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カテゴリー: politics

  • トランプ、宣教師と原理主義過激派

    トランプ氏に関するこの報道を見て思い出した人物かある。アメリカのある「キリスト者」のことだ。

    この人は米国の福音派の若い宣教師で、インドのアンダマン諸島の中にある北センティネル島で布教しようと上陸を試み、島民たちに弓矢で殺害された。この島に住んでいるのは、世界で最も孤立した民族とされるセンティネル族で、外界との接触一切を拒んでいる。

    この宣教師は北センティネル島を「サタンの最後の砦」と認識し、ひとたび踏み込めば島民たちに殺害される可能性が高いことも理解していたという。一度上陸に失敗したが再度試みて成功。まもなく島民たちに殺害された。

    宣教師を殺害したインド孤立部族、侵入者拒む歴史(NATIONAL GEOGRAPHIC)

    それでも「未開の野蛮部族に神の言葉を伝えること」を崇高な使命であると考え、「殉教者となる」ことを厭わず、信じる「キリスト者として正しい行為」のために喜んで自らの命を差し出す、そんな青年であったのだという。

    福音派であること、キリスト教宣教師であることはさておき、自身の価値観がユニバーサルな真実であると考え、相手や第三者にはそれぞれ異なる信条、倫理観、行動原理があることを受け入れず「俺は正しいことをしている。これに同調しないヤツが悪い」とする点で、トランプそっくりであり、周囲から反対されたり妨害を受けたりしつつも邁進していく「ハリウッド映画に描かれる孤高のアメリカンヒーロー」のイメージそのものである。そしてトランプの理想とは彼自身が唱える「MAGA」の実現、その「偉大な米国を頂点とする平和秩序」なのだ。

    ゆえに自身が勝手に戦争を始めてしまったにもかかわらず、予想外にイランが強く、そして戦略的も巧みなことから手詰まりになってくると、「正義を実現しようとしているアメリカに協力するのは当然。知らん顔するNATO加盟諸国はけしからん。それにホルムズ海峡を通過する原油にべったり依存している日本、韓国その他はアメリカが守ってきた平和にタダ乗りしてやがる!」とくるわけだ。

    日本など同盟国の「支援は不要」、ホルムズ対応でトランプ氏不満あらわ(Bloomberg)

    こういう姿勢は、イスラーム原理主義過激派も同様で、各地でのテロ行為、そのための組織造りとリクルートなども、たとえそれにより多数の死者が出たり、多くの人々が不孝になっても崇高な理想を実現するためには少なからず犠牲が出るのは当然のこととし、神の理想を実現する正しい行為であると考えており、同調しないイスラーム教徒は不信心者だとする。つまりイデオロギーこそ違えども、思考の根本の部分からしてトランプや件の宣教師と同類なのだ。

    蛇足となるが、イランはトランプの言うようなテロ国家ではない。シーア派の聖職者たちが政府の上に立つ形にはなっているものの、体制としては社会主義的な運営がなされており、シリア、イラクに権力の真空ができていた時期に勢力を拡大した「イスラーム国」のような暴力集団などではない。

    米国の言う「テロの輸出」とは、イランによるパレスチナのハマス、レバノンのヒズボラといった「イスラエルなる国」と敵対する組織、イエメンのフーシ、アサド政権時代のシリア政府などで、反サウジアラビアの組織と連携のことだ。

    欧米その他で何か事件を起こしたわけではないし、そうする動機すらない。政権上部が奇妙ではあるものの、親日的で、自由と平和を愛する世俗な人々が暮らす普通の国である。

  • 地雷博物館

    地雷博物館

    地雷博物館を運営しており、地雷除去の団体を率いているアキ・ラさんの話が大変興味深かった。5歳のときに両親がポル・ポト派に殺害されて孤児に。ポル・ポト派のもとで成長していくわけだが、やがて少年兵として各地を転戦。彼は「私は元クメール・ルージュの兵士でした」とおおっぴらに話す。普通はそのような過去は隠しているものらしいが、この人はバンバンしゃべる。ちょうど西洋人のツアーグループが来ていて、その中に混じって彼の話を聞いたのだが、私はぐいぐい引き込まれていった。

    行く先々で地雷を敷設したり、戦闘で人を殺害したり、味方が落命したりという大変な思春期を過ごしたという。それでも少年だったその頃は、一般の市民よりも上の立場であることに誇りを感じ、夜には兵士仲間たちと食べて踊って、余興のひとつのように銃を夕暮れ空に撃ったりするのも楽しかったという。

