インドにとってネパールは『第二のパーキスターン』となるのか?

しばらく前から、北京に事務局を置く中国政府筋と関係の深い基金によるネパールのルンビニーにおける大規模な開発計画が各メディアによって取り上げられている。

Nepal to build £1.9 billion ‘Buddhist Mecca’ (The Telegraph)

China plans to help Nepal develop Buddha’s birthplace at Lumbini (Reuters)

The Lumbini project: China’s $3bn for Buddhism (ALJAZEERA)

このことについては、最近では朝日や読売といった日本のメディアによっても書かれており、記事を目にされた方は多いだろう。ちなみにその基金とは、亚太交流与合作基金会である。

調達予定の資金額は何と30億ドルで、ネパールという国自体の年間の歳入の合計額に比肩するほどのものであるという。上記リンク先のロイターの記事によれば、計画には寺院の建築、道路や空港の建設、コンヴェンション・センター、仏教大学の設置等が含まれるとのことで、これが実行に移されることになれば、今は静かなルンビニーの町の様子が、近い将来には一変していることだろう。

人類共通の遺産、とりわけアジアにおいて広く信仰されている仏教の聖地が整備されること、観光産業への依存度が高いネパールにおいて、観光資源が開発されること自体は大いに結構なことではあるものの、小国の年間歳入に匹敵するほどの資金を提供しようというプランの背後には、スポンサーである中国の国家的な戦略があることは無視できない。

ちょうど昨年の今ごろ、ネパールは『中国の時代』を迎えるのか?』と題して、中国によるネパールへの積極的な進出について取り上げてみた。また一昨年には『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』として、中国の占領地チベット(中国は西蔵自治区を自称)からの鉄道の延伸計画等について触れてみたが、今度はインド国境から数キロという場所であることに加えて、ネパールでマデースィーと呼ばれる人たち、ネパール南部でインドの隣接する地域同様に、マイティリー、ボージプリー等を母語とする人々が暮らす地域に打って出た。

インドにとっては国境すぐ向こうに『同族の人々』から成る『親中国の一大拠点』7が出来上がってしまうことを意味する。対外的には、特にインドにとっては大いに憂慮されるものであるが、ネパール政府にとっても、この計画は一方的に利を得るものとはならない可能性もある。

同国で不利な状況下に置かれているマデースィーの人々の地域である。自治権拡大等を求めての活動が盛んで、中央政府に対する反感の強いマデースィーの人々のエリア。そこに外国による国家の歳入に比肩するほどの投資がなされるというのは尋常なことではない。

現在までは、インドと中国を両天秤にかけて、うまく利益を引き出しているように見えるネパールだが、将来的には対インド関係においても、また内政面においても、同国が『パーキスターン化』するのではないか?と危惧するのは私だけではないだろう。決して好意的なものばかりではない様々な思いを抱きつつも、ときには関係が冷却したこともあるとはいえ、伝統的には特別な互恵関係にあった『身内』のインドとの対立と緊張、自国内でのさらに新たな摩擦と軋轢といった事柄が生じる可能性を秘めており、それらが現実のものとなる時期もそう遠い将来ではないような気がする。

中国によるネパールへの数々の援助のオファーは純粋な善隣外交の意志からなされているものではなく、まさに自らの国益のためになされているということに対して大いに警戒するべきなのだが、目下、同国議会の第一党にあるのは、インドと一定の距離を置くいっぽう、中国寄りの姿勢を見せるネパール共産党毛沢東主義派である。

以前、あるジャーナリストの方に話をうかがった際、手を替え品を替えといった具合に矢継ぎ早に繰り出す援助プロジェクト等のオファーにより、中国側に引き寄せられつつあるネパールのことについて、こんな風に表現されていたのを思い出す。

『ネパールは、南側のインドという比較的ゆるやかな斜面と北側の中国という急峻な崖の間に位置する国。南側に転がれば怪我は軽いけど、北側の崖に転落したらどうなることか。けれども当人たちはそれがまだよくわかっていないようだ。』

ネパールの空には、ネパール・インド双方に不幸を呼び込む暗雲が、北の方角からじわじわと押し寄せているように感じている。これが杞憂であればよいのだが・・・。

Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero

非常に遅ればせながら『Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』をDVDで観た。公開されたらぜひ観たいと思っていたもののタイミングを逸し、その後は年月ばかり過ぎてしまっていた。ちょうど終戦記念日あたりということもあり「そういえば観てなかったな・・・」とこれを購入して、自宅で鑑賞してみることにした。

