ターンセーンへ

ネパールに入国してからネパールのNcellという通信会社のSIMを購入したが、国境越えてからすぐにインドのボーダフォンから、「ネパールでのローミングにようこそ」というSMSが入った。

国際ローミング(インドの通信会社のネパールでのローミングは割安ではあるが)では、すぐに残高がなくなってしまうので、ネパールのSIM購入したわけであるが、境目のエリアにいるとインド、ネパールどちらのSIMを利用していても、勝手に国際ローミング扱いになってしまう可能性があるはずだが、この地域に住んでいる人にとって、問題はないのだろうか?

インドからネパールに入国してから、ルンビニーに行くつもりであったが、客待ちしているタクシーに尋ねても、「行けません」との回答しか返ってこない。ツーリストバスならばその方面に行くことが出来るとのことだが、しばらく待ってもそれらしいものはやってこない。ここで言うツーリストバスとは、観光客相手に地域間を運行しているバスも含むが、ここからルンビニー方面にはツアーバスしかないようなので、要はそうしたクルマに便乗させてもらえということだ。

国境から東方面あるいは西方面に向かうルートは、地域政党がオーガナイズするバンド(ゼネスト)によるチャッカージャーム(交通封鎖)の対象となっていることから、公共バスを含めたクルマの往来は出来なくなっている。(前述のツーリストバス、スクールバス等を除く)

ネパール南部の政治問題により、ただでさえ外国人越境者がほとんどいないこの場所、時間がもったいないので、バスでターンセーンに行くことにした。地図などでは「ターンセーン」と書いてあるのだが、一般的には「パールパー」と呼ばれているようだ。

こちらもかねてより訪れたかった場所である。国境から北に向かうルート(ポーカラー方面)については、燃料不足の問題はあるものの、きちんと運行しているのも幸いだ。

ターンセーンに直行するバスは見つからなかったが、経由地のブトワルに行くバスに乗車。車内には、山岳地から来たと思われる顔立ちの人々が多く、ゴーラクプルからこちらまでのバス車内とは、かなり違った印象がある。

山の民と思われる風貌の人たちが多い車内

1時間強でブトワルに到着。よく整備された印象の大きな街で家もきれいなものが多いようだ。ふと思いだしたのだが、インドとネパールの間には15分の時差がある。この時点で4時20分。ブトワルから北は、「山岳の景色が広がっている」というよりも、「壁として立ちふさがっている」という印象を受ける。

ブトワルから北側は山地

ブトワルでバスを待っていると、ターンセーン行きのバスはほどなくやってきた。座席確保できて一安心。国境からターンセーンまでは、「ごく当たり前に」高速通信の4Gレベル。今どきは、どこの国でもそうした通信環境が標準になっている。

ターンセーンを出て山岳地に入ると、かなり電波が切れてネットは使えないものの、微小な電波でGPSは動作するようで、現在位置は逐一確認できる。周囲の山間の景色を眺めながら、バスは進んでいく。眼下はるか下の川に目をやりながら過ごす。日は暮れなずみも車内は家路を急ぐ人々。もはや車内に会話は私が知らない言葉になっている。遠くに来たな、という感じがする。

間もなく日が暮れる。山道をガタゴト走るバス車内にて。

ターンセーン到着は午後7時過ぎ。国境からバスで出る際に、今晩の宿の主人、マンモーハン・シュレスターさんに電話しておいたのだが、ここで彼から電話が入った。さきほども一度かかってきたのだが、電波の具合で話すことができなかった。

バススタンドから徒歩でバンクロードのほうに上がっていく。坂道の町である。かなり古いものが良い状態で残されている町らしく、明日の町歩きが楽しみだ。坂道ではまだ店はいくつも開いており、歩いている人々の姿もある。

坂道を上がり、右手に折れて、ナングロ・ウエストというレストランが見えたあたりで声をかけてきたやや年配の男性が宿泊先のシュレスタさんであった。良かった。宿はここからすぐ。シュレスタさんは、自宅の一部に旅行者を宿泊させるとともに、彼自身もボランティアの観光案内書を運営されている。

宿に来る手前で見かけたレストラン「ナングロ・ウエスト」でダルバートの夕食。
宿の窓から眺めるすっかり静まり返った町。ネパールらしい建物がいくつも見える。

ネパール国境へ

昨夜(というより今朝がた)寝たのは午前4時くらいであったが、もう7時半過ぎには起きてしまった。昨日は窮屈ながらも列車内で少し寝たこと、このホテルの外が騒々しいことなども理由だが、それ以上に本日の予定があるので、のんびりしていられないということが大きい。
昨日はほぼ絶食状態であったので、宿の並びにある食堂にて、本日の朝食、トースト、オムレツ、チャーイが、ことさらおいしく感じられる。出来立ての温かい食事はいいな、と思う。

