親族旅行 御一行様18名

だいぶ前のことになるが7月にジャイサルメールを訪れたときのことだ。雨季ではあったものの西ラージャスターンは降雨がとても少ないのはいつものことで、それがゆえに砂漠が広がっているわけでもある。

そんな土地であるがゆえに、農耕その他に利用されることもなく手つかずの大地が広がっているという条件は、風力発電にはちょうどいい具合のようで、グジャラート州のカッチ地方同様に大きな風車がグルグル回っている。

持参した温度計は昼前には気温は43度を指していて、暑さが苦手の私も小学生の息子もヘトヘトになってしまっていた。多少は空調の効いているところで何か冷たいものでも、とオートで飛ばして、RTDCのホテルのレストランまで出かけた。

そこで食事をしていたのはムンバイーの北にあるワサイー在住の老夫婦。何でもクルマを借り切って旅行中とのことで、その日の夕方に砂丘を見に行くので一緒に来ないか?と誘ってくれた。

借りているクルマとは観光バスであった。一体何人で旅行しているどういうグループなのかと思えば、近隣に住んでいる兄弟や親戚だという9組の夫婦で総勢18名。毎年この時期(オフシーズンで比較的安く済むからということもあるらしい)にその顔ぶれでインド各地を旅行しているそうで、昨年はタミルナードゥを訪れたのだという。

老夫婦のご主人、Jさんは十数年前に55歳でタバコ会社を定年退職したというから、現在70歳くらいだろう。団体の中では最年長のようだが、他の男性メンバーの面々の多くはすでに隠居生活だという。彼らが宿泊しているRTDCのホテルのロビーで午後5時に待ち合わせということで、一度宿に戻って仮眠することにした。

夕方になっても、まだかなり気温は高い。ホテルの敷地には小型の観光バスが停車していて、Jさんが車内から出てきて手を振ってくれている。みんな夫婦連れだが、バスの中では前が女性グループ、後方が男性グループと分かれて座っていた。皆気さくで感じの良い人たちであった。

行先はジャイサルメール市街から西へ45kmくらいのところにあるサム砂丘。果てしなく続く荒地の中の道路をひた走るとチェックポストがあり、明らかに警官ではない民間人が乗り込んできて、バス最前列に座っている女性に『団体の代表の方はどなたですか?』と尋ねている。

何かと思えば、ラクダでの砂丘観光とダンスを見ながらのディナーといったパッケージの売り込みをしている。執拗なセールスに対して、何とかJさんたちは『砂丘を見るためだけに来たのだから・・・』と断ったものの、男はバイクにまたがって私たちのバスの前を走っている。他にも同様の男たちが沿道にいたようだが『これは私のお客』として確保したつもりなのだろう。

舗装はしっかりしているものの、このあたりからは道路の半分くらいが砂に埋まってしまっていたりする。『ここから先は一般人立ち入り禁止』となっている地点でバスは停止。そこからバイクの男の誘導で、彼の案内する駐車場に停めることになった。

このあたりで彼の役目は終わりのようで、後はそこを縄張りにしているラクダの御者、レストランの客引き、飲み物売りなどが、どこからともなく沸いて出てくる。

駐車場の脇にはファイヤープレイスと円形にしつらえた席を用意した場所があり、ここがダンスだのディナーだのといったサービスが提供される場所であるらしい。ここでも男たちが出てきて『食事は?』『ダンスは?』と勢いよく売り込みにかかっている。

Jさん一行が『これから砂丘に行くのだ』と断ると、合図とともに物陰からラクダが引くカートが数台現れた。このあたり『よく出来ているなぁ』と妙に感心する。それならば、とみんなでそれに分乗して砂丘のサンセット・ポイントなる場所に向かうことになった。

気温が下がった日没時にここを訪れる人たちは非常に多い。シーズンオフではあったものの、砂丘のそれぞれのリッジすべてに観光客たちの姿があり、そうした人たちを相手に歌や踊りの余興をやってみせる子供たち、ソフトドリンク類を売る男その他が沢山群がっている。砂漠がこんなに賑やかなところであるとは想像もしなかった。

360℃どこを見渡しても観光客たちの姿

砂はさらさらのやわらかいもので、日本の砂浜にあるのとおなじような感じだ。しばらく前に雨が降ったようで、砂丘の斜面の砂がある程度固まっていて斜面を登りやすくなっていた。そこでしばらく過ごしてからバスを停めてあるところに行き、皆でチャーイを飲む。周囲には同様の施設がいくつかある。やはり途中のチェックポストで観光バスを『拿捕』して自分たちの縄張りに囲い込んでしまうということが、この商売のツボであるらしい。

