バドシャーヒー・アシュルカーナー


ハイデラーバード旧市街で、ビリヤーニーの名店とされるホテル・シャダーブのすぐ隣には、バドシャーヒー・アシュルカーナーがある。アシュルカーナーとは、文字通り「嘆きの館」の意味だが、第3代目のイマーム、フセインの殉教を記念したものであり、シーア派の大祭モハッラムの際には大変な混雑となるそうだ。
ゴールコンダーのクトゥブシャーヒー朝5代目の王、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーが建てさせた(1594年)もので、ハイデラーバードの街を象徴する歴史的建造物であるチャールミナール(1591年)とほぼ同時期に建設されている。
ムスリム人口が4割に及ぶというハイデラーバードだが、シーア派人口もかなり多いようだ。





パイガー墓地(Paigah Tombs)

ハイデラーバードの旧市街からパイガー墓地に行くのはあまり簡単ではなかった。オートの運転手たちがそこを知らないからである。またマクバラー・シャムスルウムラー(Maqbara Shums Ul Umra)と言えば判ってもらえたのだろうか。
ともあれ、こんなときにスマホは役に立つ。グーグルマップで検出して出てきたロケーションに近く、誰でも判りそうな「サントーシュナガル警察署」まで行くことにした。

この街では、オートの運転手たちに対する道案内サービスのようなものがあるらしい。運転手が携帯で電話して誰かに行き方を質問、というようなことがしばしばある。運転手がムスリムで、運転中に携帯を手にして話しているのがウルドゥー語なので、その会話内容が判るわけなのだが。最初は誰か知人にでもかけているのかと思ったが、そうではないようなので尋ねてみると、もちろん知らない場所に行く場合に、先方が知る範囲での情報をもらえるともに、道路混雑具合の照会にも使えるということだ。なかなか面白いサービスである。

警察署前のヒンドゥー寺院

しばらく走って到着したサントーシュナガル警察署のゲート近くにいた人に、進むべき方角を確認。警察署付近には南インド様式のヒンドゥー寺院があるが、少し進むとムスリム地区となり、インド北方系と思われる色白で風格のある顔立ちの人々が多い。そうした中高年の人々が立ち話しているところでふたたび道を尋ねて、もう近くまで来ていることがわかった。私の目的地は、ジャマー・マスジッド・クルシード・ジャーの裏手にあるとのこと。

パイガー墓地はこのモスクの裏手

ここは、ニザームの家臣、パイガー一族の墓地。この一族はイスラーム教の二代目のカリフ、ウマル・イブン・アルハッターブの子孫であるとされる大変な名門。ニザームの忠実な家臣として仕えた家柄だが、独自の宮殿や数千人にも及ぶ私兵を持つなど、藩王国内の王国のような権勢を誇った一族であったとのこと。先祖がアラブのクライシュ族から出たとされるムスリムの家系はインドやパーキスターンで他にもあるが、その中でもまったく次元が異なることになる。1960年代に埋葬された人の墓もあり、同家の墓地として割と最近まで使われていたらしい。ムガルやラージャスターンの様式に地元デカンのスタイルを加えたものとされる精緻なデザインで、大変風格を感じさせる墓地である。












墓地内の礼拝施設

墓地内の礼拝施設の中

イスラームはインドに学ぶべき

ハイデラーバードでは広くウルドゥー語が使用されていることはよく知られているが、私はてっきりテルグ語社会の中で、インドのムスリムにとっての教養のひとつとしてウルドゥー語が広く理解されていることと思っていたが、実はネイティヴでウルドゥー語を話す人が非常に多いことは知らなかった。

ハイデラーバードのムスリム人口は4割前後と言われ、大都市としては突出したイスラーム教徒人口の割合の高さを示している。とりわけ旧市街を中心に代々ここで暮らしてきたムスリムたちが多いようだが、そうした人たちの中で見るからに北方系といった顔立ちや肌の色の人たちが大勢いることも特徴的だ。デカンのこの地に北インドを移植したかのような観さえあるとしても言い過ぎではないだろう。

ハイデラーバード市街地から出ると、「デカンにやってきたな」と感じるし、市内でも南インド風のゴプラム様式のヒンドゥー寺院からある一角から、ムスリム地区に入ると一気に北インドにワープしたかのような気分にさえなる。

