「あの制服の美女は誰だ?」日印の男性共通の関心ごとについて

オペレーション・スィンドゥール」に関するブリーフィングで出ていた「謎の美人陸軍幹部」については「おぉ!凛々しくてカッコいい!これはまるで映画のようだ!」と個人的に気になっていたのだが、ヴィクラム・ミスリ外務事務次官とともに出ていた陸軍のソーフィヤー・クレーシー大佐と空軍のヴォーミカー・スィン中佐について、「彼女たちは誰?」的な解説動画。

世の中の男性たちの関心は、インドも日本もおんなじであることがよくわかる。

それにしても陸空両軍からブリーフィングで女性幹部を出させるというのは、おそらく偶然ではなく、これもまた「女性の活躍」に力を入れるモーディー政権による意図が汲まれているものなのだろう。

同時にこうした場面で女性を登用することにより、「オペレーション・スィンドゥール」という軍の作戦としては非常に変わった名前との調和も取れている点からも興味深い。このあたりの「メディア映え」についても、やはりモーディー政権は計算済みのはず。日本からも注目しているほどなので。

またパキスタンへの攻撃のブリーフィングにて、ムスリムの軍幹部を登用することについて、戦争機運の高まる中で、国内世論が自国内で「ムスリム=親パキスタン勢力」と向かうことのないようにという配慮もあるのかもしれない。「クレーシー」という姓自体が亜大陸のムスリムの大半を構成するヒンドゥーからの改宗者ではなく、先祖がアラビアからの移住者である「ムスリムの中のムスリム」であることを示唆する。通常、ムスリムに姓はないのだが、特に家系に何か謂れのあるものがある場合はこの限りではない。

「クレーシー」とは、預言者モハンマドを生んだアラビアのクライシュ族のことで、クレーシー姓を名乗る人たちは、自身の出自がこのクライシュ族であるとしている。もちろんクレーシー姓を名乗る人たちはパキスタンにもいるのだが、インド陸軍からクライシュ族の血を引くとされる軍人がこのように登場することにより、国内に「ムスリムとの戦いではなく、世俗国家インドによる隣国のテロ組織への攻撃なのである」とアピールする意図があると思われる。

また外務事務次官のヴィクラム・ミスリについては、彼自身がカシミーリー・パンディトであることは偶然とはいえ、何か運命的な巡り合わせを感じる。

「パンディト」はブラーフマンを示唆するが、カシミーリーのヒンドゥーを総称してそう呼ぶ。これはカシミーリーヒンドゥーたちが歴史の中でムスリムへの改宗が進んだ結果、現在はブラーフマン以外のヒンドゥー教徒はほとんど残っておらず、「ヒンドゥー=ブラーフマン」という、インドの他地域には見られない特殊な状況になっているためだ。

Who is Col. Sophia Qureshi? The Brave Officer Who Led Operation Sindoor | Indian Army

クスルー・バーグ

ここには4つのムガル時代の墓廟があり、とりわけ重要なものはクスルー・ミルザーの墓廟。ジャハーンギール後の皇帝となっていたかもしれなかった人物だ。

ただしジャハーンギールの長男であった彼は、父親からの皇帝位簒奪に失敗し、幽閉後殺害される。殺害を命じたのは、ジャハーンギールの3番目息子シャージャハーン帝である。もちろんクスルーが皇帝位を奪うことに成功していたならば、有力なライバルであったシャージャハーンは除去されていたはず。

この時代の王宮内では代替わりの際のサバイバルケームは凄まじい。皇帝位継承にまったく興味を示さず、あるいはボンクラとの評得て、最初から脱落してしまうのでなければ、生きるか死ぬかの大一番である。もちろん自らの意思でレースから退場することはなかなかできなかったことだろう。自分を産んだ母親やその親族、様々な利害関係者がなんとかして勝ち馬に乗ろうと虎視眈々であったからだ。自身の意思がどうのこうのという前に様々なものがお膳立てされて、にっちもさっちもいかない、そんな状況が展開していたことだろう。