    そして「当時の兵士生活は楽しかった。市民よりも上の立場にある優越した存在であったから」とか、「クメール・ルージュの兵士として首に巻く赤いスカーフは誇らしかった」と、ギョッとすることまで言うだけではなく、「戦闘で相手をたくさん殺した」ことまで口にする。彼は少年兵としてポル・ポトの軍隊に放り込まれ以外に生きていく選択肢はなかったし、当時は洗脳されていたであろうから、当時はそのような心境であったのは自然なことであったのかもしれない。

    そんな彼に転機が訪れたのはベトナム軍との戦闘。味方が散り散りになり、彼は沼に身を沈めて戦闘が止むのを待ち、水から上がってしばらく歩くと、ベトナム兵に捕まり、一緒にいた仲間たちはその場で射殺された。アキ・ラさんはその中でとびきり若かったためか、情けをかけてもらい命拾いしたとのこと。

    その後は、持ち前のフレンドリーさとマメさでベトナム兵士たちの心を掴み、食料調達で銃によりゾウを倒したところ、ベトナムの部隊に大変喜ばれ、兵士として登用されたのだという。その結果、つい先日のまでは味方だったポル・ポトの軍隊に銃を向ける立場となったが、「こればかりはどうしようもなかった。選択の余地なし」とのこと。それが戦争というものの残酷さと虚しさなのかもしれない。

    「ついこの間まで私が所ほ属していた軍と戦い『元味方の兵士』を殺害することについては何の躊躇もなかった」と言う。投降した兵士ということもあり、戦闘が始まると常に最前線に送り込まれていたとのこと。まさに「捨て駒」の立場だが、相手が誰であろうと、とにかく戦って死なずに生き延びなければ現在の彼はなかったわけだ。

    平和な時代がやってきて、除隊して故郷に帰ると、村や周囲には地雷により足などを失う人たちが絶えず、かつて敷設していた自身を後悔するとともに、「敷設のプロ」から「除去のプロ」に転じ、国際機関等での専門家としての勤務を経て、自身の団体を立ち上げて現在に至る。とにかく明るくてエネルギーに満ちた感じの人なので、そんな暗い過去があったというのはにわかに信じ難い。

    本日、彼の団体はシェムレアプ近郊とタイ国境で除去活動をしているとのこと。こういう人たちの地道な活動があと100年続けば、これまでに敷設された地雷はほぼ無くなるというから、気の遠くなるような話だ。

    ※この人を題材にしたマンガがある。書名等は以下のとおり。

    タイトル:密林少年-Jungle Boy 1&2

    著者:深谷陽

    出版社:集英社

  • ネアク・ポアン寺院

    ネアク・ポアン寺院

    ネアク・ボアンは、東バライの中の島にある珍しい水上寺院。アンコール遺跡で面白いのは、建築のデザインや意匠は統一されているのだが、それぞれの寺院に異なるレイアウトがなされていたり、高台にあるノッポな建物の寺院ものもあれば平地で平べったく広がるものもある。千差万別で面白いのだが、こちらのような島の中の島になっているようなものは、おそらく唯一無二。

    前回訪れた1992年当時、ここには行くことが出来なかっはず。ちゃんとした道路がなかったし、バライの中の島へ渡る橋などもなかった。今でこそ日本と変わらないスムースな路面を全速力で駆け抜けることができるが、当時はガタピシの道路をこれまたオンボロの昔の中国自転車でここまで来るのは相当キツかったはず。

    そしてここまで来ると治安的に危険でもあった。シエムレアップ郊外にはまだクメール・ルージュの兵士たちが出没していたし、警備に当たっている政府軍兵士から旅行者がカツアゲされたという話もよく耳にした。遺跡自体の敷地内でも地雷撤去がまだであった。

    当時はアンコールワット周辺でさえも、道路と遺跡の石組みの上以外の地面には降りるなと言われていたし、事故防止のためにドクロマークの「地雷あります」という標識がそこここにあった。観光客が多い主要な遺跡でこそ、そのような標識があったわけで、それ以外は一体どこに何が埋まっているのかは神のみぞ知るであった。

    当時はとにかくカンボジアに行ける、アンコール遺跡に行けるというだけで、バックパッカーたちにとっては新鮮なフロンティアであったわけだけれども、今みたいに快適に楽しく見物できるようなる時代がやってくるというのはまだ想像も出来なかった。

