マニプルへ5 インパール戦争墓地

インパール市内に戻り、インパール戦争墓地を訪れる。ここは英軍(ならびに連合軍)側の墓地だ。中国国民党軍への援蒋ルート遮断のため1944年に実行に移されたインパール作戦は、あまりに杜撰かつ無謀なものであったということが後世の評価として定まっている。

だが1941年から1942年にかけての旧日本軍によるマレー作戦、シンガポール攻略、同時期にビルマへの強襲といった立て続けの攻撃により、これらの地域から駆逐されるという辛酸を舐めてきたイギリス側にとっては、非常に強い恐怖を持って迎え撃つことになったことは想像に難くない。

強敵の旧日本軍による侵攻であることとともに、彼らがスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)とともに進軍してきたということは、当時独立機運が頂点に達しつつあったインドの内政面でも大変憂慮されるものであったはずだ。

そうしたこともあり、当時の英軍は各地から兵力を増強して、総力戦で当たったことが墓石に刻まれた墓標からもうかがえる。埋葬されている兵士たちは、地元インドの様々な連隊所属のインド兵、グルカ兵たちとともに、遠くマレーシア、ローデシア、東アフリカに駐留する連隊からやってきたイギリス兵、各地植民地軍の地元兵の名前もある。

アッサム連隊所属の兵士
ガルワール連隊所属兵士
パンジャーブ連隊所属の兵士
ハイデラーバード連隊から来た兵士
亡くなった兵士がヒンドゥーであったことを示すシンボルが彫られている。
ユダヤ教徒の兵士
マレーシアのカメロンハイランド連隊所属兵士
ケニア連隊兵士
東アフリカ出身の黒人技術者
北ローデシア(現ザンビア)連隊の兵士
イギリス本国兵士
イギリス本国兵士

墓石は亡くなった日付ごとに並べられていることから、どの日に大きな戦闘があったのか、おおよそ判るようになっている。その中で所属連隊ごとに配置されているのだが、中には中国人の名前もあった。どういう経緯で戦闘に参加することになったのかわからないが、香港の植民地軍出身か、あるいはビルマで英軍と共闘していた中国国民党軍関係者だったのか?

中国人の名前が刻まれている。
無名戦士の墓標。クリスチャンであったことを示す十字架だけがアイデンティティだ。

この墓地は英連邦戦争墓地委員会(CWGC: Commonwealth War Graves Commission)が管理しており、見事なまでに美しく整備されている。

<続く>

マニプルへ4 Japan War Memorial

モイランの町の食堂で簡単な昼食を終えて外に出るとクルマがいない。運転手の携帯にかけてみると、『警官に移動を命じられまして・・・』などとブツブツ言いながら、店の前に戻ってくる。どうせ小一時間くらいはヒマになるとみて、テキトーにフラついていたのだろう。

ともあれ、携帯電話の普及は、こうした運転手たちにとって、得意先(ホテル、旅行代理店その他手配師等)から話がダイレクトに飛び込んでくる効果があったり、私たちのような一見の客が「それじゃあ明日もよろしく」と依頼したりすることもありえるなど、より多くの仕事の機会を得ることを可能にしたといえる。同時に、運転手としての仕事の中での空き時間の自由度が増したという副次的な効果も生んだということにもなるだろう。

Japan War Memorialの記念碑

国道150号線でインパールに戻る途中にあるJapan War Memorialを見学。この場所にあるのは、気まぐれでも地価が安い(市街地から遠く離れている)からでもなく、まさにこの場所が戦跡であるからだ。War Memorialのすぐ裏手に通称「レッド・ヒル」と呼ばれる丘があるが、往時の日本軍はここに一時的な拠点を構え、道路と反対側のより小さな丘には英軍が集結していた。この狭いエリアで両軍入り乱れる熾烈な戦闘が展開された。両軍の大勢の兵士たちが血を流したことから、レッド・ヒルと呼ばれるようになったのだという。

「レッド・ヒル」と呼ばれる背後の丘

比較的新しい現代的なモニュメントは平成6年に造られたものだ。日本の建築会社が施工したことを示すプレート等がはめ込まれている。清掃は行き届いているものの、おそらく建造されてからきちんとしたメンテナンスはなされていないのだろう。かなり荒れている印象だ。

「レッド・ヒル」から見て道路を挟んだ向こうにある丘に英軍が陣取ったのだとか。

その背後には、モニュメント建造以前からの慰霊塔があり、日本軍の残した砲身も残されていた。砲身に刻まれている文字は錆で消えかかっているが、それでも何とか「大阪・・・昭和16年・・・」と、部分的に読み取ることはできる。

