ニャウンシュエ

カローから朝7時半のマイクロバスで出発。隣席には髪にジャスミンの花を付けた太ったおばさん。ブロークンなヒンディーをしゃべる人懐っこい女性である。インド系のムスリムだそうだが、かなり混血が進んでいるようで、パッと見た感じはかなり肌色が濃い目のビルマ人といった感じだ。

バスの終着のタウンジーまで行くとのことだが、そこに兄が住んでいるとか、日帰りでカローに戻ってくるのだといったことから始まり、しばらく耳を傾けているうちにおおよその家族構成などもわかってしまう。

ミャンマーでは感じのいい人が多く、往々にしておしゃべりなので、ビルマ語がわかったらどんなに楽しいことだろうかと思う。

1時間半ほどで国道からの分岐点のシュエニャウンの集落に着く。ここではタクシーやバイクタクシーがお客を待っており、インレー湖観光の基点となるニャウンシュエの町まで20分程度。

いくつかの町を通過したのち、ヘーホーを通ってシュエニャウンに着く。ここまで1時間半くらいであっただろうか。国道とニャウンシュエに向かう道との交差点だが、ここでバイクタクシーとタクシーが客待ちしている。

ニャウンシュエへと続く道路の左手には養魚場があり、いくつかの魚料理を出すレストランも見える。インレー湖周辺には川や池などが多いため、漁業が盛んなのだろう。

バガン、マンダレーと並ぶミャンマーを代表する観光地だけに、マーケットの南側には外国人向けの宿やレストランなどがいくつも並んでいる。

宿泊した宿は、ちょっと垢抜けて都会的な感じがするシャン族のご主人と、このあたりの少数民族のパラウン族出身で、あでやかな大輪の花を思わせる美しい奥さんの若夫婦が切り盛りするこじんまりしたゲストハウス。ミャンマーの他の多くの宿同様に朝食付きだが、それ以外にも暑い昼間に外出から戻ると飲み物とカットフルーツが沢山出てくるなど、なかなか気の利いたサービスをしている。

そんなこともあってか外国人客たちに人気の宿であるらしい。中庭に日除けの大きなパラソル付きのテーブルとイスがあり、建物の中で部屋へと続く通路の手前にも座って読書したり、日記を書いたりできる共用スペースがあるなど、旅行者の溜り場としてのツボをうまく押さえている。

自転車でゆったりと

宿のすぐ隣に店を開いているレンタサイクル屋で自転車を借りて町中とその周辺を走ってみる。小さな町だがそれに不釣り合いなほど広々とした道路。さりとてクルマの往来はとても少ないのでのんびりと走りやすい。緑も多くてすがすがしくていい感じ。

町周囲にいくつか運河があるようだが、商業地を通る部分では沢山の船が係留されている。湖周囲の水郷地帯への物流の起点でもあることをうかがわせてくれる。

船でいっぱいの水路

郊外に出る。ちょうど田植えの時期である。苗代から苗を集めている姿、数人で田植えしている姿がある。わずかに英語を話す農民によれば、昨年までは水が足りなかったが、今年は雨期入り前から雨が多く、水量充分で助かっているとのこと。

そのまま自転車でインレー湖まで行こうと思ったが、この村から先はごく細い畦道になっており、徒歩でないと無理のようであった。諦めて町周辺の村や集落を見物することにした。どこも静かで質素ながらも清潔なたたずまい。多湿な気候で高床式の家屋は過ごしやすそうだ。蚊に対する防御は皆無という前提ではあるが。

宿に戻ると、ちょうどカックーまでタクシーで行ってきたという日本人旅行者二人に会った。しばらくロビーで話をしてから夕食に出かける。その後、インレー湖へと続く運河のほとりにある店でジョッキに注がれた生ビールを楽しむ。

メジャーな観光地の中のツーリストスポットであるものの、夜9時を回ると店じまいを始めている。支払いを済ませて外に出るとどこも扉を閉ざしていて深夜の雰囲気だ。

隣国タイの観光地であれば、夜遅くまで音楽を大音響でかける飲食店があったり、いかがわしい商売の店、水商売の女性たちや客引きの男性たちなどの姿がそこここにあったりするところだが、そうした騒音・雑音の類なしに静かに過ごせる観光地というのがまたいい。

水郷地帯なので蚊は多いものの、このあたりも海抜1300mほどの高原地帯なので、日没後は涼しく、夜は毛布にくるまって心地よく眠りに落ちることができた。

雑貨屋の店先 帽子をかぶっておすましする幼女

日帰りトレック2

最初はお互いよそよそしくても、行程が進むにつれていろいろ話したりしながら打ち解けてきた。時間の経過とともに、だんだん『ひとつのチーム』になってくる。昼食を取ったあたりから、誰もがよく話すようになってきて、ちょっとした小休止のときも車座になって話が弾む。

