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カテゴリー: life

  • ハイデラバード到着

    ハイデラバード到着

    空港から市内中心地までは、ちょうど「首都高」みたいな高架の自動車専用道路が縦断しているハイデラバード。とても未来的な光景に思える。

    そして驚くのはその「首都高」沿いにあるいくつもの高いビルになぜかジムが入っていて、もう深夜近いのに黙々と機械でトレーニングしている人たちがいることだ。これまたインドの未来的な眺めに思える。

    深夜になっても繁華街では開いている飲食店はとても多く、なんとも賑やかである。

  • アムパワー

    アムパワー

    エカマイバスターミナルからロットゥーでメークロンに向かう。エカマイもさびれているようで、かつては盛んにバスが発着していたのがパタヤその他以外にはロットゥーが主な出入り車両のようだ。当初は11:00のロットゥーのはずだったのだが、乗客が少なくて間引きされたようで12:00過ぎの出発となった。メークロンに着いてからバスを乗り換えてアムパワーに到着。

    移動中に一緒だった台湾の女性たちと散歩。金曜日のアムパワーはとても空いていて、扉を閉じたままの店も多い。いつもこんな具合なのかと言えば、土日は宿代が倍になるそうなので、週末に大変混雑するらしい。

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    彼女たちとは夕方の蛍ツアーにも一緒に参加することにした。ボートはアムパワーの運河からメークロン河に出る。河沿いの木には蛍の光がたくさん。見事なものだ。

    蛍ツアーのボート

    船が通ることができるようにと高くした橋が特徴的。古い時代のバンコクはこんな具合だったのかなと思わせるレトロ感がとても趣がある。ここに数泊してみたいくらいだ。

    マーケットで面白いものを見つけた。魚の干物かと思ったら、魚の干物のぬいぐるみ?という捻りが効いたもの。残念ながら臭いはしない。

    干物のぬいぐるみとは!

    その後、他の台湾の女性たちが合流して、夕飯は皆でいろいろ買って持ち寄りで、宿泊先の共用スペースでの宴会となった。大勢の女性たちと一緒に食事という機会はあまり無いので、なかなか気が引けつつも楽しいひとときとなった。

  • スリクルンホテルとその周辺

    スリクルンホテルとその周辺

    カンボジアのシェムレアプからタイのバンコクまでは1時間のフライト。ドンムアン空港に着いてから市内のスリクルンホテルへ向かう。

    スリクルンホテルはカフェに入ったことしかなかったが、今回初めて宿泊。ロビー周りはきれいだし、目の前がホアランポーン駅前の運河というのも良い。駅はほとんどの発着がクルンテープ・アピワット駅に移転しており、ごく一部のローカル線の発着のみとなり、鉄道駅としての機能はほぼ終えている。このあたりの寂れようは昔日の賑わいからは考えられない。

    かつては飲食店が多数入居していたホアランポーン駅構内だが、店のほとんどが撤退していた。ブラットフォームには蒸気機関等の歴史的な車両が展示されている。運河寄りのホームからは、ごく一部の各駅停車が発着。かつてのバンコクのターミナス駅は建物はそのままながらも、現在は小さなローカル駅になっている。

    タイ国鉄駅でよく見かけるベンチ。なんとなく蚊取り線香を思われるものがある。

    今後大規模な再開発などはあるのだろうか。それでも界隈でちょこちょこと起きている古い建物のヘリテージホテル化、ヘリテージレストラン化で、観光地中華街としてのヤワラー人気の高まりとともに、建物そのままでオーナーや運営者が交代して変化していくのか。

    年配のタイ人の方によると、1980年代あたりまでのヤワラーは中国系の幇同士の抗争が激しく、何かと危険だったらしい。そんなところが観光地として人気が出たり、よそから事業者が入ってきて、小洒落たブティックホテルを始めたりというような環境ではなかったようだ。時代とともにいろいろ変わっていくものだ。

    ジュライ・ロータリーに足を向けてみると、かつての「ジュライホテル」の建物は今も残っていた。かつては近くの楽宮ホテルと合わせて、宿泊する日本人バックパッカーは多かった。

