eリクシャーの普及ぶり

近年のインドにおけるeリクシャーの進出ぶりは凄まじい。地域差もあるが西ベンガルの田舎町でも沢山走り回っており、カルナーでもオートリクシャーの大半はすでにこれに置き換わっていると言っても良い。これを電気自動車の一種と捉えるならば、インドはその普及の先端を行く国のひとつと言えるだろう。

都市部では環境問題に対応するため、タクシーやオートリクシャーのエンジンがガソリンからCNGを燃料とするものに変更されて久しい。その中にこうした電気式のリクシャーが参入していく形となったが、田舎ではガソリンからCNGのものへという変化を経験することなく、いきなりeリクシャーが導入されるというドラスティックな展開となっている。

さて、このeリクシャーだが、夜間に充電しておき、昼間の時間帯に80kmくらいできるようだ。昔と違って個燃料代不要で良いではないかと思いきや、運転手曰くオーナーから充電代金名目で取られるのであまり変わらないとのこと。

それはともかく、乗り心地は良好だし、地をスルスルと滑るように進む感覚も良い。気持ちよく運転できそうだ。

カルナーで、eリクシャーを含めたオートリクシャーはシェアベースで走行しており、一人で乗っても満員でも10Rs。よほど遠くまで行くと20Rsになるが、とりわけ他の乗客がいないとお得感が高い。ただし、夕方遅い時間になり、運転手にとって他の乗客の利用がまったく望めない時間帯、場所でもその料金で利用できるかといえば、もちろん運転手次第ということになるのだろう。

※内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

鈍行列車でカルナーへ

ムルシダーバードからベルハムプル方面に戻り、橋を渡った対岸から少し進んだところにあるカグラーガート・ロード(Khagraghat Road)駅に到着。果たして列車に間に合うかどうか、ギリギリのタイミンクであったが、運行が大幅に遅れているとのことで、2時間近く待つこととなった。

ここから各駅停車に乗車して、カトワー・ジャンクション(Katwa Junction)駅で乗り換えると、アンビカー・カルナー(Ambika Kalna)駅に行けるらしい。

やはりインドの汽車旅の醍醐味は鈍行列車。日に何本かしか停車しないローカル駅。駅前といっても畑しかない景色を見ながらのんびり過ごすのが良い。

車中の人々の入れ替わりも盛んで(長距離移動するならば急行を使うので)、気分も変わって良い。顔ぶれが変わるため、さきほどと同じ質問に再び答えなくてはならないが。

ゆっくりと列車が動き始める。さほど速度を上げることなく、ノロノロと進んで行く。ほどなく次の駅に停車すると、また人々は降りていく。これが夜行の鈍行列車であれば大変疲れる割にはぜんぜん進んでいなくて散々だったりするのだが。

ガンガーティクリーという鈍行専用駅。近年のインドでは駅の整備が進んだため、こういうところでもホームに屋根があったり、蛍光灯が付いていたりするころが増えた。ホームもちゃんとコンクリートで仕上げてある。

鈍行列車用駅も施設が良くなったとはいえ、従前からの「ホルト」の駅は変らない。「ホルト」とは、ちょうど郵政民営化前の特定郵便局みたいなものと言えばよいだろうか。国鉄職員が配置されない簡易駅。働く人は国鉄マン(公務員)ではない民間人である。

正式な駅ではない「ホルト」

カトワーからはハウラーを中心とする郊外電車のネッワークを利用。カトワーとバンデルを結ぶこの列車はパンタグラフから給電する全車両駆動の通勤電車スタイル。この車両の背後に接続しているのは郊外からカルカッタ都市圏に移動する行商人や物資運搬の人たち専用のコーチ。

ハウラーまで行く列車なのでやはり車内は都会的なレイアウト

そうこうしているうちに日が暮れてきた。鉄道は乗ること自体がエンターテイメントである。

昔であれば、TRAINS AT A GLANCE(という時刻表)に掲載されていない各駅停車で乗り換えをともなう移動をする際、ルートや時間がわからなくて困ったりしたこともあったが、今の時代は全国各地で走行するすべての列車のタイミングや実際の運行状況(遅れなど)が検索できるサイトhttps://etrain.info/inがあるため、とても楽になった。

目的地に到着するのが遅くなりそうであれば、スマホで旅行予約サイトから宿を確保しておくこともできるし、フロントに電話して到着時間を伝えておくこともできる。便利になった分、気持ちにも余裕が生まれて、ゆったりと旅行を楽しむことができるのだ。

