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  • ナーナー・パーテーカルの逝去

    ナーナー・パーテーカルの逝去

    Ankush(1986年)、Pratighaat』(1987年)、Parinda(1989年)、Krantiveer(1994年)、Agnisakshi(1996年)Khamoshi: The Musical(1996年)Ab Tak Chhappan(2004年)、Apaharan(2005年)、Welcome(2007年)、『Raajneeti』(2010年)等々の出演作で高い評価を得てきたインドの名優、ナーナー・パーテーカルが滞在先のゴアで急性心不全により亡くなったとのこと。

    私にとって国や地域を超えて、世界で最も好きな俳優さんのひとりだった。

    ご冥福をお祈りします。

    Outspoken Indian actor Nana Patekar suddenly dies at 75 (BBC)

     

  • グルバルガのシャーヒー・マスジド界隈

    グルバルガのシャーヒー・マスジド界隈

    フォート近くにあるシャーヒー・バーザールにあるシャーヒー・マスジド。その名からして支配者勅命の聖職者がつかさどるモスクだったのだろう。立派な作りの施設だ。現在もジュマー(金曜日)の礼拝では使用されているとのことで、歴史の彼方の遺跡ではなく、現役の宗教施設だ。

    ムスリムの支配者のお膝元にして、格式高いモスクもある割には、周囲はヒンドゥー地域のため、家の前にランゴーリーが描かれていたり、お寺や祠がいくつもあったりする。

    何かをきっかけに街の人口が入れ替わることは決して珍しくはないため、今と往時は大きく異なるのかもしれないし、ムスリムの支配者のもとでヒンドゥーの商人層が活躍していたのかもしれない。カルナータカのこのあたりの地域の歴史について詳しく知らないが、こんな眺めを目にすると興味がわいてくる。

    美しく描かれた乱ゴーリー

    近くにあるヒンドゥー地区で家の前のランゴーリー。いろいろあるけど、これはとりわけ美しく躍動感も良い。絵心豊かな人によるものなのだろう。この地域には北からの人たちも少なくないようで、ティワーリー、ダットといった北インドの苗字の表札もある。

    北インドが出自の人たちの名前が掲げられた家

    前日訪れたPrakash Asian Mallというデイズニー風ながらも寂れたモールの近くにマールワーリーのお寺とラージャスターニー互助会の看板を掲げるクリニックがあった。

    マールワーリーの組織のお寺
    ージャスターニー互助会の看板を掲げるクリニック
  • 植民地的な綴りと現代地名

    インドには植民地期の地名の綴りが今も残っている例は数多い。独立後の長い歴史の中でラージャスターン州のJeyporeがJaipurに、グジャラート州のBarodaがVadodaraに変更となったような例は数多いのだが、その一方で変わらずそのままというのもけっこうある。

    Dalhousie、English Bazar、Frazerganjのように英国や英国人に因んで付けられた地名ではなく、既存の地名が「英語化(あるいはその地域の元宗主国の言葉に合わせた)された綴り」のことである。
    先述のJeyporeだが、実はオリッサ州にもあり、こちらではJeyporeのまんま。それでいて地元の人たちは「ジェイポーァ」とは読まずに自然と補正して「ジャイプル」と呼ぶ。

    西ベンガル州には「Serampore」という町があるが、これについても人々は頭の中で補正して「シュリーラームプル」と呼ぶ。(ベンガル語、ヒンディー語の綴りは発音どおり)。領有したデンマーク人がさだめで英語に引き継がれた綴りが前例踏襲でそのまま使われているのだ。

    そういう植民地期の綴りが最も豊富に残っているのはおそらくゴアだろう。Margaoと書いて「マドガーオン=Madgaon」と補正して読むことは訪れたことのある方ならご存知かと思うが、ポルトガル風の地名がたくさん残っている。それを「補正して読む」例は他にもいろいろあるのではないだろうか。

    そうそう、植民地期の綴りといえば、州名からしてそうだ。「GOA」と書いて、ゴアと読むのではないのだ。響きは近いが「ゴーワー(GOWA)」と補正して読むのがインドの人々。コンカニー語、ヒンディー語で用いられるデーワナガリー文字でもगोवा (ゴーワー)と綴り、その綴りどおりに呼ぶ。

