新型コロナワクチン接種で観光客回帰?

1月14日からセイシェル共和国は「新型コロナワクチン接種済」の観光客を検疫等の制限なしで受け入れることを開始した最初の国となったそうだ。

One island welcomes all vaccinated travelers — but some may want to wait (CNBC)

現在は同様の措置をネパールも検討中とのことで、これと同様の措置により接種済の証明書を持つ人に対してはPCR検査も隔離もまったく求めず、アライバルビザの復活も併せて検討中であるという。

Nepal to allow unrestricted entry to vaccinated tourists (Kahmandu Post)

とりわけこれまで観光に依存してきた国にとっては、今回のコロナ禍により経済が「生きるか死ぬか」になっているところは多い。同様の検討を勧めているところは少なくないはずだ。

もちろんセイシェルがこのような措置を開始したといっても、観光客の送り出し国では帰国時に従前どおり「14日間の隔離」をそう易々と停止することも現状ではなさそうだ。加えて旅客機の国際間の定期便も激減している中で、セイシェルが期待しているとおりには事が運ばないように思われる。新型コロナウイルスについて、まだわかっていない部分も多く、始まったばかりの接種の効果も未知数の部分もある。

今後、その効果と集団免疫の達成状況、そして各国間の合意等を経ることによって、「海外旅行」の機会が私たちのもとに戻ってくることになるのだろう。まだしばらく時間がかかるのだろう。

個人的にはセイシェルには関心はないが、「早く接種してネパールを訪問したい」と思っている。しかしながら現状では、帰国時には2週間の隔離があるだけでなく、「自粛ムード」の中でたとえ航空券が手に入っても、行けるのか?という面も大きなハードルである。

やはりまだしばらく先のことにはなりそうだが、それでも各地で接種が始まっていたり、開始が予定されているワクチンが大変有効なもので、「接種さえすれば海外渡航も行動も制限なしで当然」というムードが醸成される、ごくごく近い未来に期待したい。

「アーリア人の谷」の気になる噂

ラダックのブロクパの人たちの地域、俗に「アーリア人の谷」とも呼ばれるところだが、そこにはチベット文化と仏教を受容したアーリア人たちが暮らしている。

「アレキサンダーの東征の末裔」という説もあるが、中央アジアのフェルガナ盆地に端を発するアーリア人たちの幾多の集団が、現在の欧州、イラン、南アジア等へと移動していく中である集団は定着し、またある集団はさらに先へと移動していった。こうした集団の中の小さなグループがたまたまこの地に定住して、現在に至っているのだろう。周囲はモンゴロイド系の人たちの地域ながらも急峻な山岳に遮られているエリアだけに、そのままコミュニティが残されたのだろうか。

そんな珍しい地域で嫌な噂が流れているのに気が付いたのは近年。「妊娠ツーリズム」というものがあるのだというのだ。「純粋なアーリア人の遺伝子を求めて子供を授かることを目的でやってくる欧米人女性がいる」という話である。

当初は根も葉もない与太話だと思っていたのだが、India Today傘下のニュース番組でも取り上げているところから、実際にそういう例はあったようにも思える。ナチスの優生思想ではあるまいし、「純粋なアリアン」が何だというのだろうか。アーリア人の血とは、それ以外の人たちにくらべて、そんなに尊いもののなか。

それとは別に「現地男性が女性旅行者に買われる」という倫理的な問題がある。言うまでもなく「女性が男性旅行者に買われる」というケースは世界中で多く、これも同様に倫理的に問題なのであり、「アーリア人の谷」でのこの件がそれらより大きな問題というわけではないのだが、こんな小さなコミュニティのもとで、そんなとんでもない「ツーリズム」が振興したとしたら、本当に大変な話だ。