    向こうの建物が旧ジュライホテル

    スリクルンホテルの朝食バイキングは昼ご飯であってもおかしくないくらい充実している。そしてお粥が素晴らしくおいしい。この日早く出発するつもりだったのが、少し遅くなった原因がこのお粥。あまりに美味しいので、何度もおかわりを繰り返し、トッピングの量を加減して変化を楽しんだりしたため、朝食にずいぶん時間がかかってしまったのだ。そのくらい美味しかった。

    ホテルの朝食なんてトーストとコーヒー目玉焼きくらいでも食べさせておけばよいのに、まったく手を抜かないところに良心を感じる。あるいはそれほど競争が激しい、あるいはこのエリアが寂れてしまいなかなか集客が大変なのだろうか。

  • シェムレアプ出発

    シェムレアプ出発

    カンボジア第2の都市だけあって、何かと便利な街であった。そして華やかでもあり、夕方以降も楽しい。

    大きなスーパーマーケットがいくつもあり、在住中国人、韓国人向けの食材店ではそれぞれ中華料理、韓国料理の材料等も大量に売られている。


    それでいて、シェムレアプの街はクルマが多くないため自転車であちこち行ったり、夕暮れ時にゆったりと流したりできるのも気持ちがよかった。滞在中は同じ自転車を借りっ放しで、「我が愛車」という感じにもなった。

    最終日、午前中は国立アンコール博物館を見学し、宿に戻ってチェックアウト。

    そして宿の隣の食堂で今回のカンボジアにて最後の昼ごはん。滞在先の部屋から「徒歩2分で着く」という便利さもさることながら、なかなか美味しいので繰り返し利用した。

    食後はオートリクシャーで空港へ。

  • ガチインド料理屋

    ガチインド料理屋

    シェムレアップで、この日の夕飯、「カリーワーラー」は、ちゃんとしたガチインド料理であった。前日のパンジャービーのおじさんの店のクメール化した大甘カレーには仰天したが、こちらはオーセンティックで安心。

    メニューはすべてリエルで書かれているのは、この手の店としては珍しいのだが、客層はインド人を含めたほぼ外国人に尽きるとのこと。ローカル客はいなくもないが、「100人来て2人くらい」とのこと。

    どのあたりを客層と想定するかによって、味付けやサービスの仕方が異なるのは当然で、同じパンジャービーでもそれぞれ大きく異なるわけだ。

  • 地雷博物館

    地雷博物館

    地雷博物館を運営しており、地雷除去の団体を率いているアキ・ラさんの話が大変興味深かった。5歳のときに両親がポル・ポト派に殺害されて孤児に。ポル・ポト派のもとで成長していくわけだが、やがて少年兵として各地を転戦。彼は「私は元クメール・ルージュの兵士でした」とおおっぴらに話す。普通はそのような過去は隠しているものらしいが、この人はバンバンしゃべる。ちょうど西洋人のツアーグループが来ていて、その中に混じって彼の話を聞いたのだが、私はぐいぐい引き込まれていった。

    行く先々で地雷を敷設したり、戦闘で人を殺害したり、味方が落命したりという大変な思春期を過ごしたという。それでも少年だったその頃は、一般の市民よりも上の立場であることに誇りを感じ、夜には兵士仲間たちと食べて踊って、余興のひとつのように銃を夕暮れ空に撃ったりするのも楽しかったという。

    そして「当時の兵士生活は楽しかった。市民よりも上の立場にある優越した存在であったから」とか、「クメール・ルージュの兵士として首に巻く赤いスカーフは誇らしかった」と、ギョッとすることまで言うだけではなく、「戦闘で相手をたくさん殺した」ことまで口にする。彼は少年兵としてポル・ポトの軍隊に放り込まれ以外に生きていく選択肢はなかったし、当時は洗脳されていたであろうから、当時はそのような心境であったのは自然なことであったのかもしれない。

    そんな彼に転機が訪れたのはベトナム軍との戦闘。味方が散り散りになり、彼は沼に身を沈めて戦闘が止むのを待ち、水から上がってしばらく歩くと、ベトナム兵に捕まり、一緒にいた仲間たちはその場で射殺された。アキ・ラさんはその中でとびきり若かったためか、情けをかけてもらい命拾いしたとのこと。

