ヤンゴンのインドなエリア 4

インド人街のムスリム地区にあるシナゴーグ
インド地区のムスリムエリアの只中にシナゴーグがある。1896年に完成したThe Musmeah Yeshua Synagogueである。
18世紀初頭あたりから現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたとされるが、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降である。その時代になると、ユダヤ教徒といってもインド人地区にあることが示すとおり、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒が多かったらしい。他にイランから来たもの、イギリスから渡ってきたものなども加えた一大集団が形成されていたという。1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、移民の流入にさらに拍車がかかった。
第二次大戦前の最盛期には2500人ほどが生活していたそうだ。主に米、チーク材、綿花などの輸出業にたずさわっており、政府関係者としては軍人が多かった。19世紀初頭のユダヤ教徒移民たちはオピウムの取引にかかわる者も少なくなかったらしい。
日本軍の侵攻前後に多くが国外、主にカルカッタへ逃亡したとされる。また1948年にビルマが独立して、彼らの商売の後ろ盾でもあった旧宗主国のイギリスが去ったこともコミュニティが敢えてこの地に留まる理由を失わせることになった。
それでも当時新興国であったイスラエルとの関係が良好であったこと、そのころのビルマは東南アジア地域の中でも特に豊かな国のひとつであったことから、この地に残ったユダヤ教徒たちにとって比較的平穏な時が流れていたようだ。しかしビルマに残ることを選んだユダヤ教徒たちの多くに他国に出ることを決意させる出来事が起きたのは1962年に発生した軍によるクーデターである。それに続く基幹産業の国有化の波はユダヤ教徒たちの生業に対するとどめの一撃となったようだ。現在のミャンマーにはわずか8家族にして25名となったとされるユダヤ教徒である。
前述のシナゴーグでは1960年代半ば以降、司祭は常駐しておらずかつては毎週行われていた礼拝もそれ以降中止されている。
現地在住のユダヤ教徒はごくわずかとなっている今、この礼拝施設の維持等にかかる費用はここを訪れる海外からのユダヤ人観光客頼みになっているらしい。
それも現在の政権と欧米先進諸国との関係において、非常に好ましくない状態が続いており、ここを訪れる団体客・個人客ともに減っているため、存続の危機にあるとも聞く。
今回、私は訪れていないのだがMyanma Gone Yi Streetと交差する91st Streetにはユダヤ教徒墓地があるという。アウンサン・スタジアムの北東、Lutheran Bethlehem Churchの近くである。
一時期インドの一部であったこともあるミャンマーだが、ユダヤ教徒を通じた印緬間の交流が盛んな時期もあったということは今回訪れるまで知らなかった。何かの機会があれば、いつかぜひ調べてみたいものだ。
商業地の只中にある