Jさん一行と記念撮影

日が沈んですっかり暗くなった帰路、車内では賑やかな会話が続き、誰かが声をかけると一斉にバジャンを歌い始めた。一行の中では一番若い感じ・・・といってもおそらく50代半ばと思われる男性は、沿道の酒屋でバスを停めさせて沢山の酒類を購入している。宿に戻ってから乾杯するのだろう。Jさんたちに『一緒に飲みませんか?』と誘われたが、こちらは子連れなので遠慮しておく。

よく、日本の高齢者は元気だというが、概ね退職年齢が早い分、インドの年配者たちも同様だ。経済成長に伴う可処分所得の増加により、余生を楽しむゆとりがある人たちも増えているはずで、大いに結構なことである。

Jさんたちは『今度は東方面に行きたいね!』と、すでに来年の団体旅行の計画を練り始めているそうだ。

国境の飛び地問題

しばらく前のことになるが、India Today誌を読んでいたら、隣国との関係でとても興味深い記事が目についた。インドとバーングラーデーシュの間の飛び地問題である。その記事の英語版が同誌ウェブサイトに掲載されているので以下をご参照願いたい。

In a State of Limbo (India Today)

印パ分離独立以来、つまりインド東部が現在のバーングラーデーシュの前身である東パーキスターンと分かれた際、双方の国境線内に両国の飛び地が存在しており、それが後々まで尾を引いており、飛び地の人たちについてどちらの国でも『外国人』として扱われており、事実上の無国籍であった。身分証明書の類も与えられず、医療や教育といった基本的な社会サービスを享受できないままに放置されていたのだという。

そもそもこうした飛び地が発生した原因とは、印パ分離独立前に地元の藩王国であったクーチ・ビハールとラングプルが、それぞれの王がトランプやチェスでの賭け事の勝敗で土地のやりとりをしたことが原因なのだというから、とんだ為政者もあったものだ。ふたつの藩王国のうち、前者がインド、後者が分離独立時の東パーキスターンに帰属することになったことなったため、飛び地が両国国境をまたいで散在することになってしまった。飛び地問題の解消については、1958年、1974年そして1992年にも合意がなされたものの、実行に移されることはなかったようだ。

今年の9月になってようやく両国がこれらの飛び地とそこにいる無国籍の人々の扱いについての合意がなされ、双方の領土内の飛び地の交換の実施とそこの人々には国籍選択の自由が与えられることになったとのことで、さすがに今度はそれらがきちんと実施されるのではないかと思うのだが、これらの人々が何らかの理由で、居住している土地の帰属先とは異なる国籍を選択するようなケースには、著しい不利益を被るであろうことは想像に難くない。

インド側にある飛び地ではムスリムが多く、その反対側ではヒンドゥーが多いとのことである。単純にムスリムだからバーングラーデーシュ、ヒンドウーだからインドという図式ではなく、それまで自分たちを冷遇してきた行政つまり飛び地を内包していた国の政府への不信感とともに、『私(たち)が本来所属するべき国』への期待感(あるいは失うものよりも得るものが多いかもしれないという推測)から国境の向こう側の国籍を選択する例も決して少なくないだろう。とりわけバーングラーデーシュ領内の飛び地の人々にとっては、総体的に経済力の高いインドへの移住が合法となること自体が魅力であろう。

土地の帰属のみで解消できるものではなく、結果的には一部の人口の流出と受け入れも伴うことにもならざるを得ないように思われる。政府の対応には不満があっても、住み慣れた土地を離れる当事者たちにとっては苦い『第二の分離』として記憶されることになる例も少なくないだろう。

移住という選択があるにしても、それぞれの人々がこれまで築いてきた人間関係、仕事関係はもちろんのこと、通婚その他いろいろ抜き差しならぬ事情も報道でカヴァーされることのない色々な事例が沢山あることだろう。

インド・バーングラーデーシュ飛び地問題については、以下のサイトにもいくつか参考になる動画がリンクされている。

Indo-Bangladesh Enclaves (Indo-Bangladesh Enclaves)

レストラン流行るもシェフは人材難

先日、日本の新聞社のウェブサイトにこんな記事が掲載されていた。

求む、英国カレー調理人 移民規制で不足し国民食ピンチ (asahi.com)

