34年前の過ち

ナウジョート・スィン・スィッドゥー。元クリケット選手で、インド代表の花形選手として活躍もしていた。その後、テレビタレントとして数々の番組に出演。

2004年からは政治家に転向してBJP選出のパンジャーブ州議会議員として活動を開始。その後2017年には国民会議派に鞍替え。州観光大臣であった2018年には、同じくクリケット選手で南アジアを代表する名選手だったパキスタンのイムラーン・カーン首相を相手に「クリケット外交」を演じ、アムリトサルからすぐ国境向こうにあるスィク教の名刹、カルタールプルのグルドワラー・ダルバール・サーヒブへ、インド側からヴィザ無し訪問のスキームを実現させて脚光を浴びた。その後、国民会議派のパンジャーブ支部のトップの座に就くなど、順風満帆の時期が続いていた。

そんな中でパンジャーブ支部内での内紛、それに続いての州議会選挙敗北と、なかなか大変なことになっていたのだが、このたび1988年、つまり彼のクリケット選手現役時代に起こした危険運転のかどで、懲役1年の判決が下りたのは一昨日。実は危険運転というよりも、危険運転が生んだトラブルの中で、当時25歳だったスィッドゥーが65歳の男性を殴ったことにより、その男性の死を招いたという事件。本来ならば殺人事件あるいは暴行及び傷害致死として扱われるべきところ、一貫して「road rage」として報道も裁判も続いていた。

この件について、幾度も裁判を重ねており、選手時代、タレント時代、政治家となってからもつきまとう彼自身が抱えるリスクであったが、被害者の遺族による粘り強い闘いにより最高裁でまで争われ、ついに彼はその償いをすることになった。まさにその事件が起きてから34年後になった今になって、である。

事件後で被害者は亡くなったが、いっぽうでスィッドゥーはさらにクリケット選手としてのキャリアを積み、タレント業でもスポットライトを浴びて、政治家としても活躍した。もう充分に華やかなキャリアと人生を謳歌しておいて、いまごろになって、わずか懲役1年の判決。やるせない話だ。

ニュースによると、彼にはまだ法的に争うことができる余地は残されているものの、それがうまくいく可能性は限りなく低いとも言われている。

SC sentences Navjot Singh Sidhu to one year in jail in 1988 road rage case (Hindustan Times)

奇妙な捻じれ

最高裁の命令により調査チームを受け入れさせたバナーラスのギャーンヴァーピー・マスジッド。ヒンドゥー寺院であった確固たる証拠があったとして、ここでプージャーを行なうことを求めるヒンドゥーの原告側が「バーバーがおられた」とし、ムスリム側は「何も見つからなかった」。シヴァのリンガムらしきものの痕跡が見つかったとのことのようで、さらに確固たる証拠として、リンガムに向かい合わせるナンディの姿がないか調べるという方向らしい。

ここにあったヒンドゥー寺院をモスクに転用したということは、もともと古くから伝えられてきた史実のようで、そのような例はここに限らず、とりわけインド北部や西部には多い。

ここはムガル朝のアウラングゼーブ帝の時代に転用されたとのこと。1991年にアーヨーディヤーのバーブリー・マスジッド(ラーマの生誕地とされる場所にあった寺院で、やはりムガル帝国時代にモスクに転用された。1992年に右翼に率いられら暴徒たちが破壊。インド各地にコミュナルな暴動が連鎖)問題のとき、こちらもやり玉に上がっていた。

現在はムスリム以外は立ち入り禁止の施設として現在に至っている。近年、右翼勢力はこうしたムガル時代に起きた賛ムスリム的な事象を反ヒンドゥー=反民族=反国家的な過去で、それを取り戻すことが愛国的な行いであるかのように煽る。同時に植民地時代の反政府テロリストたちを反英愛国者と持ち上げ、さらには1857年の大反乱を「インド最初の独立闘争」と位置づける。

するとこの時代の歴史解釈の根本的な部分に、奇妙で大きな捻じれが出てくるのだが、これについてはどう辻褄をつけるつもりなのだろうか。

多数はヒンドゥーのインド人傭兵たちの勢力がインド各地で当時の東インド会社軍に対して反乱を起こし、その勢力が合流しながら当時の統治の拠点を次々に陥落させていった。火の手がデリーに及んだときに彼らが集結して反乱のシンボルとして担ぎ出したのはムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファル。

それまで英国人指揮官の元で働いてきた無名のインド人兵士たちが求めた権威は、当時すでに権勢は衰えて威光の及ぶ範囲は「デリー周辺」でしかなかったムスリム王朝の当主であった。劣勢に継ぐ劣勢で追い込まれたイギリス側は、それでも内部の立て直しと反乱の及んでいなかった南部等からの援軍などで反攻に出たわけだが、その際に大きな力となったのはパンジャーブ及びその近隣地域のスィク教徒勢力。

英国当局が比較的短期間に力を回復して、反乱勢力を退治して粛清、軍の再編、英国人社会の綱紀粛正、英国本国では東インド会社の解体とインド省による直接統治へと急転換していくことになる。現在も軍や警察などでスィク教徒のプレゼンスが高いのには、反乱平定後に親英・尚武の民として重用されたことが背景にある。つまりムガルこそが独立運動の先駆けの象徴であり、スィク教徒は親英の売国勢力であったことになってしまうため、極右勢力によるムガルを「侵略者」と位置付けと、極右勢力を含めたインドの広範囲での「1857年の大反乱はインド最初の独利運動」という定義は相反するものになるのだ。

