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カテゴリー: column

  • トランプ、宣教師と現主義過激派

    トランプ氏に関するこの報道を見て思い出した人物かある。アメリカのある「キリスト者」のことだ。

    この人は米国の福音派の若い宣教師で、インドのアンダマン諸島の中にある北センティネル島で布教しようと上陸を試み、島民たちに弓矢で殺害された。この島に住んでいるのは、世界で最も孤立した民族とされるセンティネル族で、外界との接触一切を拒んでいる。

    この宣教師は北センティネル島を「サタンの最後の砦」と認識し、ひとたび踏み込めば島民たちに殺害される可能性が高いことも理解していたという。一度上陸に失敗したが再度試みて成功。まもなく島民たちに殺害された。

    宣教師を殺害したインド孤立部族、侵入者拒む歴史(NATIONAL GEOGRAPHIC)

    それでも「未開の野蛮部族に神の言葉を伝えること」を崇高な使命であると考え、「殉教者となる」ことを厭わず、信じる「キリスト者として正しい行為」のために喜んで自らの命を差し出す、そんな青年であったのだという。

    福音派であること、キリスト教宣教師であることはさておき、自身の価値観がユニバーサルな真実であると考え、相手や第三者にはそれぞれ異なる信条、倫理観、行動原理があることを受け入れず「俺は正しいことをしている。これに同調しないヤツが悪い」とする点で、トランプそっくりであり、周囲から反対されたり妨害を受けたりしつつも邁進していく「ハリウッド映画に描かれる孤高のアメリカンヒーロー」のイメージそのものである。そしてトランプの理想とは彼自身が唱える「MAGA」の実現、その「偉大な米国を頂点とする平和秩序」なのだ。

    ゆえに自身が勝手に戦争を始めてしまったにもかかわらず、予想外にイランが強く、そして戦略的も巧みなことから手詰まりになってくると、「正義を実現しようとしているアメリカに協力するのは当然。知らん顔するNATO加盟諸国はけしからん。それにホルムズ海峡を通過する原油にべったり依存している日本、韓国その他はアメリカが守ってきた平和にタダ乗りしてやがる!」とくるわけだ。

    日本など同盟国の「支援は不要」、ホルムズ対応でトランプ氏不満あらわ(Bloomberg)

    こういう姿勢は、イスラーム原理主義過激派も同様で、各地でのテロ行為、そのための組織造りとリクルートなども、たとえそれにより多数の死者が出たり、多くの人々が不孝になっても崇高な理想を実現するためには少なからず犠牲が出るのは当然のこととし、神の理想を実現する正しい行為であると考えており、同調しないイスラーム教徒は不信心者だとする。つまりイデオロギーこそ違えども、思考の根本の部分からしてトランプや件の宣教師と同類なのだ。

    蛇足となるが、イランはトランプの言うようなテロ国家ではない。シーア派の聖職者たちが政府の上に立つ形にはなっているものの、体制としては社会主義的な運営がなされており、シリア、イラクに権力の真空ができていた時期に勢力を拡大した「イスラーム国」のような暴力集団などではない。

    米国の言う「テロの輸出」とは、イランによるパレスチナのハマス、レバノンのヒズボラといった「イスラエルなる国」と敵対する組織、イエメンのフーシ、アサド政権時代のシリア政府などで、反サウジアラビアの組織と連携のことだ。

    欧米その他で何か事件を起こしたわけではないし、そうする動機すらない。政権上部が奇妙ではあるものの、親日的で、自由と平和を愛する世俗な人々が暮らす普通の国である。

  • シンガポールの古銭

    シンガポールの古銭

    話は前後するのだが、ハイデラバードへはシンガポール航空でやってきた。当然、乗り換え地はシンガポール空港なのだが、しばらく待ち時間があった。夕方だったので腹も減る。

    自宅の片隅に長年眠っていたシンガポールドルが32ドルを持ち出してきたのだが、空港内のホーカーズの券売機で使えなかったため、銀行の両替所で現行の札に替えてもらった。ずいぶん昔の紙幣であるため、現在のそれとはデザインは異なるし素材も違う。今のみたいなブラスチック紙幣ではなく、紙のお札だったのだ。(替える前に写真撮っておけば良かった。)