内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

ムルシダーバード

オートの若い運転手はとても感じの良い人でとてつもなくおしゃべりなのもいろんな話を聞けて良かった。

ラージバーリー、文字通り領主の館なのだが、現在の当主はコールカーター在住とのこと。年に一度、ドゥルガープージャーの時期に一族が集まる習慣になっており、その他の時期は不在となる。

ここで働く年配女性に館内を案内してもらったが、本日雇った若い運転手によるベンガル語からヒンディー語への通訳なしには、私には何もわからなかった。運転手はとても感じの良い人でおしゃべりなのでいろんな話を聞けて楽しいが通訳としても活躍してくれた。

残念なのは、館の中は撮影禁止であること。オーナーは、使用人が観光客から心付けをもらって館内を見せるのは黙認しているようだが、写真については厳しく禁止を言い渡しているそうだ。「ネットに拡散されたら私はクビですから」とのこと。そんなわけで敷地外の柵の外から建物の外観しか撮ることができなかった。中も見事なもので、欧印折衷の華やかな館。屋敷内に家族専用な立派なお寺も複数ある。

界隈には他のラージバーリーがある。同じ一族が異なる目的(商取引等のための事務所など)のために複数の館を持っていたそうだ。ここに来る途中で、クリーム色の壁でボロボロになった屋敷も見えたが、それはすでに廃屋とのこと。

ラージバーリー

現在も整備してあるこの屋敷は、もともと一族の居住用であったので、現在も彼らが一堂に集まる際に利用しているとのことだ。屋敷の一部は、ROOPKATHA GUEST HOUSEという名前で宿泊施設になっており、きれいなレストランも併設している。

こちらのサイトにこのラージバーリーの来歴等が記されている。

他にも見学できるラージバーリーがあり、入ってみたのだがかなりひどく荒れていた。もったいないが、本来の修復ではなくコンクリートでやってしまっていたものもある。費用が安く済みメンテナンスの頻度も少なくて済むのだろう。私有財産なので、所有者がどのように処理しようが、こればかりはいかんともしがたい。

ラージバーリーだがハザールドワーリーを想起させるファサード
このラージバーリーもハザールドワーリーを模倣した正面となっている。
かなり残念なコンディションのラージバーリーもある。

壮大なイマームバーラーは残念ながら中に入ることはできなかった。修復作業が行われていたからだ。こうした場所でしばしばあることなのだが、全館このような形にするのではなく、部位ごとに異なるフェーズで修復を実施し、工事中でも該当エリア以外は見物できるようにしてもらいたいものだ。近年も旧パティヤーラー藩王国見学の際、パレスのひとつがそのような具合で見学できなかったことを思い出した。

イマームバーラー

これと向かい合う場所にあるベンガルのナワーブの宮殿であったハザールドワーリーは現在博物館となっているため見学することができる。

ハザールドワーリー
ハザールドワーリー
ハザールドワーリー

イマームバーラーやハザールドワーリーのようなハイライトはもとおり、それ以外の規模の小さなマスジッドや遺跡などにも実に見どころが多いことに驚かされるムルシダーバード。まさに古都としての趣にも満ちており、できれば2、3日滞在してじっくり見学したいところだ。時間の制約があり、午後の列車で出なくてはならないのが惜しい。

マスジッド
マスジッドの遺跡
マスジッド風の意匠のヒンドゥー寺院
ヒンドゥー寺院
見事なハヴェーリー
オランダ人墓地
オランダ人墓地
オランダ人墓地

オランダ人墓地などを経て、最後に訪問したのは、総レンガ積みのカトラーマスジッド。石材をほとんど産出しないベンガル地方ではこういうタイプのマスジッドや寺院が多い。

カトラーマスジッド
カトラーマスジッド

古都の趣があるにもかかわらず、現在のムルシダーバードは「だらだら広がる大きな村」になっていて、この地域の中心地は隣のベルハムプルになっている。ASI(インド考古学局)管轄下にある遺跡はもちろんのこと、民間所有のラージバーリーに至るもチケット売り場には「外国人料金」なる10倍から20倍もの料金を掲げているが、実際には適用されない有名無実なものになっているようだ。

この地方の秋の風物詩として、束ねたヨシの茎をきれいにクロスさせて干している風景がある。これを水に浸して腐らせてからとりだした繊維で紐を作るのだ。あとは繊維を取るだけの段階で建物にかけて干していたり、道路に 広げて干していたりするのを見にする。

ヨシの束を乾燥中

内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

コールカーター駅

ハウラー駅、スィアルダー駅に並ぶ第3の鉄道ターミナル、コールカーター駅(旧チトプル駅)は、もともと貨物用の鉄道施設だったが、今世紀に入ってから旅客ターミナルとして整備されたため駅全体が新しく、ムードはまったくない。