鉄路

鉄路に出た。まさにこの鉄道建設のために、19世紀末から20世紀はじめにかけて多くのインド人たちがこの地にやってきたのだ。そこからしばらくは線路上を歩き、次の村に到着する。ここでは鍛冶屋もある。農耕具を作っているのだそうだ。

ちょうどガーリックを収穫して干しているところであった。もち米で作った煎餅状のものを干してある。これを焼いて食べるのだそうだ。日本の煎餅と同じようものができることだろう。

焼き上げる前の煎餅

そこから少し下るとカリフラワーと豆の畑と水田があった。水量豊かで新鮮な野菜が採れる里。一瞬、理想郷という言葉が脳裏をかすめるが、そこに暮らしている人たちはそれが理想であるとは思っていないかもしれないし、山村での暮らしは楽であるはずもない。

次の集落にたどりつく直前の坂道では、沢山のヒルがうようよしていた。今日も昨日以前のような調子でずっと雨が降っていたならば、きっと手足をひどくやられていたことだろう。

本日最後に訪れたのはシャーマンの家。様々な生薬を配合した薬を作っているという。それで私たちはそれらを少しずつ味見する。たしかに生薬の味がする。それらが何か効果があるのかどうかは知らないが。

シャーマン

このシャーマンは代々長く継承されてきたものだというが、現在82才だというこの人物で途絶えることになりそうだという。彼の息子は複数いるが、誰一人として継がないのだという。

その家のある集落を後にして再び線路の上に出る。そして他の7人とはお別れだ。さて、ここからはネパール人ガイドと二人でカローまで戻ることになる。予定では午後6時か7時には宿に帰着することになっていたが、ちょっと遅くなったようだ。

もう陽がすっかり傾いている。じきに辺りは暗くなってしまうだろう。夕方の山の景色は美しかった。だが写真を撮る気にならないのはちょっと気が急いているからだ。治安の良好なミャンマーとはいえ、真っ暗になった山道を歩くのは決して誉められたものではない。

人を襲うような獣が出てこなくても、足元に毒ヘビがいたところで、ボンヤリした懐中電灯の光では気が付かないかもしれない。本来ならまだ雨期入り前のはずだが、このところ雨が多いため田畑脇の道端などでヴァイパーの類の有毒ヘビをしばしば見かけたし、昼間の山道でもそうした毒蛇に遭遇した。そんなわけで夜道で一番気になったのがこれである。

トレッキング中ではないが、町中で見かけた。雨が降ると乾いた場所を求めてニョロニョロ移動してたりする。

ほとんどすれ違う人もなく、黙々と進む。ときおり反対側からやってくる帰宅途中の村人の姿がある。すでに真っ暗になっているのに牛を連れて帰る人たちもいた。すっかり周囲が見えなくなってから、私たちは懐中電灯を手にしているが、彼らは手ぶらだ。よく足元が見えるものだ。

空は雲行きが怪しい。こんなところで真っ暗になってから大雨にやられたらたまらない。幸いにして宿に着くまで降らなかったが。

しばらく進んで町に近くなってきたあたりに寺があり、そこにはネパール人がよく出入りするのだそうだ。サラスワティー寺院ということになっているが、ビルマ族、シャン族などは仏教の寺として参拝しているとのこと。

カローの町はまだしばらく先であった。鉄路に出て枕木の上をしばらく歩く。枕木が等間隔で敷いてあればいいのだが、そうではないのでけっこう疲れる。細い川にかかる小さな鉄橋の上の線路を歩く。暗くて左右がどうなっているのかよく見えないためちょっと緊張する。水場に近いところでがチラチラと飛び回るホタルの灯が美しかった。

ようやくカローの郊外に出た。カローホテルという政府経営のホテルの脇を通過する。20世紀初頭からの伝統を持ち、カローでもっとも古いホテルである。

やがて裁判所等がある大きな通りに出て、モスクが見えてきた。ホテル到着は夜9時近かった。連れて帰ってくれたネパール系の道案内人に「外にメシでも食いに行かないか?おごるよ」と声をかけるが、彼は「もうおそいし、家がちょっと遠いので・・・」と夜道に消えていった。この人は宿の家族ではなく、必要に応じて呼ばれる日雇いの案内人である。

デイパックを部屋に置き、近所のネパール食堂に行く。疲れた身体と空っぽになった胃に温かい食事が心地よい。ビールの酔いもまた最高だ。

<完>

日帰りトレック1

この宿ではトレッキングのツアーをアレンジしている。カローから2泊3日でインレー湖に出るコースを勧められた。単に明日それで出発する他の人たちがいるからなのだが。しかしちょうど大きな低気圧が来ており、しばらく天候が非常に悪い。しばしば豪雨がやってきていたため日帰りにすることにした。他の人たちの行程の初日夕方で離脱する形である。

