UP州 四分割へ

2000年に州北西部のヒマーチャル・プラデーシュ州とネパールの間に挟まれたエリアをウッタラーンチャル州(現ウッタラーカンド州)として分離させたウッタル・プラデーシュ州(以下UP州)だが、今度はさらに四分割されることになるようだ。

UP Assembly passes resolution on state’s division into four (INDIA TODAY)

西側がデリー首都圏に隣接するパシチシム・プラデーシュ、その東側にアワド・プラデーシュ、その南にブンデールカンド、現在のUP州東部はプールヴァンチャルとする法案が、本日11月21日にUP州議会を通過した。州の分割について今後は中央政府の判断に任せることになる。

現与党の大衆社会党(Bahujan Samaaj Party : BSP)党首で、州首相でもあるダリット出身のマーヤーワティーによる、2012年4~5月にかけて予定されている州議会選挙を念頭に入れた策略であるとする野党側の声は高い。

だが先述の2000年に分離したウッタラーカンド州地域を除けば、英領時代のUnited Provinces of Agra and Oudh(略してUP)が、独立後もほぼそのまま継承されたUttar Pradesh (略称同じくUP)は、現在1億9900万人超の人口を抱える巨大な州である。なんと人口世界第5位のブラジル(1億9500万人)を凌ぐ数字だ。

デリー首都圏からほど近く、工業地帯として発展したノーエダーを擁する西部は、後進地域であるその他の地域から切り離したほうが将来の展望は明るいと思われるため、それを希望する意見は従前からあった。

その他、現在のUP州都であり、アワド王国の古都としても知られ、北インドの文化の中心地のひとつでもあるラクナウーがそのまま新州都として移行するのであろうアワド・プラデーシュは豊かな穀倉地帯だ。

同じく農耕地の広がるプールヴァンチャルは、隣州ビハールにつながるボージプリー話者が暮らす地域だ。先に挙げたふたつに較べると有力な産業を欠き、開発の遅れたエリアということになる。

以前から分離要求の声が最も高かったのは、現在のUP州の中で最貧地域であるブンデールカンドだ。人口中にダリットが占める割合も高く、州の現与党であるBSPの大票田としても知られている地域だ。

もちろんマーヤーワティー率いるBSPにはしたたかな計算あってのことには違いないとはいえ、ひとつの州が『世界的な大国並み』の巨大人口を抱えていることは、政治への民意の反映や施策への民意の汲み上げを困難にするし、行政の効率上も好ましくない。

さらに露骨な言い方をすればUP州西側の先進地域パシチム・プラデーシュにとっては、『その他の地域を食わせてやる』義務から解放されて今後勢いの良い成長が期待できるということになるし、州内では比較的豊かなアワド・プラデーシュにとっても『余計なお荷物が減った。今後は自分のことに専念できる。』ということになる。反対にこれまで州の後背地であったブンデールカンドとプールヴァンチャルは、それぞれ独自の州としての地位を得ることにより、自主性・主体性を持った開発が可能になるとも言えるだろう。

地域的なカラーが著しく異なる(ゆえに分割という論にたどり着くことにもなるのだが)がゆえに、UPの有力政党がそれぞれの地域でうまく棲み分けをすることにより、不毛な政争を避けて、それぞれが本来なすべき仕事に注力できるようになる・・・としては期待しすぎだろうか。

独立以前から有力な政治指導者たち、イギリスが去ってからは歴代の首相や政界の重鎮たちを輩出してきたUP州の政治的な重みは失われてしまうが、このUP分割はそれでも『遅きに失した』感さえある。

今後、UP州分割がどのように進展していくのか目が離せないし、はなはだ失礼であることを承知で言えば、分離したそれぞれの地域がどのような成長あるいは停滞、発展あるいは混乱を呈していくのかといった野次馬的な興味も尽きない。

