VIRASAT TRUST

ハザーリーバーグ周辺の村々は民俗画で知られており、私がここを訪れた目的もそれを見ることにある。どこにどういうものがあるのか皆目見当も付かない場所であることに加えて、その民俗画に関する知識やその背景についてもまったく知らないのため、民俗画見学の案内をこれらの保存と普及活動を長年展開しているVIRASAT FOUNDATIONに依頼することにした。

「トラスト(基金)」と言っても、当地在住のご夫妻が展開している活動で、いろいろ忙しい毎日のようだが、その中で時間を割いていただき、あちこちの村を見せていただいた。

彼らの住居兼仕事場を訪問して、敷地内にある「サンスクリティ(文化)博物館」と再現してある村の民家の様子を見せてもらった。壁にはちゃんと民俗画が描かれており、時々映画の撮影にも使われているとのことだ。これら復元家屋の様子だけでも相当興味深いので、翌日からの村巡りがとても楽しみになる。

 

墓場にあるチャーイ屋

グジャラート州アーメダーバードにある「ニューラッキーレストラン」というチャーイ(と軽食)の店。1949年創立の老舗。ムスリムの墓地でチャーイを出していたら(おそらく露店で)、どんどん商売が拡大していって、いつの間にか店が墓場をカバーすることになってしまったという変わり種。露天だったはずのこの場所は建物の中となり、墓と墓の間にいくつもの席が設置されているが、それでも当時からあったのであろう木がそのまま生えているというおおらかさ。きれいに手入れされた墓には花が供えられ金属のレーリングで保護されるなど、大切ニされていることが見て取れる。動画に出てくる男性のコメント、「ここは墓は墓だけれども、ちゃんと花を供えたり大切にしていて、もはや礼拝施設だ言ってみればダルガーみたいなものだ。」というコメントも良い。チャーイ屋の屋号もそうであるように、お客たちからも「縁起の良い場所」と認識されているのも面白い。このチャーイ屋をいつか訪れてみたい。

Game of Gujarat: Tea shop at graveyard (Zee News)

Ever Green Guest House

昔、デリーのパハールガンジの宿「ハニーゲストハウス」(後に「ウパパールゲストハウス」に改称)が日本人安旅行者の常宿だったころ、そこが満杯で断られると、向かったのは「エバーグリーンゲストハウス」だった。当時は旧称「バルビールゲストハウス」とも書いてあったように思う。たぶん主人が「バルビール・スィン」とかいう名前だったのだろう。

明朗会計のハニーゲストハウスと違って、エバーグリーンは同じドミのベッドでも、人によって料金を変えるので、宿泊前に「お兄さん、いくら払ってる?」と、宿泊客に確認する必要があった。このあたりを取り仕切っていたのは、眼光鋭い感じの宿のオバハン。たまたま彼女が外出中だと、立派な体格だけど気の弱そうな宿の主人が「ママに聞いてくれ。すぐに戻ってくるから待ってて。」と、建物2階の中庭のプラスチックの椅子に座って待たされるのであった。

中庭の周囲に部屋がある「ロの字型」配置は、南欧から中東を経て、南アジアにかけて共通する基本形。もともとはジョイントファミリーで暮らしていた家を宿に転用したのだろう。宿の主人もオバハンも当時はけっこう年配に見えたが、まだ幼い子供たちがいたので、そんな歳でもなかったのだろう。インド人の年齢はよくわからない。主人は日がな中庭でうだうだしている人で、よくオバハンから怒鳴られて小さくなっていた。オートリクシャーをしょゆうして貸しているとか聞いた記憶はあるが、たぶんこの宿が本業で、これを切り盛りするオバハンが事実上の大黒柱だったのだろう。