  • 機関車の前に無蓋貨車

    ふと思い出したが、前回カンボジアを旅行したとき、今となっては大昔の1992年だったのだが、カンボジア国鉄は客車を牽引する機関車の前に無蓋貨車を付けて走らせていた。ちょうど以下リンク先の写真がまさにその頃の鉄道の様子だ。

    Cambodian Refugees Return Home (UN Photo 1 June 1992)

    今では考えられないことだが、当時はまだ活動していたクメールルージュにより線路上に置かれた爆発物で、機関車が修理不可能なダメージを受けることを避けるためというもの。そんな具合で走っていたのだから、実際にそういう攻撃が時々あったのだろう。

    もちろん無蓋貨車は客車ではないため、それ用の乗車券などありはしない。さりとて当時のカンボジアはたいへん貧しく、移動するために敢えて機関車の前の無蓋貨車に乗る人たちがいた。事実上、タダだったからだ。

    「無料」ということでバックパッカーたちの利用も少なくなかったらしい。運が悪ければ爆発で吹っ飛ぶかもしれないし、そこまで運が悪くなくても、雨で荷物ごとびしょ濡れになることは多々ありそうだった。

    もうすっかり忘れていたことが、カンボジア再訪により頭の片隅から蘇ってきた。

  • インドの国歌、国民歌、愛国歌

    インドの国歌、国民歌、愛国歌

    Vande Mataramを巡るインド政界の動きを見ていると、おそらく「インド国歌」は遠からずジャナガナマナからヴァンデー・マータラムに変更されるのではないかと思う。おそらく中央政権もそのつもりで動いているのではなかろうか。

    インドにおいて前者はNational Anthem(国歌)として、後者はNational Song(国民歌)として認識されている。学校で朝歌うのもスポーツの試合の前で歌うのも、映画館で上映前に流れるのも前者だ。

    JANA GANA MANA (Youtube)

    ジャナガナマナは政治色はない。ご存知のとおりラビンドラナート・タゴールの1911年の作品。また世界にあまたある多民族国家において、マジョリティーのものではない言葉で歌われる国歌というのはかなり珍しいだろう。ベンガル語の歌詞である。Sanskritized Bengaliと呼ばれるサンスクリット語彙を多用したもの。
    しかしインド国歌として制定されるのに先んじて、独立前にチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が「国歌」として定めている。
    こちらの歌詞はヒンディー語で、「シュブ・スク・チェーン(Shubh Sukh Chain) 」として知られる。マレー半島からタイ、そしてミャンマーを経てインパールへと至る従軍の中で歌われていたのだろう。

    Shubh Sukh Chain (Youtube)

    1870年代にバンキム・チャンドラ・チャタルジーが創ったヴァンデー・マータラムも同じくSanskritized Bengaliで歌われる。ただこちらには宗教色があるため、敬遠するムスリムその他の人たちは少なくない。こちらが国歌になるとすると、インドの国是のはずの世俗性が大きく後退する感じだ。

    Vande Mataram (Youtube)

    またインドには「愛国歌」として知られる歌もある。
    1904年にムハンマド・イクバルが発表したウルドゥー語のサーレー・ジャハーン・セー・アッチャーだ。

    Sare Jahan Se Acchha (Youtube)

    独立記念日の式典や軍関係のイベントなどでもよく演奏されるお馴染みの曲。愛国軍事ものの映画でも挿入歌として出てくる。
    国歌、国民歌、愛国歌といろいろあるのがインドである。いずれも素敵な曲だ。

  • プノムバケン

    プノムバケン

    1992年、私がこのアンコール遺跡を訪れていた時期にフランス人の女の子が地雷を踏んで亡くなっていた。急遽ご両親が駆けつけてきていてニュースになっていた。

    彼女が不運にも落命してしまうことになってしまったのが、このプノムバケン。

    クメール語で「中央の山」を意味するというプノムバケンだが、ここから広大なアンコール遺跡が広がるエリアを見下ろすことができる。ここから眺めるアンコールワットやアンコールトムの景観を期待して登ったと聞いていた。

    今でも本来の参道は埋設された地雷の危険から立ち入り禁止となっている。道路からすぐ見えるここから登ろうとしたのではないかと私は思う。見るからに登りやすそうな、駆け上がってみたくなる斜面だ。

