バングラデシュフェスティバル2011

今年も『バングラデシュフェスティバル』が開催される。

会期は6月18日(土)と19日(日)のそれぞれ午前10時から午後8時まで。場所は東京都渋谷区の代々木公園だ。プログラムはこちらをご参照願いたい。

1947年にインドから東西パーキスターンが分離独立した後、そのパーキスターンからバーングラーデーシュとして独立を達成したのが1971年。今年は記念すべき40周年目にあたる。

隣国インドの陰に隠れてしまい、スポットライトを浴びる機会が少ない国ではあるが、それでも近ごろは労働力豊かな新たな投資先として、また1億5千万を超える膨大な人口(世界第8位!)を擁する市場としても注目されるようになってきているところだ。

そうした動きも背景にあってか、同国を日本語で紹介するサイトも出てきている。

banglanavi.com

梅雨の時期のため天気が気になるところではあるが、両日とも盛況となることを願いたい。

ヤンゴンの書店

ヤンゴンのアーロン・ロードとバホー・ロードの交差点脇NANDAWUNという店がある。主にこの国の工芸品を販売する店だが、その店舗の最上階にはミャンマーに関する図書のコーナーがある。

決して広くはないフロアーの一角がそうした書籍の販売に充てられているだけなので、つい見落としてしまいそうだが、ところがどうしてなかなか面白い本も見つかる。

20世紀初頭の英字紙ラングーン・タイムスのクリスマス特集複数年分を収めた複製本、1863年に­­­ボンベイに設立された英資本の会社で、チーク材や茶葉等の貿易を行なったボンベイ・ビルマ貿易会社の社史など、なかなかレアで興味深い(関心があれば・・・)図書があるし、その他歴史的な書籍の復刻版なども置かれている。聞けば、経営者は元国立図書館の館長さんとのことで「なるほど」と納得。

ただしごく一般的な旅行案内書や写真集といった一般書も書棚に並んでいるため、正直なところ玉石混淆という観は否めないものの、ヤンゴンでは他にこうした書店が見当たらないため、印緬関係史に多少なりとも興味があれば、興味深い書籍がいくつか見つかることだろう。最も貴重な書籍はカギのかかった書棚におさめられており、閲覧のみ可能ということになっているが。

NANDAWUNで販売している民芸品類は、ややアップマーケットな値段が付いているが、品揃え充実しているし質も高いものが多い。ミャンマーを訪問される際、ヤンゴンから飛び立つ前に立ち寄ってみるといいかもしれない。

敷地内に独立した書店も経営しているが、そちらで扱っているのは英語の雑誌とビルマ語の実用書のみ。こちらは特に見るべきものはないので、お間違いのないように。

早朝の散歩

こんな建物がまだまだ多く残されている

早朝のヤンゴンのダウンタウンを散策。英領時代の都心であったこの地域では、今も当時の建物が多く残っている。朝6時を回ったところだ。まだ多くの店は閉ざされたままだが、路上に行き交う人々は少なくない。

すでに路上には様々な食べ物屋が出ている。路上では南インド系の女性がマサーラー・ドーサーを焼いている。歩道上の茶屋の椅子には人々が集っている。インド人地区だが、その中で多数派を占めるのはインド系ムスリムだ。

マハーラーシュトラやベンガル等、それぞれの出自ごとのモスクがある。そうした中で決して数は多くないものの、イラン系の人々も混住しており、彼らは父祖の言葉ペルシャ語は失っていても、この地域のムスリムの共通語ないしは身に付けるべき当然の教養として、ウルドゥー語を理解するのは『ノルマ』のようなものらしい。

大樹のたもとの祠

ヒンドゥーの寺も複数あるが、大樹の下にこんな祠もある。霊験あらたかなのかどうか知らないが、結構参拝している人たちがあり、なかなかキレイに手入れしてあるようだ。

中国寺院入口

インド人地区を少し越えると中華街になっている。中国寺院もいくつかあるが、その中のひとつにはこんな文章が掲げられていた。日本軍のビルマ侵攻時代の当地華僑たちの受難について触れられている。

