スィーパウの町2

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町を歩いていると、インド系のムスリムの家族に出会ってお茶に招かれたり、そうした人々が出入りするマスジッドを見かけたりもした。この町ではムスリムだけではなく、ヒンドゥーの人たちも多数暮らしているが、こんなお寺があった。
遠目には「普通のヒンドゥー寺院」だが・・・。

入口はシヴァ寺院であることを声高に主張

入口にはナーガがあり、シヴァ寺院であることを示しているのだが、その脇にはストゥーパがある。お堂内は仏教とヒンドゥーの神々が混淆した状態だ。ここの世話人と話してわかったことだが、驚いたことにこのお寺には祭祀を司るプージャーリーもいないのだそうだ。

堂内は仏教世界に大胆なまでに譲歩

仏教のお寺と見まがうようになっているのは、マイノリティであるヒンドゥーたちの寺院が地元仏教徒たちにも受け入れられるというに、ということがあるようだ。

そして世話人自身、仏教寺院に仏塔を奉納したりもしており、この寺の建立を含めてこれまで九つの寄進をしているのだそうだ。ここ以外はすべて仏教寺院であることからも、彼自身が仏教世界との融和を心掛けているらしいことが見て取れる。

その世話人、グル・ダットさんは、まるで昔の映画人みたいな名前だが、両親もそのつもりでそう名付けたのだそうだ。「おかげで、私の名前を一度聞いたら忘れる人はいないんだ」と笑う。

彼の祖父母がパンジャーブから来て定住し、彼自身は三代目でインドの地を踏んだこともないとのことだが、流暢なヒンディーを話す。

自身の子供はなく、誰かに財産を残す必要もいないので、こうした寄進を続けているともいう。彼は49歳。50歳を越えたらこうした諸般の事柄から手を引き、完全に引退生活に入るという。瞑想をしながら過ごすことにしたいと語る。

境内にいたヒンドゥーの人々の多くはネパール系。境内の木造の建物の中ではネパール語教室が開かれていた。これは毎日実施されているのだそうだ。黒板にはデーヴァナーグリー文字が書かれており、女性の先生が教えていた。私たちが教室の出入り口の前に立つと、全員起立して「ナマステー」とあいさつしてくれた。

ヒンドゥー寺院境内の建物でのネパール語教室
ネパール語教室

ミャンマーのネパール系の人たちにとって、往々にしてネパールとインドは異なる国という位置付けではないようだ。ネパール系といっても、インド領の地域から移住した人たちも少なくないこともあるし、テーラワーダ仏教世界に移住した同じインド亜大陸を起源とするヒンドゥー世界の住民という意識もあるのだろう。ゆえにヒンドゥーとしてのアイデンティティとしての言語であるヒンディー語、そして民族の言葉であり、父祖の出身地域の言語であるネパール語という意識であるようだ。そんなわけで、日本人としての日本語、東北の人間としての東北弁といった関係に近いものがあるように思われる。

プージャーリー不在の寺とは不思議な気がするが、宗教施設というよりも、むしろインド・ネパール系の人々のコミュニティセンターとして機能していることは容易に理解できる。診療所も併設されていた。

スィーパウの町にはヒンドゥーの世帯は50ほどあるとのこと。寺院の収入とするための揚げ菓子を作ったり、包装したりという作業をしている人たちもあるが、ヒンドゥーのコミュニティ内で就労機会を分け与えるという意味もある。

ほぼすべてのインド系の人たちの母語は今ではビルマ語になっている。しかしながら彼らの間で、ヒンディーを理解するということだけで、ずいぶん大げさに歓迎される。民族語であるからして、他のコミュニティの人に通じることは通常ないため、自分たちの文化に対する強い関心を持っているということは伝わるのだろう。

マンダレーからラーショーへ向かう鉄路の中間点にあるスィーパウ。英領時代に鉄道建設のためにインドから渡ってきた移民の子孫は多い。
ムスリム人口もそれなりの規模があり、このようなマスジッドが町の中心部にある。出入りする人たちはインド系