    立ち入り禁止となっている本来の参道。

    当時は今よりもはるかに埋設された地雷がたくさん残っており、「舗装路以外は歩くな」「小便、糞垂れるのに茂みに行くな」などと言われていたが、静まり返った木立の中の平和な眺めの中、どうしても小山の上からの景色を一目見たくて歩いて行ったのだろう。

    危険と言われつつも、プノムバケンに登る人たちはいたようなので、「私も大丈夫だろう」という思いがあったのかもしれない。実際に登った人から「いい眺めだったよ」と話を聞いていたかもしれない。

    小山の上の寺院からの景色はとても良かった。彼女はこの景色を目にした下りで亡くなってしまったのか、それとも下から登る最中で不幸にも地雷を踏んでしまったのかはわからない。

    当時、彼女と同世代だった私は、そんなことを考えながらプノムバケンのてっぺんからのアンコールワットの遠景を眺めつつ、静かに手を合わせた。

    眼下のジャングルの中に見えるアンコールワットの遺跡
  • 印・バ関係の今後

    当分の間はインドとの良い関係は期待できないバングラデシュ。前政権下でシェイク・ハスィーナーの存在はインドにとってとても好都合なものであったが、亡命を受け入れたことでこれが大きな重荷に。

    またバングラデシュにおけるヒンドゥー教徒への攻撃が大きく報道されるなど、インド側にとっても国民感情的な側面からもバングラデシュに厳しく対応せずにはいられない。

    先日はデリーでバングラデシュの高等弁務官がインド政府に呼び出されて同国内における治安悪化等に関する懸念について懸念を伝えられていたが、まさにこうなることへの心配があったのだろう。

     

    ちなみにインドとバングラデシュが相互に置いているのは大使館ではなく高等弁務官事務所。ともに英連邦の加盟国であるためだ。そのため大使に相当するのが高等弁務官となる。

    来年2月に総選挙が予定されているが、こうした騒擾はしばらく続くのだろうか。無事に国民の審判を得て、安定した政権が樹立することを願いたいが、今回の選挙には、BNP(バングラデシュ民族主義党)と並ぶ2大政党のひとつ、アワミリーグは暫定政権から政治活動を禁止されているため参加できない。

    そのため同国内では新政権樹立後もいろいろ起きそうだが、親インドのアワミリーグを追い出してのBNP政権スタートとなると、インドにとって扱いにくい隣国政権となることは必至だ。

    Overnight unrest in Bangladesh : Anti India protests erupt how events unfolded after Sharit Osman Hadi’s death (Time of India)

  • 虐殺ガート

    虐殺ガート

    ここは1857年の大反乱の有名な舞台のひとつであるサッティー・チャウラー・ガート(通称「虐殺ガート」)。

    1857年6月27日、ここで女性や子供たちを含む300人もの英国人たちが凶暴な反乱軍兵士やそれに乗じて暴れたゴロツキたちに殺害されている。

    現在はほとりに寺院が建ち、静かな沐浴場所となっている。

  • ラールー・ヤーダヴが長男を勘当 

    RJDのラールー・ヤーダヴが長男のテージ・プラタープを勘当という驚きのニュース。

    ビハール州で長くチーフミニスターを務め、国政でも鉄道大臣の要職を担ったことがある大物政治家ラールー・ヤーダヴが長男を不倫のかどで勘当、党からも追放とのことで大きなニュースになっている。不倫相手とは12年間に渡る交際を続けているという。

    テージ・プラタープは8年ほどまでにアイシュワリヤ・ラーイ(たまたま有名女優と同じ名前)と結婚している。父親ラールーによる政略結婚であったようだ。

    早くから不仲が伝えられており、夫婦間のギクシャクした様子は、遠く離れた日本でも知られていたほど(少なくとも私はメディアで目にしていた)なのだが、このたびテージ・プラタープ自身のSNSに不倫相手とのラブラブな様子が投稿され広く話題になったところで、ついに父親ラールーの堪忍袋の緒が切れたという具合らしい。

    しかしインド政界で不倫等の話はいくらでもあり、それが原因で身内から関係を切られるという例は聞いたことがないため、真相を巡り話題になっているようだ。

    RJDに限らず、政党そのものが党首と一族の家業のようになっているものはたくさんある。身内で対立するケースやそれが原因で党が分裂するようなことはしばしばあるのだが、いずれも党のリーダーシップを巡る権力闘争の結果だ。私生活上の倫理を原因とするものは私も記憶にない。

