラームの衝撃」とも言うべき、短期間で一気に不可逆的なブレイクアウトを起こした未曾有のムーヴメントであった。当時のスィンド州の人々は、まさにその現場を直に目撃し、体験していたわけである。