それはそうと、この地に暮らす「アーリア人仏教徒」というのは、たしかにちょっとミステリアスな存在ではある。しかし「純粋なアーリア人」という意味では、チベット文化を受容しており、チベット仏教徒となっている人たちが多いことなどから、「純血種」というわけでもないように思う。灰色や緑色の瞳の人たちは多いが、総じて小柄で肌色は赤みがかって(これは日焼けか・・・)おり、風貌も先祖のどこかにモンゴロイドの面影を感じさせる村人も少なくないのである。長い歴史の中でどこかで他のコミュニティとの交流があり、混血が繰り返された過去があると考えるのが自然だろう。

まあ、いろいろ頭に浮かぶことはあるのだが、地域起こしに観光というものは手っ取り早く収益を上げることができ、放っておけば失われてしまう地元の文化を「観光資源」として守り育てていく効果もあるのだが、方向性を誤ると地元の文化やコミュニティをひどく傷つける、地域の評判を著しく落とすたいへん不健康なものとなりかねない。

このような「ツーリズム」は、ごく一部の非常に稀な事例に尾ひれがついて広まった「都市伝説」みたいなものではないかと個人的には思いたいのだが、とりあえずは今後の進展に注目していくしかない。

Pregnancy tourism in India (INDIA TODAY)

 

サウジアラビアの観光振興

昔ならば(昔といってもどのあたりまで遡るかによるが)サウジアラビアが観光振興政策を打ち出す時代がくるとは想像すらしなかった。観光査証そのものが存在せず、どうしても見たければ通過査証でなんとかするしかなかった国。その後、名目は「視察」で事実上の観光客を国を限って受け入れるように転換した。たしか十数年前であったか。

そして今では「Visit Saudi」というキャンペーンを打ち出している。コロナ禍の中で渡航はできないが、収束した後を見据えてのものだろう。広い割にはあまり観るべきところはない国と思う人もあるかもしれないが、実はけっこう名所には事欠かないサウジアラビア。

インドから同国各地への直行便は多いので、コロナが収束したら訪問してみたいと思う。そうしたフライトの乗客の大半はインド等からの出稼ぎの人たちなのだが、サウジアラビアを観光していても、各地のいろんなところで、インド、ネパール、パキスタンからの出稼ぎの人たちと出会うことだろう。インド旅行裏バージョンみたいなものになるかもしれない。

人口統計に在住外国人も含まれる湾岸諸国。総人口中に占める外国人の割合が88%と最も高いUAE、81%のカタール、68%のクウェートと比較すると、サウジアラビアでは32%とずっと低い。それでもサービス産業従事者のほとんどは外国人であると思われる。その中でインドをはじめとする亜大陸の人たちが占める割合は高く、加えてエジプト、スーダン、モロッコなどのアラビア語圏の人たちという具合だろう。以前、土地っ子の雇用創出のために外国人タクシー運転手を締め出そうという試みはあったようだが、結局サウジアラビアの人はそういう仕事をしたがらないので、今でも運転手たちは外国人のようだ。

乗り物の運転手車掌等を含む交通機関の職員、商店の店員、食堂や宿屋等で働いているスタッフやマネージャーなどは、たいてい出稼ぎの人たちだろう。そんなわけで、旅行して接する人たちの多くはインドや周辺国の人たちだろうと想像している。

前述のとおり、サウジアラビアよりもさらに総人口中に外国人の占める割合が高いUAE、カタールなどで、「アラビア語の次に広く通じる言葉」は、ヒンディー/ウルドゥー語だという。このあたりもコロナ明けに訪問してみたいと考えている。

アラビアへようこそ (SAUDI TOURISM AUTHORITY)

ネット屋

インターネットが普及し始めた1990年代半ば、世界中でサイバーカフェなる「ネット屋」が続々オープン。どこも大いに賑わっていた。

それまでは、旅先で家族や友人と連絡を取り合うとすれば、郵便が主要な手段であった。どこの国でも大きな街の中央郵便局では「局留め」で封書、ハガキ、荷物などを期限付きで預かってくれていた(今でも制度上はあるかと思う)ので、そうしたところでは親しい人から手紙を受け取って笑顔の人、期待していた便りがなくて残念そうな人等々、さまざまだった。