チェルノブイリは今

今年の9月に、チェルノブイリの現状を写真と文章で綴った本が出ている。

ゴーストタウン チェルノブイリを走る

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ゴーストタウン チェルノブイリを走る

http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0608-n/

集英社新書ノンフィクション

ISBN-10: 4087206084

エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワ 著

池田紫 訳

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1986年に起きた原発事故から四半世紀が経過したチェルノブイリにガイガーカウンターを持ち込んで、バイクで駆ける写真家エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワがチェルノブイリの現状を伝えるウェブサイトを日本語訳した書籍だ。

汚染地域に今も残る街や村。すでに暮らす人もなく朽ち果てていく建造物。家屋の中にはそこに暮らした家族の写真、子供たちの玩具が散乱しており、役場等にはソヴィエト時代のプロパガンダの跡が残っている。

ソヴィエト時代、原発事故が発生する前のチェルノブイリは、中央から離れた周辺地であったが、それでも整然とした街並みや広い道路、広大な団地、病院その他公共施設、遊園地、映画館といった娯楽施設等々の写真からは、社会主義時代に築かれたそれなりに豊かであった暮らしぶりがうかがえる。

人々の営みが消えてから久しい現地では、それとも裏腹に豊かな自然が蘇り、もう人間を恐れる必要がなくなった動物たちが闊歩している様子も記録されている。

一見、のどかにも見える風景の中で、著者はそうした街や集落など各地で放射線量を図り、今なおその地が人間が暮らすことのできない危険極まりない汚染地であることを冷静に示している。

これらの写真や文章は、著者自身のウェブサイトで閲覧することができる。

elenafilatova.com

チェルノブイリに関して、上記の書籍で取り上げられていないコンテンツとともに、スターリン時代の強制収容所跡、第二次大戦期の戦跡等に関する写真や記述等も含まれている。

私たちにとって、チェルノブイリ原発事故といえば、今からずいぶん遠い過去に、遠く離れた土地で起きた惨事として記憶していた。事故後しばらくは、放射能が飛散した欧州の一部での乳製品や食肉などへの影響についていろいろ言われていた時期はあったものの、自分たちに対する身近な脅威という感覚はほとんどなかったように思う。まさに『対岸の火事』といったところだったのだろう。

今年3月11日に発生した地震と津波、それによる福島第一原発の事故が起きてからは、原発そして放射能の危険が、突然我が身のこととして認識されるようになる。実は突然降って沸いた天災と片付けることのできない、それまでの日本の産業政策のツケによるものである。曲がりなりにも民主主義体制の日本にあって、私たち自らが選んだ政府が推進してきた原子力発電事業とそれに依存する私たちの日々が、いかに大きなリスクをはらむものであったかを思い知らされることとなった。

順調な経済成長を続けているインドや中国その他の国々で、逼迫する電力需要への対応、とりわけ先行き不透明な原油価格、CO2排出量への対策等から、今後ますます原子力発電への依存度が高まることは、日本の福島第一原発事故後も変わらないようである。もちろん各国ともにそれぞれの国内事情があるのだが。

原発事故後の日本では、食品や生活環境等様々な面で、暫定基準値を大幅に引き上げたうえで『基準値内なので安心』とする政府の元で、放射能汚染の実態が見えにくくなっている中で、今も収束にはほど遠く『現在進行形』の原発事故の危険性について、私たちは悪い意味で『慣れつつある』ように見えるのが怖い。

事故があった原発周辺地域の『風評被害』云々という言い方をよく耳にするが、実は風評などではなく実際に無視できないリスクを抱えているということについて、国民の目を塞ぎ、耳も塞いでしまおうとしている政府のやりかたについて、被災地支援の名の元に同調してしまっていいものなのだろうか。

これまで原子力発電を積極的に推進してきた日本の政策のツケが今になって回ってきているように、見て見ぬ振りをしていたり、『どうにもならぬ』と内心諦めてしまったりしている私たちのツケが、次の世代に押し付けられることのないように願いたい。

