没落貴族

素性は悪くないことは姿からして一目でわかる。
現状がひどいことも姿からして一目でわかる。
建てられた頃には、下町の雑居ビルではなかったはずだ。

「没落貴族」みたいな建物が山ほどあるのは、さすが植民地期の首都カルカッタ。画像は、サダルストリートと交わるフリースクールストリート沿いの建物。

かつては欧州人地区。やがてユダヤ人、アルメニア人地区へと姿を変え、インド独立あたりの時期になると赤線地帯へと転落。ベトナム戦争が始まると、帰休で戦地から離れた米兵たちはタイで束の間の自由を謳歌したが、その中のいくばくかはバンコクから飛んできて、このあたりにも出入りしていたという。

やがてヒッピーたちが往来するようになり、その後バックパッカー地区になった。新興のエリアにはない深み、味わいがあるのは、そうした歴史背景からだろう。界隈の両替商のオーナーたちにはアングロインディアンが多いとも聞く。もちろん店で客応対をしている人たちではないのだが。

「没落貴族」の趣があるのは、残された植民地期の建物だけではなく、エリア自体がそういう感じではある。もはや「貴族」というには、あまりに没落しすぎではあるのだが。

パラゴンホテル再訪

かつてバックパッカーにとって、カルカッタでの宿泊先といえば、このパラゴン・ホテルと小路の向かいにあるモダン・ロッジが人気の宿の双璧であった。

私はここからインド博物館のほうに少し歩いたところにあるサルベーション・アーミーのドミトリーのほうが少し安かったため、空きが出ればそちらに移るといった具合だった。サルベーションのほうはキャパシティが少なかったため、ベッドを押さえるためにはチェックアウト時間ちょうどあたりに訪ねる必要があった。記憶に間違いがなければ、サルベーション・アーミーは90年代半ばから長い間、ホステル業務を取りやめていたが、近年になって再開したようだ。現在ドミトリーはなく、中級の下くらいの料金の宿となっている。

1987年からチョーキーダール(守衛)をしているというバナーラス出身の白髪のムスリム男性は今もいるが、経営者が替わったときにスタッフの大半が辞めてしまい、バックパッカー宿時代から働いている人はほとんど残っていないとのことだ。

相変わらずボロボロだが、レセプションは確か昔からこんな感じだったし、黒い無骨な扇風機にもかすかに見覚えがある。文字がところどころ読めなくなっている注意書きも当時からそのままなのだろう。

広大な市街地を持つコールカーターで、なぜサダルストリートに外国人宿が多く集中していたのかといえば、この地域の歴史にその背景を求めることができる。手前ミソだが、以下の記事をご参照いただきたい。

「サダルストリート変遷」(indo.to)

「安宿街に歴史あり」(indo.to)

だが前述のとおり、近年はインド出入国において、国外からのフライトの都合上、カルカッタを通過しなくてはならない度合が低くなっているおり、宿泊予約サイトの隆盛により宿泊先の選定がガイドブックに依存する度合いが大きく下がったため、外国人が滞在する宿が分散するようになった。そのため旅行でコールカーターに滞在する人たちの間で、サダルストリートを利用する割合が相対的に低くなってきている。

その一方で、サダルストリートが立地するこのエリアから、バングラデシュのダッカその他の街からコールカーターを結ぶバスが多数発着するようになったため、主にバングラーターカーとインドルピーの交換を扱う両替屋、顧客の大半がバングラデシュ人という宿が新設されるようになっている。

こうした流れの中で、これまで欧米や日本などからやってくるパックパッカーたちが減ったことで困り果てていた既存の宿も彼らの取り込みに流れるようになるのは当然の流れだった。

今も西洋人等の姿は少なくないサダルストリートだが、もはや訪問客の主役はバングラデシュ人に取って代わられていることは間違いない。ただ、バングラデシュ人たちは見た感じはインド人、とりわけ西ベンガル州の人たちと変わらないので、いかにもおのぼりさんといった行動や怪しげなヒンディー語(サダルストリート界隈で働く人たちにはビハー州ルやウッタルプラデーシュ州といったいわゆる「ヒンディー・ベルト」からの出稼ぎ人が多く、ベンガル語が通じにくいことはよくあるようだ)で喋る様子などを観察しないと、外国人訪問者たちが彼らがインド人ではないことに気が付かないことが多いかもしれない。