今年12月には76歳の誕生日を迎える巨匠、シャーム・ベネガル監督が手がけた映画だ。彼の比較的最近の作品では『Well Done Abba! (2009年)』『Zubeidaa (2001年)』等があるが、昔から『Ankur (1974年)』『Nishaant (1975) 』等々で海外からも高い評価を受けてきた。個人的には『Mandi (1983年)』と『Trikal (1985年)』にとても感銘を受けた。とりわけ後者は、映画の制作国を問わず私が最も好きな映画のひとつである。

音楽を担当しているのもA. R. レヘマーンということ、4時間近い大作であることなどから、期待するものは大きかったが、公開時はもちろんのこと、DVDが発売されるようになってからも、特に理由はないのだがこの作品に触れることなく過ごしてきた。

細かな部分では、主役のボースがビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)でムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに詣でる様子(当時彼はここを訪れたことになっているがインド政府の援助によって現地にダルガーが建設されたのは比較的最近のことであり、当事は存在していない)やビルマ人の習俗がベトナム風(?)になっていること等々、妙な部分は散見されるものの、映画としてはきちんとまとまっていた。

イギリスの圧政への抵抗とそれに対する弾圧に対し得るのは武力であると確信したボースがガーンディーと袂を分かち、The Great Escapeとして知られるカルカッタ(現コールカーター)自宅軟禁下からの脱出劇と、それに続く精力的な活動が描かれている。

カルカッタの自宅から忽然と姿を消して、アフガニスタンのカーブルへ、そしてドイツ、さらにはソ連を目指すものの、ドイツと同国が交戦に入ったことから断念した。その結果、日本、シンガポールへと移動し、マレー半島で日本に屈した英軍インド兵や現地在住インド系の人々からのボランティアを募り、INA(インド国民軍)を結成。日本軍とともにビルマ経由でインパールを目指し、さらに西進してデリーを目指そうという壮大な計画を実行に移した。

そうした中で、INA内部での北インド系兵士に対する南インド系兵士(後者はマレー半島在住でボースの呼びかけに応じて参加した素人たちが多かった)の確執、INAを自軍の末端組織としてしか見ていない日本軍に対し、募っていくボースの不満と不信等々、要所を押さえて描いていてある。

最後まで観てみて、ドキュメンタリー的なものとして観れば決して悪くない作品だと思った。しかし残念ながらそれ以上の印象はあまりない。今でもとりわけベンガル地方では『ネータージー』として慕われているスバーシュ・チャンドラー・ボースという人物の大きさが伝わってこないからだ。

以前、『テロリズムの種』として取り上げてみたアーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』同様に、独立の志士を取り上げた作品としては、いまひとつ不完全燃焼といった感じがする。

ところで作品中では、彼がドイツ滞在中に秘書をしていたエミリーというオーストリア人女性と結婚して娘をもうけたことが描かれているが、そのボースの娘アニター・ボースは現在ドイツでアウグスブルグ大学経済学部教授となっている。

彼女の写真を見ると、眼差しには父親の面影が濃く漂っているようだ。彼女には夫との間に子供が三人あり、アルン、クリシュナ、マーヤーと、インド風の名前を付けている。

ガーンディーその他の人物や所属していた国民会議派との関係等から、ボースに対する評価については微妙な部分があるものの、インド近代史の中で燦然と輝く偉人の一人であることについては間違いない。

晩年の彼が国外で指揮した武闘路線自体が、彼の母国の独立に対してどれほどの効果をもたらしたかについては様々な論のあるところであるが、敗走後に捕らえられた将兵たちを反逆罪で裁こうとする中での反英機運の昂揚は、イギリスによるインド支配に対する最後の一撃となったという間接的な側面を高く評価する向きもあるようだ。

独立はともかく、INAに参加した人たち、その家族たちに対しては例えようもない直接的な影響を与えたことは間違いない。行軍や戦闘の中で、また日本軍とともに侵攻していったインパール作戦の失敗による敗走の中でおびただしい数の死者を出している。

『安定した職場』として忠実に勤務してきた英軍が日本軍に負け、敗残兵として囚われの身になる中で、高邁な志というよりも、少しでもマシな待遇を求めてINAに参加した者、成り行きからそうせざるを得なくなった者は多かっただろうし、現地在住者の中から応召したインド系の若者たちは純粋に『自由なインド』を信じて、海の向こうの祖国からやってきた『偉い人』の後に付き従ったことだろう。

ところで映画の主人公のネータージーが闇夜に紛れて脱出した自宅は現在、ネータージー・バワンとして公開されている。彼が寝起きした部屋が保存されているとともに、屋敷内の各部屋にはネータージーにまつわる数々の写真、ビデオ、身の回りの品々等が展示されている。多少なりとも関心があれば、カルカッタを訪れた際にはぜひ見学されることをお勧めしたい。ここでは彼にまつわる書籍やビデオ等も販売されている。これを運営するNetaji Research Bureauのウェブサイトでもそのごく一部を閲覧することはできる。