    また、植民地期の綴りと通常の読みどおりの綴りが混在することがあるのは地名だけではなく、人名にも見られるのだが、長くなるので今回はここまでとしておこう。

  • インドの言語環境はありがたい

    インドの列車内で楽しいのは乗り合わせた人たちのとの会話。この日は向かい合わせに座ったのは盲学校の校長夫妻。

    二人ともクリスチャンでセブンスデイアドベンチストの信者。教団が運営する盲学校がその職場とのこと。全国各地から来た生徒たちが、1年生から12年生までがそこで学び、高等教育機関に進学する者も多いとのこと。IT関係に進む生徒も少なくないそうだ。卒業ないしは進学後の進路は主に政府系の職場とのこと。

    いわゆる「クオータ」での採用が多いのだとか。つまり障害者のための留保。カーストや民族をベースにした留保制度についてはいろいろ問題がある(家庭の経済水準によるものではなく、出自により与えられるため)ものの、こういう制度は大切だ。

    言葉があまり通じない国だと「お仕事は?」「学校長です」「はぁそうですか」で終わってしまうため、やはりいろいろ話を伺うことができるインドにおける言語環境というものはありがたい。もちろんヒンディー語、ウルドゥー語等の現地語を知っているかどうかに限ったことではなく、英語を話す人たちがとても多いということは大変大きなアドバンテージ。

    ベトナムやタイ、イランやシリアなどではこうはいかない。

    インドという国は本当にありがたい。単に国として興味深いだけではなく、知るための扉が大きく放たれているからだ。言葉が広く通じるし、人々は大変おしゃべりであることが多い。各方面に関する英語などによる書籍も星の数ほど出ている。興味さえあれば、いくらでもいろんなことについて知ることが出来るわけだ。こういう国はそう多くはない。

  • サンスクリット語とドイツ語

    同じアーリア祖語から分かれていったインド・ヨーロッパ語族の言語なので、遠く離れた地域で話される言語同士であっても、起源が古い語ほど発音が似たものがあることになる。名詞のジェンダーも対応するものがけっこうあるのかどうかは知らないけど。

    このグループ(インド・ヨーロッパ語族)のいずれの言語にも完了形があり、名詞のジェンダーがあり(英語ではジェンダーがかすれてしまっているけど、船や土地などジェンダーが残る語彙も少なくない。また名詞の格変化、動詞の活用体系、音韻変化など、相互に通じないのに、同じような特徴があるのは、やはりアーリア祖語からそれぞれの言語に引き継がれたレガシーらしい。

    それとこのグループの言語の中の親族名称で似たものが共有されているのは当然、人の言葉でとりわけ古くからの語彙であるからなのだろう。偶然や他人の空似ではないはずだ。

    言葉というものは実に面白いと思う。

    Sanskrit and German (facebook)

  • 政治の季節

    インドは目下、「政治の季節」を迎えている。今月から6月にかけて、西ベンガル、アッサム、ケーララム、タミルナードゥの各州及び連邦直轄地(UT)のプドゥチェリーでヴィダーン・サバー(州議会)選挙が行われる。

    とりわけ注目されているのが西ベンガル州。インド東部でも攻勢を強めているこの地で、長く与党を務めてきたマムター・バナルジー率いるトリナムール・コングレスの追い落としを図るBJPが果たしてこれを成し遂げるのか、あるいはベンガルの民族主義派のトリナムールが再び勝利を重ねるのか。

    もともと共産党が1977年から2011年まで与党に君臨してきた「赤い州」であったが、これを追い落としたのがベンガル民族主義政党のトリナムール。極めて鮮やかな「サッター・パリワルタン(政権交代)」で、州政治の潮流が一気に変わった。

    ここに来て浸透を図るBJPとは激しく対立しており、ときおり両者の活動家たち同士の暴力的な衝突が起きている。

    興味深いのは、もし今回政権交代が実現すると、西ベンガルにおける民族主義的な主張が影をひそめて、中央政権に融和的なマジョリティーに取り込まれる形になることだ。

    実は隣接するアッサム州でそのようなことが起きている。

    独立以来70年代までは国民会議派が与党にあったが、80年代以降はアッサムの民族主義勢力が台頭。マジョリティーのアッサミーズ以外のボードー族その他も政治勢力を立ち上げ、非常に不安定になった。その後、州議会が機能不全となり、中央による大統領統治が実施されるも、武装勢力化した各民族主義組織による内戦状態と言ってもよい混迷の時代となったのが80年代から90年代初頭。この時期には外国人旅行は入ることが出来なかった。

