ELLIS BRIDGE

オリジナルの橋梁は左右から新しい橋に挟まれる形となっている。

オートでエリス・ブリッジを渡る。左右から新しい橋が挟み込み、オリジナルは普段は通行禁止になっている。

これはアムダーバードを象徴する橋で、ちょうどコールカーターのハウラー・ブリッジに相当するようなものであり、幾度も映画のロケにも使われている。

英領時代の19世紀後半に木造の橋が築かれ、その後鋼鉄製のものに架け替えられた。それが現在目にすることのできるエリス・ブリッジのオリジナル部分だ。

橋の名前は、英国植民地当局の幹部であったSir Barrow Helbert Ellisに因むものである。ユダヤ系英国人の彼は英領インド政府の要職を歴任し、最後は総督のEXECUTIVE COUNCILのメンバーにまで上り詰めた。現在の内閣に相当する機関であり、閣僚級のポストにあったと言える。

メジャーなランドマーク的な橋でありながらも、独立後にインドやグジャラート州の偉人の名前に置き換えられることなく、往時と同じ名前で知られていることは特筆すべきことかもしれない。

炎の壁(TRIAL BY FIRE)

NETFLIXオリジナル作品として、ごく最近制作されたもので、テーマは1997年6月に起きたウパハール・シネマの火災事件とその後の遺族たちの闘争。実話に基づいたシリアスな内容。

炎の壁(TRIAL BY FIRE) NETFLIX

南デリーのグリーンパーク地区にある昔ながらの単館映画館(事件当時はシネプレックスなど存在しなかった)で、ミドルクラスの商圏にあるシネマホールであったため、上映作品も悪くなかった。

火災事故は、映画館内で保管していたジェネレーターの燃料に電気のスパークが飛び引火というもので、あまりに杜撰な危険物の管理体制が問われるとともに、上映開始後にホールの外側から鍵をかけて出入りできないようにしてあったとのことでもあった。火災発生当時には誰も施設内を監視していなかったため、観客たちが炎に包まれるまでになってから映画館側は火災発生を認識といった信じられない状況について当時のメデイアで報じられていた。

この映画館のオーナーはスシール・アンサルとゴーパール・アンサル(兄弟)が運営する「アンサル・グループ」の所有であることも伝えられていた。不動産業等を始めとするビジネスを展開している資金力に富む企業体であり、政界にも顔が利くアンサル兄弟である。

やはり当初のおおかたの予想どおり、事件の調査とその後の遺族たちの起訴による裁判は難航。そのいっぽうでこのアンサル・グループはちょうどそのあたり(1999年)に南デリーに「アンサル・プラザ」というインドにおけるモダンなショッピングモールのハシリといえる施設をオープンして大変な人気を博すところでもあった。その後、同グループはデリー首都圏を中心にいくつもの「アンサル・プラザ」をオープンしていく。

そんな財力も政治力もあるアンサル・グループを相手に遺族たちが闘う様子をドラマ化したもので、インドでもかなり話題になっている作品らしい。

Trial by Fire: Series on 1997 Uphaar Cinema fire to arrive on Netflix in January (The Indian EXPRESS)

Delhi HC refuses stay on Trial By Fire, web show on Uphaar tragedy releases on Netflix (Hindustan Times)

RRR鑑賞

ヒンディー語映画好きな私ではあるが、そのいっぽうで南インド映画もオーバーアクションな作品もほとんど観ないのだが、ヒューマントラスト渋谷で鑑賞したテルグ語作品「RRR」の重厚感ある造りとともに、作品中で幾度も展開されるどんでん返しにすっかり圧倒された。

息つく暇もないパワフルなストーリーがどんどん進んでいき、派手なアクションシーンとともに体力も消耗した気がする。面白い作品であった。

しかし不思議に思われるのは、なぜ今の時代になって反英ストーリーなのか?

かつても植民地時代を描いた作品はいくつもあったが、民族自立への大義、志士への共感であったり、独立指導者たちと英国当局トップとの駆け引きであったりというものが多かったように思う。

植民地時代を経験した世代には、英国統治への畏敬の念の記憶とともに、分離独立後前後の混乱、独立後長く続いた低成長時代への不満等もあったためか、インドを統治した英国人たちを、とんでもない人でなしと描写するものはあまりなかったように記憶している。

北米内のように英国をはじめとする欧州から入植者たちがどんどん押し寄せて開墾しながら現地の人々を外へ外へと追い出していくような具合ではなく、数少ない英国人たちが多くの現地の人々を雇用したり登用したりして築いていったのが英領インド。この映画で描写されるように現地の人たちをすぐに殴ったり足げにしたり、上層部はすべて英国人でインド人たちはみんな下働きという社会でもなかった。

反対に、舞台として設定されている1920年代には、それまでに英国がインドでの人材育成に力を入れてきた甲斐もあって、多くのインド人たちが高級官僚、裁判官、文化人、起業家などとして社会に台頭していた。

