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カテゴリー: politics

  • 二大政党による支配の終焉

    先の西ベンガル州での与党TMCの敗北、BJPの鮮やかな勝利に驚いていたら、タミルナードゥ州では、個人的には特に注目していなかった新興政党TVKがあっさりと二大政党(DMKとAIADMK)による支配を終わらせてしまった。

    映画スターが2年3ヶ月前に立ち上げた新政党が、南部の重要な州で、いきなり与党に躍り出るという驚き。この政党は、党首であるC. ジョセフ・ヴィジャイ自身のファンクラブが前身。

    同州では、DMKから分離して、AIA DMKを立ち上げたM.G.ラーマチャンドラン(MGR)、その後を継いだMGRの愛人でもあったジャヤラリターといった、タミル映画の元トップスターがチーフミニスターになったりしていたものの、政治経験のないところから始めて政権へ直行というのは信じられない。

    また、この選挙でBJPはタミルナードゥ州への浸透を狙い相当頑張ったようだが、やはりまったく歯が立たず。南インドにおいて同州での民族意識の高さは際立っている。

    今後、タミルナードゥでの二大政党は、西ベンガルにおける共産党(マルクス主義派)のように衰退するのか、それともいつか勢いを取り戻すのか?

    Dark horse wins race (Frontline)

  • ロイヤルエンフィールドとアジャイ・デーヴガン

    ロイヤルエンフィールドとアジャイ・デーヴガン

    5月9日に行われた西ベンガル州新政権の就任式当日の警備に当たるコルカタポリスのひとり。年季の入った赤いロイヤルエンフィールドがカッコよくて声をかけてみた。

    「男前やねぇ。アジャイ・デーヴガン(人気俳優で警官の役柄がけっこう多い)そのものやん!」と言うと、「ハハハ、こんな感じ?」とポーズを取ってくれた。

    この人は日々このバイクでの警備の仕事が多いとかで、「日に30km前後は走る」と胸を張るけど、たいして移動しているようには聞こえない。

    デリーからモーディー首相もやってくる就任式の会場は広大なマイダーンの一角にあり、宿からさほど遠くないところで徒歩圏内。朝から大勢の人たちがそちらに向かうとともに、警備する警官隊は警察車両を連ねて付近で待機。臨時IDを首からぶら下げたBJP活動家たちも大勢。

    就任式が終わってからの大群衆の動きもすごかった。パークストリートエスプラネードのメトロ駅から帰途につく人たちが多く、一時は信じがたいほどの混雑に。

    それでも特に問題なく滞りなく式が行われるのだから、インドの治安管理はかなりしっかりしていると言えるだろう。

    たぶん制服の警官隊以外にも私服、そして映画に描かれるように、市中には報奨金でポリスと繋がる無数の協力者たちがいて、何か怪しげな人や動きがあれば、逐一報告が上がる、そんなシステムがあるのではないだろうか。

  • まさにこの日!!!

    4月16日と言えば印鉄の記念すべき日。インドにおける植民地期の鉄道は、現在のような「国鉄によるネットワーク」ではなく、各地で操業する鉄道会社によるもので、藩王国による藩営鉄道会社もあった。

    シャクンタラ鉄道のように、ごく近年まで英国の会社が所有していた路線もあったものの、その他はすべて独立後のインドにおける「国有鉄道」として統合されて現在に至る。

    鉄道大国インドにおける「最初の列車」が走行したのは、173年前の1853年4月16日、400名の乗客を乗せてボンベイからターネー間を結んだ。

    その4年後には「インド大反乱」が発生し、北インドでは各地で開始されていた鉄道敷設工事が停止してしまうが、大反乱で戦地となった北インド以外ではどんどん進んでいたらしい。

    反乱平定後には、当初想定されていた各地の産物から成る物資の運搬や旅客の輸送だけでなく、軍事的にも「大量輸送」は極めて有効であると認識され、鉄道建設は更にアクセルを踏んで押し進められていく。道路網の整備は鉄道よりもかなり遅れて20世紀に入り、自動車が各地に登場するようになってから。