    その後は、持ち前のフレンドリーさとマメさでベトナム兵士たちの心を掴み、食料調達で銃によりゾウを倒したところ、ベトナムの部隊に大変喜ばれ、兵士として登用されたのだという。その結果、つい先日のまでは味方だったポル・ポトの軍隊に銃を向ける立場となったが、「こればかりはどうしようもなかった。選択の余地なし」とのこと。それが戦争というものの残酷さと虚しさなのかもしれない。

    「ついこの間まで私が所ほ属していた軍と戦い『元味方の兵士』を殺害することについては何の躊躇もなかった」と言う。投降した兵士ということもあり、戦闘が始まると常に最前線に送り込まれていたとのこと。まさに「捨て駒」の立場だが、相手が誰であろうと、とにかく戦って死なずに生き延びなければ現在の彼はなかったわけだ。

    平和な時代がやってきて、除隊して故郷に帰ると、村や周囲には地雷により足などを失う人たちが絶えず、かつて敷設していた自身を後悔するとともに、「敷設のプロ」から「除去のプロ」に転じ、国際機関等での専門家としての勤務を経て、自身の団体を立ち上げて現在に至る。とにかく明るくてエネルギーに満ちた感じの人なので、そんな暗い過去があったというのはにわかに信じ難い。

    本日、彼の団体はシェムレアプ近郊とタイ国境で除去活動をしているとのこと。こういう人たちの地道な活動があと100年続けば、これまでに敷設された地雷はほぼ無くなるというから、気の遠くなるような話だ。

    ※この人を題材にしたマンガがある。書名等は以下のとおり。

    タイトル:密林少年-Jungle Boy 1&2

    著者:深谷陽

    出版社:集英社

  • バンテアイ・スレイ

    バンテアイ・スレイ

    バンテアイ・スレイへ。ここはアンコール・ワットのような壮大さはないのだが、細かい造りまでが美しい仕上がりのお寺。しかも保存や修復の状態も良好なのでクメール彫刻の素晴らしさを存分に堪能することができる。ゆっくり時間をかけて見学したい。

  • アンコールパス

    アンコール遺跡の入場料は遺跡ごとに定められているわけではなく、アンコールパスという共通チケットによる入場となる。(一部例外あり、「アンコールパス」でカバーされず、独自に料金徴収する遺跡もある)

    入場といっても、各遺跡でのチケット確認以外に、道路途中に検問があり、アンコールパスの有無の確認がなされるため、アンコール地域の入域料金のような性格がある。この「エリア方式」は、私が前回訪問した1992年当時も同様で、各遺跡にはチケット売場はなかったし、今と違って係員もいなかったように思う。(アンコールワットなどいくつかのメジャーな遺跡では、管理の職員は配置されていたはず。)

    チケットは当時は数少なかったホテル(グランドホテルだったか?)で販売されているはずだったが、もちろんバックパッカーたちはそんなものは購入せずに観て回っていた。

    とにかく情報が少なかった当時だが、私はアンコールワット見学の後はベトナムに行き、そこからバンコクへ飛び(バンコクでサイゴン往復のチケットを買っていた)、そこからすぐに帰国する予定であったこと、当時のカンボジアの幹線道路ですら非常に悪路で、自転車ほどの速度でしか進めず、その悪路がゆえに道中絶え間ない激しい振動により胃下垂になって辛かったので、シェムレアプからプノンペンまでのフライトを予約していた。

    同宿の「命の恩人」(理由は後述する)カナダ人がどこからか「陸路でシェムレアプを出るには問題ないが、空路で出るとアンコール遺跡入場のチケットを見せないと、料金を支払わずに遺跡見物をしたということでベナルティーが課せられる」という余計な情報を仕入れてきた。

    彼と一緒に航空券を買いに行ったのだが、決して無視できない情報だ。彼曰く、その話は当時国連の選挙監視組織UNTACへの派遣で来ていたフランス軍の人から聞いたとのこと。幸いにもその人が「必要があれば言ってくれ。助けてあげるから」と言ってくれたとのことで、その所属先とやらに2人で出向いた。

    今から思えば、15ドルとか20ドルとかの話だったはずなので、なんとまあセコいことを!と思うのだが、当時若者だった彼も私も真剣だった。そんなどうでもいいことに付き合ってくれたフランス軍の人も奇特な人だが、実際のところ特にするべきこともあまりなくて暇だったのかもしれない。