電話という手段もあったが、いかんせん国際電話というものは目が飛び出るほど高かったので緊急の場合のみの手段であった。電話局で長時間待たされるものでもあった。そもそもこちらからはかけられるが、自前の番号を持っていないこちらに家族や友人がかけることはできない。

「コレクトコール」の制度を利用して、定期的に自身の安全を家族に伝えている若いドイツの女性に会ったことがある。数年前に欧州を一人旅していた兄が事件に巻き込まれて死亡するという不幸があり、両親は成人したばかりの子がひとりで旅行することを大変心配しており、毎週末にに欠かさず無事を知らせるという約束で旅行に出るとができたのだそうだ。両親の元にコレクトコールを依頼し、オペレーターが両親のどちらかに「娘さんがコレクトコールをかけたいと依頼しているが受けるか?」と質問して、両親は断ることになっているのだと言っていた。どうしても話をする必要がある場合はどうするのかと尋ねると、「緊急の際に名乗る名前が決めてある」とのこと。いつもの名前でかければ自分が無事であるという了解になっているのだというから、実に賢い「コレクトコールの利用方法」だと感心した。

手紙を出してもこちらから向こうまで届くのにかかる時間、故郷からこちらまで届くまでの時間は、国や地域にもよるが短くて数日、長くて半月あるいはそれ以上かかることもあり、ハガキなどでは伝えられる内容も限られていた。

ネットの時代入ってからは、連絡にかかる時間がゼロとなり、向こうがすぐに見て返信してくれれば、ものの数分で「元気そうでなりより」という連絡が入ってくるのだから、郵便でやりとりしていた時代とは比較にならない一足飛びの進歩だった。インターネットが普及し始めたばかりの低速な回線であっても、それはたいへんな驚きであったことは言うまでもない。

低速な回線といえば、その頃のインドの田舎ではネット屋が少なく、接続はとても遅かった。宿からわざわざオートリクシャーでネット屋まで行き、そこでウェブメールで自分のアカウントをなんとか開き、届いているメールに簡単な返信を書いて送信するだけで、軽く1時間かかってしまうようなことはザラであった。ログインするにも、受信するにも、送信するにも、じっと待っている必要があったのだ。

それでも当時は「たいへん便利な時代になった!」と感じていた。インドから日本その他どこにでも連絡をすることができるからだ。それだけではなく郵便のように「これから向かう先の中央郵便局」の局留めで送ってもらうわけではなく、目の前で開いている自分のメールアカウントで相手とメッセージをやりとりできるという双方向性は画期的だった。

やがてブロードバンドが浸透してくるころになると、あまたあるネット屋はいずれも「高速回線」を売りにするようになり、ネット屋で家族や友人たちとビデオチャットに興じている様子はよく見かけるようになった。

ネット屋が重宝されていたのはこのあたりまでだろうか。それまでは「有料サービス」であったホテル等でのWIFI接続は次々に無料化されていき、街中のカフェなどでも無料のWIFIサービスを提供するところが増えていき、有料のネット接続そのものを提供するネット屋は次第にジリ貧になっていく。

ネット屋の時代の終焉が決定的となったのは、スマートフォンの普及だ。初代iPhoneの登場した頃には端末もデータ通信料も高額であったが、アンドロイドOS搭載のスマートフォンの登場とともに利用者が急増していくにつれて端末価格も通信料も低廉化していく。

この流れの中で、誰もが掌の中にネット環境を持ち歩くようになっていったため、ネット屋はすっかり存在意義と顧客を失い、バーザールから姿を消していった。

廃業したネット屋(バンコクにて)

