Namaste Bollywood Mook Sutra Vol.4 はじめてのボリウッド

今年の夏、かつて一緒にヒンディーを勉強したドイツ人の旧友と、デリーで久々に顔を合わせて一緒に飲みに出かけた。彼はジャーナリストとして南アジア関係のニュース等を精力的に書いてきた人だが、現在はロンドンに在住。

その彼が言うには、「ロンドンはいいところだよ。誰が暮らしても自分がマイノリティであることをあまり意識しないね。いろんな人々がゴチャまぜに暮らしているから。ドイツではこうはいかないな。それに映画館では最新のボリウッド映画が当たり前に鑑賞できるとなれば、来てみたいと思うだろ?」

彼曰く、観客の大半は南アジア系の人々だそうだが、昔々の宗主国の首都は今でもインドとの間の心理的な距離は近いのかもしれない。ボリウッドをはじめとするインドの大衆娯楽映画の普及の背景には、往々にして文化的・民族的なインフラの下地の存在の有無が大きいということは否定できない。

ところで、ハリウッドに代表されるアメリカの映画の場合は、普遍性が高く、民族性も薄いものととらえられているのではないだろうか。こうした映画が文化圏を越えて広く鑑賞されるのには、世界に浸透している同国の政治・経済・文化の影響というインフラがあるためとみて間違いないだろう。これがフランス映画、イタリア映画となると、まだグローバル性はあるものの、かなり民族色や地域色が濃くなってくるといえるかもしれない。

ここからさらに日本映画、韓国映画となるとずいぶん事情が異なってくる。あくまでも日本の映画、韓国の映画ということで、それぞれの国外の人たちにとって、自分たちの世界とは違う異文化世界の物語ということになる。

ボリウッド映画は、といえばどちらとも少し事情が異なる。隣国パーキスターンのように、あるいはネパールその他の南アジア各国、つまり広義のインド文化圏にある国々の人々にとっては遠い異国の話ではない。加えて世界中に散らばるインド系移民が多くすんでいる地域でも、こうした映画の文化背景は決して遠く離れた世界のことではないだろう。

東南アジア地域に視点を移すと、タミル系住民の多いマレーシアではタミル映画が各地のシアターで公開されており、反対にマレーシアのタミル系住民の規模とは比較にならないほど人口規模は小さいが、北インド系移民の多いタイやミャンマーで劇場公開されるインド映画はボリウッド作品という事情に鑑みても、現地にそれなりの人口規模で在住するインド系の人々の出自による影響は無視できないものがあるようだ。

今思えば、90年代の日本で突如沸き起こった「インド映画ブーム」は何だったのだろう。一般的に市井の人たちの間にインドで製作された作品に対する興味や認識があったわけではない。つまりそれを受け容れるインフラも何もないまっさらな下地であった。少々意地悪な解釈をすれば、ある意図を持った仕掛け人たちが自らの描いた路線で、わずかに存在していた愛好家やその道に通じている人たちを都合よく利用してキャンペーンを張った結果の産物であったといえる。

「自分たちがこれまで親しんできた映画とはずいぶん異なる異次元世界」といったスタンスで、「歌って踊ってハッピーエンド」という紋切り型のワンパターン作品群という前提での取り上げ方であった。そこでは、貧しい庶民が苦しい日常を忘れてつかの間の喜びを見出す場であるなどといういい加減な言質がまかり通り、幾多のメディアによるそうしたスタンスで日本の読者や視聴者たちにそうした印象を与える扱いが相次いでいた。

それまでインド発の娯楽映画がほとんど未知の世界であった日本の観衆は、そうした仕掛け人たちの意図する方向へと容易に誘導されてしまうこととなったのはご存知のとおり。その結果、ヘンな映画、笑える映画といったキワモノの扱いで、ストーリーは単純でコトバが判らなくても楽しめるなどといった、ひどく安っぽいレッテルが貼られることになってしまった。

文化的な面を尊重する姿勢は見当たらず、「上から目線」でリスペクトの感情さえ欠如した負のイメージだけが残ることになり、その「ブーム」当然の帰結として一過性のものとなってしまう。当時のブームを知る世代の間では今も「歌と踊りのハッピーエンドのアレね・・・」という認識が根強く残っているようだ。

インドの娯楽映画に対する理解や普及といった面に限れば、当時刷り込まれた負のイメージの影響が、同国からの映画の日本での普及、とりわけそのインド映画の華といえるボリウッド作品の日本市場への浸透を妨げる要因のひとつとなっていることは否定できず、個人的にはあのような形でのブームはなかったほうが良かったのではないかとさえ思っている。とりわけ現在のボリウッド映画はかつてない幅広いバリエーションの作品群を抱えているだけに非常に残念なことである。