    ラールーには9人の子(2男7女)があり、このうち長男のテージ・プラタープ、弟で末っ子の元プロクリケット選手のテージスウィー、娘のミーサーが国会議員、テージ・プラタープとテージスウィーはビハール州のヴィダーンサバー(州議会)議員を務めている。
    父親ラールーのもとで仲の良い大家族というイメージがあっただけに、今回の勘当騒動にはとても驚いた次第。

    ラールーは若いころの学生運動から政界入りした叩き上げの人物。汚職で有名な政治家だが、JDのニーティーシュと肩を並べるビハール州の大ボスの中の大ボスで、個人的にはとても興味のある人物。

    Lalu expels son Tej Pratap from party, family: ‘His conduct not in accordance with our family values, traditions’ (The Indian EXPRESS)

  • 「あの制服の美女は誰だ?」日印の男性共通の関心ごとについて

    「あの制服の美女は誰だ?」日印の男性共通の関心ごとについて

    オペレーション・スィンドゥール」に関するブリーフィングで出ていた「謎の美人陸軍幹部」については「おぉ!凛々しくてカッコいい!これはまるで映画のようだ!」と個人的に気になっていたのだが、ヴィクラム・ミスリ外務事務次官とともに出ていた陸軍のソーフィヤー・クレーシー大佐と空軍のヴォーミカー・スィン中佐について、「彼女たちは誰?」的な解説動画。

    世の中の男性たちの関心は、インドも日本もおんなじであることがよくわかる。

    それにしても陸空両軍からブリーフィングで女性幹部を出させるというのは、おそらく偶然ではなく、これもまた「女性の活躍」に力を入れるモーディー政権による意図が汲まれているものなのだろう。

    同時にこうした場面で女性を登用することにより、「オペレーション・スィンドゥール」という軍の作戦としては非常に変わった名前との調和も取れている点からも興味深い。このあたりの「メディア映え」についても、やはりモーディー政権は計算済みのはず。日本からも注目しているほどなので。

    またパキスタンへの攻撃のブリーフィングにて、ムスリムの軍幹部を登用することについて、戦争機運の高まる中で、国内世論が自国内で「ムスリム=親パキスタン勢力」と向かうことのないようにという配慮もあるのかもしれない。「クレーシー」という姓自体が亜大陸のムスリムの大半を構成するヒンドゥーからの改宗者ではなく、先祖がアラビアからの移住者である「ムスリムの中のムスリム」であることを示唆する。通常、ムスリムに姓はないのだが、特に家系に何か謂れのあるものがある場合はこの限りではない。

    「クレーシー」とは、預言者モハンマドを生んだアラビアのクライシュ族のことで、クレーシー姓を名乗る人たちは、自身の出自がこのクライシュ族であるとしている。もちろんクレーシー姓を名乗る人たちはパキスタンにもいるのだが、インド陸軍からクライシュ族の血を引くとされる軍人がこのように登場することにより、国内に「ムスリムとの戦いではなく、世俗国家インドによる隣国のテロ組織への攻撃なのである」とアピールする意図があると思われる。

    また外務事務次官のヴィクラム・ミスリについては、彼自身がカシミーリー・パンディトであることは偶然とはいえ、何か運命的な巡り合わせを感じる。

    「パンディト」はブラーフマンを示唆するが、カシミーリーのヒンドゥーを総称してそう呼ぶ。これはカシミーリーヒンドゥーたちが歴史の中でムスリムへの改宗が進んだ結果、現在はブラーフマン以外のヒンドゥー教徒はほとんど残っておらず、「ヒンドゥー=ブラーフマン」という、インドの他地域には見られない特殊な状況になっているためだ。

    Who is Col. Sophia Qureshi? The Brave Officer Who Led Operation Sindoor | Indian Army

  • クスルー・バーグ

    クスルー・バーグ

    ここには4つのムガル時代の墓廟があり、とりわけ重要なものはクスルー・ミルザーの墓廟。ジャハーンギール後の皇帝となっていたかもしれなかった人物だ。

    ただしジャハーンギールの長男であった彼は、父親からの皇帝位簒奪に失敗し、幽閉後殺害される。殺害を命じたのは、ジャハーンギールの3番目息子シャージャハーン帝である。もちろんクスルーが皇帝位を奪うことに成功していたならば、有力なライバルであったシャージャハーンは除去されていたはず。