そんな状態でのレースの中で失敗して非業の死を遂げたひとりがこのクスルー自身であったのだ。当時の最高権力者の家に生まれる、というのはたいへん恐ろしい。

アーナンド・バワン③

やがて大きな転換期が訪れる。政治家としてのインディラーの跡取りと目されていたサンジャイが趣味の自家用機の墜落事故により急死。ラージーヴは「弟の代わり」に国民会議派でのキャリアをスタートさせることになる。

続いて1984年にインディラーがアムリトサルの黄金寺院占拠事件への対応として強硬手段の決行(Operation Blue Star」を命じたことから、首相公邸で勤務していた二人のスィク教徒護衛が彼女を射殺したのだ。パンジャーブでの騒乱ついては、混乱を起こしているのはパキスタンから支援を受けたスィク教徒過激派であったが、これに対して取締り、捜索、逮捕、尋問といった対応をしていたパンジャーブ警察も同様に主にスィク教徒を中心に構成されていたここと、同様に事が深刻となってからは軍も対応していたが、ここでもスィク教徒たちが重要なポジションを占めていたことから、「反スィク」の動きはなかった。だがここで、首相直々の護衛が敵方と通じていたことで、一気に反スィク暴動が発生することとなった。(それにしてもよくもまあ、首相の身近な人間をオルグできたものである。)

インディラーの死により、それまでは幹部候補生見習いのような立場であったラージーヴがインディラー亡き後の後継者として担ぎ出されておおかたの予想どおり、政治家としての能力は芳しくなく、政局が流動化していく。インディラーの死から7年後の1991年、ラージーヴは選挙戦の遊説先のタミルナードゥでLTTEの活動家女性による自爆テロで死亡してしまう。彼の首相在任時代にスリランカ内戦に干渉したことに対するLTTEによる「お礼参り」であった。政治に関わるとロクなことがないという、結婚前のソーニアーの予感が見事に的中したのであった。義母と夫を7年間の間に相次いで暗殺により奪われてしまったからだ。

その後、長らくソーニアーは政界入りを固辞し続けていたが、ついに追い込まれて受諾することとなったのが1999年。当初は「一応ガーンディー家というお飾り」と目されていたのだが、かつては「ちょっとおバカなお嬢さん」と評された彼女が並み居る幹部たちを掌握し、政権奪取後には首相職は固辞しつつもマンモモーハン・スィンというイエスマンを首相に付けて、常に背後に付き添い小声で指示するという「操り人形師」のような形で「実質の首相」としてインド中央政界を二期に渡って支配するまでになった。

そんなネルー/ガーンディー家の政治家としての草創期の記憶がたっぷりと保存されているこの屋敷を見学するのはたいへん興味深いことであった。たしか1988年からその翌年あたりに訪問していたはずなのだが、当時はそんなことに興味がなかったからかもしれないし、展示内容も異なっていたのかもしれない。今回訪問してみて良かったと思う。

アーナンド・バワンに展示されていたジャワーハルラール・ネルーが娘インディラーの結婚にあたり、招待者たちのために書いたという手紙。同じ内容でヒンディーとウルドゥーで書かれている。時期はインド独立前の1942年。近年改名される前までは「アラーハーバード(もしくはイラーハーバード)」と呼ばれていたこの街だけでなく、ヒンディーとウルドゥーはともに広く使われており、宗教を問わず書き言葉としてのウルドゥーは、知識層にとって当然の教養であったため、ヒンドゥーのネヘルーがウルドゥーで手紙をしたためても何の不思議もなかった。

もちろんそんなことはインドの人たちはよく知っているものの、私がこの手紙に見入っていると、インド人年配者たちのグループが「ほう、ウルドゥーでも手紙が書いてある」とささやいているのを目にした。そんな時代があったことを知ってはいても、ネルーがウルドゥーで書いた手紙を目の前にすると、ちょっと意外な感じがしたのだろう。