慰霊塔
旧日本軍が使用していた重機
「大阪・・・昭和16年・・・」とかすかに読める。

ここの管理人は話好きな人で、いろいろ話してくれた。もちろんこの人は戦時を知る世代ではなく、人々から伝え聞いた二次情報、三次情報なのだが、当時の戦闘の事柄はもちろんのこと、ここを訪れる日本の戦友会の人々のこと等について、いろんな予備知識を披露してくれた。

後世の私たちから見れば、無益な戦争のため、不幸にして往々にして若い年齢で亡くなった兵士たちに善悪の区別はない。出身国の異なる同年代の人々が、戦場という場所でたまたま敵味方に分かれて対峙したばかりに、上官の命令に従って殺戮を繰り広げるという理不尽さ、戦争という国家による愚かな過ちが今後繰り返されることがないように願うばかりである。

だが過ちであったということ自体が風化してきて、日本が過去にかかわった戦争やそれにまつわる犯罪行為を美化するかのような風潮が高まりつつあることについて、懸念を抱かずにはいられない。

日本で、原爆記念日、終戦記念日といった時期にさしかかると、テレビでは戦争にかかわる記念番組が放送されるのは毎年のことだが、今や戦争体験を自らのものとして一人称で語ることのできる人がとても少なくなった。こうした世代が社会の第一線から退いて長い時間が経過していること、その体験を伝える声が世の中の人々に届かなくなって久しいことも大きな要因のひとつだろう。

慰霊塔の碑文
慰霊塔の碑文
慰霊塔の碑文

インパールのJapan War Memorialには、かつてインパール作戦に従軍した兵士たちの様々な思いが詰まっているに違いない。この地で無為な戦闘のために大切な命を失った両軍の関係者たちに黙とうを捧げたい。

慰霊碑

<続く>

迫り来る中国の悪夢

最近のネパールの新聞のウェブサイトも『見せ方』や『読ませ方』をずいぶん研究しているようだ。Nepal Republic Media 社が発行している英字紙Republica、ネパール語紙のनागरिकともに通常のウェブ版以外に、実際に市中で販売されているものと同じ紙面をネットで閲覧できるようになっている。

ところで、11月29日付のRepublicaの第3面左上の囲み記事をご覧いただきたいと思う。あるいは通常のウェブ版でも同じ文面が掲載されているのでご参照いただきたい。

China eager to bring train service to Lumbini (Republica)

中国を訪問したシュレスタ副首相兼外務大臣が帰国時に立ち寄った香港でのインタビューの要旨とのことである。短い記事ながらも、中国による気前の良い援助攻勢により、ネパールがどんどん北京に引き寄せられている様子が窺える。

2年ほど前に『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』と題して、中国によるネパールへの鉄道建設のオファーについて取り上げたが、11月29日のRepublicaのこの記事の中で、ネパールと中国の両国が鉄道建設のための調査を開始することで合意に至ったことが明らかにされている。

ここで言うところの『鉄道』とは、2006年にラサまで開通している青蔵鉄道のことで、ネパール側はとりあえず首都のカトマンズまでの延伸を主張しているが、中国側はルンビニーまで延長することを目論んでいる。

もちろん建前としては中国が執心しているルンビニーの観光開発ということもあるはずだが、『世界の工場』たる中国にとっては、大量輸送の有効な手段である自前の鉄道を自国以外のアジアでもうひとつの巨大市場を目前にする場所まで引っ張ってくることにより『将来が大いに楽しみ』ということになる。

だがインドにとっては、自国産業の保護という観点よりも、むしろ自分たちの主権の及ばない隣国に、長年の敵国である中国が深く食い込んでいくことについて安全保障上のリスクが懸念されることはもちろんだ。こともあろうに自国との国境のすぐ向こうのルンビニーまで『中国の鉄道が乗り入れる』となれば、まさに悪夢以外の何物でもない。

これまでのどかだったインド・ネパール国境だが、中国の鉄道がルンビニーまで延伸されることになり、またネパールにおける中国のプレゼンスが今後さらに増していくことになれば、それそうおうの厳重な警戒が必要となってくる。当然、軍備面でもそうした措置が求められるようになる。

中国という狡猾で危険な国に、インドから見れば文字通り血を分けた兄弟であるネパールが取り込まれつつあることについては、親中国のマオイストたちが現在のネパール政界に強い影響力を持っていることもあるが、インドのほうにも責任がないわけではない。

ネパールが『腹黒そうだが今のところは気前が良くて面倒見も良い兄貴分』になびいてしまっている背景には、長年の付き合いの中で『横暴かつ財布のヒモが固くて冷淡な長兄』に愛想を尽かしてしまっているという部分も否定できない。ネパールに関して、いずれインドは高い代償を支払わなくてはならないだろう。