もっとも、当時のブームでインド発の映画作品に触れる機会を持ったことにより、一部ではインドへの留学や舞踊等の伝統文化の習得を目指して渡航する人たちが増えたり、あるいはビジネスでインドと関わりを持ったりする人々が出てきたというプラス面もあったようだ。

前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。おなじみNamaste BollywoodのMook Sutraシリーズ第4弾の「はじめてのボリウッド」では、巻頭にて「ボリウッド(梵林)の定義とは」と題して、インド映画の中におけるボリウッド映画の位置づけを示したうえで、この偉大なる娯楽映画の世界を包括的に紹介している。

「梵辞林」という記事では昨今活躍している俳優や女優たちが取り上げられている。こうした企画は他の書籍でもときどきあったが、時代とともに移ろうものなので、ときどきこうして今の時代に旬な出演者たちを確認しておくといい。同様に大切な音楽監督たちやプレイバックシンガーたちついても代表作とともに紹介されており、このあたりをよく把握しておくことで、ボリウッド映画鑑賞の楽しみの奥行きも広がること必至だ。

その他、サルマーン・カーンのブレスレットのような細かな演出、ボリウッド映画のマーケティング戦略等々、この世界にまつわる様々な事柄について言及されている。これらの知識もボリウッドを理解するために大切なファクターである。

またボリウッド映画をめぐり、日本で流布する不可思議な都市伝説についての検証もなされており、これで汚名返上となることを期待せずにはいられない。

今年で2回目となるIFFJ (Indian Film Festival Japan)の開催や時折日本国内でも時折ボリウッドの秀作がロードショー公開されるようになるなどといった、ボリウッドをはじめとするインドの映画を愛する関係者の方々の努力により、これからは上映される作品に対して正当な評価が与えられて普及していくことを願いたい。

ごく一部の例外を除き、私たちの日常にはインドの文化・民族的なインフラがほとんど存在していないという不利な点はあるものの、それとは反対にボリウッド映画をはじめとするインドの映画の裾野の広さがそれをカバーして、日本の人々が自分たちの日常を忘れて異国の夢の世界に遊ぶ愉しみを見つける手助けをしてくれるのではないかという気もしている。

豊かなボリウッド映画世界への案内書として、ぜひともこの一冊をお勧めしたいと思う。お求め先については以下をご参照願いたい。

vol.4「はじめてのボリウッド」好評発売中! (Namaste Bollywood)

Namaste Bollywood #37

Namaste Bollywood #37

ナマステ・ボリウッド第37号の特集はIFFJ(Indian Film Festival Japan)。目下開催中のこの映画祭は東京・埼玉・大阪の3会場にて進行中で、会期はそれぞれ10月11日(金)~18日(金)、10月12日(土)~14日(月)、10月19日(土)~25日(金)となっている。見応えのある作品が目白押しで、できることならば会期中ずっと入り浸っていたい。

チケットは1回券が1500円、3回券が3000円となっているため、会期中に3回単位で鑑賞する、あるいは複数人数で押しかけるとお得となるようになっている。

今回のIFFJで上映される作品のひとつ、Chalo Dilliでラーラー・ダッターとともに主役を演じるヴィナイ・パータクといえば、もはや名優の域に達している素晴らしい役者だが、この映画祭初日には会場に姿を見せていたようだ。ちなみにこの作品は来年1月14日から日本で正式に公開される予定。ヒーローものでもアクションものでもないが、コミカルな役柄とともに幅広く懐深い彼の演技をひとたび目にしたならば、誰もが魅了されるはず。

その他、今回のIFFJで上映されるわけではないが、インドのディワーリーのタイミングで公開される大作についても触れられており、Krrish 3やDhoom 3など、いつか日本で公開される日がやってくることをぜひ期待したい。

その他、特別企画「インド舞踊を語る」、そして「カタックを語る」といった舞踊に関する記事、ボリウッドDVD、ボリウッド映画に関する書籍の情報等々、ファンにとっては欠かすことのできない情報に満ちている。

ボリウッド映画は、大きな娯楽だが、これを鑑賞していくにつれて、スクリーンの背景にある文化や伝統といったものもチラチラと見え隠れしていることから、語学以外の面からも、インドを学ぶには格好の素材でもある。公開される作品には、製作時のインドの世相も色濃く反映されており、これをフォローしていくには日々発信されるインドのニュース、もちろんインドのメディアが伝える政治経済、映画関係ニュースはもちろんのこと、雑多な三面記事にも日頃からよく目を通しておくと、作品の内容にもよるが製作者の意図やメッセージが鮮明に見えてくることが少なくない。

