バングラデシュからのヒンドゥー移民に市民権をという主張について

隣国バングラデシュから経済的な理由からインドへ不法な移住を図る人々の流れは絶えず、常に政治問題となっている。

北海道の7割増程度の土地に約1億8千万人の人々が暮らすという人口があまりに稠密すぎるバングラデシュから雇用機会とより高い賃金を求めて、同じベンガル人が暮らす西ベンガル州、おなじくベンガル人たちが多く暮らす近隣州に出ようというのは自然なことでもあるだろう。もちろん彼らが移住する先はこれらに留まらず、インド各地の主要な商業地域や工業地域にも及ぶ。

そもそも同国が東パキスタンとして1947年にインドと分離して独立(その後1971年にパキスタンから独立して現在のバングラデシュが成立)したことが、悲劇と誤算の始まりであり、経済面・人口面での不均衡の根本でもある。

しかしながら、国家の成立には往々にしてその時代の流れに沿った必然と不条理が混じり合うものであり、その枠内で国家意識が形成されていくとともに、国民としての一体感も醸成されていくものだ。

そうした中でも、国境の向こうで異なる国籍が与えられることになった家族や親族に対して、こちら側の者はある種の憐憫の情を抱いたりすることもあれば、羨望の念を持つことも少なくない。同様に、宗教をベースとした分離の場合、ボーダーの向こう側にマイノリティとして残された、こちら側と同じ信仰を持つ者たちに対する「同胞」としての感覚には、社会で一定のシンパシーを共有することになることが少なくない。

ムスリムが大多数を占めるパキスタンにおけるヒンドゥー教徒たちの境遇については、インドでしばしば報じられるところであり、そこにも「国籍」の違いとは別次元の一体感があり、不幸にして異なる国籍を与えられることとなった「同胞」とでも言うような感情がベースにある。

さりとて、イスラームという宗教を旗印に、ムスリム主体の国家の建設を目指した東西パキスタンに対して、宗教的にニュートラルな「世俗国家」を標榜してきたインドとの決して相容れるところのない部分は、例えばカシミール地方の領有に関する両国の主張が平行線であるところにも現れる。

パキスタンと隣接する地域で、ムスリムがマジョリティであることが自国領であることが当然とすることがパキスタンの考えの根底にある。かたや宗教に拠らない世俗国家としてのインドにとっては、イスラーム教徒が多くを占めるからといってこれを隣国のものとするわけにはいかないのは当然のこととなる。現在、両国ともカシミール全域についてそれぞれ自国領であることを主張しているが、イギリスからの独立直後に勃発した第一次印パ戦争ならびに1965年の第二次印パ戦争の停戦ラインが実効支配線として、事実上の国境として機能することにより現在に至っている。

パキスタン建国に際して、多くのムスリムたちが当時の西パキスタンならびに東パキスタンへ流出するとともに、それらの地域からヒンドゥー教徒たちがインドに難民として逃れることになった。しかしそうした動きにもかかわらずインドを捨ててこれらの地域に移住することなく、あるいは経済的に移住することがならず、そのままインドに残ったムスリムたちも大勢いたわけだが、独立後はそうした人々が内政面での不安材料となることを避けるためもあり、インド政府は彼らの歓心を買うために様々な努力をする必要があったことは否定できない。ちょうど、欧州にて共産主義のソビエト連邦と隣接する地域で、高い福祉や社会保障制度が発達することとなったことと似ている部分がないでもない。

それが「世俗主義」を標榜しつつも、独立以降長年に渡って、少数派であるムスリムに譲歩する政策を継続せざるを得なかった理由でもあり、その世俗主義自体の矛盾と綻びであったとも言える。マイノリティとはいえ、規模にしてみるとの世界最大級のイスラーム教徒人口を抱えていることもあり、現実を見据えた上での選択であったはずだ。

しかしながら、このあたりが圧倒的なマジョリティを占めるヒンドゥーたちから成る社会の中での不満を醸成することになったのも事実で、宗教別に定められている民法について1980年代末あたりから、「統一民法」の制定を求める声が高まっていくこととなる。これがやがて90年代にはいわゆる「サフラン勢力」の核となるBJPに対する支持数の急速な伸張へと繋がっていく。