今から思えば何が仕込んであるかわかったものではない端末で、よくもまあ大切なIDとパスワードを入力してメールのチェックなどしていたものだと思うが、それも自前の端末とネット環境を持ち歩くことができる今だからこそ言えることだ。

こうしたものを求めるユーザーが爆発的に増加していくことを受けて、各国でデータ通信の分野で新規参入が相次ぎ、熾烈な競争を繰り広げた結果、旅行者のような一時滞在者でも安価に利用できるプリペイドプランが各国で普及した。インドもまたその中のひとつであることは言うまでもない。

今の時代、早朝でまだ暗い宿のベッドの中でメールをチェックして必要があれば返信し、階下に降りて開店したばかりの隣の食堂でトーストをかじりながら、長距離バスを予約し、続いてUBERを呼んでバススタンドまで行ってもらうというようなことが可能なのだから、ずいぶん便利になったものだと思う。バスが深夜近くになって目的地に到着するので泊るところが不安であれば、座席で揺られながら予約サイトでバススタンド近くの宿を確保できてしまう。

長期旅行者たちの旅のスタイルにも大きな変化を生んだ。ネット以前は仲良くなった相手と別れるときは文字どおり「今生の別れ」みたいなもので、住所と実家の電話番号を交換して「また機会があれば会おう」なんて言っていたが、ネット時代に入るとメルアド交換でいつでも簡単に連絡できるようになった。

そしてスマホとSNSの普及した後は、「佐藤君は今日プリーに着いた」とか「ジャニスは明日イギリスに帰国するみたい」といったことがオンタイムで共有されるようになったし、SNSの通話機能でごく当たり前に会話する先は自国であったり、旅先で会ってすでに他国に移動している相手だったりする。

そんな具合なので、旅行先で待ち合わせて再会というのもごく当たり前のものとなっている。ネット以前も旅先で再開というシーンはしばしばあったとはいえ、それらは偶然の産物であり、予定しての行動ではなかったため、本質的に異なるものであった。

デジタルの時代になってからは、どんなサービスや利便さも、すぐに陳腐化してしまうので、現在の「たいへん便利な時代」も5年後、10年後から見ると、「あの頃はあんなに面倒くさかった」とか「まだこんなことをしていた」と思い出すことだろう。

もっともその「進歩」を見る前に、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが収束を見ないことには、そうした旅行の景色は見えてこないわけだが。

OMAXE CHOWK in Chandni Chowk

OMAXE CHOWKという豪奢なモールがデリーのチャーンドニー・チョウクにできるらしい。あんなカオスな場所に?と思うかもしれないが、もともとチャーンドニー・チョウクはムガル皇帝一族や宮中の貴人たちを相手にするマーケットがあったところ。噴水と水路が流れる(イスファハーンのそれを想像するとよい)を持つ目抜き通り。1857年のインド大反乱後にムガル朝が終焉を迎えてからも引き続き大きな屋敷が立ち並ぶ瀟洒なエリアであった。

それが今のような人口密度の稠密な商店街となったのは、印パ分離の際、ここに多く住んでいたムスリムの上流層が大挙してパキスタンに移住したため。それと入れ替わるように、地元の庶民たちやパキスタンから流入したヒンドゥー教徒たちが空き家となった屋敷や敷地を占拠、そして又貸しするなどして、それぞれの物件が細分化されていくとともに、オリジナルな構造にさまざまな改造が重ねられるとともに、メンテナンスの欠如から崩壊していくこととなった。

そんなわけで、元々あったような形に一部が戻る?というような具合であるかもしれないのだが、現在あの状態にあるエリアでこのようなモールが出来上がってちゃんと意図したような形で繁盛するのだろうか。あるいは建物は立派でも、やっぱりチャーンドニー・チョウクがそのまま入居したような具合になるのか。

オープンしてから、近くにあるムグライやカシミーリーの旨い店を訪れるついでに立ち寄ってみるのが楽しみである。

OMAXE CHOWK (OMAXE)