移民規制の厳格化によりヴィザの取得が難しくなったことで、インドをはじめとする南アジア系料理店でシェフを招聘するのが困難になっているとのことだ。こうした傾向は今に始まったものではなく、2004年にはインディペンデント紙が以下の記事を掲載している。

The big heat: crisis in the UK curry industry (The Independent)

また2004年にもBBCのこうした記事があり、2000年代を通じてのことのようである。

Britain’s curry house crisis (BBC NEWS South Asia)

チキンティッカー・マサーラーは英国の国民食・・・なのかどうかはさておき、人々の間で定着したお気に入りのひとつではあるようであり、インド料理そのものがイギリスにおける人気の外食となっているなど、需要は大きいにもかかわらず、シェフが人材難であることを原因に店をたたむ例が後を絶たないとは皮肉なものだ。

通常、イギリスでU.K. Asianといえば南アジア系を指すように、インド系をはじめとするこの地域にルーツを持つ人々が多数居住しているとはいえ、地元にいるインド系コミュニティの中からシェフを調達するのはこれまた容易ではないようだ。

そもそも思い切って外国に移住する勇気を持ち合わせている人々は得てして上昇志向が強いもの。単身でしばらく稼いだ後に帰国する人たちはともかく、家族を伴って来た人たちともなれば、往々にして息子や娘の教育には力を注ぐようだ。親と同じ苦労はさせたくないと。

そういう点では日本にそうした具合にやってきている中国人料理人たちも同様だ。子供たちは中国あるいは日本で大学まで行かせて『もっと割のいい仕事』に就くことができるようにと頑張らせるのが常だ。日本のバブル期以降、日本の移住し条件を満たして帰化した中国出身者は多く、その中に飲食業に関わる人たちも相当数あるのだが、彼らの子供の世代で、厨房で包丁を握ることを仕事にする人はごくごく少ないだろう。このあたりの事情はU.K. Asianたちの間でも同様らしい。

ところでチキンティッカー・マサーラー、イギリス人たちの好みに合うというのは単なる偶然ではないようだ。もともとこの料理の起源がインド在住のイギリス人家庭発祥(調理人はインド人)という説がある。その真偽はともかくとしても、主にパンジャーブ地方のアングロ・インディアン(インド在住のイギリス人のこと。時代が下るとやがて英印混血の人々のことを指すようになった)たちが好んだアイテムであったらしく、元々彼らの舌によく合うものであったため、イギリス本国で受け入れられるのは必至であったのだろう。

バーングラーデーシュ初の原子力発電所建設へ 果たして大丈夫なのか?

近年、好調な経済成長が伝えられるようになっているバーングラーデーシュ。地域の他国にかなり出遅れてはいるものの、失礼を承知で言えばスタート地点が低いだけに、ひとたび弾みがつけば、今後成長は高い率で推移することは間違いないのだろう。日本からもとりわけテキスタイル業界を中心にバーングラー詣でが続いているようだ。

これからが期待される同国だが、やはりインフラ面での不安は隠しようもないのだが、電力供給事情も芳しくない。発電電力の約4%は水力発電、他は火力による発電だが、その中の大半を自国産の天然ガスによるものが占めている。開発の進んでいる東部の電力事情はいくぶん良好なようだが、西部への電力供給の普及が課題であるとされる。

産業の振興、とりわけ外資の積極的な誘致に当たっては、電力不足の克服は是が非でも実現したいところだろう。長らく雌伏してきた後にようやく押し寄せてきた好況の波に乗り遅れないためにも、1億5千万人を超す(世界第7位)人口大国であり、世界有数の人口密度を持つ同国政府には、国民の生活を底上げしていく責任がある。

そこでロシアと原子力エネルギーの民生利用に関する政府間協定に署名することとなり、2018年までに二つの原子力発電所の稼働を目指すことになった。

Bangladesh signs deal for first nuclear plants (NEWCLEAR POWER Daily)

実のところ、この国における原発建設計画は今に始まったものではなく、東パーキスターン時代にダーカー北西方向にあるループプルに建設されることが決まっていたのだが、1971年にパーキスターンからの独立戦争が勃発したため立ち消えとなっている。新生バーングラーデーシュとなってからも、1980年代初頭に原発建設を目指したものの、資金調達が不調に終わり断念している。

同国にとっては、建国以前からの悲願達成ということになりそうなのだが、折しも日本の福島第一原子力発電所の事故以降、原発そのものの安全性、他よりも安いとされてきたコスト等に対して大きな疑問を抱くようになった日本人としては、本当にそれでいいのだろうかと思わずにはいられない。