その後、国民会議派を中心とするイスラーム勢力や左派勢力を含む統一進歩同盟(UPA : United Progressive Alliance)とBJPがリードする保守から中道あたりの政党が集結した国民民主同盟(NDA : National Democratic Alliance)が一進一退の駆け引きを続けている。

さて、このほどインドの北東地域では、隣国バングラデシュからの不法移民について、バングラデシュから来たヒンドゥー教徒に対して市民権を与えるべきだと唱えるBJPに対して、国民会議派はヒンドゥー、クリスチャン、仏教徒(要は非ムスリム)の移民に対して市民権付与による保護を訴えるという形で、信仰を根拠とする論争が起きている。

こうした主張はインドの独立以来の国是である世俗主義に対する挑戦であるとともに、とりわけ国民会議派については、大きな方向転換のひとつの兆しであるのかもしれないようにも思える。

同時に、インドにおけるこうした動きについて、隣国バングラデシュ国内に与えるインパクトも少なくないかもしれない。同国内人口の一割近くを占めるヒンドゥー教徒たちの取り込みと捉えることも可能であるとともに、コミュナルな対立が発生した場合に、「インドによる差し金」を示唆する口実にもなろうし、敵性国民として排斥する動きに出ることもあり得ないことではないだろう。

宗教をラインとする国家形成を経てきた国と、世俗主義を国是として歴史を刻んできた国の間で、それなりのバランスが保たれてきた中で、後者が前者と近いスタンスを取ることになることについて非常に危ういものを感じる。

インド東北部におけるこうした動きが現実のものとなるようなことがあれば、やがてインドとバングラデシュの間での国際的な問題に発展する可能性を秘めていることから、今後の進展には注目していきたい。

BJP & Congress Raring to Provide Citizenship to Hindu-B’deshi Migrants (Northeast Today)

Namaste Bollywood+ 43

Namaste Bollywood+ 43

日本における唯一のインドのヒンディー語映画専門誌として知られる「ナマステ・ボリウッド」は、第42号から「ナマステ・ボリウッド+」として有料版に移行、このたび発売された第43号は、新創刊第2号となる。

今号のテーマは「ボリウッドで知るイスラーム文化」である。インドにおけるイスラーム教徒は、総人口13億に迫る(12.5億)巨大な人口を抱えるこの国のマイノリティ集団だが、ここに占めるムスリム人口は1億8千万人に迫るとみられることから、インドネシアの2.5億、パキスタンの1.8億に次ぐ、世界第3位のムスリム人口大国となる。

ちなみにアラビア半島の総人口は、7千7百万人(産油国における人口統計には、出稼ぎ等の外国人の数も含まれることに多少の注意が必要)程度なので、その規模の大きさは圧倒的だ。インド・パキスタン・バングラデシュの3国のムスリム人口を合わせると、その数は4億人を越えることから、イスラーム世界のマジョリティの一角と捉えて間違いないだろう。

また、アフガニスタンやパキスタンにおけるタリバーン運動の思想的なルーツでもあるデーオバンド派が始まったのは19世紀のUnited Provinces(現在で言えば州の分離前のUP州に相当)のデーオバンドでもある。タリバーン運動とは反対に穏健な原理主義として知られ、世界各国に活動を広げるタブリーギー・ジャマアトもこのデーオバンド派から生じたものであり、南アジアおよび周辺地域におけるイスラームに関わる宗教・政治運動に与える影響は大きい。

話は映画に戻る。インドの映画界草創期から現在に至るまで、俳優や監督等の中にムスリムは多く、その他製作や配給に関わるあらゆる映画産業関係者も含めると、さらに大きなものとなる。

昨今の日本では、イスラーム圏から観光や買い物等の目的でやってくる人たちが増えてきていることから、イスラームの作法によるハラール料理への注目が高まるなど、ポジティヴな面での関心の高まりとともに、イスラーム国による日本人の拉致殺害事件からくるネガティヴなインパクトも強く、正と負の両極端なイメージが混淆している状態だ。いずれにしても自分たちとの日常とはほとんど縁のない、理解しがたい人たちというイメージが強いのではないだろうか。