    フライト当日、私たちは「UN」と黒字で大書きされた白い四駆に乗せてもらい空港へ。チェックインカウンターでは、情報どおりにアンコール遺跡のチケットを要求されたが。空港まで運転してきてくれたフランス軍兵士が、「彼らは観光目的ではありません。ボランティアとして私たちのところで働いてくれていたのです」という嘘をカウンター係員に告げるとボーディングパスが出てきた。

    それでも気になるところがあったのか、彼は「こういう国なので、何かあるといけないので、フライトが離陸するまで私はここに居ます。もし何かあれば、チェックインカウンター前に待機している私の所属と名前を言って下さい」と言う姿がカッコ良く、頼もしかった。もっともアジア人の私が単独で頼んでいたら、こういう展開はなかったのだろうなぁとも思った。同行のカナダ人はケベック州の人でフランス語も堪能なのだ。

    同行のカナダ人は「命の恩人」と書いたが、アンコール遺跡を訪れる前に滞在していた雨の日のプノンペンで、彼の瞬時の対応が無ければ、私はおそらく「享年25歳」で遺骨もなく葬られるところであった。

    プノンペンで道路が冠水していたその晩、彼と食事に行こうと歩いていたとき、道路脇の民家から何事か叫ぶおばさんがいて、私たちは「???」であったが。その数秒後、私は予期せぬ深みに落ち込みそうになった。

    まるでプールで息継ぎに失敗したかのようにお水を飲み込んでしまったが、視界が水面下に消えた瞬間、その彼が私を引き上げてくれたのだ。落ち込みそうになったのは蓋の開いたマンホールで、彼が居なければ今の私はなかった。落ち込む際に臑を強く打ったり、膝や踵を擦りむいたりしたし、全身びしょ濡れで一度宿に引き返してから消毒したり、着替えなくてはならなかった。

    彼とはベトナムに戻った後、一緒にニャチャンに行き、そこで私はデング熱に罹り、大変便利苦しかったが、再び彼の世話になった。医者を呼んできてくれたり、朝・夕の食事と水を私の枕元に運んでくれたりと、いろいろお世話になりっぱなしであった。

  • 東バライと西バライ

    東バライと西バライ

    巨大な湖のような東バライ。西側には西バライがある。人造の貯水池でアンコール時代のクメール帝国によるものだが、今でもここから水田に水が引かれるという灌漑施設の超傑作。アンコール遺跡はこの国に外貨収入と雇用創出をもたらし、バライは大昔も今も農民に水をもたらす。

    今は遺跡となっている寺院で、年中行事や人々の通過儀礼も行われ、周囲には門前町が形成されていたり、たくさんの民家からなる町が構成されていたりしたのだろう。

    お寺のすぐ外の敷地では界隈の子供たちが遊び、長じてはそのお寺で出家したり、お寺の世話を引き受けたり、子供が生まれてお坊さんから名前をもらい、お布施を差し上げたりと、様々な関わりがあったはず。

    お寺の石組みだけはこうして今の時代にも残っているが、そのあたりの人々の生の関わりや僧院内外の生活感というものを想像してみるのも楽しい。

    東バライ

    西バライ
  • ネアク・ポアン寺院

    ネアク・ポアン寺院

    ネアク・ボアンは、東バライの中の島にある珍しい水上寺院。アンコール遺跡で面白いのは、建築のデザインや意匠は統一されているのだが、それぞれの寺院に異なるレイアウトがなされていたり、高台にあるノッポな建物の寺院ものもあれば平地で平べったく広がるものもある。千差万別で面白いのだが、こちらのような島の中の島になっているようなものは、おそらく唯一無二。

    前回訪れた1992年当時、ここには行くことが出来なかっはず。ちゃんとした道路がなかったし、バライの中の島へ渡る橋などもなかった。今でこそ日本と変わらないスムースな路面を全速力で駆け抜けることができるが、当時はガタピシの道路をこれまたオンボロの昔の中国自転車でここまで来るのは相当キツかったはず。