    これらの交通インフラの発展により、それまで大きな街が形成されるのは水際(海岸や河岸)に限られていたのだが、内陸の大きな川のない土地にも、水道の普及もあり、人口や産業が集積することが可能になった。

    また既存の内陸都市がハブとして物流拠点化するようになったのも革命的だ。それまでインドで商工業のハブであったのは港湾都市に限られていたのが大きく変わったのは、国道網に先んじて国内をネットワーク化した鉄道による効果。

    英国が当時のインド国家予算と別建ての鉄道予算を計上し(ほぼ同額の時期も長かった)、たいへん力を注いだ鉄道建設により、各地が結ばれて大いに交流が深まることにより、「我らインド人」というナショナリズムの高揚にもつながったとも言われる。ガーンディーその他の独立の志士たちが活躍するための下地でもあり、インフラともなったわけだ。鉄道は人々の心やスピリットすら変えた。

    インドだけでなく、鉄道の普及により大きく変貌を遂げた国は数え切れないほど多いはず。

    First Train in India: 173 साल पहले आज ही चली थी देश की पहली रेलगाड़ी, 400 यात्रियों के साथ शुरू हुआ था सफर (Nav Bharat Times)

  • 政治の季節

    インドは目下、「政治の季節」を迎えている。今月から6月にかけて、西ベンガル、アッサム、ケーララム、タミルナードゥの各州及び連邦直轄地(UT)のプドゥチェリーでヴィダーン・サバー(州議会)選挙が行われる。

    とりわけ注目されているのが西ベンガル州。インド東部でも攻勢を強めているこの地で、長く与党を務めてきたマムター・バナルジー率いるトリナムール・コングレスの追い落としを図るBJPが果たしてこれを成し遂げるのか、あるいはベンガルの民族主義派のトリナムールが再び勝利を重ねるのか。

    もともと共産党が1977年から2011年まで与党に君臨してきた「赤い州」であったが、これを追い落としたのがベンガル民族主義政党のトリナムール。極めて鮮やかな「サッター・パリワルタン(政権交代)」で、州政治の潮流が一気に変わった。

    ここに来て浸透を図るBJPとは激しく対立しており、ときおり両者の活動家たち同士の暴力的な衝突が起きている。

    興味深いのは、もし今回政権交代が実現すると、西ベンガルにおける民族主義的な主張が影をひそめて、中央政権に融和的なマジョリティーに取り込まれる形になることだ。

    実は隣接するアッサム州でそのようなことが起きている。

    独立以来70年代までは国民会議派が与党にあったが、80年代以降はアッサムの民族主義勢力が台頭。マジョリティーのアッサミーズ以外のボードー族その他も政治勢力を立ち上げ、非常に不安定になった。その後、州議会が機能不全となり、中央による大統領統治が実施されるも、武装勢力化した各民族主義組織による内戦状態と言ってもよい混迷の時代となったのが80年代から90年代初頭。この時期には外国人旅行は入ることが出来なかった。

    そして90年代に情勢は落ち着き、国民会議派政権、そして新興の民族主義政党による政権を経て、政権の座は再度国民会議派の手に。それでもやはりアッサムはインドの辺境地域として独自性を持ちながら、やもすればいつ反中央の火の手が上がりかねない不安定な状況が続いていた。

    それに終止符を打ったのが、2016年ヴィダーン・サバー選挙で起きた「サッター・パリワルタン(政権交代)」。以来、BJPが政権を担っている。

    もちろんBJPの議員たちはすべてアッサムの地元の人たちなのだが、言葉はアッサム語を喋っていても、話す内容はモーディー首相やアミット・シャー内相などと同じ。中央政府のモーディー政権にもアッサム出身の閣僚が複数登用されており、いつの間にかアッサム州が「辺境州のひとつ」から「マジョリティーのひとつ」へとステップアップした感がある。それ以前の「反逆的な地域」としての印象はすっかり影を潜めた。

     

    またBJP言うところの「ダバル・インジャン・サルカール(Double Engine Governance)」により、中央とアッサムの意思決定が一本になるため、様々な開発プログラムやパッケージがどんどん通りやすくなり、地域の発展が加速されているとされる。実は連邦直轄地(UT)のラダックでも同じことが起きている。(ラダックでは昨夏以来、BJPとの関係には複雑なものを含むようになっているけれども)