そんな中でも、やはり日本の書店には「イスラムとは」「イスラム入門」「イスラム国の××」といったタイトルの書籍とともに、イスラームについての特集記事を掲載する雑誌等が数多く並ぶようになり、多くの人々が注目するようになってきていることがわかる。

こうした書籍等で取り上げられる「イスラーム世界」の多くは、アラビア半島を中心とする宗教の歴史や文化史、あるいは日本から地理的な近いインドネシアやマレーシアのムスリムの人々のことであることが多く、南アジアのイスラーム教を中心にカバーしているものはあまり多くはない。また、往々にしてムスリムの人の視点に軸足を置いた主観的な「イスラーム観」が語られているように感じる。

南アジアにおけるパキスタン、バングラデシュのようにムスリムがマジョリティを占める国では、イスラームは社会の規範であり、アイデンティティの拠りどころでもあるわけだが、反対にインドにおいては、長い歴史の中で10世紀以降から幾度も大波のように西方から押し寄せてきたイスラームの浸透は、しばしば文化的な侵略として捉えられることは少なくない。

それでも必ずしもイスラーム教は侵略や略奪とともに到来したわけではなく、建築、医療、航海術、生活様式など、当時の先端文化をインドにもたらすものでもあった。たとえイスラーム教徒でなくとも、現在のインドの人々の思考様式、生活習慣、言語等々の様々な方面でイスラームがもたらした文化と日々無縁ではいられない。

先祖代々、ムスリムの人々と隣り合わせで生きてきたため、たとえイスラーム教について批判的な人であっても、イスラームという宗教やそこから生じた思想等に関する知識は非常に豊かで、イスラーム文化への露出度や経験値の高さには測り知れないものがある。

イスラーム王朝による被支配の過去の記憶に対する、19世紀半ば以降のヒンドゥー復古思想の高まり、20世紀に入ってからは英国支配からの独立運動は、マジョリティのヒンドゥー教徒を中心としつつも世俗的な政治思想で人々を率いた国民会議派とムスリムによるムスリム国家の樹立を目指したムスリム連盟との間で深刻な対立を生み、印パ分離独立という結果を見ることとなった。

印パ分離にあたっては、双方から空前の規模の避難民が国境を越えてヒンドゥーが主体のインド側、ムスリムが大勢を占めるパキスタン側へと流入する最中で発生した暴動や虐殺等により、100万人にも及ぶとされる膨大な数の市民が命を落とすという惨事となったことは多くの人々が知るとおりだ。

こうした近代史における大きな出来事が、印パ両国間に今なお横たわる大いなる相互不信の根底にあり、同じくインドにおけるイスラーム教徒、パキスタンにおけるヒンドゥー教徒に対する感情にも反映されて現在に至っている。

しかしながら、インドにおけるイスラームの伝統は今も古典音楽、歌謡、絵画等、文学の芸術分野でも脈々と受け継がれており、これらは「インドの文化」と切り離すことのできない重要な部分を成していることはもちろんのことながら、政治経済の様々な方面でも活躍するイスラーム教徒たちは非常に多い。

ときに緊張をはらんだ対立を生むことがあっても、長きに渡ってイスラーム文化から多大な影響を受けつつ、独自の文化・習慣を持つムスリムの人々と平和裏に共存共栄してきたインドという国は、「イスラーム理解の先達」と表現することができるだろう。

また、イスラーム教徒が大半を占める国ではなく、自国内に「世界最大級のムスリム人口」を抱えるインドだからこそ、イスラームとの関係においてはごく日が浅い私たちが、いかにしてムスリムの人々を理解して共存・共栄していくかということにおいて、学ぶべきことが大変多いことと思われる。それはときに反面教師的なものであったりすることも少なくないかもしれない。決していいときばかりではなく、幾多の辛く厳しい局面も体験してきた懐の深さを持つインドだからこそ、非常に有用な数々の叡智を掘り起こしていくことができるはずだ。

必ずしもムスリム自身からの観点のみではなく、イスラームの伝統や文化に造詣が深い非ムスリムによる視点、これとは反対にあまり好意的ではない意見も併せて、イスラームについて多角的に考察してみることが可能となる。複眼的な視野を持つことは、異文化理解において重要なことだ。

