平型コンセント

宿泊先の部屋で、こちらの画像のようにコンセントがフラットタイプにも対応しているタイプだと、「ラッキー」と思う。コンセントアダプターなしで利用できる電源がひとつ増えるからだ。それとは裏腹に、コンセント複数あっても壊れていて、利用できるものがひとつしかなかったりすると、ちょっとブルーな気分になる。

サブズィーワーリー

美しい野菜を撮っていたら、ダニヤーを手にしたサブズィーワーリー(野菜売りの女性)が商品のダニヤーを手にして「私も撮りなさい。ほら、こっち」と、いろんなポーズを取りながらずんずん迫ってきた。

ずんずん迫ってくるのはたいてい男性たちなので珍しい。何を喋ってもこの人から返ってくるのはグジャラーティーなのでよくわからないが、隣で商っている若い男性を私との間に通訳として引っ張りこんで、次から次へと質問を投げかけてくるので、こちらがタジタジになる。たまに公式通りでない人はいるものである。

グジャラート語とヒンディー語は近い関係にあるため、人々の多くはヒンディー語にも堪能だが、彼女のようにグジャラート語しか話さない人もいる。それでもずんどん前に出てくる快活さが楽しい。

露店を後にするときも明るい笑顔で見送ってくれた。

健康なナショナリズム

独立記念日、共和国記念日などが近くなると、街なかでティランガー(三色旗=インド国旗)がたくさん売られるようになる。これを装着して走り回るオートやクルマもある。

同じ国旗でも日の丸については閉塞感のような息苦しさをおぼえる一方、ティランガーについてはとても好ましい印象を受ける。

強制されずとも、特有の同調圧力で同じ方向に走る国民性のもとでの国旗掲揚、国歌斉唱は、滅私奉公的な悲壮感というか、異論を許さない「大和民族のナショナリズム」という無言の圧迫感がある。

インドのように号令をかけても、みんな勝手な方向ばかり向いて各々テキトーなおしゃべりに興じているような国におけるこれは、ごく緩~い統一感というか、なんとなくの一体感というか、健康な範囲でのナショナリズムを醸成するものであるからだ。

多様性の中の統一。もともとインドの歴史の中で、「インドという国」の概念のもとに統一を果たしたのはイギリスによる植民地支配であった。印パ分離という不幸を経ることにはなったものの、そのイギリスが創り上げた「インド」を引き継いだのが独立以降のインド共和国であった。

これほどの文化的、民族的な広がりがありながらも決して分裂することなく、着実に歴史を刻んでいるのは、広い世界でもこのインドくらいのものだろう。

やや大げさかもしれないが、東京からジャカルタ、バンコクからヤンゴンを経由してラサ、そしてテヘランからイスタンブルあたりまでをひとつの国にまとめてしまったような広がりと重層感があるのが亜大陸だ。

それをひとつの国としてほんわりとまとめ上げるのがティランガー。それぞれの民族性に偏向することのない文字通りの「共和国」のナショナリズムの象徴だと私は思う。そう、「共和国」と称する国は多いが、インドのように名実ともに「共和国」の名にふさわしい国は決して多くない。

携帯電話への寛容度

バスの中でも電車の中でもスマホの動画サイトで好きな音楽にアクセスして大きな音量で流すインド人。もちろん電話での会話も当たり前。こういう鷹揚さは見習いたいところだ。

日本のように、静まり返った車内で誰かが携帯電話で話をすると、全員の耳と視線が非難という形で向かうというのはまったく健康的ではない。

車内での音楽はともかく、ケータイでの通話については、多くの国々で多かれ少なかれの許容性があるではないかと思う。