    アッサムと違い、西ベンガルは中央に対して反逆的な風土ではもともとなく、文化的にも政治的にも「マジョリティーの中の核心部のひとつ」といった位置にあるため、BJPが政権与党となれば、ますますのこと、中央との統合、融合が進んでいくのかもしれない。

    もうひとつ、規模は小さいが注目されるのは、連邦直轄地(UT)のプドゥチェリー。こちらは投票日が今月9日と早いのだが、地域的にはタミルナードゥの中からえぐり取られた旧仏領地域ではあるものの、与党はDMKやAIADMKではなく、現地政党とBJPによる連立。

    ずいぶん長いこと、州への昇格(「昇格」とするのが適当かどうかはわからない。統治の仕方の違いであり、州が上、連邦直轄地が下と単純化できないためだ。)を望む声が強いのだが、まだ実現していない。人口100万人にも及ばない地域ではあるものの、現にスィッキム州は60万人強、ミゾラムは110万人というあたりを見れば、歴史的経緯と人口規模においては相応であるようにも思える。

    州への移行に理解を示しているのが、NDA(という政治アライアンス)と対立する国民会議派側の勢力UPA。今回の選挙で、「州への移行」も焦点のひとつとなっているため、プドゥチェリーで「サッター・パリワルタン」が起きる可能性が充分にあるのだ。ただし中央の政権はBJPであるため、「プドゥチェリー州成立」には至らないようにも思える。

    それにしても同じタミル系の人々が暮らすプドゥチェリー、旧仏領であったとはいえ、世代は変わるし、プドゥチェリーをインドが実効支配するようになったのは1954年。つまり72年も前のこと。(法的にインドの一部としての統合は1962年)

    現在までの間に住民の移動も盛んであり、プドゥチェリーに住んでいるからといって、旧仏領地域の人々の子孫とは限らない。これはゴアでも同様で、今やカトリックは州人口の中ではマイノリティーとなっている。

    そんな具合であっても「土地柄」「風土」というものは外部からの移民をも交えて継承されていくものなのだなぁと興味深く思う。

    インドという国は何かにつけて実に面白く、好奇心を刺激してくれるため、そこから流れてくるニュースには耳を傾けずにはいられないのである。

    Upcoming Elections in India (The Indian EXPRESS)

  • 世俗的な国イラン

    イランを「狂信的なイスラーム教の国」とか、1979年のイスラーム革命を「国王に対して熱心なムスリムの国民が立ち上がって打倒し、イスラーム共和国を創った」と誤解している人があまりに多いことはいつもながら残念。

    伝統的に世俗的なのがイランであり、今のような聖職者たちが頂点に立つようになったのは初めてのこと。

    そしてイランの革命自体についても、「篤信なイスラーム教徒たちがシャーを追放した」のではなく、右派勢力(民族主義派)、インテリ層、左派勢力等々が王政の転覆を目指してそれぞれ活動していたものの、思想や価値観が異なるため、ひとつの大きな流れにはなれなかった。そこで「ムスリムという共通項」を繋いだのが、少数派の宗教勢力。そこで見事に異なる人々が手を結んで革命を成就させたという形。

    数は少なくても組織力に長けていた。シャーを追い出した後、革命評議会、革命防衛隊、革命裁判所を組織し、軍、警察、司法等を宗教勢力が握った。

    これによりシャーを追い出すために共闘していた民族主義勢力、インテリ層、左派勢力を排除し、有力者たちを前述の革命裁判所で次々に処刑。これにより本来ならば多数派であったはずの世俗勢力を支配層から排除し、大衆が望まない社会のイスラーム化を進めることになったわけだ。

    つまり様々な異なる意見を持つ世俗勢力がひとつにまとまるための旗印として利用したつもりが、逆に宗教勢力に利用するだけ利用され、革命が成就して体制が流動的な時期に、烏合の衆の多数派である世俗勢力が互いに反目したり、新たな体制造りにモタモタしているうちに、少数派の宗教勢力による策略にハマり、排除されてしまったのだ。