ヤンゴンのインドなエリア 3

バンコクのインド人街およびその他インド系の人々が多く暮らしている地域の場合、インド本国はもちろん、パーキスターンやバングラーデーシュとの間で人々の行き来は現在でも少なくなく、仕事や結婚その他で新たに定住する人のほか一時滞在者も多い。そのため古くからの居住者や数世代現地で生活しているインド系の人々が次第に現地化していっても、あとから続く新規移民たちによりコミュニティの中にインド(およびその隣国)の言葉、文化、生活習慣その他『現在進行形のインドらしさ』が新たに注入されていくことになる。
1960年代に入るあたりまでは『タイより豊か』とまで言われていたというミャンマーだが、現在は周辺国に幾重もの周回遅れのトラックをヨロヨロと進むような有様。商業的にも生活水準においても、どこの国から見てもメリットを感じさせるものは何もない。軍政下であることもさることながら(主要民族であるビルマ族による)民族主義的色合いが濃い政権下にあり、外来民族であることの懸念もあるだろう。この国に住む人々には失礼だが、今の時代に南アジアの国からわざわざこの国に移住しようなどという考えを持つ人はまずいないだろう。
そのため、常に新しい移民が後から続いてくるバンコクとの最も大きな違いは、ヤンゴンにはごくわずかな商用や観光等で訪れるインド(およびその周辺国)の人々はいても、ここに定住するため流入するインド系人口はまずないと思われることだ。ここでは父祖から代を継いで語り継がれてきた『旧い時代のインド』の記憶がコンスタントに風化していき、やがてそれらが自ら生まれ育った現地のものと入れ替わっていくのではないだろうか。
ヤンゴンのインド人地区で文語としてはすでに機能していないように見えるヒンディー/ウルドゥー語ではあるが、この地域で保守的なムスリム、知識人、富裕層といった条件が加わると、とても流暢かつ語彙豊かにして本場風(!)アクセントで話す人もいるようだ。
ヤンゴンの場合外は数は多くないもののインド(およびその周辺国)から商用や観光で訪れる人々以外に、新たに現地に定着するインド系人口はほとんどないものと思われる。
地域に数多いモスクはそれぞれ先祖の地域ごとのトラストに属しており、信仰の場であるとともに同郷組織的な役割も果たしているのではないかと思われる。例えば『ベンガル人スンニー派モスク』といった具合である。
祈りの場が父祖の地域性に直結するため、信仰心厚く知的にも経済的にもゆとりのある人が言葉の上での『インド人らしさ』をより強く保つことになるのは当然のことかもしれない。
『ウルドゥーを理解すること』が彼らの信仰に結びついているがゆえではないだろうか、この地域のインド系ムスリムの人にしばしば『じゃああなたもムサルマーンなんだ!』(ヒンディー/ウルドゥーを理解することについて)と言われた。
もとより地区では人口規模からヒンドゥー、ジェィンなどよりもはるかにムスリムの存在感が大きい。インド系以外にもペルシャ系、ごく少数ながらアラブ系の子孫も住んでいるそうだ。英領時代、繁栄した港町であったヤンゴンに希望を見出して移住してきた人たちの末裔なのだろう。
外国人が利用できる宿が集まるエリアではあること以外、ここを訪れる旅行者の多くは特に興味を示すことはないようだが、意外にもかなり興味深い地域であるようだ。
〈続く〉

ヤンゴンのインドなエリア 2

インド人地区
モスク
ひとたび足を踏み入れると、コロニアルな建物+林立するモスク+亜大陸系の顔=インドのどこかで見たような空間・・・が広がっているのだ。
街のあちこちで目にする黄金色の仏塔を持つパゴダと優しい顔をした仏様からなる世界とは打って変わり、アザーンの呼びかけが流れる街中を立派なあごひげをたくわえたオジサンや黒いブルカーを被った年齢不詳の女性が行き交う。次のブロックの辻では巨木のたもとにしつらえた祠にヒンドウーのカラフルな神像。『ああこんなところにインドが・・・』と思わず立ち止っているとプージャーリーが出てきて喜捨を求めるといった具合である。
祠
ミャンマーの総人口5300万人のうちインド系の占める割合はわずか2%というが、地域的な偏りが著しいようで、ヤンゴン、パテイン、マウルミャイン、シットウェーといった港町の商業地区に多いようだ。そしてヤンゴンのこの地区における彼らのプレゼンスの大きさときたら、まるでインドの飛び地であるかのような気がするくらいである。