Gorakhpur Junction駅前の食堂
朝食

宿に戻り、荷物を持ってチェックアウト。駅前から出発の国境行きのバスに乗る。ここからネパールとの国境、スナウリーは3時間ほど。

隣の席の青年は、ムンバイーに働きに出て、ホテルのエレベーターボーイをしていたそうで、久々に帰郷するのだという。こういう人たちが多くこの国境を出入りしているのだろう。同様にネパールからインドへの人身売買もここを通してなされているという黒い話もよくメディアで報じられている。

車窓左側はインドによる封鎖により留め置かれた輸送車両の長い行列

国境までまだ10数キロはありそうなところで、道路左側に長い車列が止まっている。これらはすべてインドによる封鎖により留め置かれているものだという。昨年の夏あたりに、ネパールで制定しようとしていた新憲法の内容が、マデースィーの人たちに対して不利な内容となっていることが明らかになったことにより、彼らが暮らすタライ平原部では、地元政党による抗議活動が盛んになっていた。これが現在も続いているのだが、インドもまたこうした状況に鑑み、ネパールに対して独自に制裁を加えることとなったのは昨年9月に新憲法が制定されて以降。ずいぶん長く続いている。

これにより、ネパールでの燃料や生活物資の不足などが伝えられているとともに、昨年4月と5月に起きた大地震からの復興に影を落としているというが、あまりに強大なインドという隣国との関係で悩まされるのは今に始まったことではなく、同じく国境を接する中国との関係を強化するのは無理もないことだろう。

これは、南アジアへの影響力強化とインド周辺の国々の囲い込みを着々と進めている中国にとっても好都合なことであり、ネパールに対して様々な経済援助を惜しみなく与える関係となっており、大型の案件のひとつとしてルンビニーの遺跡公園の整備が進められるとともに、運輸関係でも西蔵鉄道をネパール国境まで延伸させるプランや、さらにはカトマンズまで鉄路を伸ばしてリンクさせる計画まである。

こうした状況はインドにとって看過出来るものではない。新憲法を制定したネパール政府と、これに反対するマデースィー(北インドのビハールやUPの人たちと民族的・文化的背景が共通する人たち)の政党との間の軋轢は、インドにとって自らの影響力を行使する良い機会ということにもなる。

ネパールへは、モーティハーリーから近いビールガンジから入ることを考えていたのだが、その地域での反政府活動がまだかなり激しいようであるため、予定を変更してこちら側の国境から入ってみることにした次第。

話は戻る。留め置かれた無数のトラックやトレーラーの長い長い車列。荷主も受け取り手も非常に困っていることだろう。運転手たちに至っては、身動き取れず、さりとて日銭も入らないとあれば、一体どうやって過ごしているのだろうか。彼らが養う家族もいるわけなので、あまりに気の毒というしかない。

スナウリーに到着。ごみごみした粗末な商店が軒を連ねる中にあるインドのイミグレーションへ。出国印をもらってから、ネパール側に越える。インド人とネパール人はチェックがないので、国境両側は、事実上ひとつの街である。

だがネパール側に入ると違うのは、インドでは見かけない会社の広告があったり、デーヴァナーガリーで書かれた看板が、ヒンディーではなくネパーリーであったりすることだ。デーヴァナーガリーによる外来語の表記も異なり、例えばVに対してVではなく、BHを当てることなどがある。すると外来語について、Vの字はどう使用しているのか?ということになるが、私はネパール語のことはよく知らない。

ネパール側でヴィザ代25ドル支払う。Guidebookでは米ドルのみと書かれているのだが、タイ人のグループを率いるインド人ガイドがパスポートをまとめてイミグレーションに持参していたのだが、その会話からインドルピーでも支払いできるらしいことが判った。もっともいつもそうなのかどうかは知らない。

昨年の大地震とともに、現在進行中のタライ地域の政治問題等により、外国人観光客が非常に少ないため、国境両側のどちらの国のイミグレーションも待ち時間ゼロであった。

ネパールでは、物資不足により、インドルピーの需要が高まっているという。地元通貨では購入できない燃料等がインドルピーならば買えるという話をネパール側で耳にした。インドルピーのことをネパールでは俗にIC(Indian Currencyの略)と呼ぶようだ。前述のとおり、国境を挟んだ両側は事実上ひとつの町であり、両国の人々は出入国手続き無しで自由に往来できるため、利ザヤの大きい燃料類をインド側で購入して、ネパール側で売りさばくという商売が盛況とのこと。こうした商売に従事する人たちにとっては稼ぎ時ということになるのだろう。