彼の残した偉業の影には、今の私たちには見ることのできない甚大な犠牲者たちの姿がある。平和な今という時代に生まれたことに感謝するとともに、ネータージーという類まれな偉人と彼が率いたINAがインド近代史に与えた影響について静かに考えてみたい。

テロリズムの種

このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

インドの記念切手

ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

 

1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

 

 

バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

バーングラーデーシュ国鉄路線図

歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

ブータンのロイヤル・ウェディング

ブータン国王と婚約者のジェツン・ペマさん

今年4月29日にイギリスで行われたウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんの結婚式は、国外にも広く放送されて注目を浴びたが、インド亜大陸北部のヒマラヤの王国ブータンでも今年10月にロイヤル・ウェディングが予定されている。

2008年6月に父君の退位に伴い王位に就いた現在31歳のジグメ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王が選んだお相手は、王族・貴族ではない民間人のジェツン・ペマさん。イギリスのリージェント・カレッジで学ぶ前には、インドのヒマーチャル・プラデーシュ州のヒルステーション、カサウリー近くにあるローレンス・スクール・サナーワル、その前には西ベンガル州のカリンポンのミッション・スクールで学ぶなど、インドとの縁も深い女性だ。

残念ながら結婚式の様子をテレビで拝見する機会はなさそうだが、2008年から立憲君主制に移行した新しいブータンの顔として、今後も注目していきたい。

His Majesty announces Royal Wedding (bhutanjournals.com)

バーングラーデーシュの旅行案内書

地球の歩き方 バングラデシュ

日本の出版社から出ているバーングラーデーシュのガイドブックといえば、旅行人の『ウルトラガイド バングラデシュ』くらいかと思っていたが、昨年10月に地球の歩き方から『バングラデシュ』が出ていることに今さらながら気がついた。

近年、日本からアパレル産業を中心に企業の進出が盛んになってきているとともに、同国首都ダーカーに旅行代理店H.I.S.が支店をオープンさせるなど、観光の分野でも一部で注目を集めるようになってきているようだ。

すぐ隣に偉大なインドがあるため、観光地としてクロースアップされる機会が少なく、存在すら霞んでしまう観のある同国だが、なかなかどうして見どころは豊富である。

もちろんここがインドの一部であれば訪れる人は今よりも多かったことだろう。またインドとの間のアクセスは空路・陸路ともに本数は多く、両国の人々以外の第三国の人間である私たちが越えることのできる国境も複数あるため、行き来は決して不便というわけではない。

だがインドのヴィザに近年導入された『2ケ月ルール』のため、インド東部に来たところで『ふと思い立ってバーングラーデーシュに行く』ことが難しくなってしまっている。インド入国前のヴィザ申請の時点で、隣国への出入国を決めておかなくてはならなくなったからだ。

だからといって西ベンガル、アッサムその他インド東部まで来て、この実り豊かな麗しの大地を訪れないというのはもったいない話だ。

インドでも西ベンガル州で親日家、知日家と出会う機会は少なくないが、ことバーングラーデーシュにおいては、日本のバブル時代に出稼ぎに行った経験のある人々が多いこと、日本のODAその他の積極的な援助活動のためもあってか、日本という国に対して好感を抱いてくれている人たちがとても多いようだ。

それはともかく、歴史的にも地理的にも、『インド東部』の一角を成してきた『ベンガル地方』の東部地域だ。南側に開けた海岸線を除き、西・北・東の三方を東インド各州に囲まれ、本来ならばこれらのエリアとの往来の要衝であったはずでもある。

またこの国の将来的な発展のためには、圧倒的に巨大な隣国インドとの活発な交流が欠かせない。同時にインドにとっても、人口1億5千万超という巨大な市場は魅力的だし、この国の背後にあるインド北東諸州の安定的な発展のためには、ベンガル東部を占めるこの国との良好な関係が不可欠である。もちろん今でも両国間の人やモノの行き来は盛んであるのだが、それぞれの国内事情もあり、決して相思相愛の仲というわけではない。

イスラームやヒンドゥーの様々なテラコッタ建築、仏蹟、少数民族の居住地域、マングローブ等々、数々の魅力的な観光資源を有しながらも、知名度が低く訪れる人も多くない現況は、『インド世界』にありながらも『インド国内ではない』 がゆえのことだ。

日本語のガイドブックが出たからといって、訪問者が急増するとは思えないものの、やはり何かのきっかけにはなるはず。今後、必ずや様々な方面で『バーングラーデーシュのファン』が少しずつ増えてくるように思われる。