ところで、最近の日本ではイスラーム関係のビジネスが盛り上がりを見せつつあり、ムスリム社会への関心も少しずつ高まりつつある。それは良いことだと思う半面、ムスリム自身によるタテマエの発言をそのまま伝える安易なものに終始していることが気にかかる。

イスラーム理解には、私たち非ムスリムからするとネガティヴに捉えてしまう部分も併せて知ることが不可欠である。世代を越えて皮膚感覚で蓄積してきたイスラームへの理解は深い。付け焼き刃の「イスラームとは」の類よりもはるかに実際的で、タメになるはずだ。

一時滞在のお客さんならば、帰国するまで我慢して、後はニコニコして送り出してしまえば済むのだが、自国で共存していくにはそれなりの覚悟と妥協が必要となる。。

Namaste Bollywood+ 43のレヴューを取り上げた際にも書いたが、イスラームが栄えてきた歴史の長さと、イスラーム教以外の様々な宗教との共存という点からも、イスラーム教やそれを信仰するムスリムの人たちを理解するために、インドという国は私たちにとって非常に優れた教師となることと信じている。

The British Residency in Hyderabad

ハイデラーバード藩王国時代の英国駐在官の館であり執務場所であった建物。完成したのは1803年なので、今年で築212年ということになる。1949年から、この場所はOsmania University College for Womenのキャンパスのとして使用されており、この建物自体もかつて校舎として使われていた。

植民地時代の絵画に出てきそうな眺め

かなり荒廃しているが、建物正面のたたずまいを目にして、アメリカのホワイトハウスを連想する人も少なくないだろう。周囲の熱帯の大きな植生も入れて撮影してみると、植民地期の絵画に出てくるひとコマのような写真になる。近々、本格的な修復の手が入るとのこと。

調度品や家具などはまったく残されていないものの、元々の造りが立派なだけに風格がある。部屋には教室番号のプレートが残されており、たしかにここで講義がなされていたことがわかる。こんな歴史的な建物で授業を受けるとは、これまた壮大な気分で学ぶことができたのではなかろうか。

大学の敷地内にこうした建物が残っているのは、ひとえに建物が大学として転用されたということがあるがそれをこうして見学できるのもありがたい。見学の許可を求めた際に学長と少し話をしたが、この旧British Residencyの部屋のひとつに掲げられている歴代の学長は全員女性。女性のみ留保されている地位のようである。

大学の事務所で、鍵を開けたり案内したりする人を付けてくれるのだが、本来その人は大学職員であり、仕事の邪魔になるのであまりじっくり見学というわけにはいかないものの、訪れる価値大である。

ラマダーン月がやってきた

イスラーム世界は今月18日からラマダーン月に入り、7月16日までの間、信者たちの間では基本的に日の出から日没までの断食が行われることとなる。飲食はもちろんタバコもダメなので、愛煙家に対してはニコチン切れという、もうひとつの苦難が加わることになる。

このラマダーン月が夏季に当たる(太陽暦ではないので、毎年少しずつ前倒しになってくる)場合、気候の上でかなりキツイことになるのは当然のこととしても、日々の断食の時間については、緯度によって日照時間が大きく異なってくるというジレンマを伴う。

南アジアやアラビア半島では日中のおよそ15時間に及ぶ。それでも充分長いものであるが、
これがロンドンやベルリンではなんと19時間となり、アイスランドのレイキャビクでは22時間にも及ぶ。

यहां होगा 22 घंटे का रोज़ा (BBC Hindi ※ヒンディー語記事)

似たような記事がBBCの英語記事にも取り上げられていたが、それによると断食時間が18時間を超える場合は、メッカにおける断食時間に合わせるか、最寄りのムスリム国のそれに従えばよいということになっているとのこと。

Ramadan fasting dilemma when sun never sets (BBC)

この断食だが、信者がこれを実行するにあたって、ムスリムがごく少数派の国々ではなかなか困難を伴うものであろうことは想像に難くない。周囲の理解の程度ということもあるが、とりわけ勤労者にとっては、ムスリムが大半を占める国であれば「そういう時期であるから」ということで、実質の勤務時間が短くなったり、生産性についての許容が甘くなったりという幅が皆無となるからだ。

とりわけ中国においては、政府による断食に対する規制がなされるようだ。これに従わない場合は、具体的にどのような罰則があるのかは解らないが、人権に関わる問題である。

China bans Ramadan fasting in mainly Muslim region (ALJAZEERA)