日本軍侵攻時の華僑の受難

路地では菓子類、野菜、果物、肉類に魚介類とあらゆるものが販売されている。大地の豊かな恵みに富むデルタ地帯はここから近い。

中華菓子?なのか知らないがド派手なお菓子
さまざまな魚介類
カエルたちもまた食材

周りを見渡してみると、営業を 開始している店が多くなってきている。だんだんと気温も上がってきた。宿に戻って朝食を取ることにする。

藩主の宮殿転じてブッダ博物館

ミャンマーのシャン州にあるニャウンシュエの町の北側に『ブッダ博物館』がある。この建物は英領時代の藩王国の主の宮殿。しかしながら展示物にはその藩王国を偲ばせるものは何ひとつなく、独自の歴史や文化とは関係なくニュートラルな仏教に焦点を当てた展示となっている。

ここの最後の藩主はイギリスからの独立後、最初のビルマ大統領となった人物であったとのこと。何かで読んだか耳にしたことがある・・・と記憶の糸をたどっていくと、行き着いたのはこの本である。 著者の姉が嫁いだ相手が、ビルマの初代大統領の息子ということであった。

消え去った世界

―あるシャン藩王女の個人史-

著者:ネル・アダムズ

訳者:森博行

出版社:文芸社

ISBN-10: 4835541383

シャン州には、ダーヌー、パラウン、ラフーその他さまざまな民族が居住しているが、『シャン』という州名が示すとおり、主要民族はタイ族の近縁にあたるシャン族だ。

第三次英緬戦争の際に英国側に協力したシャン族の諸侯たちの土地は、コンバウン朝が終焉を迎えてからは、英領期のインドに割拠していた藩王国と同様の扱いとなった。

イギリスが直接支配したビルマ族主体の中央地域と違い、その他の各民族がマジョリティを占める地域は、現地の諸侯たちの自治に委ねられており、イギリスは彼らを通じてそれらの土地を間接統治する形となっていた。ちょうどインド各地に割拠した藩王国のような具合である。あるいは現在のミャンマーの国土の『管区(division)』『州(state)』の区分は、当時の行政の版図を引き継いでいる。

著者のネル・アダムズ (シャン名はサオ・ノン・ウゥ)は、当時のシャン州の藩王国のひとつロークソークで生まれ育ち、ミッションスクールで欧州人の子弟たちや地元の富裕層の子供たちと一緒に教育を受けた。

当時の公用語は英語であったが、こうした全寮制の学校内では英語以外は禁止。イギリスその他の欧州人や英領であったインドからきた職員や教員たち。支配者たちに欧州的な価値観と規律を学ばせることにより、土地の支配層に自分たちと共通の価値観を持たせるとともに、支配層に親英的な空気をみなぎらせることも意図していたのだろう。

今の時代においても国によって濃淡の違いこそあれ、学校教育の場は単に必要な教科を教えるだけではなく、民族教育の場でもあり、国家意識の陶冶の場でもある。

ビルマ族の民族主義運動が高揚していった結果であるこの国の独立は、それまでイギリスに従属していても、ビルマ族に服属しているとは思っていなかった他の民族たちにとって、決して喜ばしいものではなかった。これはその後国内各地で長く続いた内戦の原因といえる。

とりわけ1962年のネ・ウィン率いる国軍によるクーデター以降、中央政府が推し進めた『ビルマ式社会主義』政策は、この国独自の社会主義体制の建設とともに、社会・文化全般の『ビルマ化』でもあり、非ビルマ族がマジョリティを占める地域においては、ビルマ族による『侵略』であったともいえる。

多民族社会における国家の統合おいて、主流派以外の人々が支払うことになる代償は大きい。とりわけその帰属が武力や権力により否応なしに押し付けられた場合には、それまで地域社会が育んできた独自の歴史や文化は軽んじられてしまいがちである。

最後の藩王にして、初代のビルマ大統領であったSAO SHWE THAIKEの宮殿が、その来歴についての説明もなく、ただ『ブッダ博物館』として運営されていることは、まさにそれを象徴しているように感じられる。

インレー湖

宿で募っていたインレー湖のボートツアーに参加した。ノルウェー人男性、アメリカ人男性とその友人の日本人女性、そして私の計4人である。朝7時半に船頭が迎えに来た。

インレー湖につながる水路

ホテルを出て通りを左に直進したところにインレー湖につながる運河の船着場がある。両岸は土が崩れ落ちないように竹で護岸がなされている。ところどころで浚渫作業が進行中。放っておくと浅くなってしまい、船の往来に支障を来たすようになるのだろう。