パラゴン・ホテルは、もはやバックパッカー宿ではなくなっているが、実は同様のことがサダルストリート全体についても言えるようになっているようだ。

T.T. GUEST HOUSE

ホアランポーン駅

Charu Mueang Roadから右手の路地に入ったところ。
路地に入るところには「24時間営業の屋台」があった。
T. T. Guest House跡地。高架下の駐車スペースになっている。

かつて人気のあったバンコクのT.T.ゲストハウス。ホアランポーン駅まで来たので、なつかしの場所がどうなっているか見てみることにした。道路建設による立ち退きで移転してからも、けっこう繁盛しているようだが、そちらを利用したことはない。
ホアランポーン駅近くにあったので便利であったことはもちろんだが、1Fのレセプションがあるフロアーには、いつでも好きなだけ座っておしゃべりをしたり読書をしたりできる広くて清潔なスペースがあり、宿泊者同士の交流が大いに楽しめた。所望すれば飲物や食事を注文することも出来たのだが、何か注文しなくては、そこに居ることはできないというわけではなかった。あくまでも「ロビー」という扱いだった。
多くの宿泊客が利用するのは低廉な料金のドミトリーだったが、ベッドを無理やり押し込んだような具合ではなくスペースにも恵まれていた。共用のトイレ/シャワーについても、数はふんだんに取ってあり、繁忙期でも順番を待つようなこともなかった。もちろん個室も用意されており、予算に応じてチョイスが可能であった。しかも隅々までピカピカに清掃されていたので、文句の付けようもない。
規模の大きなYMCAやユースホステルのようなスケールと健全さだったのだが、家族経営のためフレンドリーでアットホームな雰囲気。
すぐ近くにあるチャイナタウンの楽宮旅社、ジュライ・ホテルとは予算面では重なるが、タイプの異なる旅行者が集っていた。(チャイナタウン派でも楽宮とジュライでは利用客が違っていた。)
古い記憶をたどって・・・というほどではなく、ホアランポーン駅からごく近く、ラーマ4世通りを東側に進んですぐの交差点でCharu Mueang Roadへ右折し、右手路地の中にあった。路地に入る手前には、24時間営業の屋台があった。おそらく夫婦で交代して切り盛りしているのだが、どちらも疲れて倒れそうな顔をして調理しているのが気の毒だったので記憶に残っている。
ホアランポーンの駅前エリアについては、かつては田舎から出てきた女性たちが地面にゴザを敷いて、思い切り身体に悪そうな着色した酒を飲ませていたが、もうそんな雰囲気はない。
小洒落たブティックホテル、洒落たカフェなども駅前に見られるが、駅前からラマ4世通りを少し東に進むとYoutubeで「1970年代のバンコク」で検索すると出てくる動画で見られるような崩れかけたような汚い食堂も実はまだポツポツと健在。そんなところで汁そばをすすったら、往時を思い切り偲ぶことができるだろう。

スリクルン・ホテル

クルンカセム運河からの眺め。右手の青い建物がスリクルン・ホテル。

橋の向こうにスリクルン・ホテル

ホアランポーン駅の側からクルンカセム運河を渡ったところにあるスリクルン・ホテル。
以前とカラーリングが変わったようだ。
ここのカフェで一休みすることにしよう。すぐ近所にスタバもあるが、ここの落ち着いた空気のほうがありがたい。
昔はちょっとアップマーケットなホテルだった。さすがに今は古びた感じがするものの、ピカピカに磨き上げられて清潔感があり、スタッフの人たちもキビキビしていて礼儀正しく、とても感じが良いのは変わらない。ホアランポーン駅目の前という都心にありながら、部屋の広さが40平米くらいあることも合わせると、朝食付きで1,100バーツくらい(2019年秋現在)というのは大変お得感がある。
時代の流れを感じさせるのは、このスリクルン・ホテルがインド発のOYOに加盟したことだ。OYO自体には好感が持てず、「潰れそうなボロ宿が最後にすがりつく先」というイメージがあったのだが、このスリクルン・ホテルの端正さ、清潔さ、折り目正しさは今も変わらないことに安心した。
中文名は「京華大旅社」。華人経営のホテルである。

エントランス

ロビーはこんな具合

レセプション周辺

ホテル内のカフェ。新しくはないがピカピカに磨き上げてある。

アイスクリームとコーヒーを注文した。