同様に、これから原子力発電への依存度を高めていこうとしている国々についても、将来もっと豊かな時代を迎えようかというところで、予期せぬ事故が発生して苦しむことにならないとも言えないだろう。今の時代に原発を推進していこうと旗を振っていた人たちは、そのころすでに第一線から退いているかもしれないし、この世にいないかもしれない。一体誰が責任を取るのか。

もっとも今回の原発事故で四苦八苦しており、原子力発電そのものを見直そうかという動きになっている日本だが、それでも他国への積極的な売り込みは続けており、すでに受注が内定しているベトナムでの事業に関するニュースも流れている。

チェルノブイリが残した反省、福島が私たちに突き付けている教訓が生かされる日は、果たしてやってくるのだろうか。

親族旅行 御一行様18名

だいぶ前のことになるが7月にジャイサルメールを訪れたときのことだ。雨季ではあったものの西ラージャスターンは降雨がとても少ないのはいつものことで、それがゆえに砂漠が広がっているわけでもある。

そんな土地であるがゆえに、農耕その他に利用されることもなく手つかずの大地が広がっているという条件は、風力発電にはちょうどいい具合のようで、グジャラート州のカッチ地方同様に大きな風車がグルグル回っている。

持参した温度計は昼前には気温は43度を指していて、暑さが苦手の私も小学生の息子もヘトヘトになってしまっていた。多少は空調の効いているところで何か冷たいものでも、とオートで飛ばして、RTDCのホテルのレストランまで出かけた。

そこで食事をしていたのはムンバイーの北にあるワサイー在住の老夫婦。何でもクルマを借り切って旅行中とのことで、その日の夕方に砂丘を見に行くので一緒に来ないか?と誘ってくれた。

借りているクルマとは観光バスであった。一体何人で旅行しているどういうグループなのかと思えば、近隣に住んでいる兄弟や親戚だという9組の夫婦で総勢18名。毎年この時期(オフシーズンで比較的安く済むからということもあるらしい)にその顔ぶれでインド各地を旅行しているそうで、昨年はタミルナードゥを訪れたのだという。

老夫婦のご主人、Jさんは十数年前に55歳でタバコ会社を定年退職したというから、現在70歳くらいだろう。団体の中では最年長のようだが、他の男性メンバーの面々の多くはすでに隠居生活だという。彼らが宿泊しているRTDCのホテルのロビーで午後5時に待ち合わせということで、一度宿に戻って仮眠することにした。

夕方になっても、まだかなり気温は高い。ホテルの敷地には小型の観光バスが停車していて、Jさんが車内から出てきて手を振ってくれている。みんな夫婦連れだが、バスの中では前が女性グループ、後方が男性グループと分かれて座っていた。皆気さくで感じの良い人たちであった。

行先はジャイサルメール市街から西へ45kmくらいのところにあるサム砂丘。果てしなく続く荒地の中の道路をひた走るとチェックポストがあり、明らかに警官ではない民間人が乗り込んできて、バス最前列に座っている女性に『団体の代表の方はどなたですか?』と尋ねている。

何かと思えば、ラクダでの砂丘観光とダンスを見ながらのディナーといったパッケージの売り込みをしている。執拗なセールスに対して、何とかJさんたちは『砂丘を見るためだけに来たのだから・・・』と断ったものの、男はバイクにまたがって私たちのバスの前を走っている。他にも同様の男たちが沿道にいたようだが『これは私のお客』として確保したつもりなのだろう。

舗装はしっかりしているものの、このあたりからは道路の半分くらいが砂に埋まってしまっていたりする。『ここから先は一般人立ち入り禁止』となっている地点でバスは停止。そこからバイクの男の誘導で、彼の案内する駐車場に停めることになった。

このあたりで彼の役目は終わりのようで、後はそこを縄張りにしているラクダの御者、レストランの客引き、飲み物売りなどが、どこからともなく沸いて出てくる。

駐車場の脇にはファイヤープレイスと円形にしつらえた席を用意した場所があり、ここがダンスだのディナーだのといったサービスが提供される場所であるらしい。ここでも男たちが出てきて『食事は?』『ダンスは?』と勢いよく売り込みにかかっている。