    両替所の若い女性は「これはどこの国の通貨ですか?」などとすっとぼけたことを言っていた。そんな大昔のお金ではないのだが、記憶の糸をたどると最後にシンガポールを訪問したのは、少なくとも四半世紀以上前であった。ある意味、「古銭」である。どの時点で今のデザインに変更されたのかは知らないのだが、20代前半くらいの人が「どこの国の通貨?」と言うのは無理もないかもしれない。

    古いお金を新札と替えるわけなので、もちろん手数料などはかからない。空港内のホーカーズで海南鶏飯。空港とはいえ、本場の味は良い。

  • ハイデラバードの日曜日

    ハイデラバードの日曜日

    ハイデラバードで利用した宿は、1500Rsでずいぶん広くて清潔だった。かなり人気で予約も立て込んでいるらしい。
    翌朝は、階下のレストランで朝食。宿代には含まれておらず別途250Rs。朝食はバイキング形式。なかなか良かった。

    幾度か来たことがあるハイデラバードだが、ここから入国するのは初めて。日曜日に利用できる両替屋やら買えるSIMカード屋などを知らないため、探すのになかなか手間取る。

    両替屋はほとんど閉まっているし、テーランガーナーでは、SIMカードは日曜日はアーダールカード(日本でのマイナンバーカードに当たるもの)を持っていないと日曜日は不可と言われる。

    明日はハイデラバードにいないし、田舎に行くとSIMカードの購入は期待できないため、ここで済ませておきたい。万一のためデータのみ8日間使えるSIMはアマゾンで買って持っているのだが、電話やSNSが出来ないため不便。それに8日間ではとうてい足りない。

    もちろん両替屋は日曜日開いているところはどこかにあるし、SIMカードも原則を曲げて融通利かせてくれるところはあるはずだが、初めてだとゼロから探さなくてはならない。そんなわけでちょっと面倒だったがなんとか両方片付いて何より。

  • ハイデラバード到着

    ハイデラバード到着

    空港から市内中心地までは、ちょうど「首都高」みたいな高架の自動車専用道路が縦断しているハイデラバード。とても未来的な光景に思える。

    そして驚くのはその「首都高」沿いにあるいくつもの高いビルになぜかジムが入っていて、もう深夜近いのに黙々と機械でトレーニングしている人たちがいることだ。これまたインドの未来的な眺めに思える。

    深夜になっても繁華街では開いている飲食店はとても多く、なんとも賑やかである。

  • アムパワー

    アムパワー

    エカマイバスターミナルからロットゥーでメークロンに向かう。エカマイもさびれているようで、かつては盛んにバスが発着していたのがパタヤその他以外にはロットゥーが主な出入り車両のようだ。当初は11:00のロットゥーのはずだったのだが、乗客が少なくて間引きされたようで12:00過ぎの出発となった。メークロンに着いてからバスを乗り換えてアムパワーに到着。

    移動中に一緒だった台湾の女性たちと散歩。金曜日のアムパワーはとても空いていて、扉を閉じたままの店も多い。いつもこんな具合なのかと言えば、土日は宿代が倍になるそうなので、週末に大変混雑するらしい。

    rpt

    彼女たちとは夕方の蛍ツアーにも一緒に参加することにした。ボートはアムパワーの運河からメークロン河に出る。河沿いの木には蛍の光がたくさん。見事なものだ。

    蛍ツアーのボート

    船が通ることができるようにと高くした橋が特徴的。古い時代のバンコクはこんな具合だったのかなと思わせるレトロ感がとても趣がある。ここに数泊してみたいくらいだ。

    マーケットで面白いものを見つけた。魚の干物かと思ったら、魚の干物のぬいぐるみ?という捻りが効いたもの。残念ながら臭いはしない。

    干物のぬいぐるみとは!

    その後、他の台湾の女性たちが合流して、夕飯は皆でいろいろ買って持ち寄りで、宿泊先の共用スペースでの宴会となった。大勢の女性たちと一緒に食事という機会はあまり無いので、なかなか気が引けつつも楽しいひとときとなった。

  • スリクルンホテルとその周辺

    スリクルンホテルとその周辺

    カンボジアのシェムレアプからタイのバンコクまでは1時間のフライト。ドンムアン空港に着いてから市内のスリクルンホテルへ向かう。

    スリクルンホテルはカフェに入ったことしかなかったが、今回初めて宿泊。ロビー周りはきれいだし、目の前がホアランポーン駅前の運河というのも良い。駅はほとんどの発着がクルンテープ・アピワット駅に移転しており、ごく一部のローカル線の発着のみとなり、鉄道駅としての機能はほぼ終えている。このあたりの寂れようは昔日の賑わいからは考えられない。

