目下、ルピー高が続いているが、対米ドル相場上昇という現象を除いても、近年のインド・ルピーの安定ぶりはかつてなかったものだ。80年代から90年代半ばごろにかけては、その間に92年の経済危機の際のような大きな切り下げもあったが、概ね当時のインドにおける金利より少し低い程度、つまり10%前後の率で切り下げていたと記憶している。
90年代も後半に入ると、1ドルに対して30ルピー台後半、つまり40ルピーを少し切る程度、闇両替だと40の大台に届くかどうかといった具合になって以降、それ以前よりもゆっくりと価値を下げて45ルピーを越えるようになり、やがて1ドル=50ルピーあたりにまで下がってからは持ち直し、その後長らく40数ルピー台で推移するようになっていた。そこにきて今や1ドル38ルピー台、39ルピー台で行き来している。
その間、消費者物価は平均4〜7%弱程度上昇しているので、日本のようなゼロ成長の国で収入を得ている者にとって、まだまだ安く滞在できるインドとはいえ、相対的に『高く』なってきていることは事実だ。加えてGDP成長率が7%から9%台という、まさに世界の成長センターであることから、特に住民の間に可処分所得の多い都市部において、『お金を使うところ』『お金がかかるスポット』が増えている。この国を訪問する外国の人々は以前に比べて多くのお金を消費するようになってきていることも間違いないだろう。
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その電話はブータンに通じる
ヒマラヤの小国ブータンにアメリカ向けのコールセンターが開設されるのだという。ちょうど隣国インドでイギリスやアメリカの会社によるアウトソーシングのサービスを行っているように。英語のアクセント等の訓練や一般常識等の基礎知識の訓練を行ったうえで、8月から業務が開始されるのだそうだ。
ブータン初の英語コールセンターの運営等は、バンガロールを拠点に同事業を展開するインド資本によるもの。特別な関係にある二国間にあって、やはり他に一歩先んじるのはインド企業ということなのだろう。記事中には『英国やオーストラリア向けサービスも予定』とあり、頼るべき産業があまりなく、外貨獲得手段も限られているこの国にあって、一大産業に発展する可能性があるようだ。人口およそ70万人と規模は小さいものの、1970年代よりインドの協力もあって英語教育が普及しているブータン。現場で業務に従事する人材には事欠かないのだろう。
同国は外国人の入国を厳しく制限しており、観光目的の入国でさえも通常はごく限られた短い期間のものとなり、滞在中の行動も制限されている。いわば鎖国状態にあるといえるこの国に暮らす人々が欧米の大企業のサービスを代行するというのは逆説的にも響く。だが国王主導とはいえ着々と民主化、複数政党制導入への道筋が築かれているこの国の将来を予見する重要なトピックではないかと思う。まさに大きな変化のはじまりとでも言えるのではなかろうか。
従来の権力層とビジネス界を中心に台頭する外資を含めた新進勢力の綱引き、民族主義とグローバリズムの拮抗が予想される中、中国とインドという二大国の挟間にある小国が、旧スィッキム王国(現インドのスィッキム州)やネパールといった先例を見ながら、どういう国づくりを進めていくのか大変興味のあるところだ。
ヒマラヤに問い合わせ ブータンに初のコールセンター (asahi.com)
観光振興 北東インドとバングラーデーシュは相互補完?
インドの北東地域は観光地としての大きなポテンシャルを秘めている。外国人観光客に門戸を開放してからまだあまり年数が経っておらず、『何か新しいところ』を求める人々にとってはまだ『辺境』のイメージがあり、それ自体が魅力的であること、また南アジアと東南アジアの中間にあり文化的にも非常にユニークなことに加えて、変化に富んだ地勢もあり、トレッキングやエコツアーなどいろいろ発展する可能性があるようだ。
しかし地理的なウィークポイントも大きい。北東地域からコルカターの方角を眺めると、その間に横たわるバングラーデーシュの大きさを思わずにはいられない。ハウラーから鉄道で向かえば丸一日かかるグワーハーティーも直線距離ならば約520キロ、シローンもおよそ460キロ。西ベンガル州都から見てバングラーデーシュを越えた反対側にあるアガルタラーは300キロほどである。しかし空路を使う場合を除けば、ずいぶん遠回りになってしまい『本土』からのアクセスは芳しくない。この地域を訪れる観光客があまり増えないことの主な原因のひとつは交通の便であろう。
またバングラーデーシュにしてみても、随一の大都会ダッカはもちろん、数々のテラコッタ建築で知られるラージシャーヒー周辺、クルナのバゲール・ハートのイスラーム建築群、少数民族が暮らすチッタゴン丘陵地帯、茶園が広がるシレット、バングラーデーシュ最南端で周囲に珊瑚礁が広がるセント・マーティン島など数々の見どころを抱えるなど、観光資源も豊富である。ガウルの遺跡やスンダルバンなど、インドとの国境にまたがる史跡や国立公園などもあることもなかなか興味深い。
だがこの国についても同様にアクセスの問題がある。ヴィザが必要なことに加えて、国土をぐるりと一回りするほど長い国境線を共有している割にはインドとの間で通過可能なポイントが限られていることから、往来はあまり便利ではない。それがゆえに隣のインドに較べて観光目的で訪れる人々があまり多くないのだとも言えるだろう。
そもそもインドとは別の国になっているがゆえに、様々な華やかに喧伝される隣国に較べてこの国の魅力が取りざたされる機会も相対的に少なくなってしまう。
隣接州の禁酒解除でディーウ島凋落の危機?