取り急ぎドルからネパールルピーに両替、そしてネパールのNcellのSIMを購入。インドの場合と異なり、購入してスマホに挿入すると、即座に通話もネットも利用できるのがいい。インドの場合は、それほど迅速ではないのは、セキュリティの関係でそういう措置になっているのではないかと思う。

パトナーにて

パトナーの駅前エリア界隈では、無料のWifiが飛んでいることに気が付いた。スマホにFree Wi-Fi Zone of Patnaと出る。タダであるだけに、セキュリティ上の配慮があるのかどうかは知らないが、接続時のパスワード設定がないので、誰でも繋ぐことができる。比較的最近、ハイデラーバードで比較的最近、こうしたサービスが提供されることがニュースになっていたが、まさかバトナ―でもこういうものがあるとは知らなかった。

この地域のレストランにて昼食。中華料理としてではなく、「インド式中華料理」のチョプスィーは店によってずいぶん違うものが出てくるが、私の好物である。

チョプスィー

歴史は長いものの、これといって見るべきものがないパトナーの目玉のひとつ、ゴールガルに行ってみる。英領時代に飢饉対策のために造られた穀物貯蔵庫。ゴールガルは巨大な饅頭を置いたような形で、周囲に付いている階段で登ることができる。天井からはバトナ―市内の眺めがとても良い。ここは、ガーンディー・マイダーンのすぐ西にある。オートはそのマイダーン沿いに走るので、「ああ、ここが州首相が就任の宣誓をすることで知られるあの場所か」と、少々感慨深いものがある。

ゴールガル
ゴールガル頂上からの眺め。パトナーには高層建築がまだ多くないことからも、やや昔のインドの街という思いがする。
ゴールガル頂上から

そこからパトナー駅前までオートで戻る。バトナ―は、大きな街の割には道があまり広くないところが多く、一方通行であったりするので、ずいぶん迂回していくことになる。駅前に着いたと運転手に告げられても、そうとは判らないのは、あまりに建て込み過ぎて視界が非常に悪いため。巨大な駅舎が、正面の大通りからさえも見えないのである。陸橋を建築中で、さらに交通の流れが悪くなっているし、ずいぶん見通しが悪く、渋滞もひどい。

バトナー駅前。陸橋を作る大きな工事が進行中とはいえ、この見通しの悪さはひどい。

いつものことだが、ビハールは、かなり昔のインドという感じがする。田舎がとりわけ貧しいのはもちろんのこと、州都パトナーも人口200万人超の街としては、華やかさに欠けて、地味な印象を受ける。

駅前に戻って徘徊しているうちに日が暮れた。屋台のミターイー(甘いもの)屋さんがあった。露店にしては、見た目があまりに美しいので試してみると、大変美味であった。少なくともグラーブ・ジャムーンとラースグッラーについては、凄腕の職人さんであることが判った。

グラーブジャムーン
ラースグッラー

界隈で夕食を済ませ、宿への帰り道にあったソニーのスマホ販売店を覗いてみた。5.5インチや6.0インチといった大画面の機種が目玉となっている。それらの多くはデュアルSIM仕様なので、日本国内で販売されているモデルとは異なるのだろう。日本でも複数台持ちしている人たちがけっこういるので、本来ならばデュアルSIMの需要は少なくないことと思うが、やはりまだまだ回線契約とハンドセットが抱き合わせ販売が主流の日本のマーケットならではのことと思われる。

外国ブランドのスマホ等々の販売店が見られる一角

ビハールにおいても、スマホの普及は相当なもので、ローカルバスの車内でも、大画面の機種を手にしている人たちがけっこういる。昔と違って、今のインドの田舎の人々の購買力も相当なものである。バス車内等で、じーっとスマホに視線を落として、指をチャカチャカ動かしている人たちの姿は、もはやどこに国にあっても共通の眺めとなっている。