ここが日本人宿になった背景には、当時日本人旅行者が増えていたことに加えて、宿のオーナー家族自身のセキュリティを考えてのこともあったようだ。日本人旅行者は概ね問題を起こす人は少なかった。たまに宿代踏み倒して逃亡する者はいても、警察が踏み込んでくるような問題を起こす者は稀だった。特にあの頃はドラッグ関係のトラブルは日常茶飯事だった。

そんなこともあり、たまに西洋人宿泊客はあっても大半は日本人客であった。日本人がたくさん訪問していたこともあり、「安全で供給も豊富な投資先」であったのだ。

そんな彼らだが、あるとき界隈を訪問するナイジェリア人が増えた時期、彼らをまとめて宿泊させていたことがあった。長期滞在する者が多く、立ち去るときには次の者を連れてきてくれるなど、「隙間なく宿泊させることができる」ため、ありがたいと思ったようだ。

ナイジェリア人たちは、よくこの中庭で料理をしていて、私自身もナイジェリア料理のご相伴にあずかったこともある。

彼らの旅行先を尋ねると、なぜか「ムンバイ→ジャイプル→デリー→ムンバイ→デリー」と、都市部を往復していたり、回遊魚のように、主要都市を回っていたりと、妙な返事が返ってきたが、まあフレンドリーで楽しい奴らだと、そのときは思っていた。

それが暗転したのは1990年か1991年だったか。

まだ寒い時期に私はデリーからラダックを空路で訪問して、デリーに戻ると先述のハニーゲストハウスに空きがあったので投宿。ここで耳にしたのは、エバーグリーンの受難であった。私がデリーを離れていたときに、宿泊していたナイジェリア人たちのところを警察が急襲したとのこと。かなり前から内偵が付いてくるいて、彼らの動向は当局に筒抜けだったらしい。警官隊のあとにはテレビクルーもついてきて撮影していたと、ハニーのドミで会った「その時宿泊していた」という旅行者が言っていた。「ポリスが部屋の中からたくさんの金属パイプが持ち出して、テレビカメラの前で糸鋸で切ったら、中からドラッグらしき粉末が出てきて・・・」というような話だった。

こんな事件の舞台になったので、オーナー家族はとても困ったに違いない。警察や当局からもいろんな嫌がらせなどもあったかもしれない。その後もハニーが満室の際にはエバーグリーンを利用することもあったが、この件ですっかり懲りてか、顕著に「日本人回帰」していた。やはり「安全第一」というオバハンの判断があったのだろう。

ちょっとローカルコールで電話借りたり、宿でミネラルウォーターなどを頼むと、ちょっと法外な値を言ったりするなど、がめつい印象はあり、人柄もあんまり良いとは言えないオバハンであったが、話好きで率直にいろいろ物を言うし、世話好きでいろいろ面倒をみてやろうとする(そして小銭をせしめようとする)人だったので、まあ憎めない存在ではあった。

何年か前に界隈を歩いていたら、この宿がまだあることに気がついた。もちろん今は宿泊しないが、下階には小さな旅行代理店のようなものもあった。弱気な主人と強気なおかみさんの顔が目に浮かんだ。もうとっくに亡くなっているだろうなぁ、と思ったが、ふと思い出して検索してみると、HPが出てきた。代替わりして息子さんが経営しているのだろう。画像には、あのオバハンらしき老婆の姿もある。今も元気にしているらしい。

この息子さん、日本で何年か生活したことがあるとか、日本語ができるとか書いてあり、HPも日本語で書いてある。代を継いでもオバハンの決断した「日本人路線」は引き継がれているようだ。まあ、近年は日本人旅行者、若い安旅行者も減っているし、今はコロナでそれもなくなったし、大変である。近くのハニーゲストハウスはとうの昔にバングラデシュ人宿に変わってしまっている。だいたいそうしたドン底クラスの宿を利用するバックパッカーはいまどきあんまりいないのだろう。