    かつては飲食店が多数入居していたホアランポーン駅構内だが、店のほとんどが撤退していた。ブラットフォームには蒸気機関等の歴史的な車両が展示されている。運河寄りのホームからは、ごく一部の各駅停車が発着。かつてのバンコクのターミナス駅は建物はそのままながらも、現在は小さなローカル駅になっている。

    タイ国鉄駅でよく見かけるベンチ。なんとなく蚊取り線香を思われるものがある。

    今後大規模な再開発などはあるのだろうか。それでも界隈でちょこちょこと起きている古い建物のヘリテージホテル化、ヘリテージレストラン化で、観光地中華街としてのヤワラー人気の高まりとともに、建物そのままでオーナーや運営者が交代して変化していくのか。

    年配のタイ人の方によると、1980年代あたりまでのヤワラーは中国系の幇同士の抗争が激しく、何かと危険だったらしい。そんなところが観光地として人気が出たり、よそから事業者が入ってきて、小洒落たブティックホテルを始めたりというような環境ではなかったようだ。時代とともにいろいろ変わっていくものだ。

    ジュライ・ロータリーに足を向けてみると、かつての「ジュライホテル」の建物は今も残っていた。かつては近くの楽宮ホテルと合わせて、宿泊する日本人バックパッカーは多かった。

    向こうの建物が旧ジュライホテル

    スリクルンホテルの朝食バイキングは昼ご飯であってもおかしくないくらい充実している。そしてお粥が素晴らしくおいしい。この日早く出発するつもりだったのが、少し遅くなった原因がこのお粥。あまりに美味しいので、何度もおかわりを繰り返し、トッピングの量を加減して変化を楽しんだりしたため、朝食にずいぶん時間がかかってしまったのだ。そのくらい美味しかった。

    ホテルの朝食なんてトーストとコーヒー目玉焼きくらいでも食べさせておけばよいのに、まったく手を抜かないところに良心を感じる。あるいはそれほど競争が激しい、あるいはこのエリアが寂れてしまいなかなか集客が大変なのだろうか。

  • シェムレアプ出発

    シェムレアプ出発

    カンボジア第2の都市だけあって、何かと便利な街であった。そして華やかでもあり、夕方以降も楽しい。

    大きなスーパーマーケットがいくつもあり、在住中国人、韓国人向けの食材店ではそれぞれ中華料理、韓国料理の材料等も大量に売られている。


    それでいて、シェムレアプの街はクルマが多くないため自転車であちこち行ったり、夕暮れ時にゆったりと流したりできるのも気持ちがよかった。滞在中は同じ自転車を借りっ放しで、「我が愛車」という感じにもなった。

    最終日、午前中は国立アンコール博物館を見学し、宿に戻ってチェックアウト。

    そして宿の隣の食堂で今回のカンボジアにて最後の昼ごはん。滞在先の部屋から「徒歩2分で着く」という便利さもさることながら、なかなか美味しいので繰り返し利用した。

    食後はオートリクシャーで空港へ。

  • ガチインド料理屋

    ガチインド料理屋

    シェムレアップで、この日の夕飯、「カリーワーラー」は、ちゃんとしたガチインド料理であった。前日のパンジャービーのおじさんの店のクメール化した大甘カレーには仰天したが、こちらはオーセンティックで安心。

    メニューはすべてリエルで書かれているのは、この手の店としては珍しいのだが、客層はインド人を含めたほぼ外国人に尽きるとのこと。ローカル客はいなくもないが、「100人来て2人くらい」とのこと。

    どのあたりを客層と想定するかによって、味付けやサービスの仕方が異なるのは当然で、同じパンジャービーでもそれぞれ大きく異なるわけだ。

  • 地雷博物館

    地雷博物館

    地雷博物館を運営しており、地雷除去の団体を率いているアキ・ラさんの話が大変興味深かった。5歳のときに両親がポル・ポト派に殺害されて孤児に。ポル・ポト派のもとで成長していくわけだが、やがて少年兵として各地を転戦。彼は「私は元クメール・ルージュの兵士でした」とおおっぴらに話す。普通はそのような過去は隠しているものらしいが、この人はバンバンしゃべる。ちょうど西洋人のツアーグループが来ていて、その中に混じって彼の話を聞いたのだが、私はぐいぐい引き込まれていった。