Jさん一行が『これから砂丘に行くのだ』と断ると、合図とともに物陰からラクダが引くカートが数台現れた。このあたり『よく出来ているなぁ』と妙に感心する。それならば、とみんなでそれに分乗して砂丘のサンセット・ポイントなる場所に向かうことになった。

気温が下がった日没時にここを訪れる人たちは非常に多い。シーズンオフではあったものの、砂丘のそれぞれのリッジすべてに観光客たちの姿があり、そうした人たちを相手に歌や踊りの余興をやってみせる子供たち、ソフトドリンク類を売る男その他が沢山群がっている。砂漠がこんなに賑やかなところであるとは想像もしなかった。

360℃どこを見渡しても観光客たちの姿

砂はさらさらのやわらかいもので、日本の砂浜にあるのとおなじような感じだ。しばらく前に雨が降ったようで、砂丘の斜面の砂がある程度固まっていて斜面を登りやすくなっていた。そこでしばらく過ごしてからバスを停めてあるところに行き、皆でチャーイを飲む。周囲には同様の施設がいくつかある。やはり途中のチェックポストで観光バスを『拿捕』して自分たちの縄張りに囲い込んでしまうということが、この商売のツボであるらしい。

Jさん一行と記念撮影

日が沈んですっかり暗くなった帰路、車内では賑やかな会話が続き、誰かが声をかけると一斉にバジャンを歌い始めた。一行の中では一番若い感じ・・・といってもおそらく50代半ばと思われる男性は、沿道の酒屋でバスを停めさせて沢山の酒類を購入している。宿に戻ってから乾杯するのだろう。Jさんたちに『一緒に飲みませんか?』と誘われたが、こちらは子連れなので遠慮しておく。

よく、日本の高齢者は元気だというが、概ね退職年齢が早い分、インドの年配者たちも同様だ。経済成長に伴う可処分所得の増加により、余生を楽しむゆとりがある人たちも増えているはずで、大いに結構なことである。

Jさんたちは『今度は東方面に行きたいね!』と、すでに来年の団体旅行の計画を練り始めているそうだ。

国境の飛び地問題

しばらく前のことになるが、India Today誌を読んでいたら、隣国との関係でとても興味深い記事が目についた。インドとバーングラーデーシュの間の飛び地問題である。その記事の英語版が同誌ウェブサイトに掲載されているので以下をご参照願いたい。

In a State of Limbo (India Today)

印パ分離独立以来、つまりインド東部が現在のバーングラーデーシュの前身である東パーキスターンと分かれた際、双方の国境線内に両国の飛び地が存在しており、それが後々まで尾を引いており、飛び地の人たちについてどちらの国でも『外国人』として扱われており、事実上の無国籍であった。身分証明書の類も与えられず、医療や教育といった基本的な社会サービスを享受できないままに放置されていたのだという。

そもそもこうした飛び地が発生した原因とは、印パ分離独立前に地元の藩王国であったクーチ・ビハールとラングプルが、それぞれの王がトランプやチェスでの賭け事の勝敗で土地のやりとりをしたことが原因なのだというから、とんだ為政者もあったものだ。ふたつの藩王国のうち、前者がインド、後者が分離独立時の東パーキスターンに帰属することになったことなったため、飛び地が両国国境をまたいで散在することになってしまった。飛び地問題の解消については、1958年、1974年そして1992年にも合意がなされたものの、実行に移されることはなかったようだ。

今年の9月になってようやく両国がこれらの飛び地とそこにいる無国籍の人々の扱いについての合意がなされ、双方の領土内の飛び地の交換の実施とそこの人々には国籍選択の自由が与えられることになったとのことで、さすがに今度はそれらがきちんと実施されるのではないかと思うのだが、これらの人々が何らかの理由で、居住している土地の帰属先とは異なる国籍を選択するようなケースには、著しい不利益を被るであろうことは想像に難くない。

