モデーラーへ

本日も部屋にトーストとチャーイを頼んで朝食。宿のすぐ隣にあるバススタンドからバスに乗ると40分程度で到着。バススタンドの表記は州の公用語であるグジャラーティーのみなので、デーヴァナーグリー文字あるいはローマ字表記も併記してもらいたいところだ。

小さな町だがそれとは裏腹にバススタンドはきれいでなかなか近代的。やはり州内で統一的なデザインがあるようだ。車内の乗客にとって「どこのバススタンドに到着したのか」一目でわかるように地名が大きく表示されているのも良い。ただしプラットフォームの行先表示はグジャラーティーのみなので、デーヴァナーグリー文字あるいはローマ字表記も併記してもらいたいところだ。

モデーラーのバススタンド

スーリヤ・マンディルことサンテンプルは、バススタンドから上り坂を進み、登り切ったところからの下り坂を下りきったところで大きな道路を越えた先にある。 そのバススタンドからの小道を上がる途中に見事な大理石で作られた寺院があった。なんでもない小さな町にもゴージャスなお寺が忽然と姿をあらわすのはグジャラートらしいところだ。

スーリヤ・マンディルの敷地はきれいに囲まれており、パータンのラーニー・キー・ワウ同様、きれいな遺跡公園となっている。スーリヤ・マンディルはきれいに修復されているとともに寺院手前にある階段井戸がこれまた見事だ。お寺と沐浴のタラーブがセットというのは太古の時代からインドの東西を問わずヒンドゥー教圏では同じ。

日本であれば、このような階段井戸の手前で規制線がありそうだし、彫刻に触ることもできないかもしれないが、こうして子供たちが水遊びをしたり、大人もベタベタと石面をなでて、文字通り「体感」したりできるのがインドの良いところ。

遺跡の寺院はすでに宗教施設としての役割を失った史跡であるはずだが、内陣に新しい祭壇がしつらえられていたり、ASI(インド考古学局)管轄下の敷地なのに、大きな祠があたかも遺跡の寺院の一部であるかのように「併設」されたり、さらには常駐するプージャーリー(祭司)がいたりすることも珍しくないのはいかがなものかとは思う。

ともあれ「こうあるべき」「こうあってはならない」との狭間の余白部分が広いのはインドらしいところだろう。加えて羨ましいのは石造建築物の多さ。日本だと木造なので保存にかかる手間、木材自体の耐久性からくる制約もあるが、万一の火災で燃えるという致命的な弱点がある。

遺跡公園にはレストランも併設されている。民間の企業が委託を受けて運営しているもののようで、スタッフは暇そうだった。人数ばかり多いのは人件費が安いからだろう。

スーリヤ・マンディルの敷地近くにあるハワー・メへルの手前に「階段井戸」がある。それも見学したかったのだが鉄の柵で囲われているとともに扉には鍵がかかっていて見学することはできない。文化遺産登録されているらしいことは標識でもわかるのだが、せっかく遺産と認識されていながらも打ち捨てられている状態というのは残念な限り。

ここに面した大きな道路を牛たちを引き連れた牧童(といっても年配者だが)が悠々と進んでいく。このあたりの悠久感は変わりゆくインドにもまだ多数残されている。

バススタンドに戻り、マデーシュワリー・マータンギー・マンディルへ。大きなダラムシャーラー(宿坊)、ゴーシャーラー(牛舎)併設の大きな寺院。牛の福利もお寺の大切な仕事である。そうしている間もけっこうな数の人々が大きなスーツケースとともにダラムシャーラーに入っていったり、滞在中らしき人が建物から出てきたりしている。ゴーシャーラーについては大きな看板に寄附金額なども提示されている。

ダラムシャーラー
こちらはゴーシャーラー

モデーラーでの見学を終えてメーへサーナーに向かう。ここはモデーラーやパータンなども含めた行政単位の中心地域。バスで30分程度の距離だ。バススタンドの真横にある有名なシュリー・スィマンダール・スワーミー・マンディルを見学してからパータンに戻ることにする。

メヘサーナーのバススタンド
シュリー・スィマンダール・スワーミー・マンディル

帰りのバスは満員で立っての乗車。途中でブレークダウンにより、どこかのバススタンドで停車。

「あいやー、ブレーキ壊れてまったく効かへんねん」と運転手氏が言えば、「あらぁ、そらあきまへんな」と、そそくさと降りて代車を待つ乗客たち。

バスの代車を待つ

電車が少し遅れただけで駅員をどなりつけたり締め上げたりする人がけっこういる日本から見るとインドから学ぶべきところは多い。ちょうどバススタンドだったためか、代車が早く来てよかった。そそくさとみんな乗り込む。

 

 