この日のトレッキングに参加するのは、カナダ人4人、フランス人2人、ロシア人が1人、加えて日本人の私である。道案内は宿の女主人の息子と、手伝いのネパール系の男性。

一行は出発する。町の西側に出てしばらく行くと竹で造った本尊のあるお寺。このあたりまではカローの町の郊外だが、そこから先は農村風景が広がる。さらに進むと、ところどころに少数民族の村が点在する山間の景色となってくる。

この時期暑いばかりがミャンマーではない。見渡す限りの山岳風景の中で、あまり高度のある山は見受けられないが、オゾンをたっぷり含んだ空気と涼しい風が心地よい。途中幾度か驟雨に見舞われるが、そう長い時間続かないのは幸いであった。

ちょっと小休止

途中パラウン族、ダーヌー族といった少数民族の村々がある。ガイドブックにヴューポイントと記されているところの少し先にはネパール系の人が経営するトレッカー相手の簡単な食堂がある。

本日のランチ

南アジア系の人々の多くは町中で商業活動を営んでいたり、労働者として働いている人が多いようだが、このあたりの山中で耕作に従事しているネパール系の人々もけっこういるそうだ。この食堂の人たちも本業は農耕である。

山間の耕作地では茶畑がいくつもあった。高原の冷涼な気候が栽培に適しているのだろう。そうした中にたまにごく少量のパイナップルが植えてあったりもするが、こちらは商業用ではなく自家消費目的なのだろう。

茶の苗木が植えられている中にパイナップルもいくつかあった。

ダーヌー族の村に行く。外国人たちの姿を見つけた子供たちが大勢駆け寄ってくる。家々では豚も買われている。立ち寄った村は地形によりふたつの部分に分かれている。

子どもたちと案内人のR氏

村の最初に訪れた部分では、茶の乾燥場があった。基壇部分の下では何か燃料、おそらく木を燃やしているはず。上の部分が熱くなっており、そこに広げている茶歯が乾燥されるようになっている。

茶葉の乾燥場

近年、村の暮らしぶりはよくなってきているとのことで、付近の川で簡単な水力発電が行なわれるようになったことから、ささやかながら電気が来るようになったとのこと。裸電球を灯すのがやっとで、他の電化製品を使用できるほどの規模のものではないそうだが。

また付近で石灰岩が豊富に採れるという事情から、最近はコンクリート・ブロックで家屋を建てるケースが多くなっているとのことだ。

一行は村長の家に向かう。伝統的な高床式の木造家屋である。どこからか年配女性たちがやってきて手工芸品を見せる。その中には嫁入り前の女性のみが着用する衣装がある。飾りのついた頭飾りがそれである。結婚してからはターバンをまとうことになっているそうだ。

アレやコレやといろんな品々を見せてくるが、特にこちらが買う気がないことがわかると、彼女たち同士でのおしゃべりに興じている。もう孫がいるであろうと思われる年齢の女性は、嫁入り前のそうした衣装を付けてジッと鏡に見入っている。この人たちにも確かにそういう時代があったのである。

花嫁姿?の元乙女たち

高床式の家の中は風通しがよくて気持ちがいい。ちょっと磨き上げたら相当居心地の良い部屋になりそうだ。少なくともさきほど見たようなコンクリート・ブロックの家屋よりも健康的だと思われる。しかしコンクリート・ブロックであるがゆえに、その上に漆喰を塗り、さらにはペンキで仕上げて近代的な部屋にすることもできる。それにより長い年月維持できるだろう。どちらが良いのかなんともいえないが、少なくともこれを選択している人たちにとっては、それなりの合理的な理由があるに違いない。

案内人パンジャービー系R氏と背後はネパール系のR氏

そこからふたたびしばらく山道を歩く。ときおり芝生状にごく低い草が茂った開けた場所がある。周囲の山並みの眺めを楽しみながら歩く。

<続く>

カローのスィク教徒の宿

カローの町

ミャンマーのシャン州内のヒルステーションとして知られるカローにやってきた。標高が1,300mくらいあるため、暑季でも充分涼しくエアコンは不要だ。年間で最も気温が上がる時期であるが、日中でも地元の人々の多くは長袖のシャツを着ている。夕方以降は気温が下がるため薄いジャケットが必要になる。

田舎町だが、インド・ネパール系の南アジアをルーツに持つ人々の姿が少なくない。金色のパゴダがところどころにあることを除けば、インドの北東州に来ているような気がしてしまう。