    そして90年代に情勢は落ち着き、国民会議派政権、そして新興の民族主義政党による政権を経て、政権の座は再度国民会議派の手に。それでもやはりアッサムはインドの辺境地域として独自性を持ちながら、やもすればいつ反中央の火の手が上がりかねない不安定な状況が続いていた。

    それに終止符を打ったのが、2016年ヴィダーン・サバー選挙で起きた「サッター・パリワルタン(政権交代)」。以来、BJPが政権を担っている。

    もちろんBJPの議員たちはすべてアッサムの地元の人たちなのだが、言葉はアッサム語を喋っていても、話す内容はモーディー首相やアミット・シャー内相などと同じ。中央政府のモーディー政権にもアッサム出身の閣僚が複数登用されており、いつの間にかアッサム州が「辺境州のひとつ」から「マジョリティーのひとつ」へとステップアップした感がある。それ以前の「反逆的な地域」としての印象はすっかり影を潜めた。

     

    またBJP言うところの「ダバル・インジャン・サルカール(Double Engine Governance)」により、中央とアッサムの意思決定が一本になるため、様々な開発プログラムやパッケージがどんどん通りやすくなり、地域の発展が加速されているとされる。実は連邦直轄地(UT)のラダックでも同じことが起きている。(ラダックでは昨夏以来、BJPとの関係には複雑なものを含むようになっているけれども)

    アッサムと違い、西ベンガルは中央に対して反逆的な風土ではもともとなく、文化的にも政治的にも「マジョリティーの中の核心部のひとつ」といった位置にあるため、BJPが政権与党となれば、ますますのこと、中央との統合、融合が進んでいくのかもしれない。

    もうひとつ、規模は小さいが注目されるのは、連邦直轄地(UT)のプドゥチェリー。こちらは投票日が今月9日と早いのだが、地域的にはタミルナードゥの中からえぐり取られた旧仏領地域ではあるものの、与党はDMKやAIADMKではなく、現地政党とBJPによる連立。

    ずいぶん長いこと、州への昇格(「昇格」とするのが適当かどうかはわからない。統治の仕方の違いであり、州が上、連邦直轄地が下と単純化できないためだ。)を望む声が強いのだが、まだ実現していない。人口100万人にも及ばない地域ではあるものの、現にスィッキム州は60万人強、ミゾラムは110万人というあたりを見れば、歴史的経緯と人口規模においては相応であるようにも思える。

    州への移行に理解を示しているのが、NDA(という政治アライアンス)と対立する国民会議派側の勢力UPA。今回の選挙で、「州への移行」も焦点のひとつとなっているため、プドゥチェリーで「サッター・パリワルタン」が起きる可能性が充分にあるのだ。ただし中央の政権はBJPであるため、「プドゥチェリー州成立」には至らないようにも思える。

    それにしても同じタミル系の人々が暮らすプドゥチェリー、旧仏領であったとはいえ、世代は変わるし、プドゥチェリーをインドが実効支配するようになったのは1954年。つまり72年も前のこと。(法的にインドの一部としての統合は1962年)

    現在までの間に住民の移動も盛んであり、プドゥチェリーに住んでいるからといって、旧仏領地域の人々の子孫とは限らない。これはゴアでも同様で、今やカトリックは州人口の中ではマイノリティーとなっている。

    そんな具合であっても「土地柄」「風土」というものは外部からの移民をも交えて継承されていくものなのだなぁと興味深く思う。

    インドという国は何かにつけて実に面白く、好奇心を刺激してくれるため、そこから流れてくるニュースには耳を傾けずにはいられないのである。

    Upcoming Elections in India (The Indian EXPRESS)

  • バッドデザイン賞

    バッドデザイン賞

    ハイデラバードでの宿泊先に着いたとき、グーグルマップを見て「ここかな?」と思いつつも、パッと見た感じで「New Hotel Suhail 」とは読めず、前を2度素通りしてしまった。「Suhail」に変な赤が入っているため、視覚を邪魔するのだろう。個人的に「バッドデザイン賞」を贈りたい。

    それにしてもSuhailはオーナーの名前かもしれないけど、なぜわざわざムスリムとわかる名称にするのだろうか。ニュートラルな名前、英語でも一般名詞にでもすれば、顧客をある程度絞ることはないのに。マーケットは間口が広ければ広いほど良さそうに思うが。

    昨日朝食の席で見渡したところ、いかにもムスリムという宿泊者が多かったが、敢えてムスリム客を集客したいという狙いがあるのだろうか。こういう宿はインドでよくあるため、やはりムスリム客に商圏を絞ったマーケティングなのかもしれない。