同時に国内であれほどの大きな事故が起きて、その収拾さえもままならないにもかかわらず、また原子力政策そのものを根本的に見直そうかというスタンスを取っていながらも、原発の輸出には相変わらず積極的な日本政府の姿勢についても信じられない思いがしている。ベトナム政府は原発建設を日本に発注することになるのは今のところ間違いないようだ。

『日本でさえ不測の事態であのようになったのだから・・・』などと言うつもりはないが、大変失礼ながらバーングラーデーシュという国での原子力発電の稼働は本当に大丈夫なのだろうか?

事故さえ発生しなければ、原発稼働は同国の電力事情を大きく好転させていくことになるのかもしれないが、電力供給の分野でロシアの技術力・資金力両面において、大きく依存しなければならなくなる。

どちらも憂慮されるものだと思うが、とりわけ前者については大いに気になる。本当に大丈夫なのだろうか、バーングラーデーシュでの原子力発電所の稼働は? サイクロンや水害といった大規模災害がよく起きることもさることながら、頻発するハルタール、その背景にあるといえる政治的な問題、不安定な政局等々、国内の人為的環境面での不安も大きい。

決して遠くない将来に起きる(かもしれない)大惨事への序章でなければよいのだが。これが杞憂であることを願いたい。

あとはアルナーチャル・プラデーシュが門戸を開けば・・・ 2

観光業とは、ひとつの街、地域、州で完結するものではなく、広く周辺地域が相互に依存する関係にある。ひときわ魅力的な地域が新たに加わることにより、そこを訪れた人々が次なる目的地として隣接州に流れていくことになり、経済的収入、関連産業の活発化、雇用の促進といった果実を各地域で分け合うことになる。

ベンガル北部からアッサム西部に至る、バーングラーデーシュの北側を迂回する細い回廊部で、まさに『首の皮一枚』でインド本土と繋がる北東諸州だが、この地理条件と現在のインドヴィザに係る『2か月ルール』は、この土地の観光業振興という面に限っては、決して悪くない効果をもたらすかもしれない。

つまりインドの他地域から一度北東州に入ってきたならば、空路を除けば北東諸州の外に出るのはなかなか手間と時間がかかる。中国、ミャンマーと長い国境線を接していながらも、外国人たちはそれらの国に陸路で出ることはできない。複数の地点から容易に出入国が可能なバーングラーデーシュにしてみたところで、一度出国すると2か月はインドに戻ることができない(事前に所定の手続きを踏んでいれば可能)という制限のため、『せっかく近くまで来たから』と、思いつきでフラッと浮気することもできない。

私自身、この地域についてあまり詳しくは知らないのだが、トレッキング等はもちろんのこと、雨季には多雨の地域であるためシーズンにより条件は大きく異なるが、風光明媚で気候が良いところはいくつもあるように思われる。個人的には、乾季にメーガーラヤ州都のシローンから日帰りしたことがあるチェラプンジー(世界で最も多雨とされる土地)は、切り立った断崖絶壁の台地から成り、町をぐるりと囲む風景が面白いことと、この地域に暮らすカーシー族というモンゴロイド系の人々の暮らしぶりが興味深く、何日か滞在したいと思った。

観光の大きな目玉はあまり無いとはいえ、インドの他の地域と大きく異なるため、そこにいること自体が楽しいといえる。よく『多様性の国』と言われるインドだが、まさに北東諸州を訪問することによって、それを実感できることだろう。もちろん北東諸州といっても、それぞれの州に様々な異なる民族が暮らしているし、アッサムやトリプラーのように、州内にベンガル系の人口が多く、パッと見た感じではベンガルにいるのかと思うような地域も少なくないなど、この地域自体が実に多様なものを内包している。

この地域に接するブータンも近年は計画的に観光客の数を増加させている。今のところは従前どおりに西欧等の富裕層をターゲットにしてのツアー客呼び込みだが、先代の国王自らが着手した民主化が進展していけば、観光業の進展やそのありかたについて、いつか必ずや根本的な議論とこれによる包括的な見直しが入ると考えるのが自然だろう。

アルナーチャル・プラデーシュに加えて、ブータンが『誰でも普通に入って自由に観光できる国』となった暁には、この地域の注目度は今と比較にならないほど高いものとなるはずだ。とりわけ後者、つまりブータンについては、それがいつになるのかわからないが。

<完>