インド側にある飛び地ではムスリムが多く、その反対側ではヒンドゥーが多いとのことである。単純にムスリムだからバーングラーデーシュ、ヒンドウーだからインドという図式ではなく、それまで自分たちを冷遇してきた行政つまり飛び地を内包していた国の政府への不信感とともに、『私(たち)が本来所属するべき国』への期待感(あるいは失うものよりも得るものが多いかもしれないという推測)から国境の向こう側の国籍を選択する例も決して少なくないだろう。とりわけバーングラーデーシュ領内の飛び地の人々にとっては、総体的に経済力の高いインドへの移住が合法となること自体が魅力であろう。

土地の帰属のみで解消できるものではなく、結果的には一部の人口の流出と受け入れも伴うことにもならざるを得ないように思われる。政府の対応には不満があっても、住み慣れた土地を離れる当事者たちにとっては苦い『第二の分離』として記憶されることになる例も少なくないだろう。

移住という選択があるにしても、それぞれの人々がこれまで築いてきた人間関係、仕事関係はもちろんのこと、通婚その他いろいろ抜き差しならぬ事情も報道でカヴァーされることのない色々な事例が沢山あることだろう。

インド・バーングラーデーシュ飛び地問題については、以下のサイトにもいくつか参考になる動画がリンクされている。

Indo-Bangladesh Enclaves (Indo-Bangladesh Enclaves)

レストラン流行るもシェフは人材難

先日、日本の新聞社のウェブサイトにこんな記事が掲載されていた。

求む、英国カレー調理人 移民規制で不足し国民食ピンチ (asahi.com)

移民規制の厳格化によりヴィザの取得が難しくなったことで、インドをはじめとする南アジア系料理店でシェフを招聘するのが困難になっているとのことだ。こうした傾向は今に始まったものではなく、2004年にはインディペンデント紙が以下の記事を掲載している。

The big heat: crisis in the UK curry industry (The Independent)

また2004年にもBBCのこうした記事があり、2000年代を通じてのことのようである。

Britain’s curry house crisis (BBC NEWS South Asia)

チキンティッカー・マサーラーは英国の国民食・・・なのかどうかはさておき、人々の間で定着したお気に入りのひとつではあるようであり、インド料理そのものがイギリスにおける人気の外食となっているなど、需要は大きいにもかかわらず、シェフが人材難であることを原因に店をたたむ例が後を絶たないとは皮肉なものだ。

通常、イギリスでU.K. Asianといえば南アジア系を指すように、インド系をはじめとするこの地域にルーツを持つ人々が多数居住しているとはいえ、地元にいるインド系コミュニティの中からシェフを調達するのはこれまた容易ではないようだ。

そもそも思い切って外国に移住する勇気を持ち合わせている人々は得てして上昇志向が強いもの。単身でしばらく稼いだ後に帰国する人たちはともかく、家族を伴って来た人たちともなれば、往々にして息子や娘の教育には力を注ぐようだ。親と同じ苦労はさせたくないと。

そういう点では日本にそうした具合にやってきている中国人料理人たちも同様だ。子供たちは中国あるいは日本で大学まで行かせて『もっと割のいい仕事』に就くことができるようにと頑張らせるのが常だ。日本のバブル期以降、日本の移住し条件を満たして帰化した中国出身者は多く、その中に飲食業に関わる人たちも相当数あるのだが、彼らの子供の世代で、厨房で包丁を握ることを仕事にする人はごくごく少ないだろう。このあたりの事情はU.K. Asianたちの間でも同様らしい。

ところでチキンティッカー・マサーラー、イギリス人たちの好みに合うというのは単なる偶然ではないようだ。もともとこの料理の起源がインド在住のイギリス人家庭発祥(調理人はインド人)という説がある。その真偽はともかくとしても、主にパンジャーブ地方のアングロ・インディアン(インド在住のイギリス人のこと。時代が下るとやがて英印混血の人々のことを指すようになった)たちが好んだアイテムであったらしく、元々彼らの舌によく合うものであったため、イギリス本国で受け入れられるのは必至であったのだろう。