米国メディアの取り扱いも増えてきた米国の購読プラットフォーム「Magzter」

雑誌や新聞の電子版購読プラットフォーム「Magzter」は米国の企業だが、在米インド人が起業したインドのメディア購読を主目的とするものであるため、米国のメディアの扱いはあまりないという捻じれがあった。

しかしながらこのところNewsweekその他のアメリカの雑誌が次々エントリーされている。

しかしそれでもようやく「今度はTIMEも!」と宣伝しているくらいなので、やはりアメリカのメディアには弱い「アメリカの電子版メディア購読プラットフォーム」。

それにしても「インドメディアほぼ専門」でありながらも米国で操業というのは、おそらく法的その他の環境から、インドでこういうビジネスの操業は容易でなく、米国でのほうがやりやすいというようなことがあるのだろう。

「Magzter」はいろいろなニュース週刊誌に加えて、大手各紙の様々な地方版を読むことができるという点でも素晴らしく、とりわけ読み放題の「GOLD」に加入すると、その真価を発揮する。

地名変更と国名変更

来年5月に総選挙を迎えるインドでは、BJPが再び地名変更の動きを見せている。UP州のLUCKNOW(ラクナウ)をLAKHANPUR(ラカンプル)またはLAKSHMANPUR(ラクシュマンプル)にという案が浮上。いずれにしても取って付けたような名称ではなく、それなりにきちんとその土地に由緒あるものであるとはいえ、長らく「LUCKNOW」として知られてきた州都、旧アワド王国の都の名前をそのような形に変更してしまうというのは、ヒンドゥー至上主義右派によるイスラーム文化やイスラーム支配の歴史のあからさまな否定でもある。

Rename Lucknow as Lakshmanpur or Lakhanpur’: BJP MP urges Amit Shah(INDIA TV)

独立以来、インド各地で地名等の変更が行われてきたが、その目的は主に以下のようなものであった。

  1. 植民地時代式の綴りを現地の発音に即したものに改める。 (CAWNPORE→KANPUR、JEYPORE→JAIPUR、JUBBULPORE→JABALPUR等)2.
  2. 英語名称を現地語名称に揃える。  (BOMBAY→MUMBAI、CALCUTTA→KOLKATA、MADRAS→CHENNAI等)

同様に、各地のストリート名などが、植民地時代の行政官等に因んだ名前からインドの偉人や独立の志士などの名前に変更されている。インドに限らず植民地支配から脱した国々の多くでこのような名称変更は実施されていることはご存知のとおり。

しかしBJPが政権を握るようになってからは、それ以前は見られなかった新たな形での名称変更が続いている。

3.ムスリムの支配や影響を色濃く残す地名を「ヒンドゥー化」する。(ALLAHABAD→PRAYAGRAJ、OSMANABAD→DARASHIV、HOSHANGABAD→NARMADAPURAM等)

この③のタイプの改名については、コミュナルな背景の意思が働いているため①及び②とは異なり、注意が必要となる。

先述のとおり、2024年5月に総選挙が実施されることに先立ち、今後もこのような地名変更の提案が続くものと予想される。州都ラクナウのような伝統ある地名が③の形で改名されてしまうようなことが本当に起きるとは信じ難いものがあるが、グジャラートのAHMEDABAD(アーメダバード)についても、KARNAWATI(カルナワティ)に変更しようという動きもある。ひょっとすると首都DELHI(デリー)についても、INDRAPRASTHA(インドラプラスタ)に改称される未来が来るのではないかと冗談半分に言われているが、数年後にそういう日がやってきたとしても、あまり驚くに値しないのかもしれない。

頻繁に地名変更を提案したり、それを実施したりしているBJP政権だが、報道を注意深く見ていると、そのような方向に本格的に動き出したことが大きく報じられる前に、国会議員なり地方議会議員なりの「個人的な意見」という形で、しばしば観測気球のようなものが上がっていることに気が付く。

以下の記事は昨年末の報道だが、BJPの議員により「インドの国名を改めよう」という意見。

BJP MP who wants to rename India: ‘PM Modi trying to restore nation’s pride … I thought my question in Parliament will expedite his work’ (The Indian EXPRESS)

「INDIA」を「BHARAT(バーラト=ヒンドゥーの地)」あるいは「BHARATVARSH(バーラトワルシュ=バーラトの大地)」に変更しよういうものだ。

これについては、例えば英語で「JAPAN」と呼ばれてきたのを「NIHON」あるいは「NIPPON」に変えようというようなもの。外からの呼称を内での呼び方に揃えようというもの違和感は薄い。(インド国外でBHARATという名称をご存知ない方も少なくないかと思うので、もしかすると耳慣れない奇妙な呼称に感じるかもしれないが・・・。)

いっぽうでインド、INDIAの別称として「HINDUSTAN(ヒンドゥスターン)」もある。企業名でも「HINDUSTAN MOTORS」「HINDUSTAN PETROLEUM」等々、「HINDUSTAN」を冠したものは多く、日常会話でも自国のことを「ヒンドゥスターン」と普通に呼ぶので、なぜ「HINDUSTAN」にしないのか?と思う方もあるかもしれないが、BJPのようなサフラン右翼(サフラン色はヒンドゥーの神聖な色)にとって、やはり「BHARAT」あるいは「BHARATVARSH」こそが、あるべき母国の名称ということになる。

なぜならば「HINDUSTAN」という名前は、元々はペルシャ(及びペルシャ語圏)の人々から見たインドに対する呼称であって、インドの人々が自国をそう呼ぶようになったのは、ペルシャ語圏から入ってきたその名称が定着したからに他ならないからということが背景にある。

RRR鑑賞

ヒンディー語映画好きな私ではあるが、そのいっぽうで南インド映画もオーバーアクションな作品もほとんど観ないのだが、ヒューマントラスト渋谷で鑑賞したテルグ語作品「RRR」の重厚感ある造りとともに、作品中で幾度も展開されるどんでん返しにすっかり圧倒された。

息つく暇もないパワフルなストーリーがどんどん進んでいき、派手なアクションシーンとともに体力も消耗した気がする。面白い作品であった。

しかし不思議に思われるのは、なぜ今の時代になって反英ストーリーなのか?