    もちろんこれとは真逆に今どきの風情とシンクロしたサフラン的な名前のヒンドゥーのホテルも多い。その一方で、どちらにも組みしない感じのニュートラルなホテルも数多くある。そうしたバリエーションもインドらしくて面白いところだ。

    ホテルといえば、宿泊するホテルではなく、インドでいう食事処としての「ホテル」つまりレストラン、食堂、安食堂で、ヴェジの店であればヒンドゥー教徒による経営と普通は思うし、そういう店が大半であるとは思うが、必ずしもその限りでもないようだ。

    ハリドワールでの話となるが、ヒンドゥー暦のサーワン月(7月前後)に毎年行われるサーワン・カーンワル・メーラーで巡礼たちが通るルート上にある菜食の食堂では、案外ムスリムのオーナーがヒンドゥーの店員を雇って営業しているところがあるようだ。

    資本がムスリムでも、ヒンドゥーの人たちを雇い、きちんとルールに従って営業していれば、それで良いではないかと思うのだが、右翼のBJPが与党となっている州の中でも「最右翼」に位置づけられるヨーギー・アーディティヤナート(自身が長らく右翼活動を続けてきたとともに、ゴーラクプルのゴーラクナート寺院の高僧でもある。)政権下で、「オーナーの名前をきちんと表示するように」というお達しが出るなどしていた。名前で信仰が判ってしまうため、ムスリムがオーナーの店は大いに困ったそうだ。

    これがメディアに取り上げられたため、大いに議論の的となったが、実はそれほど「ムスリムオーナーによるヒンドゥー向けの菜食主義の店」は珍しくはないらしい。それはそれで前述のとおり、きちんと運営していれば大いに結構ではないかと思うのだが、そのような形で炙り出して排除してしまおうとするのは残念な限りである。

  • 「旧○☓領だったから○☓語が通じる」という幻想

    「ミャンマーは英領だったので英語が通じる」という人がいたり、これとは反対に「ミャンマーは英領だったのに英語がなかなか通じない」という人がいたりする。これは後者が正しい。

    たしかに昔は英領だったという地域では、今も英語の通用度が高くなる可能性は高い。例えばマレー系の国でも旧英領のマレーシアとオランダ領だったインドネシアでは英語の通用度が天地の差であるように。

    だが「かつてイギリス領だった」からと言って、それがすべてではない。

    ミャンマーのように外国人相手のビジネスや観光関係の仕事をしている人、留学などの目的があって英語を自ら学んだ人たちを除けば、普通はなかなか通じない人たちばかりだ。その一方で、旧英領ではなかったのに広く通じるネパールやブータンのような例もある。

    旧英領といっても独立後に教育仲介言語としての英語、行政や法務等々における公用語としての英語のレガシーを引き継いだ国々もあれば、それらを植民地時代の残滓として一掃し、地元言語に置き換えてしまった国もある。インドやマレーシアなどは前者で、ミャンマーやバングラデシュなどは後者に当たるだろう。

    同様に、旧英領でなかった地域においても、英領地域と隣接していたため、近代的な教育システム導入の際に大いに影響を受けた過去があったり、現在も隣の大国の動向が影響したりする国々、ネパールやブータンのような例もある。

    ブータンについては1970年代以降、学校教育の仲介言語を英語に変更している。これはイングリッシュミディアムに通う生徒たちの割合が、地域によるが20数%程度とされるインドと較べて非常に高い数字だ。(ブータンでは100%と言える)

    旧英領だったということは、その後同地で引き続き英語が広く使われるようになるための大きなインフラではあるが、必ずしもそれが活用されるとは限らない。また英領ではなかったのにこれが公用語として採用されて深く定着する例もある。

    また英領期において果たして英語が広く浸透していたのかどうか?という疑問もある。インドやパキスタンなどで、学校教育が行き届くようになったのは独立後現在に至るまでの努力の結果であり、人々が地方から都市へ、地方から他の地方へと大勢移動するようになったのは、公共交通機関が発展してからだ。

    それ以前は、ほぼ村落や地域内で生業が完結していた(ゆえにカーストによる分業が生きていた)時代、そうした地域社会で英語が通用していたとはとても思えないし、都市化が進む前には人口の大半がそうした農村等を生業とする地域に暮らしていたわけだ。

    つまり旧英領の国々においても、広く英語が普及するようになったのは独立後であり、さらには厳しい貧困から抜け出すことが出来つつあった70年代、80年代以降という例も少なくないだろう。