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ヤンゴンのインドなエリア 1

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ヤンゴンで『都心』といっても地域的にかなり広がりがあるし、重要な施設等はかなりあちこちに散在している。そのためどこを街のヘソと呼べばいいのかよくわからない。だが旅行者たちにとってはコロニアルな建物が並ぶ、英領期から行政機能が集中しており、大きなマーケットや繁華街がいくつもあって商業的にとても栄えているヤンゴン河沿いのダウンタウン地区こそが『都心』と感じられることだろう。
公式にはヤンゴンはすでにミャンマーの首都ではない。昨年10月に同国政府が同国中部のピンマナー市郊外の軍用地に建設されたとされるネピドーへの遷都を宣言し、政府機能の大半を移動してしまっているためだ。移転先の新首都には官庁その他の行政機関が引っ越したものの、一般人の出入りは制限されており内情がよくわからない謎めいた街らしい。人口規模からも経済・商業的な規模からもヤンゴンこそがミャンマー随一の『都』であることは今も変わらない。
水際に政府関係の重要施設や様々な機能が集中し、威圧感あふれる巨大な欧風建築が林立する植民地的港湾都市風景がそのまま残っているのが面白い。
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このダウンタウンの真ん中、道路のロータリーに囲まれたスーレー・パゴダはよそ者にとって非常にわかりやすいランドマークだ。
このあたりにはイギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどといった外国の大使館も多い。スーレー・パゴダ横にあるマハー・バンドゥーラー・ガーデンという公園の南端歩道側に赤いこんな看板があった。
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PEOPLE’S DESIRE
Oppose those relying on external elements, acting as stooges, holding negative views.
Oppose those trying to jeopardize stability of the State and progress of nation.
Oppose foreign nations interfering internal affairs of the State.
Crush all internal & external destructive elements as the common enemy.
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第一次英緬戦争を戦った国民的な英雄、コンバウン朝のバンドゥーラー将軍の名前をかぶせたこの公園はミャンマーの国民の主権を象徴するものでもある。この『自主独立』を固持する『人民』たちが、ミャンマーに対する経済制裁を続ける外国勢に対して発した抗議という形式を取ったつもりなのだろう。ミャンマー当局により道路をはさんだ正面に建つある国の大使館へ向けた露骨な挑戦状らしい。

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インドの東、タイの西

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インドの隣国であり、一時期インドの一部でもあったミャンマー。北西部にはナガ族のようにインドとミャンマーにまたがって暮らす少数民族もあるし、ラカイン族はビルマ族と南アジア系の人々との混血であるとされる。また都市部を中心にインド系人口も少なくない。また中部には英領時代に兵士として入ってきたグルカの人々の子孫も定住している。衣食ともに中国とインド双方の影響を色濃く受けてきた東南アジア地域の中でも、特に『インド度』が高い国のひとつといえるだろう。
他の東南アジアの他国に比べてやや面倒な部分もある。たとえばヴィザである。この地域では、日本あるいは他の先進国等の国籍を持っている人たちにつき、シンガポールやマレーシアのように一定期間内の観光目的による滞在については査証が免除されている国がある。またタイのように当該国と相互免除の取り決めがなくても、先進国等の人々に対して2週間からひと月程度の期間、ヴィザ無しでの滞在を認めている国も少なくない。こうした措置がない国々においても、ラオス、ベトナム、カンボジアのでは、陸路・空路ともに到着時にその場で取得できるようになっているので簡単だ。外貨獲得における観光業からの収入の割合が高く、それを大いに振興させようという狙いがあるのだろうが、いずれにしても人々の往来がかつてなく盛んになっている昨今、多くの場合特に問題が生じていない国の人々については出入国関係手続きについて簡略化が進んでいる昨今である。
現在のASEAN加盟国で、どこの国の人についても頑として事前に査証取得を求めている国といえば、ミャンマーくらいだろうか。ミャンマー政府の中でも、とりわけ財務関係や観光振興関係の部局などは、このあたりの手続きを簡素化して外国人観光客を多く呼び込みたいところなのであろうと私は想像している。
1990年に行われた総選挙の結果を受けての平和裏な手段での政権交代を否定し、そのまま居座り続ける軍主導政権のありかた、人権侵害や少数民族などに対する強制労働その他により欧米を中心とした国々による経済制裁を受けているこの国にとって、外貨収入の貴重な手段であるからだ。
しかしその一方、政治的な問題から、ひょっとしたらジャーナリストかもしれないし、人権活動家かもしれない外国人たちが入国する前に一度きちんとフィルターにかけておきたいという、セキュリティの面からくる要請があるのだろう。軍政下にあるとはいえ、政府内でも閣僚たちや省庁等により、いろいろ意見のあるところであるはずだ。

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