かつても植民地時代を描いた作品はいくつもあったが、民族自立への大義、志士への共感であったり、独立指導者たちと英国当局トップとの駆け引きであったりというものが多かったように思う。

植民地時代を経験した世代には、英国統治への畏敬の念の記憶とともに、分離独立後前後の混乱、独立後長く続いた低成長時代への不満等もあったためか、インドを統治した英国人たちを、とんでもない人でなしと描写するものはあまりなかったように記憶している。

北米内のように英国をはじめとする欧州から入植者たちがどんどん押し寄せて開墾しながら現地の人々を外へ外へと追い出していくような具合ではなく、数少ない英国人たちが多くの現地の人々を雇用したり登用したりして築いていったのが英領インド。この映画で描写されるように現地の人たちをすぐに殴ったり足げにしたり、上層部はすべて英国人でインド人たちはみんな下働きという社会でもなかった。

反対に、舞台として設定されている1920年代には、それまでに英国がインドでの人材育成に力を入れてきた甲斐もあって、多くのインド人たちが高級官僚、裁判官、文化人、起業家などとして社会に台頭していた。

これとは逆に鉄道技師、クルマのエンジニアといった現業部門に従事していた英国人たちが、インド人上司の指示のもとでせっせと働くという場面はごく当たり前のものであったし、英国が間接統治していた藩王国で雇用されていた英国人等の欧州系の人々もあった。安定した生活を送ることが出来るとも限らず、両親がともに病や事故で倒れて孤児となる英国人、欧州人の子供たちも少なくなかった時代でもある。

つまり英国人の圧政に汲々とするインド人というような単純な構図ではなかったのである。英国人だからということだけで社会上層部にいられるはずもなく、インド人であるからといって下働きに甘んじなければならない社会でもなかった。世の中というのはそういうものだ。

あくまでもフィクションの娯楽映画ではあるものの、このような調子で英領時代を描く作品が続くと、総体的に人口構成が若いインド人たちの間で、自分たちの知らない往時のことが、ずいぶん捻じ曲げて解釈・理解されてしまうような気がする。たぶんこのような形でも「歴史の書き換え」がなされてしまうのだと思う。

映画『RRR』本予告 10/21(金)公開(Youtube)

地名あれこれ

長年、アーメダバードのことを「エヘムダーバード」と読むものと思っていた。ヒンディーでの綴りと読みはそうなっていて、それはそれで正しいはずなのだが、通常地元では「アムダーバード」と呼ばれているようだ。

「Ahmedabad/ エヘムダーバード」は、グジャラートのスルターン王朝の「Ahmed Shah/エヘマド・シャーハ」に因んで名付けられたもの。BJP支配下の州で相次ぐ地名浄化の中、イスラーム教浸透以前の「カルナーワティー」に改名しようという動きもあったが、幸いまだ実現していない。

「エヘムダーバード」か「アムダーバード」かは、デリーのことをウルドゥーで「デーヘリー」と呼ぶか、ヒンディーで「ディッリー」と呼ぶかの違いのようなものなのだろう。

やはり太古の名前「カルナーワティー」や「インドラプラスタ」がサフラン右派にとっては超復古主義的でインパクトの強い魅力的なオプションとなるのはわかるような気がする。

amazon.in

書店に行き、いくつか気になる本の表紙を撮影。紙媒体のものしかない専門書籍の類は普通に購入するが、それ以外の読み物はたいていKindle版が出ている。店頭でページをめくってみて、良さそうであればamazon.inで買いたい。

これだと持ち帰る際に重量は増えないし自宅のスペースも圧迫しない。ただ、もしアマゾンが倒産してしまったら、まだ読んでいない本までもすべてパーになってしまうのだろうと怖ろしいのだが。

このようにして、昼間に見かけた書籍のKindle版を夜な夜な購入していると、なぜか買うことができない書籍があるため気がつくかもしれない。それはタブレットなど大型画面の端末での利用が確認できないと、販売しないKindle書籍があるためだ。

ちょうど今、あなたがインドに滞在中であれば、ぜひamazon.inのアカウントを作っておくと良い。だからといってそこで何か買い物をしなくてはならないということもない。ただ作っておくだけで、インドの書籍に興味があるのならば、後々助かることになるかもしれない。

インドを出てからでもアカウントを作ることは可能とはいえ、インドで作成したアカウントでなければ、Kindle書籍を日本(あるいはインド以外の第三国)にいながらにして購入することはできないからだ。

つまり「インドで作成したamazon.in」のアカウントそのものが、ひとつの財産であると言える。

ただ注意が必要なのは、端末に紐付けられた電子メールアドレスが、日本のアマゾン用に利用しているものだと、これを利用することができない。よって、今持っているけど使わなくなっているスマホないしは古いタブレットをamazon.in用にしようとする場合、一度初期化してからamazon.co.jpで使用しているものとは異なるメルアドに紐付けてからKindleアプリをインストールしないといけないという点。これはKindle専用端末についても同様だ。

あと、使用するクレカもamazon.co.jpで利用しているものとは別にしないと支払いができない。つまり「in」と「co.jp」で、建前上は別人であることにしないといけないという面倒くさい部分がある。

・・・とはいえ、インドを離れても話題の書籍がすぐにKindleで手に入るというのはありがたい。