スィッドプル

グジャラート州のスィッドプルにあるシーア派ムスリムのダウーディー・ボーハラーのコミュニティーの屋敷町。端正かつ壮麗な街並みに腰を抜かす。建物の多くに建築年が示されており、1900年代から1930年代にかけて、一気にこの街並みができ上がったという不思議。その時期にはどんな爆発的なブーム、好景気がボーハラーのコミュニティーで共有されたのだろうか。スィッドプルのラヒームプラ(Rahimpura)からサイフィープラ(Saifeepura)という地域にかけてこうした景観が広がっている。

それぞれの建物は、非常に大きな造りで、横に長く屋敷が連なっており、コミュニティーの結束の強さを感じさせる。外から大きな南京錠がかかっている世帯が多いが、たいていは地域外で活動しているため、ここに戻ってくるのはせいぜい年に一度程度なのだとか。今でも住んでいるところも少なくはないようで、そうしたところからは開け放したドアや窓の向こうに見える日用品等に生活感が感じられる。

特徴的なのは、シェカワティーのハヴェーリー、チェッティナードのハヴェーリーと同様に特定の商業コミュニティーの人々の邸宅なのだが、それらひとつひとつが独立した屋敷となっているわけではなく、欧米のタウンハウスのような形で展開していることだ。ずっと現地を離れているオーナーたちがテナントに貸し出すことなく、世話人を雇って日々手入れさせていること、定期的に修復なども実施しているがゆえ、現在も美しい街区がそのまま保存されているのだ。フレスコ画で有名なシェカワティーのハヴェーリーで、しばしば邸宅内部を細分化して貸し出したり、一階部分を壁で仕切って店舗として貸したりしていることが多いのとはまったく異なる。

これらの建物内での所有形態がどうなっているのか知らないが、シェカワティーのハヴェーリーに同一のジョイントファミリー内の複数の世帯が共同生活していたように、ここではひとつのタウンハウスのように見える建物がひとつの親族グループにより建築・所有されているのかもしれないが、そこのところはよくわからない。いずれにしても極めて都会的な邸宅の様式と言えるだろう。

これに近い形の「タウンハウス的ハヴェーリー」はビーカーネールにも見られるのだが、陸上交易時代にはビーカーネール自体が大きな稼ぎの場であったのに対して、ボーハラーの人たちがこうした屋敷を建てた時代には、すでに鉄道や道路による大量輸送の時代になっており、館の主たちの多くはインド各地及び東南アジアから中東、アフリカにかけての広大な地域での交易で財を成した人たちだ。家の入口あたりに「ワドナガル・ワーラー」「スーラト・ワーラー」「カルカッタ・ワーラー」などと書いてあるのは、その家族がビジネスで定着した土地を示している。中には「アデン・ワーラー」「シラーズ・ワーラー」など、外国の地名が書かれているものもある。ダウーディー・ボーハラーはインド亜大陸だけでなく、中東やアフリカにも広く展開している世界的な商業コミュニティーである。こうした屋敷群の中では見かけなかったが、日本でも神戸あるいは横浜のようにかなり昔からインド系商人が出入りした土地には、長く現地で事業展開してきたボーハラーの「コウベ・ワーラー」「ヨコハマ・ワーラー」などが存在しているのではなかろうか。

このような形で集合住宅を、20世紀前半になってから建てることにどういう合理性があったのか、ぜひ知りたいところである。建築時期が遅いものになると、1960年代になってからという建物すらあるのだ。

ボーハラーの人々のモスク
ボーハラーのコミュニティーホール

Slice of Europe in Sidhpur Bohra Vad, Gujarat

ルドラ・マハーラヤ
ルドラ・マハーラヤ

蛇足ながら、スィッドプルにあるルドラ・マハーラヤ。かつて存在した壮麗な寺院遺跡だが、入場禁止となっている。今にも倒壊しそうな部分もあるので仕方ないだろう。近く修復の手が入るらしい。修復が完了して見学できるようになったら、ここもまたマストな見先ということになる。

こちらはスィッドプルのバススタンド。周辺各地からのアクセスも良好だ。

ワドナガル駅 モーディー首相少年時代の原風景

グジャラート州のパータンからワドナガルへと向かう。直行のバスは少ないため、途中ウィスナガルで乗り換えだ。州内のバススタンドは各地で一気呵成で改装したのだろうか。多くは共通したデザインで造りも似たきれいな建物になっている。

スマホの利用が普及してからというもの、乗り物で移動中に自分が今どのあたりを通過しているのかよくわかるのがありがたい。それ以前は、ようやく目的地に入ってくると店などの番地表示にその市の名前が入ることから「どうやら着いたらしい」ことはわかるものの、それまではまったくわからないし、人に聞いてもかなり適当な返事が返ってくることが少なくなかった。また、自分の目的地と「まさに今通過している場所」がどういう位置関係にあるのかよくわからなかったため、何度か来たことがある場所でもない限り、とりあえずはその街のバススタンドまで行くことが多かった。結果としてずいぶん遠回りになったり、バスで通ってきたルートを戻って目的地まで行くということもよくあったように思う。

