泰緬鉄道終点

ヤンゴンから夜行バスでモウラミャインに着き、宿に荷物を置いて少々仮眠してからタンビュザヤ行きのバスに乗り込む。

混雑していても、そこは人々のマナーの良いミャンマーなので、ガサついた感じはないのだが、窓から差し込む強い陽射しを避けようと、車内窓際の座席で日傘を広げる女性が少なくないのには閉口する。邪魔なだけではなく、危険ではないか!

このバスは、沿道の人々の貴重な移動手段となっているため、あちこちで客を降ろしては、少し先で乗せてということをチョコチョコと繰り返しながら進むため、行きは3時間もかかってしまった。帰りは乗り合いのピックアップを利用したのだが、その半分の1時間半ほどでモウラミャインに戻ることができたのだが。

それはともかく、モウラミャインの町に着いた。かつて泰緬鉄道で使われていたという蒸気機関車、ミャンマー側の終着駅であった場所、連合軍墓地などを見物したかったので、とりあえずバイクタクシーにそれらの場所に向かってもらうことにした。

タイでもミャンマーでも、揃いのベストを着用した運転手たちによるバイクタクシーは各地にある(走行するバイクを見かけないヤンゴンを除く)が、ふと思ったのは、インドにおいては、ゴアのような一部の地域を除けばこうした開業が手軽で、利用者にとっても手頃な交通手段がないのかということ。とりわけ、山間部にあるヒルステーションのように、街全体が斜面にあり、道路は狭くて勾配も急であったりして、バスやオートリクシャーなどが往来できないような土地では、ずいぶん重宝される可能性がある。

だが、よくよく考えてみるまでもなく、インドにおいては、運転手との距離が近すぎて、身体的な接触があることについては、とても抵抗感があるはずだ。もちろん公共交通機関に関する法的な規制等の関係もあることだろう。私自身、運転手とのこの距離感はどうも馴染めないし、それにタイの若いバイクタクシーの運転手のようにカッ飛ばす者に乗せてもらいたくないので、やはりミャンマーでも落ち着いた感じの中年運転手に頼むことにしている。

町中から少し出たところに、かつて泰緬鉄道で使われていたという日本製の蒸気機関車がひっそりと置かれていた。C56型のこのタイプの機関車は泰緬鉄道に導入され、第二次大戦が終わってからも、タイ・ミャンマーそれぞれの国鉄で用いられていたという。この車両が置かれているところから、古びた単線のレールが南方向に延びているが、少し先からは茂みの中に消えていく。

C56蒸気機関車
おそらく泰緬鉄道のレール

タイで走っていた機関車のうちの二両は、その後タイから日本に「帰国」し、一両は靖国神社の遊就館に展示されており、もう一両は大井川鐵道にて現役で走行している。

タイのバンコクから北西方向、カンチャナブリーを経て、タンビュザヤに至った泰緬鉄道は、第二次世界大戦時に日本軍がその建設を決行するより以前から、当時のビルマ(現ミャンマー)を統治していたイギリス当局により、このルートの鉄道敷設の構想はあったものの、地理条件により断念されていたとされる。

建設にあたり、日本の担当者は5年程度の歳月が必要であると見積もっていたが、日本軍はこれをわずか1年とひと月で強行した。これにより、連合軍捕虜1万6千名ならびにアジア各地から徴用された8万人を超える労働者たちが死亡することとなった。

この鉄道建設については、デヴィッド・リーン監督による1957年公開のThe Bridge on the River Kwai(邦題:戦場にかける橋)にも描かれており、旧日本軍による苛烈な捕虜虐待と戦争犯罪の一例として、世間でよく知られているところである。

タンビュザヤ駅

市街地に戻り、そこから少し西に進んだところには駅舎があった。新しい枕木が置かれていたり、レール上部が光っていることからもわかるとおり、とうの昔に泰緬鉄道は廃線となっているものの、この駅自体は遺蹟化しているわけではない。モウルメインからイェー経由でダウェイに向かうルート上にあり、今でも毎日数本程度の客車や貨物車が往復しているようだ。

ダウェイへと続く鉄路

さらに西­方向に行くと連合軍墓地がある。広大な敷地の奥に慰霊塔では、オーストラリアの国旗が掲げられるとともに大きな花輪が捧げられていた。何かの記念日に当たるのか、セレモニーが開かれているようであった。参列している人たちの多く、といっても十数名程度だが、白人の人たちであった。おそらくオーストラリアの人たちなのだろう。リーダー格と見られる人は中年男性、その他は小さな子供を含めた家族連れであった。

広大な連合軍墓地
慰霊塔に掲げられたオーストラリア国旗と花輪

ちょっと話をしてみようかと思ったが、集っている人たちも私も戦争を知らない世代ではあるものの、ここに埋葬されている人々にとって、彼らを散々苦しめた加害国の人間であるがゆえに、非常にためらわれた。結局、声をかけることなくその場を後にした。こうした場でのセレモニーであるだけに、日本人であることを非常に重荷に感じてしまう。

数多くある墓標の中には、やはり名前がわからず記されていないものも多い。身元がわかっている人物の場合、記されている享年は多くが20代あるいは30代。またある墓標には花が供えてあった。ちょうど開かれていたセレモニーに合わせて、誰か身内の人が訪れたのかもしれない。

花が供えられていた

タンビュザヤから乗り合いのピックアップでモウラミャインに戻る。着いたのは午後4時。見物に夢中になったり、適当な食事処が見当たらなかったりで、昼食を抜いたり、ずいぶん遅くなってから食事したりということは多い。

この日も、ほとんど夕食に近い時間になってしまったが、河沿いにある食堂に入ると、ヤンゴンからの夜行バスで一緒だったイギリス人青年がちょうどビールを飲んでいたので相席する。よく冷えたビールが喉に心地よい。彼と軽食をつまみながら二杯ほど飲んでから、午後8時くらいに付近にある他の場所で待ち合わせて一緒に夕食をすることになった。

1943年の泰緬鉄道を建設に関わった旧日本軍の人々も連合軍側の人々も、やがてこういう平和な時代が訪れるとは夢にも思わなかったことだろう。すべての人々にとって不幸な戦争、国家の名のもとに敵味方に分かれて命を奪い合うような時代を繰り返すようなことは、今後決してあってはならない。そのためにも戦争の記憶を風化させてはならない、歴史を曲解させることがあってはならない、と私は常々思っている。

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