宿はスィク教徒家族の経営である。ロンリープラネットガイドブックの宿の紹介部分で「our pick」という推薦マークが付いているので、どんなところかと思って来たが、建物は木造で室内も壁は木材、天井は竹を編んだものであしらってある。バルコニーも広く、いかにも西洋人ウケしそうな感じのエコノミー宿である。

年齢50代くらいの女主人と妹はかなり流暢なヒンディーを話すが、この家族に限らずカローの町ではこのあたりの世代がちょうどそのボーダーラインのようだ。3人の息子たちはみんなトレッキングガイドでもあるだが、あまり理解しない。家族内での会話はビルマ語であるとのこと。

宿オーナーのパンジャービー家族

彼らの先祖、女主人の祖父がインドから来緬したのは1886年だという。上ビルマがイギリスにより併合され、当時のビルマそのものが英領インドの行政区域の一部として組み込まれた直後に、パンジャーブ州のルディヤーナー近郊のマーナー(माणा)というところから、プラタープ・スィンという男性が妻のシャンター・カウルを伴って、鉄道建設のコントラクターとして来緬したのだそうだ。すでにインドの親戚との接触は途切れているが、所在さえわかればそうした遠戚に連絡を取ってみたいと思うとのこと。

話を聞いていて気が付いたのだが、英領期に父祖が渡ってきた後、インド本土との往来がほとんどない人々にとって『パンジャーブ』とは、今私たちが認識しているものとはかなり違うようだ。それはしばしば19世紀末のインド地図の世界で、現在のヒマーチャル・プラデーシュもパーキスターン領となっている西パンジャーブも彼らにとってはひとつのパンジャーブであったりする。同様のことがヒンドゥスターン平原に先祖の起源を持つインド系ミャンマー人の言うU.P.にも言える。現在のウッタル・プラデーシュではなく、往々にして英領期のユナイテッド・プロヴィンスィズなのだ。

近くにはネパール系の家族が経営しているレストランもある。ここの家族の来緬時期はだいぶ時代が下った第二次大戦中とのこと。歩いてグルッと回ることのできる小さな町だが、タミル系のファミリーとも出会ったし、町中にあるなかなか立派なモスクに出入りするのもやはり亜大陸系のムスリムたちだ。

1947年の印パ分離の悲劇があまりに衝撃的であったがゆえに、これに関する文献、小説、映画等は沢山あるが、これに先立ち1937年に起きた『もうひとつの分離』であるビルマ(ミャンマー)のインドから分離して英連邦内のひとつの自治領となったこと、さらなるナショナリズムの高揚が1948年イギリスからの独立へと導き、さらには1962年のクーデター以降は多数派であるビルマ族主体の国粋化が進んでいく。

こうした中で、当初はインドの新たなフロンティアとして約束されていたはずの地で、立場が次第に苦しくなっていく中、いつの間にかそこはもはやインドではなく、さらに英国が去った後、彼らは抑圧者の手先であった人々として、また出自の異なるヨソ者として遇されるようになっていく。

そうした世相の変化の様子は、アミターヴ・ゴーシュの小説『THE GLASS PALACE』にも描かれているところであるが、この国における亜大陸系の人々の家族史を掘り起こしてみると、興味深いものが多いことと思われる。

MNL (Myanmar National League)に日本人選手

ヤンゴン市内で、ミャンマーのプロサッカーリーグMNL (Myanmar National League)ヤンゴン・ユナイテッドFCグッズ販売店を訪れた。ちょうどJリーグのそれのように、タオル、カレンダー、Tシャツにゲームシャツなどといったものが陳列されている。

記念にゲームシャツを一枚購入。欧米による経済制裁下の状況を反映してか、アディダスやナイキといったブランドの製品ではなく、隣国タイの大手スポーツウェアメーカーFBTが生産したものだ。高品質を誇る企業で、クオリティは欧米のトップブランドのものと比較しても遜色ない。

ところで、以前『サッカーと軍政』と題して取り上げてみたMNLでは、今年1月からヤカイン州のラカプラ・ユナイテッドFCというチームに伊藤壇選手が在籍している。MNL初の日本人プレーヤーであるそうだ。

ベガルタ仙台に在籍していたことのある選手で、これまでアジア・オセアニアの各地でプロチームでプレーしてきた。Indo.toでは昨年8月にI リーグでプレーした元Jリーガーとして取り上げたことがある。MNL入り前にはインドのゴアを本拠地とするチャーチル・ブラザースに所属していた。

プロサッカー選手としてアジア・オセアニアを渡り歩く伊藤壇選手は日常をブログで公開している。彼にとって12か国目となる国ミャンマーでの活躍を期待したい。