これとは逆に鉄道技師、クルマのエンジニアといった現業部門に従事していた英国人たちが、インド人上司の指示のもとでせっせと働くという場面はごく当たり前のものであったし、英国が間接統治していた藩王国で雇用されていた英国人等の欧州系の人々もあった。安定した生活を送ることが出来るとも限らず、両親がともに病や事故で倒れて孤児となる英国人、欧州人の子供たちも少なくなかった時代でもある。

つまり英国人の圧政に汲々とするインド人というような単純な構図ではなかったのである。英国人だからということだけで社会上層部にいられるはずもなく、インド人であるからといって下働きに甘んじなければならない社会でもなかった。世の中というのはそういうものだ。

あくまでもフィクションの娯楽映画ではあるものの、このような調子で英領時代を描く作品が続くと、総体的に人口構成が若いインド人たちの間で、自分たちの知らない往時のことが、ずいぶん捻じ曲げて解釈・理解されてしまうような気がする。たぶんこのような形でも「歴史の書き換え」がなされてしまうのだと思う。

映画『RRR』本予告 10/21(金)公開(Youtube)

勝利の女神が降臨 W杯決勝戦

ワールドカップの決勝戦、試合そのものの話ではないのだが、あのシーンを目にして「誰だ?あの神々しいまでの美女は?」「美し過ぎる、この世のものとは思えん!」と思った方はさぞ多かったはず。

トロフィーを披露する役回りで、映画女優のディーピカー・パードゥコーンが出ていたのだ。美貌と見事な8頭身は言うまでもないが、背丈が175cmくらいあるので、このような場で大変見栄えがする。

どういう経緯でここに出ていたのか知らないのだが、本大会に出場していないインドが決勝戦でこのような存在感を示したことに、侮れないものを感じた。

昨夜の決勝戦の場に姿を現したディーピカーという名の「勝利の女神」は、120分に及ぶ両者の激しい戦いを目にして迷いつつも、最後の最後で青と水色のユニフォームの側に微笑んだ。

だからアルゼンチンはPK戦を制することができたのだ。そして私たちはいつもなんとなく口にしていた「勝利の女神」は、実はインドからやってくることを知るに及んだ次第。

開催地、開催時期、全日晴天、サウジアラビアの大金星、日本の躍進、モロッコの大躍進等々、異例なことが多かった今大会は、やはり歴史的な大会であったことが、最後の舞台で大きく印象付けられた。

FIFA World Cup: Deepika Padukone unveils trophy in final – WATCH (THE BRIDGE)

映画は時代を写す鏡

挿入歌の歌詞はまさにそれを象徴している。この曲は耳にするのも小恥ずかしいような感じで好きではなかったが、今になって振り返ると公開された1988年はまさにそういう時代。

息子は親の言うとおりに勉強して、幸いドロップアウトしなかったら親の進める道をいくか、家業を継ぐのが当たりまえ。そして結婚相手は親が決めて自然と決まっていくものでもあったけど、それに対するささやかな反抗の歌。ジューヒー・チャーウラーとアーミル・カーンがともに初主演で大ヒットした作品「Qayamat Se Qayamat Tak」の挿入歌のひとつである。

Papa Kehte Hain Bada Naam Karega (Youtube)

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パパは言う。僕がどんな立派なことをするかと

息子がどんな仕事をするのかを

だけどそんなことは誰にもわからない

この僕がどこに向かうのかなんて。

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その後、1990年代に入ると衛星放送が解禁されて海外の映画やドラマなどが雪崩を打ってインドに入ってくるようになり、民間のテレビチャンネルも雨後の筍のように一気に広がったインドで、1980年代のスタイルの映画が生き延びる術はなかった。

経済開放へと舵を切ったインドで、外資が各産業にどんどん食い込んでいったのは、映画界も例外ではなく、「お金になる」ヒンディー語映画界にはハリウッドからの資金がじゃぶじゃぶ投入されるようになった。それまでマフィアが資金調達の相当部分を仕切っていた映画界がある意味健全化していく側面もあった。

金を出して口も出すのがハリウッドなので、インド国外での上映も視野に入れて、上映時間が長大なものはこの影響により減っていった。今も「インド映画はとにかく長い」と思いこんでいる人はなぜか少なくないように聞くが、現在のヒンディー語娯楽映画の尺の長さは一般的な洋画や邦画と同じになっている。

そんなことからも、往時のヒンディー語映画と今のそれとでは、作風も傾向もまったく別物となっている。インドは広いので、あまりそうはなっていない地方語映画もあるかもしれないし、ヒンディー語映画でもボージプリー映画、チャッティースガリー映画といった方言映画には、古い古い時代の個性が強く残る作品も少なくないようではあるものの。

そんな具合からも映画というのは、まさに時代や世相を写す鏡であると言える。