楽しい娯楽でありながらも、その背後にあるものの奥行きの深さもまた、このボリウッド世界の豊かな魅力である。

スィーパウの町2

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町を歩いていると、インド系のムスリムの家族に出会ってお茶に招かれたり、そうした人々が出入りするマスジッドを見かけたりもした。この町ではムスリムだけではなく、ヒンドゥーの人たちも多数暮らしているが、こんなお寺があった。
遠目には「普通のヒンドゥー寺院」だが・・・。

入口はシヴァ寺院であることを声高に主張

入口にはナーガがあり、シヴァ寺院であることを示しているのだが、その脇にはストゥーパがある。お堂内は仏教とヒンドゥーの神々が混淆した状態だ。ここの世話人と話してわかったことだが、驚いたことにこのお寺には祭祀を司るプージャーリーもいないのだそうだ。

堂内は仏教世界に大胆なまでに譲歩

仏教のお寺と見まがうようになっているのは、マイノリティであるヒンドゥーたちの寺院が地元仏教徒たちにも受け入れられるというに、ということがあるようだ。

そして世話人自身、仏教寺院に仏塔を奉納したりもしており、この寺の建立を含めてこれまで九つの寄進をしているのだそうだ。ここ以外はすべて仏教寺院であることからも、彼自身が仏教世界との融和を心掛けているらしいことが見て取れる。

その世話人、グル・ダットさんは、まるで昔の映画人みたいな名前だが、両親もそのつもりでそう名付けたのだそうだ。「おかげで、私の名前を一度聞いたら忘れる人はいないんだ」と笑う。

彼の祖父母がパンジャーブから来て定住し、彼自身は三代目でインドの地を踏んだこともないとのことだが、流暢なヒンディーを話す。

自身の子供はなく、誰かに財産を残す必要もいないので、こうした寄進を続けているともいう。彼は49歳。50歳を越えたらこうした諸般の事柄から手を引き、完全に引退生活に入るという。瞑想をしながら過ごすことにしたいと語る。

境内にいたヒンドゥーの人々の多くはネパール系。境内の木造の建物の中ではネパール語教室が開かれていた。これは毎日実施されているのだそうだ。黒板にはデーヴァナーグリー文字が書かれており、女性の先生が教えていた。私たちが教室の出入り口の前に立つと、全員起立して「ナマステー」とあいさつしてくれた。

ヒンドゥー寺院境内の建物でのネパール語教室
ネパール語教室

ミャンマーのネパール系の人たちにとって、往々にしてネパールとインドは異なる国という位置付けではないようだ。ネパール系といっても、インド領の地域から移住した人たちも少なくないこともあるし、テーラワーダ仏教世界に移住した同じインド亜大陸を起源とするヒンドゥー世界の住民という意識もあるのだろう。ゆえにヒンドゥーとしてのアイデンティティとしての言語であるヒンディー語、そして民族の言葉であり、父祖の出身地域の言語であるネパール語という意識であるようだ。そんなわけで、日本人としての日本語、東北の人間としての東北弁といった関係に近いものがあるように思われる。

プージャーリー不在の寺とは不思議な気がするが、宗教施設というよりも、むしろインド・ネパール系の人々のコミュニティセンターとして機能していることは容易に理解できる。診療所も併設されていた。

スィーパウの町にはヒンドゥーの世帯は50ほどあるとのこと。寺院の収入とするための揚げ菓子を作ったり、包装したりという作業をしている人たちもあるが、ヒンドゥーのコミュニティ内で就労機会を分け与えるという意味もある。

ほぼすべてのインド系の人たちの母語は今ではビルマ語になっている。しかしながら彼らの間で、ヒンディーを理解するということだけで、ずいぶん大げさに歓迎される。民族語であるからして、他のコミュニティの人に通じることは通常ないため、自分たちの文化に対する強い関心を持っているということは伝わるのだろう。

マンダレーからラーショーへ向かう鉄路の中間点にあるスィーパウ。英領時代に鉄道建設のためにインドから渡ってきた移民の子孫は多い。
ムスリム人口もそれなりの規模があり、このようなマスジッドが町の中心部にある。出入りする人たちはインド系

<完>

 

magzterで読むインド

在米のインド系ビジネスマンが起業したmagzterが頑張っている。

いろいろな雑誌の取扱いが増えており、インド関係以外にも東南アジアやアメリカ等の国の雑誌類、中には日本のものもわずかながら含まれている。

magzterの利用により、インド国外からも雑誌類が購読できるのはいいことだろう。インドの主要都市に居ても普段は見かけない北東州のニュース雑誌の取り扱いもある。magzterの出現以前は、インド国外から雑誌類を購読しようとする場合、それを取り扱うサービスはあっても、手元に届くまで時間がかかったり、郵便事情等により欠配することもあったはずだ。紙媒体で流通しているものと同じ誌面で販売されていることはもちろん、オンタイムで購入できるのが有難い。