    当然、少数派の宗教勢力にとっては彼ら自身への支持はまったく厚くないことを知っているため、徹底した監視体制を敷いて「イラン・イスラーム共和国」の歴史を紡いでいくことになった。

    簡単に言えば、このような具合なので、イランは「狂信的なイスラーム教徒の国」などでは決してなく、極めて世俗的な人々の国である。そのため欧米などに移住しても、他国からきたムスリムの人々と違い、モスクなどの礼拝施設すら建てないことが多いほどなのだ。

    端的に言えば、「ムスリムではあるけど、見た目も気質も欧州人みたいな人たち」でもある。

    「イラン人は狂信的」は誤解、個人主義的傾向も 藤元優子・大阪大名誉教授(日本経済新聞)

     

     

  • トランプ、宣教師と原理主義過激派

    トランプ氏に関するこの報道を見て思い出した人物かある。アメリカのある「キリスト者」のことだ。

    この人は米国の福音派の若い宣教師で、インドのアンダマン諸島の中にある北センティネル島で布教しようと上陸を試み、島民たちに弓矢で殺害された。この島に住んでいるのは、世界で最も孤立した民族とされるセンティネル族で、外界との接触一切を拒んでいる。

    この宣教師は北センティネル島を「サタンの最後の砦」と認識し、ひとたび踏み込めば島民たちに殺害される可能性が高いことも理解していたという。一度上陸に失敗したが再度試みて成功。まもなく島民たちに殺害された。

    宣教師を殺害したインド孤立部族、侵入者拒む歴史(NATIONAL GEOGRAPHIC)

    それでも「未開の野蛮部族に神の言葉を伝えること」を崇高な使命であると考え、「殉教者となる」ことを厭わず、信じる「キリスト者として正しい行為」のために喜んで自らの命を差し出す、そんな青年であったのだという。

    福音派であること、キリスト教宣教師であることはさておき、自身の価値観がユニバーサルな真実であると考え、相手や第三者にはそれぞれ異なる信条、倫理観、行動原理があることを受け入れず「俺は正しいことをしている。これに同調しないヤツが悪い」とする点で、トランプそっくりであり、周囲から反対されたり妨害を受けたりしつつも邁進していく「ハリウッド映画に描かれる孤高のアメリカンヒーロー」のイメージそのものである。そしてトランプの理想とは彼自身が唱える「MAGA」の実現、その「偉大な米国を頂点とする平和秩序」なのだ。

    ゆえに自身が勝手に戦争を始めてしまったにもかかわらず、予想外にイランが強く、そして戦略的も巧みなことから手詰まりになってくると、「正義を実現しようとしているアメリカに協力するのは当然。知らん顔するNATO加盟諸国はけしからん。それにホルムズ海峡を通過する原油にべったり依存している日本、韓国その他はアメリカが守ってきた平和にタダ乗りしてやがる!」とくるわけだ。

    日本など同盟国の「支援は不要」、ホルムズ対応でトランプ氏不満あらわ(Bloomberg)

    こういう姿勢は、イスラーム原理主義過激派も同様で、各地でのテロ行為、そのための組織造りとリクルートなども、たとえそれにより多数の死者が出たり、多くの人々が不孝になっても崇高な理想を実現するためには少なからず犠牲が出るのは当然のこととし、神の理想を実現する正しい行為であると考えており、同調しないイスラーム教徒は不信心者だとする。つまりイデオロギーこそ違えども、思考の根本の部分からしてトランプや件の宣教師と同類なのだ。

    蛇足となるが、イランはトランプの言うようなテロ国家ではない。シーア派の聖職者たちが政府の上に立つ形にはなっているものの、体制としては社会主義的な運営がなされており、シリア、イラクに権力の真空ができていた時期に勢力を拡大した「イスラーム国」のような暴力集団などではない。

    米国の言う「テロの輸出」とは、イランによるパレスチナのハマス、レバノンのヒズボラといった「イスラエルなる国」と敵対する組織、イエメンのフーシ、アサド政権時代のシリア政府などで、反サウジアラビアの組織と連携のことだ。