話は戻る。今号はインドというフィルターを通して見たイスラーム文化、イスラームという視点から切り込んだボリウッド映画という大きなテーマ。たとえ純粋に娯楽映画として製作された作品であっても、華やかなスターたちの姿、美しい映像やスリリングなストーリーといった視覚的な部分のみではなく、作品を生んだ土壌や社会文化背景まで広く理解することによって、さらに深く堪能できるのがヒンディー語映画の豊かな世界。

この号に取り上げられたイスラームに縁の深い作品を片っ端から鑑賞して、イスラーム教という宗教文化、政治性、ムスリムの人々について、硬軟織り交ぜたいろいろな側面に触れてみてはいかがだろうか。

蛇足ながら、今回テーマとなっているイスラームとは関係のない内容だが、手前味噌ながら私自身も「ボリウッド眺望紀行」と題した記事をちょこっと書かせていただいている。こちらも併せてお読みいただければ幸いである。

マジヌー・カー・ティーラー

マジヌー・カー・ティーラーでチベット料理でも食べようと出かけてみた。

メトロのヴィダーン・サバー駅で下車して、サイクルリクシャーで少々進んだところのGurudwara Majnu Ka Tilla Sahibからアウターリングロードを少し北に進んだ道路反対側にある。


TIBETAN REFUGEE COLONYと書かれた門をくぐり、まずはチベット寺院にお参りしてから少し散策することにする。この街区だけはインド人の姿はあまり多くなく、行き交う人々の大半がチベット系の顔立ちで、インドにいることをつい忘れてしまいそうになる。

まずはチベット仏教寺院に参拝

とかく違法建築の多いデリー(デリーに限ったことではまったくないが・・・)にあっても、ことさら無秩序に大小の建物が並び、路地が極端に狭くなったり広くなったり。また、チベット仏教のお寺正面の広場以外には、空が見えるエリアはなく、規制とはまったく無縁の空間であるように見受けられる。


その割には、昔と違って小奇麗な店やレストランなどがかなり多いのは、他のバーザール地域とは異なる。そんな中の一軒に入ってみると、もう昼時を大きく回って午後3時くらいにはなっているのに、ほぼ満席に近い状態であった。

食事を終えて外に出る。ふたたびサイクルリクシャーでメトロの駅に向かう前に立ち寄ってみたYangdon’s Collectionという店では、飲み物、菓子類、女性の化粧品などとともに、マニ車などの仏具や様々なチベットグッズなども販売していた。


そんな中で少々気になったのがこの壁時計。チベット旗をモチーフにしたカラフルなもの。ショーケースから出してもらった直後に私はこれを購入していた。

この店では、ときどきこのような具合にオリジナル商品を作らせては販売しているとのこと。このようなところは地域に他にいくつかあるようだ。

NIZAMUDDIN URBAN RENEWAL INITIATIVE




久しぶりにフマユーン廟に足を踏み入れた。四半世紀ぶりくらいだと思う。デリーはしばしば訪れて、近くを通ることはしばしばあっても、中に入ってみようと思わなかった。この度はちょっと気が変わって、ごくごくそばまで来たついでに見学してみることにした。

ずいぶん見ない間に敷地内も建築物そのものも、非常にきれいに整備されるようになったのもさることながら、世界遺産(指定されたのは(1993年なので、もうふた昔以上も前のことになるが)となったことによる効果を有効に活用しているように見受けられた。

Nizamuddin Urban Renewal Initiativeというプロジェクトが実施されており、このフマユーン廟、その周辺地域のスンダル・ナーサリーニザームッディーン地域において、イスラームの歴史的モニュメントを保護・発展させていくため、地域の人々自身による史跡の建築の装飾を含めた伝統工芸の振興により、これを持続可能なものとしていき、雇用・就業機会の確保とともに、公衆衛生の普及等も図っていくという、いわば地域興し的な計画である。

このプロジェクトにおいて、フマユーン廟だけでなく、スンダル・ナーサリーニザームッディーン地域の史跡等も整備されることになっている。

これに参画する官民合わせて五つの組織は、それぞれArchaeological Survey of India(ASI)Municipal Corporation of Delhi (MCD)Central Public Works Department (CPWD)Aga Khan FoundationAga Khan Trust for Culture (AKTC)である。