スマホに表示されたGoogle Mapでは、ワドナガルのバススタンドから鉄道駅までは少し距離があるように見えたが、実際にはほぼ斜向かいであった。小さなローカル駅を想像していたが、案外大きなホームを持ち、建物も立派になっている。聞くところによると、ごく近年になってから大改修がなされたとのこと。小さなローカル駅だし、幹線ではなく支線の駅がなぜこんなに大きいのかと不思議に感じるが、ナレーンドラ・モーディー首相に由緒ある駅だからなのかもしれない。

ワドナガルへの私の訪問の目的地は、まさにこのワドナガル駅なのだ。かつてこの駅でモーディー首相の父親がチャーイ屋を開いており、少年時代のモーディー首相は、よくその手伝いをしていたという。父親が淹れたチャーイをお客に手渡したり、代金の受け渡しなどをしていたのだ。テーリー(油絞り)カーストであることからOBCs(Other Backward Classes)のカテゴリーの出自、貧しい生い立ちのモーディー首相は、世襲の政治エリートではない庶民の出自であったことも、高い人気の背景のひとつである。

駅のプラットフォームには、モーディー首相が子供時代に父親の手伝いでチャーイを売っていた「T13」という店番号が付された小さなティーストールが残っている。「T/13」という店番号が付いている同じ形状のレプリカも建っているが、一段低いところに残されているものがオリジナルだ。駅改築の際にホームの高さが上がったため、掘り抜いたところにあるように見える。ここで「ナレーンドラ少年」は、父親やお客たちからときにどやされながら忙しく駆け回っていたのだろう。

こちらはレプリカ
こちらがオリジナル
店番号「T/13」

ついでにモーディーの生家も訪れてみたいものだが、すでに地所は売り払われており、建物も残っていないのは少々残念。

駅を出てしばらく歩いたところには、ハトケーシュワル(シヴァの別名のひとつ)寺院があり、そのすぐ近くには大きな門がある。かつてはここも城壁に囲まれた町であった名残である。古くて趣のある家並みを眺めながら進んでいくと、シャルミスタ・タラーブという池に出るが、そこからさらに進むと「キルティ・トラン」が見えてくる。これは大きな寺院の門であったと考えられているが、その寺院自体が発掘されていないため、実際のところはよくわかっていないようだ。

ハトケーシュワル寺院

ゲート
落ち着いた家並み
キールティ・トラン

小さな田舎町ながらも見どころはいくつかあり、地域内各地からのアクセスもまずまず。グジャラート州のパータン周辺には見どころが多いが、とりわけモーディー首相の生い立ちに興味のある方であれば、ここも訪問先のひとつに加えてみると良いかもしれない。

現代のワウ

前日は遺跡として管理されている古いワウ(階段井戸)を見学したが、現在も使用されているものはどうなっているのかと思い、KHODAIYAR MANDIR の中にあるものに行ってみた。

内部はタイル貼りでよくある今どきのお寺といった感じで、階段深く下ったところから水が湧いておりご本尊が鎮座している。

グジャラート州では、アーメダーバードのような大都会にあっても、カラスや鳩みたいな感覚(ちょっとおおげさか?)でクジャクたちの姿を目にする。

ついでにもうひとつ「現役のワウ」。こちらはASHAPURA MATA MANDIRという小さなお寺の裏手にあるが、立ち入り禁止となっており、物置として使われているなどしており、現代も使われている施設内のワウというのは、どうも旗色が良くない。

物置として使われている。

ELLIS BRIDGE

オリジナルの橋梁は左右から新しい橋に挟まれる形となっている。

オートでエリス・ブリッジを渡る。左右から新しい橋が挟み込み、オリジナルは普段は通行禁止になっている。

これはアムダーバードを象徴する橋で、ちょうどコールカーターのハウラー・ブリッジに相当するようなものであり、幾度も映画のロケにも使われている。

英領時代の19世紀後半に木造の橋が築かれ、その後鋼鉄製のものに架け替えられた。それが現在目にすることのできるエリス・ブリッジのオリジナル部分だ。

橋の名前は、英国植民地当局の幹部であったSir Barrow Helbert Ellisに因むものである。ユダヤ系英国人の彼は英領インド政府の要職を歴任し、最後は総督のEXECUTIVE COUNCILのメンバーにまで上り詰めた。現在の内閣に相当する機関であり、閣僚級のポストにあったと言える。

メジャーなランドマーク的な橋でありながらも、独立後にインドやグジャラート州の偉人の名前に置き換えられることなく、往時と同じ名前で知られていることは特筆すべきことかもしれない。