竹でできた護岸

様々な船が行き交っている。野菜などの食料品その他の生活物資を載せたもの、建築資材を積んでいるもの等々。だがこの時間帯で最も多いのは、国内外からの観光客を乗せた船だろうか。

船は速度を上げて進んでいく。やがて水路から湖に出て景色が一気に開ける。これまで写真等ではときどき目にすることのあった片足漕ぎの漁師たちの姿が見える。両手で作業しながらも船を進めることができるという利点があるが、傍で眺めていると何とも不自然な身体の使い方だ。

インレー湖名物の片足漕ぎ
インレー湖に出た

船は、パウン・ドー・パヤーというお寺入口の船着場に着いた。本堂内中央には五体の仏像らしきものがあるが、いずれも大量に貼られた金箔のため、雪だるまのような有様になっている。

パウン・ドー・パヤー
大量の金箔で雪だるま状態

隣にはマーケットもある。市場では食品や雑貨等いろいろ売り買いされている。規模もニャウンシュエよりもおよそ倍くらい大きい。マイノリティの人々も来ていて、民族色豊かでカラフルだ。

マーケット

そこから船は来たときとは異なる水路を進んで機織の村に行く。村といっても、水路沿いにある高床式の水上家屋がいくつか寄せ集まっているだけのことだが、周囲はどこもかしこも水で一杯なので、隣家に行くにも船が必要。どの家屋でも軒先には一隻以上の船を繋いである。近所で用を足すだけの自家用なのでほとんどは手漕ぎだ。

そんな環境なので、このあたりでは小さい子供たちも上手に船を操っている。ごくわずかな陸地(?)のように見える部分は浮島になっており、季節の野菜類が栽培されている。どこの集落でも、いくばくかのこうした『耕作地』がある。

水上家屋 水面上の緑色の部分は浮島状になっていて野菜等を植えてある。

家の周りで自家消費に必要な魚類は簡単に調達できそうだが、耕作は容易ではないし、その他の生活物資の入手についても不便だろう。どうしてこういうところに人々は住み着いたのかわからないが、きっと何か合理的な理由があるに違いない。

次にビルマ式の葉巻作りの作業場。大きな高床式建物の中で行われている。中には刻みタバコが詰めてあるが、外側の巻き材はイチジクの葉であるとのこと。女性たちが作る葉巻にはどこかのブランドの名前が付いていることから察するに、一定量の材料を手渡されて請負生産しているのだろう。ここは作業場とはいえ主にみやげ物を売ることを目的にした場所のようで、ビルマ漆器の大小様々なものが展示されている。

次に訪れたのは銀細工の作業場。いろんな年齢層の職人たちがそれぞれ受け持っている異なった工程で作業を進めている。最初に訪れたお寺とマーケットからずっと、他グループの同じ顔ぶれの人たちと行く先々で出会う。どの船頭たちもほぼ同じコースを回っていることがわかる。

銀細工作業場見学を終えてから近くにあるレストランで昼食を済ませた後、水上の耕作地に向かう。浮き草等の植物性の『土壌』から成る水上の畑だ。先述の浮島状の耕作地が大きくなったものである。季節により作物は変わるそうだが、この時期に栽培されているのはトマトである。本来は乾燥地に植える作物だが、ここで採れるトマトはどんな味がするのだろうか?

水上のトマト畑

そしてガー・ぺー・チャウンという、輪の中を飛び抜ける芸をするネコたちがいるお寺として知られているところ。複数の猫たちが係の(?)男に芸をさせられている。男が鈴を鳴らすと芸が始まる合図だ。猫を引き寄せて手にした輪で喉の下を数回擦る。すると猫が上向いて「やる気になった」らジャンプするというもの。

ネコのジャンプ

このお寺を最後に、船はニャウンシュエの船着場に戻る。本日同行した人たちと水路沿いにある飲み屋に繰り出して乾杯。付近には他にいくつか外国人が多く宿泊するホテル等がある中、界隈で唯一ジョッキの生ビールを出す店なので、けっこう賑わっている。

目の前の水路を行き来する船を眺めているうちに、陽がとっぷり暮れてきた。