Namaste Bollywood+ 43

Namaste Bollywood+ 43

日本における唯一のインドのヒンディー語映画専門誌として知られる「ナマステ・ボリウッド」は、第42号から「ナマステ・ボリウッド+」として有料版に移行、このたび発売された第43号は、新創刊第2号となる。

今号のテーマは「ボリウッドで知るイスラーム文化」である。インドにおけるイスラーム教徒は、総人口13億に迫る(12.5億)巨大な人口を抱えるこの国のマイノリティ集団だが、ここに占めるムスリム人口は1億8千万人に迫るとみられることから、インドネシアの2.5億、パキスタンの1.8億に次ぐ、世界第3位のムスリム人口大国となる。

ちなみにアラビア半島の総人口は、7千7百万人(産油国における人口統計には、出稼ぎ等の外国人の数も含まれることに多少の注意が必要)程度なので、その規模の大きさは圧倒的だ。インド・パキスタン・バングラデシュの3国のムスリム人口を合わせると、その数は4億人を越えることから、イスラーム世界のマジョリティの一角と捉えて間違いないだろう。

また、アフガニスタンやパキスタンにおけるタリバーン運動の思想的なルーツでもあるデーオバンド派が始まったのは19世紀のUnited Provinces(現在で言えば州の分離前のUP州に相当)のデーオバンドでもある。タリバーン運動とは反対に穏健な原理主義として知られ、世界各国に活動を広げるタブリーギー・ジャマアトもこのデーオバンド派から生じたものであり、南アジアおよび周辺地域におけるイスラームに関わる宗教・政治運動に与える影響は大きい。

話は映画に戻る。インドの映画界草創期から現在に至るまで、俳優や監督等の中にムスリムは多く、その他製作や配給に関わるあらゆる映画産業関係者も含めると、さらに大きなものとなる。

昨今の日本では、イスラーム圏から観光や買い物等の目的でやってくる人たちが増えてきていることから、イスラームの作法によるハラール料理への注目が高まるなど、ポジティヴな面での関心の高まりとともに、イスラーム国による日本人の拉致殺害事件からくるネガティヴなインパクトも強く、正と負の両極端なイメージが混淆している状態だ。いずれにしても自分たちとの日常とはほとんど縁のない、理解しがたい人たちというイメージが強いのではないだろうか。

そんな中でも、やはり日本の書店には「イスラムとは」「イスラム入門」「イスラム国の××」といったタイトルの書籍とともに、イスラームについての特集記事を掲載する雑誌等が数多く並ぶようになり、多くの人々が注目するようになってきていることがわかる。

こうした書籍等で取り上げられる「イスラーム世界」の多くは、アラビア半島を中心とする宗教の歴史や文化史、あるいは日本から地理的な近いインドネシアやマレーシアのムスリムの人々のことであることが多く、南アジアのイスラーム教を中心にカバーしているものはあまり多くはない。また、往々にしてムスリムの人の視点に軸足を置いた主観的な「イスラーム観」が語られているように感じる。

南アジアにおけるパキスタン、バングラデシュのようにムスリムがマジョリティを占める国では、イスラームは社会の規範であり、アイデンティティの拠りどころでもあるわけだが、反対にインドにおいては、長い歴史の中で10世紀以降から幾度も大波のように西方から押し寄せてきたイスラームの浸透は、しばしば文化的な侵略として捉えられることは少なくない。

それでも必ずしもイスラーム教は侵略や略奪とともに到来したわけではなく、建築、医療、航海術、生活様式など、当時の先端文化をインドにもたらすものでもあった。たとえイスラーム教徒でなくとも、現在のインドの人々の思考様式、生活習慣、言語等々の様々な方面でイスラームがもたらした文化と日々無縁ではいられない。

先祖代々、ムスリムの人々と隣り合わせで生きてきたため、たとえイスラーム教について批判的な人であっても、イスラームという宗教やそこから生じた思想等に関する知識は非常に豊かで、イスラーム文化への露出度や経験値の高さには測り知れないものがある。