    欧米その他で何か事件を起こしたわけではないし、そうする動機すらない。政権上部が奇妙ではあるものの、親日的で、自由と平和を愛する世俗な人々が暮らす普通の国である。

  • 地雷博物館

    地雷博物館

    地雷博物館を運営しており、地雷除去の団体を率いているアキ・ラさんの話が大変興味深かった。5歳のときに両親がポル・ポト派に殺害されて孤児に。ポル・ポト派のもとで成長していくわけだが、やがて少年兵として各地を転戦。彼は「私は元クメール・ルージュの兵士でした」とおおっぴらに話す。普通はそのような過去は隠しているものらしいが、この人はバンバンしゃべる。ちょうど西洋人のツアーグループが来ていて、その中に混じって彼の話を聞いたのだが、私はぐいぐい引き込まれていった。

    行く先々で地雷を敷設したり、戦闘で人を殺害したり、味方が落命したりという大変な思春期を過ごしたという。それでも少年だったその頃は、一般の市民よりも上の立場であることに誇りを感じ、夜には兵士仲間たちと食べて踊って、余興のひとつのように銃を夕暮れ空に撃ったりするのも楽しかったという。

    そして「当時の兵士生活は楽しかった。市民よりも上の立場にある優越した存在であったから」とか、「クメール・ルージュの兵士として首に巻く赤いスカーフは誇らしかった」と、ギョッとすることまで言うだけではなく、「戦闘で相手をたくさん殺した」ことまで口にする。彼は少年兵としてポル・ポトの軍隊に放り込まれ以外に生きていく選択肢はなかったし、当時は洗脳されていたであろうから、当時はそのような心境であったのは自然なことであったのかもしれない。

    そんな彼に転機が訪れたのはベトナム軍との戦闘。味方が散り散りになり、彼は沼に身を沈めて戦闘が止むのを待ち、水から上がってしばらく歩くと、ベトナム兵に捕まり、一緒にいた仲間たちはその場で射殺された。アキ・ラさんはその中でとびきり若かったためか、情けをかけてもらい命拾いしたとのこと。

    その後は、持ち前のフレンドリーさとマメさでベトナム兵士たちの心を掴み、食料調達で銃によりゾウを倒したところ、ベトナムの部隊に大変喜ばれ、兵士として登用されたのだという。その結果、つい先日のまでは味方だったポル・ポトの軍隊に銃を向ける立場となったが、「こればかりはどうしようもなかった。選択の余地なし」とのこと。それが戦争というものの残酷さと虚しさなのかもしれない。

    「ついこの間まで私が所ほ属していた軍と戦い『元味方の兵士』を殺害することについては何の躊躇もなかった」と言う。投降した兵士ということもあり、戦闘が始まると常に最前線に送り込まれていたとのこと。まさに「捨て駒」の立場だが、相手が誰であろうと、とにかく戦って死なずに生き延びなければ現在の彼はなかったわけだ。

    平和な時代がやってきて、除隊して故郷に帰ると、村や周囲には地雷により足などを失う人たちが絶えず、かつて敷設していた自身を後悔するとともに、「敷設のプロ」から「除去のプロ」に転じ、国際機関等での専門家としての勤務を経て、自身の団体を立ち上げて現在に至る。とにかく明るくてエネルギーに満ちた感じの人なので、そんな暗い過去があったというのはにわかに信じ難い。

    本日、彼の団体はシェムレアプ近郊とタイ国境で除去活動をしているとのこと。こういう人たちの地道な活動があと100年続けば、これまでに敷設された地雷はほぼ無くなるというから、気の遠くなるような話だ。

    ※この人を題材にしたマンガがある。書名等は以下のとおり。

    タイトル:密林少年-Jungle Boy 1&2

    著者:深谷陽

    出版社:集英社

  • ネアク・ポアン寺院

    ネアク・ポアン寺院

    ネアク・ボアンは、東バライの中の島にある珍しい水上寺院。アンコール遺跡で面白いのは、建築のデザインや意匠は統一されているのだが、それぞれの寺院に異なるレイアウトがなされていたり、高台にあるノッポな建物の寺院ものもあれば平地で平べったく広がるものもある。千差万別で面白いのだが、こちらのような島の中の島になっているようなものは、おそらく唯一無二。