    行く先々で地雷を敷設したり、戦闘で人を殺害したり、味方が落命したりという大変な思春期を過ごしたという。それでも少年だったその頃は、一般の市民よりも上の立場であることに誇りを感じ、夜には兵士仲間たちと食べて踊って、余興のひとつのように銃を夕暮れ空に撃ったりするのも楽しかったという。

    そして「当時の兵士生活は楽しかった。市民よりも上の立場にある優越した存在であったから」とか、「クメール・ルージュの兵士として首に巻く赤いスカーフは誇らしかった」と、ギョッとすることまで言うだけではなく、「戦闘で相手をたくさん殺した」ことまで口にする。彼は少年兵としてポル・ポトの軍隊に放り込まれ以外に生きていく選択肢はなかったし、当時は洗脳されていたであろうから、当時はそのような心境であったのは自然なことであったのかもしれない。

    そんな彼に転機が訪れたのはベトナム軍との戦闘。味方が散り散りになり、彼は沼に身を沈めて戦闘が止むのを待ち、水から上がってしばらく歩くと、ベトナム兵に捕まり、一緒にいた仲間たちはその場で射殺された。アキ・ラさんはその中でとびきり若かったためか、情けをかけてもらい命拾いしたとのこと。

    その後は、持ち前のフレンドリーさとマメさでベトナム兵士たちの心を掴み、食料調達で銃によりゾウを倒したところ、ベトナムの部隊に大変喜ばれ、兵士として登用されたのだという。その結果、つい先日のまでは味方だったポル・ポトの軍隊に銃を向ける立場となったが、「こればかりはどうしようもなかった。選択の余地なし」とのこと。それが戦争というものの残酷さと虚しさなのかもしれない。

    「ついこの間まで私が所ほ属していた軍と戦い『元味方の兵士』を殺害することについては何の躊躇もなかった」と言う。投降した兵士ということもあり、戦闘が始まると常に最前線に送り込まれていたとのこと。まさに「捨て駒」の立場だが、相手が誰であろうと、とにかく戦って死なずに生き延びなければ現在の彼はなかったわけだ。

    平和な時代がやってきて、除隊して故郷に帰ると、村や周囲には地雷により足などを失う人たちが絶えず、かつて敷設していた自身を後悔するとともに、「敷設のプロ」から「除去のプロ」に転じ、国際機関等での専門家としての勤務を経て、自身の団体を立ち上げて現在に至る。とにかく明るくてエネルギーに満ちた感じの人なので、そんな暗い過去があったというのはにわかに信じ難い。

    本日、彼の団体はシェムレアプ近郊とタイ国境で除去活動をしているとのこと。こういう人たちの地道な活動があと100年続けば、これまでに敷設された地雷はほぼ無くなるというから、気の遠くなるような話だ。

    ※この人を題材にしたマンガがある。書名等は以下のとおり。

    タイトル:密林少年-Jungle Boy 1&2

    著者:深谷陽

    出版社:集英社

  • バンテアイ・スレイ

    バンテアイ・スレイ

    バンテアイ・スレイへ。ここはアンコール・ワットのような壮大さはないのだが、細かい造りまでが美しい仕上がりのお寺。しかも保存や修復の状態も良好なのでクメール彫刻の素晴らしさを存分に堪能することができる。ゆっくり時間をかけて見学したい。

  • アンコールパス

    アンコール遺跡の入場料は遺跡ごとに定められているわけではなく、アンコールパスという共通チケットによる入場となる。(一部例外あり、「アンコールパス」でカバーされず、独自に料金徴収する遺跡もある)

    入場といっても、各遺跡でのチケット確認以外に、道路途中に検問があり、アンコールパスの有無の確認がなされるため、アンコール地域の入域料金のような性格がある。この「エリア方式」は、私が前回訪問した1992年当時も同様で、各遺跡にはチケット売場はなかったし、今と違って係員もいなかったように思う。(アンコールワットなどいくつかのメジャーな遺跡では、管理の職員は配置されていたはず。)

    チケットは当時は数少なかったホテル(グランドホテルだったか?)で販売されているはずだったが、もちろんバックパッカーたちはそんなものは購入せずに観て回っていた。

    とにかく情報が少なかった当時だが、私はアンコールワット見学の後はベトナムに行き、そこからバンコクへ飛び(バンコクでサイゴン往復のチケットを買っていた)、そこからすぐに帰国する予定であったこと、当時のカンボジアの幹線道路ですら非常に悪路で、自転車ほどの速度でしか進めず、その悪路がゆえに道中絶え間ない激しい振動により胃下垂になって辛かったので、シェムレアプからプノンペンまでのフライトを予約していた。