イスラーム王朝による被支配の過去の記憶に対する、19世紀半ば以降のヒンドゥー復古思想の高まり、20世紀に入ってからは英国支配からの独立運動は、マジョリティのヒンドゥー教徒を中心としつつも世俗的な政治思想で人々を率いた国民会議派とムスリムによるムスリム国家の樹立を目指したムスリム連盟との間で深刻な対立を生み、印パ分離独立という結果を見ることとなった。

印パ分離にあたっては、双方から空前の規模の避難民が国境を越えてヒンドゥーが主体のインド側、ムスリムが大勢を占めるパキスタン側へと流入する最中で発生した暴動や虐殺等により、100万人にも及ぶとされる膨大な数の市民が命を落とすという惨事となったことは多くの人々が知るとおりだ。

こうした近代史における大きな出来事が、印パ両国間に今なお横たわる大いなる相互不信の根底にあり、同じくインドにおけるイスラーム教徒、パキスタンにおけるヒンドゥー教徒に対する感情にも反映されて現在に至っている。

しかしながら、インドにおけるイスラームの伝統は今も古典音楽、歌謡、絵画等、文学の芸術分野でも脈々と受け継がれており、これらは「インドの文化」と切り離すことのできない重要な部分を成していることはもちろんのことながら、政治経済の様々な方面でも活躍するイスラーム教徒たちは非常に多い。

ときに緊張をはらんだ対立を生むことがあっても、長きに渡ってイスラーム文化から多大な影響を受けつつ、独自の文化・習慣を持つムスリムの人々と平和裏に共存共栄してきたインドという国は、「イスラーム理解の先達」と表現することができるだろう。

また、イスラーム教徒が大半を占める国ではなく、自国内に「世界最大級のムスリム人口」を抱えるインドだからこそ、イスラームとの関係においてはごく日が浅い私たちが、いかにしてムスリムの人々を理解して共存・共栄していくかということにおいて、学ぶべきことが大変多いことと思われる。それはときに反面教師的なものであったりすることも少なくないかもしれない。決していいときばかりではなく、幾多の辛く厳しい局面も体験してきた懐の深さを持つインドだからこそ、非常に有用な数々の叡智を掘り起こしていくことができるはずだ。

必ずしもムスリム自身からの観点のみではなく、イスラームの伝統や文化に造詣が深い非ムスリムによる視点、これとは反対にあまり好意的ではない意見も併せて、イスラームについて多角的に考察してみることが可能となる。複眼的な視野を持つことは、異文化理解において重要なことだ。

話は戻る。今号はインドというフィルターを通して見たイスラーム文化、イスラームという視点から切り込んだボリウッド映画という大きなテーマ。たとえ純粋に娯楽映画として製作された作品であっても、華やかなスターたちの姿、美しい映像やスリリングなストーリーといった視覚的な部分のみではなく、作品を生んだ土壌や社会文化背景まで広く理解することによって、さらに深く堪能できるのがヒンディー語映画の豊かな世界。

この号に取り上げられたイスラームに縁の深い作品を片っ端から鑑賞して、イスラーム教という宗教文化、政治性、ムスリムの人々について、硬軟織り交ぜたいろいろな側面に触れてみてはいかがだろうか。

蛇足ながら、今回テーマとなっているイスラームとは関係のない内容だが、手前味噌ながら私自身も「ボリウッド眺望紀行」と題した記事をちょこっと書かせていただいている。こちらも併せてお読みいただければ幸いである。

ロヒンギャー難民

最近もまたミャンマーからのロヒンギャー難民たちに関する記事がメディアに頻繁に取り上げられるようになっている。

【ルポ ミャンマー逃れる少数民族】 漂流ロヒンギャ、苦難の道 迫害逃れ、過酷な船旅 (47 NEWS)

昨年、ロヒンギャー問題で知られるヤカイン州のスィットウェを訪れたことがあるが、かつて英領時代には、この街の中心部でおそらくマジョリティを占めて、商業や交易の中心を担ったと思われるベンガル系ムスリムの人たちのタウンシップがある。そこには同じくベンガル系のヒンドゥーの人々も居住していた。

スィットウェへ3 (indo.to)