    前回訪れた1992年当時、ここには行くことが出来なかっはず。ちゃんとした道路がなかったし、バライの中の島へ渡る橋などもなかった。今でこそ日本と変わらないスムースな路面を全速力で駆け抜けることができるが、当時はガタピシの道路をこれまたオンボロの昔の中国自転車でここまで来るのは相当キツかったはず。

    そしてここまで来ると治安的に危険でもあった。シエムレアップ郊外にはまだクメール・ルージュの兵士たちが出没していたし、警備に当たっている政府軍兵士から旅行者がカツアゲされたという話もよく耳にした。遺跡自体の敷地内でも地雷撤去がまだであった。

    当時はアンコールワット周辺でさえも、道路と遺跡の石組みの上以外の地面には降りるなと言われていたし、事故防止のためにドクロマークの「地雷あります」という標識がそこここにあった。観光客が多い主要な遺跡でこそ、そのような標識があったわけで、それ以外は一体どこに何が埋まっているのかは神のみぞ知るであった。

    当時はとにかくカンボジアに行ける、アンコール遺跡に行けるというだけで、バックパッカーたちにとっては新鮮なフロンティアであったわけだけれども、今みたいに快適に楽しく見物できるようなる時代がやってくるというのはまだ想像も出来なかった。

  • 機関車の前に無蓋貨車

    ふと思い出したが、前回カンボジアを旅行したとき、今となっては大昔の1992年だったのだが、カンボジア国鉄は客車を牽引する機関車の前に無蓋貨車を付けて走らせていた。ちょうど以下リンク先の写真がまさにその頃の鉄道の様子だ。

    Cambodian Refugees Return Home (UN Photo 1 June 1992)

    今では考えられないことだが、当時はまだ活動していたクメールルージュにより線路上に置かれた爆発物で、機関車が修理不可能なダメージを受けることを避けるためというもの。そんな具合で走っていたのだから、実際にそういう攻撃が時々あったのだろう。

    もちろん無蓋貨車は客車ではないため、それ用の乗車券などありはしない。さりとて当時のカンボジアはたいへん貧しく、移動するために敢えて機関車の前の無蓋貨車に乗る人たちがいた。事実上、タダだったからだ。

    「無料」ということでバックパッカーたちの利用も少なくなかったらしい。運が悪ければ爆発で吹っ飛ぶかもしれないし、そこまで運が悪くなくても、雨で荷物ごとびしょ濡れになることは多々ありそうだった。

    もうすっかり忘れていたことが、カンボジア再訪により頭の片隅から蘇ってきた。

  • インドの国歌、国民歌、愛国歌

    インドの国歌、国民歌、愛国歌

    Vande Mataramを巡るインド政界の動きを見ていると、おそらく「インド国歌」は遠からずジャナガナマナからヴァンデー・マータラムに変更されるのではないかと思う。おそらく中央政権もそのつもりで動いているのではなかろうか。

    インドにおいて前者はNational Anthem(国歌)として、後者はNational Song(国民歌)として認識されている。学校で朝歌うのもスポーツの試合の前で歌うのも、映画館で上映前に流れるのも前者だ。

    JANA GANA MANA (Youtube)

    ジャナガナマナは政治色はない。ご存知のとおりラビンドラナート・タゴールの1911年の作品。また世界にあまたある多民族国家において、マジョリティーのものではない言葉で歌われる国歌というのはかなり珍しいだろう。ベンガル語の歌詞である。Sanskritized Bengaliと呼ばれるサンスクリット語彙を多用したもの。
    しかしインド国歌として制定されるのに先んじて、独立前にチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が「国歌」として定めている。
    こちらの歌詞はヒンディー語で、「シュブ・スク・チェーン(Shubh Sukh Chain) 」として知られる。マレー半島からタイ、そしてミャンマーを経てインパールへと至る従軍の中で歌われていたのだろう。

    Shubh Sukh Chain (Youtube)