ただ欠点もある。年間購読するように誘導しているためであるが、単号で購入するのと半年ないしは1年間の契約にするかで、ずいぶん単価が異なることだ。前者だとかなり割高に感じられてしまう。

一度購入したものは、同じアカウントでサインインしている限り、他の端末でも閲覧できて便利だ。しかし、iPad、Android、Windows RT等々のタブレット用のmagzterアプリが用意されているのはいいのだが、タブレットのOSによって操作感がかなり異なることに少々戸惑ってしまうため、改善されることを望んでいる。

少々注意が必要な部分もある。定期購読の場合、少々注意が必要なのは、購読者側から解約手続きをしない限り、自動更新になってしまう。そのため契約月についてはしっかり覚えておかないといけない。

私自身は、ニュース雑誌を定期購読しているが、旅行関係ではNational
GeographicのTraveller Indiaというものがなかなか興味深いことに気が付いた。昨年7月のヒマラヤ特集は充実していたし、他の号でもなかなか興味深い記事が掲載されているのは、さすがNational Geographicである。

National Geographic Traveller India

 

ただし、他の版元から出ているインドの旅行関係雑誌については、インドの人々の間での旅行に関するトレンドを知るにはいいかもしれない、といった程度のことが多いため、あまり期待しないほうがいいだろう。

ともあれ、今後ますますの充実を期待したいところだ。雑誌のみならず、将来は電子書籍なども購入できるようになるとありがたい。

ボリウッドの大スターたちとペーシャーワル

数々の有名な俳優、女優を輩出してきたカプール一族のルーツは、現在パーキスターンのペーシャーワルにあることは広く知られている。偶然にしてはあまりに偶然すぎることに、ペーシャーワルの街のキッサー・クワーニー地区の半径200mほどのエリアに、ディリープ・クマール、そしてシャー・ルク・カーンの父親の生家があったというから驚く。

Bollywood’s Shah Rukh Khan, Dilip Kumar and the Peshawar club (BBC NEWS ASIA)

もともと北西地域の商業・経済の中心地としてだけではなく、文化と芸術の核として栄えてきたペーシャーワルではあるが、やはりそういう土壌があってこそ、映画人の揺籃の地となったのではないだろうか。いまやイスラーム原理主義過激派が跋扈する街というネガティヴなイメージが定着してしまっているが、非常に保守的な地域にありながら、とりわけリベラルな気風で知られた土地であることを忘れてはならない。

上記リンク先記事にあるように、カプール一族の先祖や伝説的な俳優ディリープ・クマールはともかく、シャー・ルク・カーンは今をときめくボリウッドを代表する映画人だ。彼が10代の頃に幾度か父の故郷を訪れていたこと、いとこのヌール・ジャハーンと息子で同名のシャー・ルク・カーンに関する逸話等々、非常に興味深いものがある。

シャー・ルク・カーン自身も、やはり父方の親戚はすべて向こうに在住ということもあり、ペーシャーワルについては格別な思い入れがあるのではないかと思われる。それはともかく、言うまでもないがインド北部と現在のパーキスターンは、まさに血の繋がった身内であり、たとえ国が分かれても、その縁はどうにも否定できない。

マドゥバラー、アムジャド・カーン、ヴィノード・カンナー、そしてアニル・カプールの父親で映画プロデューサーとして活躍したスリンダル・カプールもまた、ペーシャーワルの出身であるとは、この記事を目にするまで知らなかった。

よく知られた映画スターでさえ、このようにペーシャーワルをルーツとする人たちが多いくらいだから、映画関係の技術職やその他周辺産業に関わる人々の中で、父祖が同地を故郷とする人は相当あるのではなかろうか、と私は想像している。

記事内にあるように、インドを代表する映画人たちのルーツでありながらも、シャー・ルク・カーンの父親の実家近くにある映画館が二度ほど爆弾テロに遭ったことに象徴されるように、これを非イスラーム的であるとして敵視する過激派の活動により、映画という文化の存在さえ危うくなっている状況について胸が痛む。

インドとパーキスターンというふたつの国に分かれて65年が経過しているが、その時間の経過とともに、その記憶と伝統は次第に風化していく。それがゆえに、私たちよりももっと前の世代のボリウッド映画ファンにとっては周知の事実であったことが、こうして改めてメディアで取り上げられると「そうだったのか!」とあちこちでツイートされ、Facebookでシェアされ、ブログ等で話題になる。

1947年、イギリスからの独立の際にインドと分離したパーキスターン。元々は同じインドという地域でありながら、別々の国家として成立した両国は、今後永遠に「ひとつ屋根の下」で暮らす日は来ないだろう。それでも、水よりも濃い血の繋がりを否定することは誰にもできはしない。