    「英語が第1言語」などと言うインド人家庭は都市部に珍しくはない。家の方針がそうであったり、親子ともにイングリッシュミディアムの教育を受けてきたりしたわけだが、新聞や読書も当然英語。ヒンディーその他の現地語は普通に話すが、文字になったものは読みにくくて内容も俗っぽいので縁がないという人たちだ。彼らは英領時代からそうなのではなく、やはりそう遠くない昔に富裕層化ないしは中間層に入った人たちであり、英領のレガシーなどではない。

    かつて「○☓領だったから○☓語が通じる」というのならば、「ゴアは旧ポルトガル領だったのでポルトガル語が通じる」「インドネシアは旧オランダ領だったのでオランダ語が通じる」のかといえばそうではない。かつて旧宗主国時代にそれらである程度までの教育を受けた人たちがまだ大勢いた頃には、そうした言葉を理解する人たちはいたはずではあるが。

    つまり何を言いたいかと言えば、土着ではない特定の言語が通じるかどうかについては、旧宗主国の言葉云々ではなく、独立後の現地の社会・政治状況次第で決まっていくということだ。

    またグローバル化の進展により人々の移動が煩雑、広範囲かつ大規模なものとなり、さらにはインターネットの普及によりコミュニケーションの手段として英語の占める地位や割合がたとえば90年代よりもはるかに高くなっているのが現在。

    昔からあちこちをよく旅行している人たちの間で「昔よりもずいぶん英語が通じるようになった」と耳にすることは珍しくない。そういう時代なのだろう。

    今の時代のインドにおいて、英語がどのくらい広く通じるのか?については、実は私はよく知らない。インドを旅行してヒンディー以外で話すことはまず無いからだ。

    ただ久々に年始とGWにヒンディー語受容度が極めて低いタミルナード州を訪問した際には、英語で話しそうな相手を見た目で選ばないといけないので不便だなとは思ったものの、人により程度の差はあってもかなり広く英語が理解されていることを感じた。

    こういう環境は、英領であったから当たり前なのではなく、同じように多民族・多文化の国ミャンマーにあっては真逆なのは、1962年のクーデター以降に全権掌握したネ・ウィンによる「ビルマ語化政策」により、英語が一掃されたためだ。

    旧仏領のインドシナで、現在はフランス語は用いられないのも同様に教育や行政の仲介言語の現地化あり、学校教育における外国語をフランス語から英語に切り替えたりといったことが背景にある。

    もちろん西アフリカ地域のようの旧仏領で現在も広くフランス語が用いられるエリア、ラテンアメリカのように旧スペイン領、旧ポルトガルであったため、今もそれらが日常の言語という地域も多いのだが、「旧〇×領であったから現在も〇×語が通じる」という理解は安易過ぎると言える。

    「旧〇×領であり、独立後も旧宗主国の言語が必要とされ、引き続き多民族・多文化の現地社会を繋ぐ共通言語としての役割が求められ、行政、司法、経済、教育その他のあらゆる分野でその言語が引き続き使用される公用語としての地位を確立したから通じる」のである。

    その地域が他の宗主国を戴いていた地域に吸収される(ゴア、ポンディチェリー等)、民族構成がシンプルで地元のひとつの言語で用足りる(韓国、台湾、ベトナム等)、あるいは多民族地域でもその中でマジョリティを占める民族の言語が英語に取って代わる(ミャンマー)といった具合であれば、旧宗主国の言語は即、用済みとなるものだ。

  • 巡り合わせの隣席

    成田からバンコクへのひたすら退屈なフライトと思っていたが、なかなかどうして楽しい時間となった。隣席の若い女性が話好きで、この人が取り出すトランプで遊んだり、いろんな話をしたりしているうちにアッと言う間に着いてしまったからだ。

    こういう巡り合わせがあると暇な飛行時間が俄然楽しくなる。

    この人はスペインからの旅行者で、この月初めに日本に関空に到着して、長野県で山歩きをしたり、お城を見たり、そして関東も何ヶ所か訪れて、東京も気に入ったらしい。

    20代後半くらいだろうか。自国では博物館での仕事をしていたが、契約を打ち切られてしまったため、とりあえず次の職探し前に人生初のアジアを訪れたとのこと。

    私にとってはごく当たり前の日本だが、彼女にとっては目にするものも食べ物も、何かと物珍しかったらしい。そういう話を聞くと、「へぇ、そんなに面白いならば行ってみようか」と思いそうになるが、それらは私たちの日常風景であった。