ベルガチア(Belgachia)地区南側にあり市内中心部に近いのに周囲は広大な空き地となっており、よくもまあこんなスペースが残っていたものだと感心する。やはり鉄道施設周囲にはかなりゆとりを持って用地を確保してあることが多い。

出発まで1時間近くあるが、本日利用の列車が入線してきた。AC車両は1両のみ。予約取ってあるので、涼んで行ける。

バスはただの移動手段だが、鉄道は乗ること自体が体感するエンターテイメントでもある。英国では鉄道趣味は紳士的な趣味という認識が行き渡っているように聞く(聞き違いかもしれないし、英国の鉄道オタクが勝手に紳士を名乗っているのかもしれない)が、日本ではかなり異なる理解がされているように思う。

内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

コールカーターの通りの名前

ベトナムを訪問した際、とうの昔に「ホーチミン市」と改名したにも関わらず、誰もが「サイゴン」と呼び、文字でもそう書かれていた。ベトナムの独立の父として尊敬されている「ホーチミン」だが、政府がそれを市の名前にしようとしても、公式文書以外ではなかなか定着しないのだ。

同様のことがインドでもある。ストリートの名前、地名が政府によって改称されても、それが本当に市民の間で定着するかどうかは別の話。

たとえばコールカーターを例に挙げてみても、今でも英語で言及する際には「カルカッタ」と呼ぶ人は少なくないが、混乱するのはストリートの名前だ。

コールカーターでは、ストリートの名前は同じ通りについてふたつあることが多いと思って良いだろう。なぜならば英国人に因んで付けられた名前はインドの偉人の名前に置き換えられて現地化が図られているし、そうでない場合でも変更されていることが多い。

訪問者にとって面倒なのは、政府関係機関が印刷した地図(観光局でくれる地図を含む)に記されたストリートの名前がまったく世の中に浸透しておらず、植民地時代の名前で広く知られていることが多いことだ。また新聞等メディアや出版社から出た刊行物でさえも市民が普段使っている通称(=植民地時代の名称)で記すことが多いからだ。

代表的な通りの名前でもChowringhee StreetをJawaharlal Nehru Roadなどと言ったら、「ん?」という顔をされるし、Park StreetのことをMother Teresa Saraniと言えば、一瞬間をおいて「もしかしてPark Streetのことかね」と言われるかもしれない。あるいは理解してくれない人もいるだろう。

「Ballygunge Road」をタクシー運転手にAshutosh Chowdhury Avenueと告げたら、彼は「どこだそりゃ?」となるだろう。サダルストリート界隈ではFree School StreetをMirza Galib Streetと呼べば、首をかしげて「Free Shool Streetと言う」と訂正されるだろう。KYD STREETに至ってはDr. M. Ishaque Steetなんて呼んだら完全にアウトだ。おそらく誰も理解してくれない。政府が勝手に変えた名称ではなく、「元々こういう名前なのだ」として人々が知っている名前が堂々とまかり通るのだ。これは企業や商店などの所在地の表記においても同様で、普段市民の皆さんがなれ親しんでいるほうの表記で書いてある。

そんな状況なので、政府の命名による不人気なほうの名称はいつまでたっても浸透しない。

政府関係の機関ならば、政府の命名したもので表記しているかと言えば、そうではないのは、たとえば地下鉄の駅出口の表記を見ればわかるだろう。「なんとかストリートはこちら」というような案内版は市民の間で通用しているほうで表記されている。そうでないと表示する意味がないからであろう。もちろん駅名も同様で、先述の「Park Street」の名前の付いたメトロの駅がある。コールカーターでは政府による改名を拒絶するかのように、古い名前が多く現役として使われているのだが、インド全土でそうというわけではなく、むしろ改名されたら、そちらのほうが次第に優勢となるケースが多いだろう。

だが不思議なのは、市民が「何が何でも昔ながらの名称」にこだわっているわけではなく、新しい名称のほうが通りが良いものもある。例えばBBD Bagh (旧称Dalhousie Squair) やChittaranjan Avenue (旧称Central Avenue)のような例もあるからだ。

旧名が英国の特定の人物の名前が冠されている場合、対抗するようにインドの偉人、とりわけ地域ゆかりの人物の名前を付ける場合が多いが、デリーのQueens WayがJan Path(人民路)となったように、独立後の民主主義インドを象徴するような改名もあった。

傑作はベトナム戦争時期に、当時ソビエトブロックにいたインドが示した北ベトナムへの連帯感だろう。コールカーターでは、アメリカ領事館が位置するHarrington StreetをHo Chi Minh Saraniに変更して、アメリカを激怒させた。当然、アメリカは強硬に抗議したようだが、「偶然による一致である」と涼しい顔であったと聞く。