アーナンド・バワン②

そんな彼らのインド政治をリードする出発点となったこの屋敷で私自身が特に気に入ったのは大量に展示されているネルー/ガーンディー家の家族写真の数々。とりわけ何でもない日常のスナップ写真の類がとても良かった。そんな昔にカジュアルな記念写真がたくさんあるというのは、やはりそういう特別な家柄であるからとはいえ、他の市井の人たちと変わらない彼らの家族愛や日々の暮らしぶりが伝わってくるようで、心温まるものがある。

赤ん坊時代のインディラー

子供時代のインディラーの可愛らしい写真がたくさんあり、やはり父親ジャワーハルラールにとってとても大切な愛娘であったことがよく伝わってくる。同様に幼い頃のラージーヴとサンジャイが祖父ジャワーハルラールと遊んでもらっているとき、3人のとても幸せそうな表情も素敵だった。

ネルーと娘のインディラー
ネルーと娘のインディラー、そして孫のラージーヴ
ネルーと孫のラージーヴ(右)、サンジャイ(左)

また英国留学中だったラージーヴが母親の知らぬ間にロンドンで、当時「遊学中」だった(きちんとした留学ではなく、「遊学」だった)イタリアの女の子、ソーニアーとぞっこんの仲となり、ラージーヴは彼女をインドに連れて帰って結婚するわけだが、その新婚時代の写真もあった。

当時のインドではまず見かけなかったショートヘアでミニスカートをまとった「ガーンディー家の嫁」について、インド各メディアが「キュートだけど、ちょっと頭の足りない軽薄な女の子」と揶揄していた時代。この時期に彼女はデリーのオーロビンド・マールグにあった政府系のヒンディー語学校「Kendriya Hindi Sansthan」に通っており、いつも夫のラージーヴが送り迎えしていたという。

メディアからの評判はさんざんだったが、義理の母となったインディラーに気に入られてとても可愛がられていたという。ラージーヴの弟サンジャイの妻、メーナカーとはあまり折り合いが良くなかったとされるのとは対照的である。

メディアからは「賢明ではない」と評されたソーニアーが実は賢明であったのは、結婚に当たっての譲れない条件として「政治には関わらないこと。政治とは無縁の市民として生きること」を条件として提示し、ラージーヴの合意はもちろんのこと、インディラーからも内諾を得ていたことだろう。

1968年にふたりは結婚し、デリーに居を構えてふたりの子供をもうける。ラーフルとプリヤンカーだ。ラージーヴは国営インディアン・エアラインスのパイロットとして勤務しており、彼らにとって平穏な時期がしばらく続いていた。

アーナンド・バワン①

1890年代にモーティラール・ネルーが購入して以降、同家の屋敷として、そして独立前の国民会議派執行部の拠点のひとつとして機能してきた屋敷。モーティラールの息子で後に初代首相となるジャワーハルラールの娘で、これまたインド首相となるインディラーもここで誕生している。

ジャワーハルラールの居室、マハートマー・ガーンディーがしばしば泊まったという部屋、子供時代のインディラーの部屋なども家具類等そのまま保存されている。

インディラーの寝室

ネルー家、そしてインディラーがパールスィーのフィローズ・ガーンディーと結婚してからはガーンディー家となった同家の人々のことを私が直接知る由はないが、どの代の人々についても共通している印象というのは、高慢さではなく高潔さ、人の良さと優しさといった豊かな人間性を感じさせるキャラクター(少なくとも広く認識されている範囲では)だろうか。

もちろんインディラーの息子で、母を継ぐと目されたサンジャイ(後に航空事故死)による市民に対する強制断種のような横暴、インディラーによる「非常事態宣言」と独裁を批判された時期などの例外はあるものの、同家で連綿と受け継がれるイメージは「Noblesse Oblige」だろう。