<完>

 

magzterで読むインド

在米のインド系ビジネスマンが起業したmagzterが頑張っている。

いろいろな雑誌の取扱いが増えており、インド関係以外にも東南アジアやアメリカ等の国の雑誌類、中には日本のものもわずかながら含まれている。

magzterの利用により、インド国外からも雑誌類が購読できるのはいいことだろう。インドの主要都市に居ても普段は見かけない北東州のニュース雑誌の取り扱いもある。magzterの出現以前は、インド国外から雑誌類を購読しようとする場合、それを取り扱うサービスはあっても、手元に届くまで時間がかかったり、郵便事情等により欠配することもあったはずだ。紙媒体で流通しているものと同じ誌面で販売されていることはもちろん、オンタイムで購入できるのが有難い。

ただ欠点もある。年間購読するように誘導しているためであるが、単号で購入するのと半年ないしは1年間の契約にするかで、ずいぶん単価が異なることだ。前者だとかなり割高に感じられてしまう。

一度購入したものは、同じアカウントでサインインしている限り、他の端末でも閲覧できて便利だ。しかし、iPad、Android、Windows RT等々のタブレット用のmagzterアプリが用意されているのはいいのだが、タブレットのOSによって操作感がかなり異なることに少々戸惑ってしまうため、改善されることを望んでいる。

少々注意が必要な部分もある。定期購読の場合、少々注意が必要なのは、購読者側から解約手続きをしない限り、自動更新になってしまう。そのため契約月についてはしっかり覚えておかないといけない。

私自身は、ニュース雑誌を定期購読しているが、旅行関係ではNational
GeographicのTraveller Indiaというものがなかなか興味深いことに気が付いた。昨年7月のヒマラヤ特集は充実していたし、他の号でもなかなか興味深い記事が掲載されているのは、さすがNational Geographicである。

National Geographic Traveller India

 

ただし、他の版元から出ているインドの旅行関係雑誌については、インドの人々の間での旅行に関するトレンドを知るにはいいかもしれない、といった程度のことが多いため、あまり期待しないほうがいいだろう。

ともあれ、今後ますますの充実を期待したいところだ。雑誌のみならず、将来は電子書籍なども購入できるようになるとありがたい。

ボリウッドの大スターたちとペーシャーワル

数々の有名な俳優、女優を輩出してきたカプール一族のルーツは、現在パーキスターンのペーシャーワルにあることは広く知られている。偶然にしてはあまりに偶然すぎることに、ペーシャーワルの街のキッサー・クワーニー地区の半径200mほどのエリアに、ディリープ・クマール、そしてシャー・ルク・カーンの父親の生家があったというから驚く。

Bollywood’s Shah Rukh Khan, Dilip Kumar and the Peshawar club (BBC NEWS ASIA)

もともと北西地域の商業・経済の中心地としてだけではなく、文化と芸術の核として栄えてきたペーシャーワルではあるが、やはりそういう土壌があってこそ、映画人の揺籃の地となったのではないだろうか。いまやイスラーム原理主義過激派が跋扈する街というネガティヴなイメージが定着してしまっているが、非常に保守的な地域にありながら、とりわけリベラルな気風で知られた土地であることを忘れてはならない。

上記リンク先記事にあるように、カプール一族の先祖や伝説的な俳優ディリープ・クマールはともかく、シャー・ルク・カーンは今をときめくボリウッドを代表する映画人だ。彼が10代の頃に幾度か父の故郷を訪れていたこと、いとこのヌール・ジャハーンと息子で同名のシャー・ルク・カーンに関する逸話等々、非常に興味深いものがある。

シャー・ルク・カーン自身も、やはり父方の親戚はすべて向こうに在住ということもあり、ペーシャーワルについては格別な思い入れがあるのではないかと思われる。それはともかく、言うまでもないがインド北部と現在のパーキスターンは、まさに血の繋がった身内であり、たとえ国が分かれても、その縁はどうにも否定できない。