滞在中にヒンドゥーの人たちの家で結婚式があるとのことで、「ぜひお出でください」と呼ばれていたのだが、その街区はバリケードで封鎖されていて、訪問することはできなかった。
その数日前に、たまたま警官たちのローテーションの隙間であったのか、たまたま入ることが出来て、幾つかの寺院その他を訪れるとともに、訪問先の方々からいろいろお話をうかがうことができたのだが。

実のところ、その結婚式には日程が合わず出席はできないものの、同じ方々からもう少し話を聞いてみたいという思いがあり、足を向けてみたのであるが、バリケードの手前で、「ここから先はロヒンギャー地域だぞ。誰に何の用事だ?」と警官たちに詰問されることとなった。

うっかり先方の住所や名前を口にしては、訪れることになっていた人たちに迷惑が及んではいけないと思い、「いや、向こう側に出る近道かな?と思って・・・」などと言いながら踵を返した次第。通りの反対側から進入を試みてみたが、同じ結果となった。゛

ロヒンギャーとは、一般的に先祖がベンガル地方から移住したムスリムで、現在のミャンマーでは国籍を認められず「不法移民」と定義されている人たちということになっているようだが、ベンガルを出自とするヒンドゥーもまた同様の扱いを受けているように見受けられた。

そのロヒンギャーの人たちだが、母語であるベンガル語の方言以外にも、インド系ムスリムの教養のひとつとして、ウルドゥー語を理解すること、またヒンドゥーの人たちも父祖の地である広義のヒンドゥスターンの言葉としてヒンディーを理解することはこのときの訪問で判った。もちろん個人により理解の度合いに大きな差があり、まったくそれらを理解しない人たちもいるのだが。とりわけ若い世代にその傾向が強いようだ。

アメリカをはじめとする先進主要国から経済制裁を受けていた軍政時代には、ミャンマー国内の人権事情について、各国政府から様々な批判がなされていたが、民政移管に伴い制裁が解除されてからは、そうしたものがトーンダウンするどころか、まさに「見て見ぬふり」という具合になっているように見受けられる。ここ数年間に渡り大盛況のミャンマーブームだが、同国政府の不興を買って、自国企業の投資その他の経済活動に支障が出ることに対する懸念があるがゆえのことと思われる。

Magzterで「立ち読み」

昨年の4月にmagzterで読むインドと題して取り上げてみたことがあるが、その後取り扱う雑誌類はずいぶん増えたし、書籍の扱いも行なうようになったので、ずいぶん便利になってきた。ひとつアカウントを作っておけば、タブレット、スマートフォンその他でそれらをダウンロードして専用アプリ上で閲覧できるのはもちろんのこと、パソコンからウェブサイトにアクセスして、購入した雑誌や書籍を読むことができる。

専用アプリでもウェブサイトでも、まず開いたときに出てくるのは「お勧め」らしき雑誌群であるのは毎回うんざりしたりもするが、自分が定期購読している週刊誌等のコンテンツをいつでもどこでもリアルタイムで入手することができるのはありがたい。インド国外からでもインドで販売されているものと同じ誌面を入手することができる。全国誌以外にもローカルな雑誌の扱いもあり、なかなか使い手がある。

従前は、購入していない誌面については、いくつかのサンプルページのみ見ることができたのだが、アプリを更新すると、定期購読や単号で購入していないタイトルについても全ページ閲覧できるようになっていることに気がついたのは数日前のこと。この措置については期間限定とはいえ、タブレットがネット接続している状態にある限りは、際限なく読み進むことができるわけで、店頭の立ち読み感覚に近いものがある。

時と場所を選ばず、販売エリアを大きく超えて、国外からでもそのように出来るような時代がやってきたとは、実にありがたい限りである。

「英語圏」のメリット

コールカーターで、ある若い日本人男性と出会った。

インドの隣のバーングラーデーシュに4か月滞在して、グラーミーン・バンクでインターンをしていたのだという。これを終えて、数日間コールカーターに滞在してから大学に戻るとのこと。彼は、現在MBAを取得するためにマレーシアの大学に在学中である。