Decoded: What is the controversy over Varanasi’s Gyanvapi Masjid? (India Today)

熱波のインド

記事によると、デリーで観測史上の最高気温が45.6℃とのことだが、それとて一定の条件での計測なので、路上や空調のない車両の中などではこれよりも数度高かったり、50℃を超えていたこともあるはずだ。

先日は49度を超過とのことで、従来の記録を4度ほど上回ったことになる。これも同様に実際街なかで働く人たち、路上で商う人たちは実質55℃のような過酷過ぎる環境で働いていたのだろう。

今の東京のような快適な気候からはちょっと想像が及ばないし、お盆あたりの東京の状況とも比較にならない。いくらこの時期のインドは湿度が低く、日本のお盆は湿度が高いとはいえ、ベースになる気温がまったく違うので、比較にすらならない。

たとえ湿度が低くても、体温を超えると相当消耗するし、さらには風呂の温度を超えると、とても耐えられるものではない。50℃という気温は死の世界とも言える。26℃と30℃がぜんぜん違い、30℃と34℃も相当異なるように、45℃と49℃もずいぶんな差だろう。

地球温暖化で氷河が痩せ細ったり、海岸沿いの低地が海の下に沈むことなど、懸念されていることは多いが、インドあたりの緯度の内陸部の酷暑季では人々の生存が困難なものになりそうだ。

India heatwave: Delhi records highest ever temperature at 49C (The Telegraph)

パーンバン・ブリッジ

タミルナードゥ州本土とラメースワラムを結ぶパーンバンブリッジ。海上の築100年以上のこの橋は、当時の技術の粋を集めて造られたのだろう。列車が徐行してそろりとそろりと進む車窓からの海の眺めは、ちょっとスリル感がある。

このパーンバンブリッジに代わる「新パーンバンブリッジ」が架けられるとのこと。国土も鉄道網も広いインドにはまだまだ古い橋梁はあるのだが、こうやって次第に古いインフラが更新されていく。

New Pamban Bridge: Indian Railways engineering marvel! Watch video on India’s 1st Vertical Lift Rail Sea Bridge (FINANCIAL EXPRESS)

Taj MahalかTejo Mahalayaか

Tejo Mahalaya (荘厳で偉大な棲家)という名前を聞き慣れない方はググッていただきたい。いくつもの関連記事が出てくる。

ヒンドゥー史上主義者たちの主張によると、このTejo Mahalaya は現在誤ってTaj Mahalと呼ばれており、ムスリムの皇帝の妃の墓廟であると誤解されているが、本当はMahadeva Mandirつまりシヴァ寺院であるのだという。元々そこにあった寺院をシャージャハーンによるタージマハルの構造物が呑み込む形で「併合してしまった」というのだ。インド考古学局によって閉鎖されている謎の20の部屋(メディアによっては22の部屋とも)があり、そこにはこれがムスリムの墓廟などではなく、ヒンドゥー寺院であるという証拠が隠されている、ゆえに誰も入ることができないように固く閉じられていると主張している。

確固たる史実をまったく無視した、何の合理性も道理もない主張だが、ついにアラーハーバード高等裁判所へ、インド考古学局に謎の20の部屋を開けて調査チームを受け入れよという訴え出たのだ。バラエティ番組的な興味関心は覚えるものの、そしてヒンドゥー史上主義者に勝ち目はないように思えるのだが、もし芳しい結果が得られなくとも、すぐに次の一手を容易しているはずだ。そんなこんなで、どんどん外堀が埋められて、いつしかヒンドゥー寺院であるとの既成事実みたいなものが積み上がるとも思えないのだが。

1989年代後半からサフラン勢力が頭を持ち上げ始めて、90年代には檜舞台に躍り出るまでになった。そして今世紀に入ってからは、まるで19世紀後半のヒンドゥー・ルネサンスのごとく、これまでの共通理解や社会通念を覆すような「ネオ・ヒンドゥー・ルネサンス」を展開している様には、もう驚きしかない。その「ルネサンス」は地域、カースト、社会的地域を超えて人々を強く結びつけ、それ以前は排除あるいは無視されていた層や部族も大手を広げて歓迎される一方で、ムスリム、クリスチャンといった外来の思想を奉じるコミュニティーに対しては非常に敵対的だ。

高等裁判所は訴えを退けたが、この原告団は最高裁まで争う構えを見せている。仮にこのTejo Mahalayaの「調査」が近い将来実施されたとして、結果がどのようなものになるのか、それがメディアでどう消化されて人々に伝えられるのか、社会がどのような反応を見せることになるのか。

この件もそうなのだが、時を同じくして、デリーのクトゥブ・ミーナール、マトゥラーのクリシュナ・ジャナムブーミー、バナーラスのギャーンヴァーピー・マスジッドと似たような文脈での訴えがなされて、同時期に並行して進行していくというのは、どう考えても偶然ではないだろう。

また、ムスリム支配を背景に持つ地名に対する改名が相次いでいることも然り、一連の嫌ムスリム的な事象が相互に作用しあっている部分もあるようだ。現在のインドが急速に変貌しているのは経済面だけでなく、こうした思想面においても同様だ。