マドゥバラー、アムジャド・カーン、ヴィノード・カンナー、そしてアニル・カプールの父親で映画プロデューサーとして活躍したスリンダル・カプールもまた、ペーシャーワルの出身であるとは、この記事を目にするまで知らなかった。

よく知られた映画スターでさえ、このようにペーシャーワルをルーツとする人たちが多いくらいだから、映画関係の技術職やその他周辺産業に関わる人々の中で、父祖が同地を故郷とする人は相当あるのではなかろうか、と私は想像している。

記事内にあるように、インドを代表する映画人たちのルーツでありながらも、シャー・ルク・カーンの父親の実家近くにある映画館が二度ほど爆弾テロに遭ったことに象徴されるように、これを非イスラーム的であるとして敵視する過激派の活動により、映画という文化の存在さえ危うくなっている状況について胸が痛む。

インドとパーキスターンというふたつの国に分かれて65年が経過しているが、その時間の経過とともに、その記憶と伝統は次第に風化していく。それがゆえに、私たちよりももっと前の世代のボリウッド映画ファンにとっては周知の事実であったことが、こうして改めてメディアで取り上げられると「そうだったのか!」とあちこちでツイートされ、Facebookでシェアされ、ブログ等で話題になる。

1947年、イギリスからの独立の際にインドと分離したパーキスターン。元々は同じインドという地域でありながら、別々の国家として成立した両国は、今後永遠に「ひとつ屋根の下」で暮らす日は来ないだろう。それでも、水よりも濃い血の繋がりを否定することは誰にもできはしない。

バーングラーデーシュでドラえもん

バーングラーデーシュでも往々にして隣国インドのテレビ番組を観ることができる。同じベンガル語のエンターテインメント番組はなかなか人気のようだし、お隣りの国で何か大きな出来事があったときなど、ニュース番組を点けてみる人も少なくないだろう。そうした意味では、国境を接するインドの西ベンガル州と同じコトバを話しているということにより、愉しみや情報を共有できるということ自体は、決して悪いことではないだろう。

世の常として、経済的により高い位置にあるところから、それよりも低いところへは容易に受け入れられる。だが相対的に自分たちが上であると感じている側が、自分たちよりも低いところにあると考えている側のものを積極的に取り入れることはあまりないため、バーングラーデーシュ出身でもない限り、インドの西ベンガル州の住民が嬉々として国境の向こう側の番組を観るということはあまり多くないのではないかと思う。もちろんそれでも人気のドラマなどはあったりするのかもしれないが。

ケーブルテレビに加入していれば、ベンガル語に限らず、ヒンディー語や英語の番組などもいろいろ観ることができるのだが、子供たちにはヒンディーのアニメ番組が人気で、とりわけ日本のドラえもんのヒンディー語吹き替え版が好評なのだとか。 その背景には、自国で子供たちが好むプログラムがあまり充実していないという現状があるそうだ。やはりそこは経済面でも人口面でも圧倒的に大きなインドのほうが優位にあるのは無理もない。

ベンガル語自体が、ヒンディー語とあまりに大きくかけ離れた言語という訳ではないためか、テレビ番組を観ながら自然と隣国の最大言語を覚えてしまう子供たちは少ないないらしい。それはそれで結構なことではないかとも思うのだが、これについていろいろと懸念する向きは少ないないらしい。もちろん労せず身に付くのが英語であればそんなことを言う人はいないのだろうが。

そもそも『インドではない国』として、東パーキスターンとしてインドから分離独立した国だ。しかし皮肉なことにパーキスターンと袂を分かってバーングラーデーシュとして再スタートするにあたり、同国の独立闘争に介入する形で発生した第三次印パ戦争でインドが勝利することにより出来上がった。つまりバーングラーデーシュの生みの親は、パーキスターンからの独立を求めて闘った人民であるとともに、それを工作と武力で支えたインドでもある。