    同宿の「命の恩人」(理由は後述する)カナダ人がどこからか「陸路でシェムレアプを出るには問題ないが、空路で出るとアンコール遺跡入場のチケットを見せないと、料金を支払わずに遺跡見物をしたということでベナルティーが課せられる」という余計な情報を仕入れてきた。

    彼と一緒に航空券を買いに行ったのだが、決して無視できない情報だ。彼曰く、その話は当時国連の選挙監視組織UNTACへの派遣で来ていたフランス軍の人から聞いたとのこと。幸いにもその人が「必要があれば言ってくれ。助けてあげるから」と言ってくれたとのことで、その所属先とやらに2人で出向いた。

    今から思えば、15ドルとか20ドルとかの話だったはずなので、なんとまあセコいことを!と思うのだが、当時若者だった彼も私も真剣だった。そんなどうでもいいことに付き合ってくれたフランス軍の人も奇特な人だが、実際のところ特にするべきこともあまりなくて暇だったのかもしれない。

    フライト当日、私たちは「UN」と黒字で大書きされた白い四駆に乗せてもらい空港へ。チェックインカウンターでは、情報どおりにアンコール遺跡のチケットを要求されたが。空港まで運転してきてくれたフランス軍兵士が、「彼らは観光目的ではありません。ボランティアとして私たちのところで働いてくれていたのです」という嘘をカウンター係員に告げるとボーディングパスが出てきた。

    それでも気になるところがあったのか、彼は「こういう国なので、何かあるといけないので、フライトが離陸するまで私はここに居ます。もし何かあれば、チェックインカウンター前に待機している私の所属と名前を言って下さい」と言う姿がカッコ良く、頼もしかった。もっともアジア人の私が単独で頼んでいたら、こういう展開はなかったのだろうなぁとも思った。同行のカナダ人はケベック州の人でフランス語も堪能なのだ。

    同行のカナダ人は「命の恩人」と書いたが、アンコール遺跡を訪れる前に滞在していた雨の日のプノンペンで、彼の瞬時の対応が無ければ、私はおそらく「享年25歳」で遺骨もなく葬られるところであった。

    プノンペンで道路が冠水していたその晩、彼と食事に行こうと歩いていたとき、道路脇の民家から何事か叫ぶおばさんがいて、私たちは「???」であったが。その数秒後、私は予期せぬ深みに落ち込みそうになった。

    まるでプールで息継ぎに失敗したかのようにお水を飲み込んでしまったが、視界が水面下に消えた瞬間、その彼が私を引き上げてくれたのだ。落ち込みそうになったのは蓋の開いたマンホールで、彼が居なければ今の私はなかった。落ち込む際に臑を強く打ったり、膝や踵を擦りむいたりしたし、全身びしょ濡れで一度宿に引き返してから消毒したり、着替えなくてはならなかった。

    彼とはベトナムに戻った後、一緒にニャチャンに行き、そこで私はデング熱に罹り、大変便利苦しかったが、再び彼の世話になった。医者を呼んできてくれたり、朝・夕の食事と水を私の枕元に運んでくれたりと、いろいろお世話になりっぱなしであった。

  • 東バライと西バライ

    東バライと西バライ

    巨大な湖のような東バライ。西側には西バライがある。人造の貯水池でアンコール時代のクメール帝国によるものだが、今でもここから水田に水が引かれるという灌漑施設の超傑作。アンコール遺跡はこの国に外貨収入と雇用創出をもたらし、バライは大昔も今も農民に水をもたらす。

    今は遺跡となっている寺院で、年中行事や人々の通過儀礼も行われ、周囲には門前町が形成されていたり、たくさんの民家からなる町が構成されていたりしたのだろう。

    お寺のすぐ外の敷地では界隈の子供たちが遊び、長じてはそのお寺で出家したり、お寺の世話を引き受けたり、子供が生まれてお坊さんから名前をもらい、お布施を差し上げたりと、様々な関わりがあったはず。

    お寺の石組みだけはこうして今の時代にも残っているが、そのあたりの人々の生の関わりや僧院内外の生活感というものを想像してみるのも楽しい。

    東バライ

    西バライ