こんなことを考えていると、いろいろ細かなことを思い出してきた。北東角部屋のドミの電気スイッチが曲者で、素手で触ると感電することがあった。一度私もビリッとやられたことがあり、一瞬気が遠くなるとともに、心臓がバクバクと経験のないほど強く打って恐ろしくなった。翌朝、これではかなわんと、オバハンに部屋の変更を頼むと「あちらの部屋は☓☓ルピー」と、それよりも高いことを言い出すのであった。

うーん、あんまり良い記憶はないのだが、あれでこれほど長続きしているのは大したものだ。

Ever Green Guest House

インドの偉大さ

先日ミャンマーで発生したクーデター。せっかく民主化してから10年経つというのに、時計の針を一気に戻してしまうような、せっかく軌道に乗って明るい将来を描こうとしていた経済が、これからどうなるのだろうか。ミャンマーからのニュースを目にして、耳にして、ふと思うのは、年中ゴタゴタが絶えない割には、揺るぐことのないインドの安定ぶりである。隣国パキスタンやバングラデシュでは、クーデターあり、政変ありで、目まぐるしいことが多いのだが、インドは時の政権が不人気で政局が流動的になることはあっても、国の根幹が揺らぐことはない。

いや、例外はあった。インディラーの時代に強権が独走した「非常事態権限」のころである。あのときは在野の政党や指導者たちと民衆が力を合わせてインディラーの独裁に抵抗した。決して長くはなかったが、そんな時期はあった。当時、軍の一部では不穏な動きもあったとのことで、もしかしから?という可能性はあったのかもしれない。

また、隣国との係争地帯を抱えるカシミール、同様に中国その他からの干渉がある「動揺地域」である北東部のいくつかの州は、そうした周辺国と連動性のある分離活動のため、本来ならば国境の外に向いているべきインド軍の銃砲が、地元市民にも向けられる状態であったため、「インドの民主主義の外」にあった。いや、「あった」という過去形ではなく、地域によっても今もその状態は継続している。そんな地域では、警察組織ではない軍隊に市民を尋問したり拘束したりする権限が与えられていて、さまざまな人権問題も発生しているのだ。

だが、そうした地域は例外的なもので、やはりインドといえば、独立以来ずっと今にいたるまで非常に民主主義的な国だ。

90年代以降のめざましい発展が言われるインドだが、まだまだとても貧しい国だ。日本、ドイツに次いで世界第5位のGDPの経済大国とはいっても、13億を軽く超過する、日本の10倍もの人口を持つがゆえのことで、一人当たりのGDPにならすと、わずか2038ドル。9580ドルの中国はインドの4.7倍だ。もう比較にもならない貧しい国である。

そして文字を読み書きできない人々は総人口中の23%。ひどい州になると33%にも及ぶ。今、西暦2021年なのに・・・である。そんな貧しい人の票もミドルクラスの裕福な人たちの票も等しく一票。投票所の投票マシーンには、政党のシンボルマークが描かれており、文字が読めない人でもそれを頼りに票を投じる。中央の選挙でも地方の選挙でも、ときどき不正があったのどうのという話は出るが、どんな不満があっても居座ったり、クーデターを画策するようなこともなく、敗者は退場していく。落選した議員、失職した大臣などが、政府から与えられた官舎から落選後もなかなか出ていかないというトラブルはあるようだが、公職に力ずくでしがみつこうとするような話はまずない。そのあたりは実にきっちりしている。さすがはインド。

スーチーさんは母親のキン・チーさんがインド大使であったため10代の一時期をデリーで過ごしており、現地で学校にも通っていた。当時首相であったネルーとも家族ぐるみの親交を持ち、24 AKBAR ROADにあった屋敷がキン・チーさんの大使時代に与えられていた。青春時代にインドの首都で「デモクラシー」の薫陶を受けたスーチーさんにとって、「民主主義インド」は彼女の理想かどうかは知らないが、ひとつの重要なモデルであるとされる。

