ヌブラ渓谷へ2

カルドゥン・ラを越えた先でも・・・もちろん中国国境により近くなるわけなので当たり前ではあるが、ところどころで軍の駐屯地や施設を見かける。いつ何時攻撃を受けても反撃できるようにしてあるということだろう。だが中国側では装備等々、インドよりもかなり良いであろうということは想像に難くない。

インド北西部にあるラダックとは反対側、北東側にあるアルナーチャル・プラデーシュ州やスィッキム州では、インドの他の山あいの土地と同様、片側一車線分のスペースがあるかないかといった具合の道路が地域を繋いでいるのに対して、国境向こう側の中国では、片側複数斜線の見事な道路が整備されており、有事の際には即座に大量輸送の体制を取ることができるようになっている、という記事をインドのニュース雑誌で読んだことがあるのを思い出す。

それはともかく、ここから決して遠くない中国側でも同じように乾燥した荒々しい風景が広がっているのだろう。だがそちら側に点在するのは中国軍の基地であり、駐屯地であり、漢字の標識や看板ということになる。

スムルの村にあるサムタンリン・ゴンパ
ゴンパの扉で見かけたカギはクラシックな感じで立派であった。

カルドゥン・ラからは下るいっぽうだ。カルサルの集落で昼食を摂った後、この地を流れるシャヨク川東岸にあるスムルの村にあるゴンパを見物。そして来た道を戻り、ふたたび西岸へと橋を渡る。この走行した中では、この川にかかる橋はここしか見ていない。年間を通してこれほどの水量があるのかどうかはわからないが、少なくとも今のように豊かな水を湛えている状態では、川のこちら側と向こう側とでは別世界のようなものだろう。すぐそこに見えても、非常に遠回りして反対側の岸に着くことになるからだ。

数年前までトラック運転手をしていたというドライバーにとっては自分の庭のようなもののようで知己が多い。今だに大きなクルマを駆っていたときの気分が抜けないようで、運転が荒いのはタマにキズ。

今日の宿泊地であるフンダルが近づいてくると、こちら側の河岸に美しく連なる砂丘が見えてきた。こんな高地に風紋の刻まれた砂漠みたいな景観があるとは不思議なものだ。予想に反して、フンダルの村にはかなり沢山のゲストハウスがあり、その中のひとつ投宿することになった。庭にはアプリコットがたわわに実っている。

フンダルの村での投宿先
宿の庭

経営者の家族はとても感じがいい。このあたりの人たちは、ラダッキーでも少しアーリア系の血が入っているように見える。ここからさらに進んでパーキスターンにまたがるバルティスターンの一部を成すトゥルトゥクまで行くと、人々はアーリア系のチベット仏教徒という、チベット文化圏の中では総体的に珍しい地域となるようだ。

宿で食事関係からベッドメーキングまですべてをこなしている若い男性二人組みはネパールからの出稼ぎ人たち。こんなところまで仕事を求めて来なくてはならないとは大変だ。ラダックの観光地はどこでもネパール人や北インドのビハール州、U.P.州などから仕事を求めて来ている人たちが多いが、「シーズン・オフにはどうしているの?」と尋ねてみると、往々にして「ゴアで働く」という返事が返ってくる。

ラダックは、6月から9月終わりまでのシーズン以外は、長いオフシーズンとなることを考えると、確かにモンスーン期はオフになるゴアとちょうどいい具合に相互補完する関係にあるのだろう。ラダックとゴアというどちらも観光業への依存度が高いながらも、一見何の繋がりも無さそうに見えるふたつの地域を渡り鳥のように往復する労働人口の移動について、彼らがこの地域を行き来する誘因、リクルートの形態等について調べてみると興味深いものが見えてくるかもしれない。

同行のガビー、フランカ、パットと夕陽を背にして伸びる影で記念撮影

すでに夕方近くになっているので、取り急ぎ荷物を部屋に放り込んでから、再びみんなでクルマに乗り込んで砂丘に出かける。ここには観光客用にフタコブラクダたちがいる。お客たちを乗せてしばらく歩き回るのである。ラクダ自体はこの地にもともと住んでいるわけではなく、運転手が言うにはモンゴルから連れてきたものだというのだが、実のところはよくわからない。中央アジアあたりから運んできたのかもしれない。

フタコブラクダたち

砂丘から望む川床はかなり広く、両側を壁のような乾ききった山々に囲まれており、息を呑むような絶景だ。音を立てて滔々と流れる手が切れるように冷たい水のせせらぎの音が心地よい。

周囲が荒涼としている割には、フンダルは非常に水に恵まれている。

<続く>

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