中国とインドの狭間で、現代のグレート・ゲームの舞台のような具合になっているネパールは、両国の間でうまく立ち回り、上手に利益を引き出していくことになるのか、それとも今後は前者に従属的な立場になっていくのだろうか。

長年、強い絆のあるパーキスターン以外の南アジアの国々に対して、近年様々な形での積極的に外交・援助を展開している中国。インドにとって安全保障上の大きな脅威である中国だが、それとは裏腹に中国にとってインドの存在はそれほどの重さを持つものではない。インドにとってかなり分が悪いことは言うまでもない。

UP州 四分割へ

2000年に州北西部のヒマーチャル・プラデーシュ州とネパールの間に挟まれたエリアをウッタラーンチャル州(現ウッタラーカンド州)として分離させたウッタル・プラデーシュ州(以下UP州)だが、今度はさらに四分割されることになるようだ。

UP Assembly passes resolution on state’s division into four (INDIA TODAY)

西側がデリー首都圏に隣接するパシチシム・プラデーシュ、その東側にアワド・プラデーシュ、その南にブンデールカンド、現在のUP州東部はプールヴァンチャルとする法案が、本日11月21日にUP州議会を通過した。州の分割について今後は中央政府の判断に任せることになる。

現与党の大衆社会党(Bahujan Samaaj Party : BSP)党首で、州首相でもあるダリット出身のマーヤーワティーによる、2012年4~5月にかけて予定されている州議会選挙を念頭に入れた策略であるとする野党側の声は高い。

だが先述の2000年に分離したウッタラーカンド州地域を除けば、英領時代のUnited Provinces of Agra and Oudh(略してUP)が、独立後もほぼそのまま継承されたUttar Pradesh (略称同じくUP)は、現在1億9900万人超の人口を抱える巨大な州である。なんと人口世界第5位のブラジル(1億9500万人)を凌ぐ数字だ。

デリー首都圏からほど近く、工業地帯として発展したノーエダーを擁する西部は、後進地域であるその他の地域から切り離したほうが将来の展望は明るいと思われるため、それを希望する意見は従前からあった。

その他、現在のUP州都であり、アワド王国の古都としても知られ、北インドの文化の中心地のひとつでもあるラクナウーがそのまま新州都として移行するのであろうアワド・プラデーシュは豊かな穀倉地帯だ。

同じく農耕地の広がるプールヴァンチャルは、隣州ビハールにつながるボージプリー話者が暮らす地域だ。先に挙げたふたつに較べると有力な産業を欠き、開発の遅れたエリアということになる。

以前から分離要求の声が最も高かったのは、現在のUP州の中で最貧地域であるブンデールカンドだ。人口中にダリットが占める割合も高く、州の現与党であるBSPの大票田としても知られている地域だ。

もちろんマーヤーワティー率いるBSPにはしたたかな計算あってのことには違いないとはいえ、ひとつの州が『世界的な大国並み』の巨大人口を抱えていることは、政治への民意の反映や施策への民意の汲み上げを困難にするし、行政の効率上も好ましくない。

さらに露骨な言い方をすればUP州西側の先進地域パシチム・プラデーシュにとっては、『その他の地域を食わせてやる』義務から解放されて今後勢いの良い成長が期待できるということになるし、州内では比較的豊かなアワド・プラデーシュにとっても『余計なお荷物が減った。今後は自分のことに専念できる。』ということになる。反対にこれまで州の後背地であったブンデールカンドとプールヴァンチャルは、それぞれ独自の州としての地位を得ることにより、自主性・主体性を持った開発が可能になるとも言えるだろう。

地域的なカラーが著しく異なる(ゆえに分割という論にたどり着くことにもなるのだが)がゆえに、UPの有力政党がそれぞれの地域でうまく棲み分けをすることにより、不毛な政争を避けて、それぞれが本来なすべき仕事に注力できるようになる・・・としては期待しすぎだろうか。

独立以前から有力な政治指導者たち、イギリスが去ってからは歴代の首相や政界の重鎮たちを輩出してきたUP州の政治的な重みは失われてしまうが、このUP分割はそれでも『遅きに失した』感さえある。

今後、UP州分割がどのように進展していくのか目が離せないし、はなはだ失礼であることを承知で言えば、分離したそれぞれの地域がどのような成長あるいは停滞、発展あるいは混乱を呈していくのかといった野次馬的な興味も尽きない。