同プロジェクトのホームページ上で写真やテキストで発信される情報以外にも、同サイトで公開される年報にて、様々な事業の進捗も報告されるなど、情報公開にも積極的に努めているようだ。

世界遺産を核として、地域社会の発展に貢献するとともに、その地域社会からも世界遺産の整備に働きかけていくというサイクルがすでに軌道に乗っているのか、今後そうなるように試行錯誤であるのだろうか。

いずれにしても、地域社会と遊離した、政府による一方的な史跡の整備事業ではなく、このエリアを歴史的・文化的に継続するコミュニティという位置づけで参画させていくという手法が新鮮だ。歴史的なモニュメントを含めた周辺のムスリムコミュニティにとって、これらの活動が地域の誇りとして意識されるようになれば大変喜ばしい。

世界遺産の有効な活用例として、今後長きに渡り注目していくべきプロジェクトではないかと私は思っている。

遺跡の修復に関するコミットメントの具体例を紹介する表示がいくつもあった。

こちらも同様に、装飾の復元に関わる情報を記載

ロヒンギャー難民

最近もまたミャンマーからのロヒンギャー難民たちに関する記事がメディアに頻繁に取り上げられるようになっている。

【ルポ ミャンマー逃れる少数民族】 漂流ロヒンギャ、苦難の道 迫害逃れ、過酷な船旅 (47 NEWS)

昨年、ロヒンギャー問題で知られるヤカイン州のスィットウェを訪れたことがあるが、かつて英領時代には、この街の中心部でおそらくマジョリティを占めて、商業や交易の中心を担ったと思われるベンガル系ムスリムの人たちのタウンシップがある。そこには同じくベンガル系のヒンドゥーの人々も居住していた。

スィットウェへ3 (indo.to)

滞在中にヒンドゥーの人たちの家で結婚式があるとのことで、「ぜひお出でください」と呼ばれていたのだが、その街区はバリケードで封鎖されていて、訪問することはできなかった。
その数日前に、たまたま警官たちのローテーションの隙間であったのか、たまたま入ることが出来て、幾つかの寺院その他を訪れるとともに、訪問先の方々からいろいろお話をうかがうことができたのだが。

実のところ、その結婚式には日程が合わず出席はできないものの、同じ方々からもう少し話を聞いてみたいという思いがあり、足を向けてみたのであるが、バリケードの手前で、「ここから先はロヒンギャー地域だぞ。誰に何の用事だ?」と警官たちに詰問されることとなった。

うっかり先方の住所や名前を口にしては、訪れることになっていた人たちに迷惑が及んではいけないと思い、「いや、向こう側に出る近道かな?と思って・・・」などと言いながら踵を返した次第。通りの反対側から進入を試みてみたが、同じ結果となった。゛

ロヒンギャーとは、一般的に先祖がベンガル地方から移住したムスリムで、現在のミャンマーでは国籍を認められず「不法移民」と定義されている人たちということになっているようだが、ベンガルを出自とするヒンドゥーもまた同様の扱いを受けているように見受けられた。

そのロヒンギャーの人たちだが、母語であるベンガル語の方言以外にも、インド系ムスリムの教養のひとつとして、ウルドゥー語を理解すること、またヒンドゥーの人たちも父祖の地である広義のヒンドゥスターンの言葉としてヒンディーを理解することはこのときの訪問で判った。もちろん個人により理解の度合いに大きな差があり、まったくそれらを理解しない人たちもいるのだが。とりわけ若い世代にその傾向が強いようだ。

アメリカをはじめとする先進主要国から経済制裁を受けていた軍政時代には、ミャンマー国内の人権事情について、各国政府から様々な批判がなされていたが、民政移管に伴い制裁が解除されてからは、そうしたものがトーンダウンするどころか、まさに「見て見ぬふり」という具合になっているように見受けられる。ここ数年間に渡り大盛況のミャンマーブームだが、同国政府の不興を買って、自国企業の投資その他の経済活動に支障が出ることに対する懸念があるがゆえのことと思われる。