だが国体としては、バーングラーデーシュはインドの一部ではなく、あくまでもオリジナルなひとつの国でなくてはならず、ときに為政者がインドに接近することはあっても、ときにインドに激しく反発することもあり、相応の距離を置いて付き合ってきた。

稠密な人口のはけ口もなく、インドとの分離前には生産地と市場とを分け合う補完的な関係にあった周辺地域(つまり現在のインドの西ベンガルやアッサム等)との関係やブラフマプトラ河の水運の便はもとより、水利の調整もふたつの国が別々になっていることによる不都合は多い。

歴史に「もし・・・」という仮定はあり得ないが、かつてこの地域が東パーキスターンとして分離することがなければ、今の世の中でヒンディー語のアニメに懸念を抱く親たちはいなかったことだろう。もちろん社会や経済のありかたそのものが現在のそれとは大きく異なり、文字どおり「ベンガル人の国」としてのバーングラーデーシュではなくなっていたことであろう。『巨大な隣国インド』がなく、それが『自国』であったとすれば、国防費用が浮くだけではなく、そこで育まれる国家観や民族意識といったものもまた大きく違ったものとなる。

視点を旧西パーキスターン、つまり現在のパーキスターンに移してみると、かつて自国の東側をインドによって失わされた経験は、インドに対する不信感を抱くひとつの大きな要因でもあるだろう。それがゆえに隣の大国インドに対して常に危機感を持つのは無理もない、ということにもなるのだ。

‘डोरेमॉन’ से डरे बांग्लादेशी मां-बाप (BBC Hindi)

 

英語で学ぶタイの大学

ヤンゴンバスターミナルで、自分が乗るバスの出発時間まで時間潰しをしていたら、フランス人の若い女性の二人連れに会った。

この人たちは、二日に一晩は夜行バスで移動しているとのことで、短い期間にバガン、マンダレー、カロー、インレー湖と来て、ヤンゴンに到着したところで、これから西の方角にある海岸に向かうのだという。

ビーチで二泊した後、ヤンゴンに戻ってバンコクに飛び、さらに二日後にはラオスに向かうのだそうだ。なぜそんなに忙しい旅行をしているのかというと、バンコクに留学中で、フランスに帰省する前に、周辺国をあちこち訪問したいのだとか。

タイに留学というからには、何かタイそのものに関することを学んでいるのかと思いきや、「経営学」だという。授業はすべて英語でなされるとのことで、主に外国人留学生(および英語で学びたいタイ人学生)の獲得を主眼に置いたコースであるようだ。そんなわけで、タイ語はほとんどできないとのことであった。

近年、多くの国々で留学生の招致がひとつの産業として位置づけられ、様々な工夫がなされている。決して数は多くはないものの、日本でもそうした大学あるいは学部、研究科等あるが、公用語として使われているわけではない英語での授業となると、大学側には並々ならぬ苦労があるようだ。

また学生にとっても、例えばそうした大学で学士号を取得しても、日本国内で学外の大学院に進学する場合、「やっぱり日本語が必要だった!」ということで、それまで軽んじていた日本語を、ほぼゼロから学ばなくてはならなくなったというケースも耳にする。

留学生活は、クラスでの授業がすべてというわけではなく、そこでの生活もあり、交友関係等もあるので、英語が公用語として広く用いられている国々ならともかく、地元の生活との乖離がはなはだしい土地ではどうかな?とも感じる。

しかしながら、本人の意欲と頑張り次第で、そこに暮らしていてこそ、地元の言葉を習得することも可能であるので、留学先としてこういう選択があってもいいと思う。「英語で学ぶタイの大学」の案内として、以下のようなウェブサイトがある。

タイの大学へ行こう!英語で学べるタイの大学

とりわけ今後の人生を、タイに関わりを持っていきたいと考えている方には、有力な選択肢のひとつかもしれない。