    1870年代にバンキム・チャンドラ・チャタルジーが創ったヴァンデー・マータラムも同じくSanskritized Bengaliで歌われる。ただこちらには宗教色があるため、敬遠するムスリムその他の人たちは少なくない。こちらが国歌になるとすると、インドの国是のはずの世俗性が大きく後退する感じだ。

    Vande Mataram (Youtube)

    またインドには「愛国歌」として知られる歌もある。
    1904年にムハンマド・イクバルが発表したウルドゥー語のサーレー・ジャハーン・セー・アッチャーだ。

    Sare Jahan Se Acchha (Youtube)

    独立記念日の式典や軍関係のイベントなどでもよく演奏されるお馴染みの曲。愛国軍事ものの映画でも挿入歌として出てくる。
    国歌、国民歌、愛国歌といろいろあるのがインドである。いずれも素敵な曲だ。

  • プノムバケン

    プノムバケン

    1992年、私がこのアンコール遺跡を訪れていた時期にフランス人の女の子が地雷を踏んで亡くなっていた。急遽ご両親が駆けつけてきていてニュースになっていた。

    彼女が不運にも落命してしまうことになってしまったのが、このプノムバケン。

    クメール語で「中央の山」を意味するというプノムバケンだが、ここから広大なアンコール遺跡が広がるエリアを見下ろすことができる。ここから眺めるアンコールワットやアンコールトムの景観を期待して登ったと聞いていた。

    今でも本来の参道は埋設された地雷の危険から立ち入り禁止となっている。道路からすぐ見えるここから登ろうとしたのではないかと私は思う。見るからに登りやすそうな、駆け上がってみたくなる斜面だ。

    立ち入り禁止となっている本来の参道。

    当時は今よりもはるかに埋設された地雷がたくさん残っており、「舗装路以外は歩くな」「小便、糞垂れるのに茂みに行くな」などと言われていたが、静まり返った木立の中の平和な眺めの中、どうしても小山の上からの景色を一目見たくて歩いて行ったのだろう。

    危険と言われつつも、プノムバケンに登る人たちはいたようなので、「私も大丈夫だろう」という思いがあったのかもしれない。実際に登った人から「いい眺めだったよ」と話を聞いていたかもしれない。

    小山の上の寺院からの景色はとても良かった。彼女はこの景色を目にした下りで亡くなってしまったのか、それとも下から登る最中で不幸にも地雷を踏んでしまったのかはわからない。

    当時、彼女と同世代だった私は、そんなことを考えながらプノムバケンのてっぺんからのアンコールワットの遠景を眺めつつ、静かに手を合わせた。

    眼下のジャングルの中に見えるアンコールワットの遺跡
  • 印・バ関係の今後

    当分の間はインドとの良い関係は期待できないバングラデシュ。前政権下でシェイク・ハスィーナーの存在はインドにとってとても好都合なものであったが、亡命を受け入れたことでこれが大きな重荷に。

    またバングラデシュにおけるヒンドゥー教徒への攻撃が大きく報道されるなど、インド側にとっても国民感情的な側面からもバングラデシュに厳しく対応せずにはいられない。

    先日はデリーでバングラデシュの高等弁務官がインド政府に呼び出されて同国内における治安悪化等に関する懸念について懸念を伝えられていたが、まさにこうなることへの心配があったのだろう。

     

    ちなみにインドとバングラデシュが相互に置いているのは大使館ではなく高等弁務官事務所。ともに英連邦の加盟国であるためだ。そのため大使に相当するのが高等弁務官となる。

    来年2月に総選挙が予定されているが、こうした騒擾はしばらく続くのだろうか。無事に国民の審判を得て、安定した政権が樹立することを願いたいが、今回の選挙には、BNP(バングラデシュ民族主義党)と並ぶ2大政党のひとつ、アワミリーグは暫定政権から政治活動を禁止されているため参加できない。

    そのため同国内では新政権樹立後もいろいろ起きそうだが、親インドのアワミリーグを追い出してのBNP政権スタートとなると、インドにとって扱いにくい隣国政権となることは必至だ。

    Overnight unrest in Bangladesh : Anti India protests erupt how events unfolded after Sharit Osman Hadi’s death (Time of India)