マレーシアの留学生政策についてはよく知らないのだが、同級生の半分くらいが国外から留学しに来ている人たちだという。

今や留学生誘致は、世界的に大きな産業となっていることはご存知のとおりだが、誘致する側としては英語で学ぶ環境は有利に働くことは間違いなく、留学する側にしてみても英語で学べるがゆえに、ハードルが著しく低くなるという利点があることは言うまでもない。

同様のことが、ターゲットとなる層となる自国語が公用語として使われている地域が広い、フランスやスペインなどにも言える。これらに対して、国外に「日本語圏」というものを持たない日本においてはこの部分が大きく異なる。

出生率が著しく高く、世帯ごとの可処分所得も潤沢な中東の湾岸地域にある産油諸国においては、急激な人口増加に対する危機感、そして石油依存の体質から脱却すべく、自前の人材育成に乗り出している国が多く、とりわけ欧米諸国はこうした地域からの留学生誘致に力を入れている。昨年、UAEのアブダビ首長国で開かれた教育フェアにおいては、日本も官民挙げて力を注いだようだが、来場者たちは日本留学関係のエリアはほぼ素通りであったことが一部のメディアで伝えられていた。

投資環境が良好なUAEにおいては、Dubai International Academic Cityに各国の大学が進出して現地キャンパスを開いているが、それらの大学はほぼ英語圏に限られるといってよいだろう。やはりコトバの壁というものは大きいが、こういうところにもインドは堂々と進出することができるのは、やはりこの地域との歴史的な繋がりと、英語力の証といえるかもしれない。

日本政府は中曽根内閣時代以来、留学生誘致に力を入れているものの、現状以上に質と規模を拡大していくのは容易ではなく、「留学生30万人計画」などというものは、音頭を取っている文部科学省自身も実現不可能であると思っているのではないかと思う。仮に本気であるとすれば、正気を疑いたくなる。

もともと日本にやってくる留学生の大半は日本の周辺国であり、経済的な繋がりも深い国々ばかりであり、その他の「圏外」からやってくる例は非常に少ない。また、日本にやってくるにしては「珍しい国」からの留学生については、日本政府が国費学生として丸抱えで招聘している例が多いことについて留意が必要である。そうした国々からは「タダで学ぶことができる」というインセンティブがなければ、恐らく日本にまでやってくることはまずないからである。

身の丈を越えた大きな数を求めるのではなく、質を高めるほうに転換したほうが良いのではないかと思うが、ひょっとすると、少子高齢化が進む中で、外国から高学歴な移民を受け入れて、労働人口の拡充に寄与しようという目的もあるのかもしれないが、実際のところは、学齢期の人々が漸減して、冬の時代を迎えている国内の大学の生き残りのための政策なのではないだろうか。

こればかりはどうにもならないが、もし日本が「英語圏」であったならば、様々な国々からの留学生の招致は現状よりももっと容易であったに違いない。

FRONTLINE インド映画100年記念号

「前線」という名前どおり、思い切り左傾した隔週刊のニュース雑誌。いつも読み応えのある硬派な内容だが、前号(2013年10月18日号)の特集は「インド映画100年」であった。ここで取り上げるのが少々遅くなってしまって恐縮ながらも、iPadやandroidのアプリmagzterからバックナンバーとして購入できるのでご容赦願いたい。

深い洞察眼で物事を徹底的に分析する「しつこいニュース雑誌」が全誌面150数ページのほとんどを費やしての総力特集を組んだだけに、とても濃い内容の記事がズラリと並んでいる。

ノスタルジアや憧れといった感情抜きに、社会学的な見地、言語学的な見地から見た映画事情、昨今の映画検閲の実情について、映画の周辺産業、ボードー語(アッサム州のボードー族の言葉)のようなマイノリティ言語による作品等々、「映画雑誌には出来ない映画特集」で、まさにフロントライン誌でしか読むことのできないものだ。

インドの映画界に関心を持つ者にとってはマストなアイテムと言って間違いない。うっかり買いそびれることがないように!と呼びかけたいところだが、幸いなことにmagzterならばいつでも購入できる。電子媒体なので在庫切れなどということもない。

ずいぶん便利な時代になったものだと思う。