先日、禁酒州のグジャラート州では酒類に関する部分的な解禁が予定されていることを伝えたが、同州で近い将来アルコールが本格的に解禁となったらどうなるだろう。酒類販売のライセンス、バーの営業許可その他大きな利権が動くことになるだろうし、酒造会社の工場も各地に進出してくるかもしれない。合法化されると白昼堂々といろんな酒が購入できるようになり、バーの許可を得たレストランでは普通にビールなど楽しむことができるようになる。これまで酒をたしなむ習慣がなかった堅物も『さてどんなものだろう?』と手を伸ばしやすくなる。酒を取引することが『罪』でなくなると意識の上でもかなり大きな変化が起きるのではないだろうか。アルコール類がいとも簡単に入手できるようになると、若年層の飲酒も社会問題化するのではないかと予想している。とかくこの世の中、何ごとかが『解禁』されると大きな反動があることは珍しくない。
だか州内はもとより、グジャラート州の禁酒政策により恩恵を蒙ってきた隣接する連邦直轄地ディーウの行方もちょっと気になっている。
今年は中印観光友好年

2007年は日印交流年であるとともに『中印観光友好年』でもある。
このほどビハール州のナーランダーで玄奘三蔵記念堂が落成した。この記念堂建設事業には驚いたことに約半世紀もの年月がかかっている。1950年代に両国間で合意し建設が始まったものの中印紛争が勃発、そして長らく続いた両国の敵対関係のため工事は長らく中断。両国の関係改善にともない2000年になってから工事が再開され、両国の関係機関等の協力のもとで建設が進み、ようやく2007年2月になって落成式を行なうことができたのだ。
両国間での各界の要人たちの様々な目的による頻繁な往来、国防面での交流と協調の促進も提言されているが、経済・商業面での結びつきの強化に向けてはインド側もかなり力を入れているようで、『メイド・イン・インディア・ショー』や『インド・ファッション・ショー』といったプログラムの開催が予定されている。
そして交流年としての看板である『観光』自体については、インドや中国から海外旅行を楽しむ人々が増えてきたとはいっても、それぞれの国の人口の大多数である庶民は両国間を観光で行き来できるような恵まれた環境にはないため、文化使節として京劇、ボリウッドダンサーたちの往訪、文化展、スポーツ大会、ブックフェアにフードフェスティバルの開催といった交流事業が中心を占める。
予定されている様々な活動のひとつに先述の玄奘三蔵記念堂の落成も含まれているが、中国側にインドによるモニュメント建設計画もあり、河南省洛阳市に『インド式仏教寺』が建つ(すでに完成しているのかもしれない)のだそうだ。
また中国政府は今後5年で500人の若者をインドから受け入れることを決定している。どのような目的でどれくらいの期間招致するのかよくわからないのだが、インドの将来を担う有望な若者たちの中に親中派の芽を植え付けようというのが目的であろう。
長い国境を接している割には、地理的・政治的な障害に遮られて国民同士による直接の行き来は希薄だった両国。関係改善と政府が音頭を取っての交流促進のムードの中、折りしも経済グローバル化と飛行機による大量輸送の時代ということもあり、インド・中国間の人やモノの行き来は両国間の歴史始まって以来の急速な進展を見ることだろう。中国におけるインド企業やインド人たちのプレゼンスの台頭以上に、インドを中心とする南アジア地域に企業家精神に富む『新華僑』たちが次々に進出してくる様子が頭に浮かぶ。
これまでインド在住の中華系住民のイメージを代表してきたのはコルカタ華人たちだが、今後新たに大陸から進出してくる人々にお株を奪われてしまう日はそう遠くないように思われる。
「中国インド観光友好年」開幕 (人民網日本語版)