宿に戻る前に、オートの販売店を覗いてみた。近ごろのオートリクシャーらしく、細部がモダナイズされていて、ちょっといい感じであった。

夜になってもパトナー駅前の渋滞はひどい。
ちょっと良さげなレストランで夕食後、シメでお茶を一杯。

ソーンプル・メーラー

ソーンプル・メーラーを訪れた。ちなみにこの「ソーンプル」は、ローマ字では「SONEPUR」と綴るため、「ソーネープル」と読みたくなるかもしれないが、「ソーンプル」というのが正しい。メーラーの期間のみ直行する臨時バスも出ているらしいが、どこから発着しているのかよくわからなかったため、乗合オートでパトナーからハージープル、そこで乗り換えて再び乗合オートでソーンプルまで行くことにした。

ずいぶん昔からあるメーラーで、マウリヤ朝の王、チャンドラグプタがここで象を購入するのが習わしであったのだとか。つまり紀元前3世紀には、すでにこの祭りが行われていたことになる。気が遠くなるような話だ。現存するこうした催しの中では、世界最古の部類に入るだろう。特に大型の動物の売買がなされてきたことで有名だが、その伝統は今の時代にも引き継がれている。

往時は、ソーンプル近くのハージープルで開かれていたものが、ムガル朝でアウラングゼーブが帝位にあった時代に、開催地をソーンプルに移したとのこと。ハージープルは、パトナ―からソーンプルに移動する手前にあり、シェアオートで向かう場合に乗り換える町がそれだ。

現在のパトナ―もまた、古くからある街。紀元前5世紀ごろにマガダ王国か築いた拠点を中心に発展してパータリープトラという街になった。これが現在のバトナ―の前身。古い割には、あまり見るべきところが残ってはいないが。

メーラーでは、古くからの習わしどおりに、象や馬をはじめとする家畜の市が立つ。私が訪れた本日は、開催最終日まであと2日残すところ、つまり24日に終わるため、すでにこれらは撤収した後であった。だが例年ならば、11月中旬から12月上旬までのこのメーラーが、今年はヒンドゥーの暦の関係か、この時期まで開かれているため、見ることが出来ただけでもありがたい。

ソーンプルの小さな町から周辺部にまで広がる巨大なメーラーだが、普段はいろんな作業に使われたり、野菜等の物売りが路上で商っていたりすると思われるところまで、すべてメーラーのために徴用されている。星の数ほどありそうな仮説の露店の割り当てなども含めて、おそらく地元のヤクザが取り仕切っている部分もかなり多いのではないかと思ったりする。

こちらはサーカス小屋

巨大なテントの中では、夕方からステージが開催される。付近で商っている人によると「最高にセクシーなステージ」だとのことで、あるテントでそのリハーサルか何かが行われているときに、若者から中高年の男性までが、その隙間から覗いていた。中では色黒で小柄の女性が踊っているようであったが、そんなにいいものであるとは思えなかった。夕方の5時だか6時だかに始まるらしい。昨日、宿で働いている人が「昔はそんなでもなかったけど、今では子供連れて行けるようなものじゃありませんよ。ああいうのはどうもいけませんな」などと言うオジサンがいたが、このことを言っていたようだ。

こういうテントが沢山ある。

私が訪れたときには、最終日まであと2日を残すのみというタイミングであったため、象や馬を扱う市はすでに撤退していて見られなかったが、小鳥や犬、ガチョウや鶏、そして牛が売られている場所は見物できた。

メーラーの感想としては、田舎でよくあるメーラーがやたらと巨大になったものという印象。クルマやバイクが樽状の壁の中をぐるぐる駆け上がる出し物や遊園地的なものがいろいろあったりしたが、私たちが楽しいと思うようなものではないし、露店にしても他のところのメーラーと変わらない。安物が大量に販売されているマーケットである。期待したほどのことはなかったが、それでも前々から訪れてみたかったものなので、行くことができたこと自体で満足である。

メーラーの書入れ時に路上で商う露天商も多い。

アフガニスタン人のナーン屋の店頭にて

デリーのラージパトナガルのアフガン人地区で、ナーンを焼く店。様々な顔立ちのアフガニスタン人たちが、それぞれの郷里式のナーンを商う。

はなはだザックリとした言い方をすれば、小麦食文化圏、アーリア系人種、啓典の民、etc.・・・、アーリア人発祥の地とされる中央アジアのフェルガナ盆地からイランを経て欧州までの人々の先祖の基層にある部分は、非常に共通するものがあることを感じる。

少なくとも、私たちの東アジア文化圏から見ると、彼らはまさに遠縁の親戚同士という気がする。

それにしてもこの地域、行き交う人々の間にアフガニスタン人の姿が実に多く、商店の看板にもダリー語での表記があちこちに見られる。