    この時代の王宮内では代替わりの際のサバイバルケームは凄まじい。皇帝位継承にまったく興味を示さず、あるいはボンクラとの評得て、最初から脱落してしまうのでなければ、生きるか死ぬかの大一番である。もちろん自らの意思でレースから退場することはなかなかできなかったことだろう。自分を産んだ母親やその親族、様々な利害関係者がなんとかして勝ち馬に乗ろうと虎視眈々であったからだ。自身の意思がどうのこうのという前に様々なものがお膳立てされて、にっちもさっちもいかない、そんな状況が展開していたことだろう。

    そんな状態でのレースの中で失敗して非業の死を遂げたひとりがこのクスルー自身であったのだ。当時の最高権力者の家に生まれる、というのはたいへん恐ろしい。

  • アーナンド・バワン③

    アーナンド・バワン③

    やがて大きな転換期が訪れる。政治家としてのインディラーの跡取りと目されていたサンジャイが趣味の自家用機の墜落事故により急死。ラージーヴは「弟の代わり」に国民会議派でのキャリアをスタートさせることになる。

    続いて1984年にインディラーがアムリトサルの黄金寺院占拠事件への対応として強硬手段の決行(Operation Blue Star」を命じたことから、首相公邸で勤務していた二人のスィク教徒護衛が彼女を射殺したのだ。パンジャーブでの騒乱ついては、混乱を起こしているのはパキスタンから支援を受けたスィク教徒過激派であったが、これに対して取締り、捜索、逮捕、尋問といった対応をしていたパンジャーブ警察も同様に主にスィク教徒を中心に構成されていたここと、同様に事が深刻となってからは軍も対応していたが、ここでもスィク教徒たちが重要なポジションを占めていたことから、「反スィク」の動きはなかった。だがここで、首相直々の護衛が敵方と通じていたことで、一気に反スィク暴動が発生することとなった。(それにしてもよくもまあ、首相の身近な人間をオルグできたものである。)

    インディラーの死により、それまでは幹部候補生見習いのような立場であったラージーヴがインディラー亡き後の後継者として担ぎ出されておおかたの予想どおり、政治家としての能力は芳しくなく、政局が流動化していく。インディラーの死から7年後の1991年、ラージーヴは選挙戦の遊説先のタミルナードゥでLTTEの活動家女性による自爆テロで死亡してしまう。彼の首相在任時代にスリランカ内戦に干渉したことに対するLTTEによる「お礼参り」であった。政治に関わるとロクなことがないという、結婚前のソーニアーの予感が見事に的中したのであった。義母と夫を7年間の間に相次いで暗殺により奪われてしまったからだ。

    その後、長らくソーニアーは政界入りを固辞し続けていたが、ついに追い込まれて受諾することとなったのが1999年。当初は「一応ガーンディー家というお飾り」と目されていたのだが、かつては「ちょっとおバカなお嬢さん」と評された彼女が並み居る幹部たちを掌握し、政権奪取後には首相職は固辞しつつもマンモモーハン・スィンというイエスマンを首相に付けて、常に背後に付き添い小声で指示するという「操り人形師」のような形で「実質の首相」としてインド中央政界を二期に渡って支配するまでになった。

    そんなネルー/ガーンディー家の政治家としての草創期の記憶がたっぷりと保存されているこの屋敷を見学するのはたいへん興味深いことであった。たしか1988年からその翌年あたりに訪問していたはずなのだが、当時はそんなことに興味がなかったからかもしれないし、展示内容も異なっていたのかもしれない。今回訪問してみて良かったと思う。

    アーナンド・バワンに展示されていたジャワーハルラール・ネルーが娘インディラーの結婚にあたり、招待者たちのために書いたという手紙。同じ内容でヒンディーとウルドゥーで書かれている。時期はインド独立前の1942年。近年改名される前までは「アラーハーバード(もしくはイラーハーバード)」と呼ばれていたこの街だけでなく、ヒンディーとウルドゥーはともに広く使われており、宗教を問わず書き言葉としてのウルドゥーは、知識層にとって当然の教養であったため、ヒンドゥーのネヘルーがウルドゥーで手紙をしたためても何の不思議もなかった。

    もちろんそんなことはインドの人たちはよく知っているものの、私がこの手紙に見入っていると、インド人年配者たちのグループが「ほう、ウルドゥーでも手紙が書いてある」とささやいているのを目にした。そんな時代があったことを知ってはいても、ネルーがウルドゥーで書いた手紙を目の前にすると、ちょっと意外な感じがしたのだろう。