    生まれ育ち、今も住んでいるのは「とても田舎の村」とのことで、大阪や東京のギガサイズの街並みにも仰天したという。欧州の近隣国以外はどこも訪れたことがなかったとのことなので、ちょうど昔々に私が生まれて初めての海外旅行でインドを訪れたときのような感激であったらしいことがひしひしと伝わってくる。

    たまにこうして旅行に出ると、いろんな国の様々な年代の人たちと話ができるのも楽しい。

    近年感じるだが、かつてはスペイン、イタリア、フランスなどのラテンヨーロッパから来た旅行者の中には英語をあまり理解しない人が多かったり、中にはほんの片言のみの人たちもけっこういたりしたのだが、今やもうそんな具合ではなくなっている。特に若い人たちはそうだ。

    「グローバル化」というのは、様々な分野で進んだが、言葉もまた同様なのだなあと思う。

  • レーワーリー到着

    予約していた宿は駅出口から徒歩1分というのは本当だった。だが驚いたのは、そんな便利な場所にあるいくつもの宿が経営難のようで、私の宿泊先の並び計4件がすべて「OYO」になっていること。いずれも「1泊599Rs」という看板を掲げている。

    私はそんな具合とは知らずにネットの大手予約サイトで取っており、廃墟のような有様に驚くとともに、その料金ではないため(むやみやたらに大きな差ではなかったけど)マネージャーに抗議すると、「確かにその条件と違うわなぁ」とかなんとか呟きながら、近隣の壊れた建物に連れて行かれた。

    すぐ隣であったが、古い宿の再建(?)工事中。どう見ても営業しているようには見えないのだが、水と電気は通じているという中途半端な有様。

    明日は朝から活動。テキパキ片付けて再び鉄道乗車の予定があるため、最も駅近の宿を予約サイトで取ったが、宿の名前にOYOが出てきたらそれは避ける、敢えて利用するならOYOサイトから予約すべき(他サイトからだと割高になる)と痛感。

    そもそも乗降客の多いメジャーな駅にまともな時間に到着するのに、他のついでに予約などしてしまったのが余計であったと反省。

    昼まで滞在していたプシュカルでは、地元のお店の人たちと近隣の村からなどを含めたローカルな人々の会話はまったくわからなかった(ラージャスターン方言といってもいろいろあるのだろうけど、首都圏から比較的近いアジメールやシェカワティーでも、ローカル同士の会話はわからなくなる)が、ここは駅前で聞こえてくるのは普通のヒンディー語であり、周囲でのやりとりがわかるので「おぉ帰ってきた」という感じがする。

  • 手書きの説得力

    手書きの説得力

    「ゲート前は駐車厳禁」と書いてある。

    「ゲート前への駐車厳禁!」と書かれている。印刷なような書体だと、ともすれば形骸化してしまうものだが、手書きであるためか気持ちがこもっている。「見なかったとは言わせないぞ!」とういうような具合だ。

  • SHER-E-PUNJAB(パンジャーブの獅子)

    SHER-E-PUNJAB(パンジャーブの獅子)

    店の名前は「Sher-e-Punjab」と書いてある。

    シェーレーパンジャーブ(SHER-E-PUNJAB)と言えば、スィク王国を打ち立てたマハーラージャー・ランジート・スィンであったり、不屈のフリーダムファイター、ラーラー・ラージパト・ラーイであったりする。

    実はパンジャーブ料理店でもこの「SHER-E-PUNJAB」を名乗る店がとても多い。いったいインド全国でいくつの「パンジャーブの獅子」を名乗るダーバーやレストランがあるのだろうか。こんなにたくさんあるくらいなら、「SHER-E-PUNJAB会」でも作って、全国で横断的に連携してみてははどうか?

    この「– E –」で繋ぐ言葉はペルシャ語からの影響から来たものなので、インドで皆さんよく耳にするであろう。「– E –」繋ぎの言葉としては、死刑、極刑を意味する「SAJA-E -MAUT」であったり、クラシック映画の金字塔「MUGHAL-E-AZAM」であったり、パキスタンのテロ組織の「LASHKAR-E-TOIBA」であったりするかもしれない

    かといって、インドやパキスタンで「☓☓の○○」を「○○-E-☓☓」と言うようなことは無く、慣用句での定形的な使用がなされるのみ。それでもこの「-E-」は廃れたり、忘れ去られたりすることなく、受け継がれていく。