チェルノブイリは今

今年の9月に、チェルノブイリの現状を写真と文章で綴った本が出ている。

ゴーストタウン チェルノブイリを走る

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ゴーストタウン チェルノブイリを走る

http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0608-n/

集英社新書ノンフィクション

ISBN-10: 4087206084

エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワ 著

池田紫 訳

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1986年に起きた原発事故から四半世紀が経過したチェルノブイリにガイガーカウンターを持ち込んで、バイクで駆ける写真家エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワがチェルノブイリの現状を伝えるウェブサイトを日本語訳した書籍だ。

汚染地域に今も残る街や村。すでに暮らす人もなく朽ち果てていく建造物。家屋の中にはそこに暮らした家族の写真、子供たちの玩具が散乱しており、役場等にはソヴィエト時代のプロパガンダの跡が残っている。

ソヴィエト時代、原発事故が発生する前のチェルノブイリは、中央から離れた周辺地であったが、それでも整然とした街並みや広い道路、広大な団地、病院その他公共施設、遊園地、映画館といった娯楽施設等々の写真からは、社会主義時代に築かれたそれなりに豊かであった暮らしぶりがうかがえる。

人々の営みが消えてから久しい現地では、それとも裏腹に豊かな自然が蘇り、もう人間を恐れる必要がなくなった動物たちが闊歩している様子も記録されている。

一見、のどかにも見える風景の中で、著者はそうした街や集落など各地で放射線量を図り、今なおその地が人間が暮らすことのできない危険極まりない汚染地であることを冷静に示している。

これらの写真や文章は、著者自身のウェブサイトで閲覧することができる。

elenafilatova.com

チェルノブイリに関して、上記の書籍で取り上げられていないコンテンツとともに、スターリン時代の強制収容所跡、第二次大戦期の戦跡等に関する写真や記述等も含まれている。

私たちにとって、チェルノブイリ原発事故といえば、今からずいぶん遠い過去に、遠く離れた土地で起きた惨事として記憶していた。事故後しばらくは、放射能が飛散した欧州の一部での乳製品や食肉などへの影響についていろいろ言われていた時期はあったものの、自分たちに対する身近な脅威という感覚はほとんどなかったように思う。まさに『対岸の火事』といったところだったのだろう。

今年3月11日に発生した地震と津波、それによる福島第一原発の事故が起きてからは、原発そして放射能の危険が、突然我が身のこととして認識されるようになる。実は突然降って沸いた天災と片付けることのできない、それまでの日本の産業政策のツケによるものである。曲がりなりにも民主主義体制の日本にあって、私たち自らが選んだ政府が推進してきた原子力発電事業とそれに依存する私たちの日々が、いかに大きなリスクをはらむものであったかを思い知らされることとなった。

順調な経済成長を続けているインドや中国その他の国々で、逼迫する電力需要への対応、とりわけ先行き不透明な原油価格、CO2排出量への対策等から、今後ますます原子力発電への依存度が高まることは、日本の福島第一原発事故後も変わらないようである。もちろん各国ともにそれぞれの国内事情があるのだが。

原発事故後の日本では、食品や生活環境等様々な面で、暫定基準値を大幅に引き上げたうえで『基準値内なので安心』とする政府の元で、放射能汚染の実態が見えにくくなっている中で、今も収束にはほど遠く『現在進行形』の原発事故の危険性について、私たちは悪い意味で『慣れつつある』ように見えるのが怖い。

事故があった原発周辺地域の『風評被害』云々という言い方をよく耳にするが、実は風評などではなく実際に無視できないリスクを抱えているということについて、国民の目を塞ぎ、耳も塞いでしまおうとしている政府のやりかたについて、被災地支援の名の元に同調してしまっていいものなのだろうか。

これまで原子力発電を積極的に推進してきた日本の政策のツケが今になって回ってきているように、見て見ぬ振りをしていたり、『どうにもならぬ』と内心諦めてしまったりしている私たちのツケが、次の世代に押し付けられることのないように願いたい。

同様に、これから原子力発電への依存度を高めていこうとしている国々についても、将来もっと豊かな時代を迎えようかというところで、予期せぬ事故が発生して苦しむことにならないとも言えないだろう。今の時代に原発を推進していこうと旗を振っていた人たちは、そのころすでに第一線から退いているかもしれないし、この世にいないかもしれない。一体誰が責任を取るのか。

もっとも今回の原発事故で四苦八苦しており、原子力発電そのものを見直そうかという動きになっている日本だが、それでも他国への積極的な売り込みは続けており、すでに受注が内定しているベトナムでの事業に関するニュースも流れている。

チェルノブイリが残した反省、福島が私たちに突き付けている教訓が生かされる日は、果たしてやってくるのだろうか。