それにしても、ネルーからこの24 AKBAR ROADの屋敷を使わせてもらっていたというのは大変なことだ。現在の国民会議派の総本部があるのが、まさにその場所なのだ。そのような重要なところに住まわせてもらっていたのが現在のスーチーさんを含めたキン・チーさん家族。インドと、そして初代首相のネルーと、実にゆかりの深い人だ。それだけに、今の時代になってもミャンマーでこのようなことが起きて、自宅軟禁となっているのは、なんとも皮肉なことである。

同時に、常々いろいろな問題や不正に満ちていながらも、「総体としてはしっかり」しており、「根幹は良識と法で守られている」インドに対して、いつもながら畏敬の念を抱かずにはいられない。「JAI HIND !(インド万歳)」という言葉が自然と口に出る外国人は、実に多いのである。

For Japan, Myanmar coup brings fears of threat to business, political ties (The Mainichi)

「アーリア人の谷」の気になる噂

ラダックのブロクパの人たちの地域、俗に「アーリア人の谷」とも呼ばれるところだが、そこにはチベット文化と仏教を受容したアーリア人たちが暮らしている。

「アレキサンダーの東征の末裔」という説もあるが、中央アジアのフェルガナ盆地に端を発するアーリア人たちの幾多の集団が、現在の欧州、イラン、南アジア等へと移動していく中である集団は定着し、またある集団はさらに先へと移動していった。こうした集団の中の小さなグループがたまたまこの地に定住して、現在に至っているのだろう。周囲はモンゴロイド系の人たちの地域ながらも急峻な山岳に遮られているエリアだけに、そのままコミュニティが残されたのだろうか。

そんな珍しい地域で嫌な噂が流れているのに気が付いたのは近年。「妊娠ツーリズム」というものがあるのだというのだ。「純粋なアーリア人の遺伝子を求めて子供を授かることを目的でやってくる欧米人女性がいる」という話である。

当初は根も葉もない与太話だと思っていたのだが、India Today傘下のニュース番組でも取り上げているところから、実際にそういう例はあったようにも思える。ナチスの優生思想ではあるまいし、「純粋なアリアン」が何だというのだろうか。アーリア人の血とは、それ以外の人たちにくらべて、そんなに尊いもののなか。

それとは別に「現地男性が女性旅行者に買われる」という倫理的な問題がある。言うまでもなく「女性が男性旅行者に買われる」というケースは世界中で多く、これも同様に倫理的に問題なのであり、「アーリア人の谷」でのこの件がそれらより大きな問題というわけではないのだが、こんな小さなコミュニティのもとで、そんなとんでもない「ツーリズム」が振興したとしたら、本当に大変な話だ。

それはそうと、この地に暮らす「アーリア人仏教徒」というのは、たしかにちょっとミステリアスな存在ではある。しかし「純粋なアーリア人」という意味では、チベット文化を受容しており、チベット仏教徒となっている人たちが多いことなどから、「純血種」というわけでもないように思う。灰色や緑色の瞳の人たちは多いが、総じて小柄で肌色は赤みがかって(これは日焼けか・・・)おり、風貌も先祖のどこかにモンゴロイドの面影を感じさせる村人も少なくないのである。長い歴史の中でどこかで他のコミュニティとの交流があり、混血が繰り返された過去があると考えるのが自然だろう。

まあ、いろいろ頭に浮かぶことはあるのだが、地域起こしに観光というものは手っ取り早く収益を上げることができ、放っておけば失われてしまう地元の文化を「観光資源」として守り育てていく効果もあるのだが、方向性を誤ると地元の文化やコミュニティをひどく傷つける、地域の評判を著しく落とすたいへん不健康なものとなりかねない。

このような「ツーリズム」は、ごく一部の非常に稀な事例に尾ひれがついて広まった「都市伝説」みたいなものではないかと個人的には思いたいのだが、とりあえずは今後の進展に注目していくしかない。

Pregnancy tourism in India (INDIA TODAY)