    そしてここまで来ると治安的に危険でもあった。シエムレアップ郊外にはまだクメール・ルージュの兵士たちが出没していたし、警備に当たっている政府軍兵士から旅行者がカツアゲされたという話もよく耳にした。遺跡自体の敷地内でも地雷撤去がまだであった。

    当時はアンコールワット周辺でさえも、道路と遺跡の石組みの上以外の地面には降りるなと言われていたし、事故防止のためにドクロマークの「地雷あります」という標識がそこここにあった。観光客が多い主要な遺跡でこそ、そのような標識があったわけで、それ以外は一体どこに何が埋まっているのかは神のみぞ知るであった。

    当時はとにかくカンボジアに行ける、アンコール遺跡に行けるというだけで、バックパッカーたちにとっては新鮮なフロンティアであったわけだけれども、今みたいに快適に楽しく見物できるようなる時代がやってくるというのはまだ想像も出来なかった。

  • 機関車の前に無蓋貨車

    ふと思い出したが、前回カンボジアを旅行したとき、今となっては大昔の1992年だったのだが、カンボジア国鉄は客車を牽引する機関車の前に無蓋貨車を付けて走らせていた。ちょうど以下リンク先の写真がまさにその頃の鉄道の様子だ。

    Cambodian Refugees Return Home (UN Photo 1 June 1992)

    今では考えられないことだが、当時はまだ活動していたクメールルージュにより線路上に置かれた爆発物で、機関車が修理不可能なダメージを受けることを避けるためというもの。そんな具合で走っていたのだから、実際にそういう攻撃が時々あったのだろう。

    もちろん無蓋貨車は客車ではないため、それ用の乗車券などありはしない。さりとて当時のカンボジアはたいへん貧しく、移動するために敢えて機関車の前の無蓋貨車に乗る人たちがいた。事実上、タダだったからだ。

    「無料」ということでバックパッカーたちの利用も少なくなかったらしい。運が悪ければ爆発で吹っ飛ぶかもしれないし、そこまで運が悪くなくても、雨で荷物ごとびしょ濡れになることは多々ありそうだった。

    もうすっかり忘れていたことが、カンボジア再訪により頭の片隅から蘇ってきた。

  • アンコール遺跡を前にして

    アンコール遺跡を前にして

    今は遺跡となっている寺院では年中行事や人々の通過儀礼も行われ、周囲には門前町が形成されていたり、たくさんの民家からなる町が構成されていたりしたのだろう。
    お寺のすぐ外の敷地では界隈の子供たちが遊び、長じてはそのお寺で出家したり、お寺の世話を引き受けたり、子供が生まれてお坊さんから名前をもらい、お布施を差し上げたりと、様々な関わりがあったはず。

    お寺の石組みだけはこうして今の時代にも残っているが、そのあたりの人々の生の関わりや僧院内外の生活感というものを想像してみるのも楽しい。世界各地に「時代劇」の類はあるが、カンボジアにも「アンコール時代もの」みたいなドラマなどあるのだろうか。あればぜひとも観てみたいものだ。

    初めてカンボジアを訪れたのは1992年のことだった。当時は「情報ノート」と「宿のオヤジの手作りマップ」だけが頼りで、シェムレアプ周辺でも行くことが出来なかった遺跡(情報がなかったり、地雷除去がまだであったり等々)がたくさんあったと思う。

    長い年月を経た今、来てみて本当に驚いた。シェムレアプは何もかもとても便利になっているし、遺跡間を結ぶ道路はとにかく素晴らしい。30年以上もギャップがあるのだが、当時内戦がようやく終わったばかりの国だったのでこれほど変わるのは当然だろうけど、同時に戦争や政情不安というものが、いかに人々を苦しめてきたのかがちょっぴりわかったような気がした。平和になるとこれほどまで劇的に「別の国」に変身するのだ。

    それを思うと、人権問題やメディアの締め付け、縁故主義にリーダーシップの世襲と、国外とりわけ先進国からは評判の悪いフンセン政権だが、それでもカンボジアの国民の多くからは支持されるのは理解できるような気がする。とにかく戦争では、多くの人命や財産も奪われた。そんな厄介な政治はもうこりごりというわけで、今の成長路線が続くことが大事なのだ、きっと。

    何はともあれ今回、すっかり平和になり眺めも大きく変わったカンボジアを再訪してもて本当に良かった。