ビカネール3 National Research Centre on Camels

食事を終えてから、オートでNational Research Center on Camelに向かう。市街地からかなり離れたところにある。午後2時から午後6時までという短い公開時間。うっかり午前中に出向いたらアウトである。着いたときにはまだ10分ほど早かったので少し待たされた。

広い敷地内は、大きく分けてみっつのエリア、事務棟、研究施設、飼育施設で構成されており、私たち外部の人間が見学することができるのは、事務棟の脇にある小さな博物館を除けば、当然のことながら飼育施設のみである。

小さな博物館、餌場、えさの時間以外に入れておく柵などがある。また餌置き場、そして餌のペレットの工場などもあるようだが、後者については公開されていない。博物館内の表示から、ラクダには4種類あることがわかるが、実物を眺めてもどれがどれなのかさっぱりわからない。

せっかく来たのだが、正直なところあまり面白くなかった。内容はさておき、農業省の関連施設なのに、外国人料金があるのも癪である。

入口
券バイカウンターの横でラクダミルク製品を販売
事務棟
研修施設
飼育施設

ラクダの診療所
ラクダの寄生虫に関する説明
この地域のラクダはどれも同じに見えるが、実はいろいろ種類があるらしい。

ビカネール1 旧藩王国最後の宰相の屋敷

バスはシェーカーワティーを出てしばらく細い道を進むと、やがて舗装が非常に良質で道幅が広い国道11号線に出た。スピードが出る分、運転席真後ろの狭いスペースにいると怖い。片側三車線区間が一部、あとは片側二車線が大半。ときどき一車線になったりもする。

昔のように「道路に穴が空いているのか、穴が空いているところに道路が通っているのかわからない」と首相在職時(1998年3月~2004年5月)のヴァジぺーイー氏が発言したようにひどい時代があったが、もはやそれは遠い過去のことになっている。インド各地の主要幹線道路はとても良くなった。

そのいっぽう、沿道の動物たちには危険なようで、30分に1回以上は、轢かれて死んでしまった野犬や牛などの哀れな姿を目にする。誰も処理しないのでそのままになっているのだが、ゾッとする光景だ。

シェーカーワティー地方を出てしまったことは、ハヴェーリーや塔のついた井戸が風景からなくなることでよくわかる。デリーやハリヤーナーに近く、ラージャスターンの他の地域にも囲まれているのに、どうしてこういう独自の伝統がここに残ったのか、それでいてなぜ他の地域にも広がることはなかったのかと不思議に思う。それとは反対に、ごく狭いところから周辺部に伝播した範囲で、シェーカーワティーの文化が形成されたのかもしれない。

やがてビカネール(正確に書くとビーカーネールだが、字面があまりに冗長になってしまうため、今後はビカネールと表記)までの距離表示が、すでに20キロを切った。道路の状態が良いので、もう目と鼻の先だ。

プライベートのバスであったためか、本来のバススタンドではない空き地に停車して、「ここが終点」とのこと。鉄道駅近くの宿まではずいぶん遠かった。

本日の宿は、Hotel Jaswant Bhawan。駅の北口近くとはわかっていたが、鉄道用地のゲート出たところであった。

ビカネール藩王国最後の首相であったラオ・バハードゥル・ジャスワント・スィンが暮らした家がホテルとなっている。築200年というこの屋敷だが、現在もオーナーであるファミリーの居間に通されて食事が出来るのを待つ。

ここは運営を外部に委託しているわけではなく、ここの家族、特に奥さんと主人の若夫婦が対応してくれる。アットホームな雰囲気で、食事の場所や居間スペースが家族のところなので、ホームステイに近い感覚だ。部屋もまずまずで、ちゃんと蛍光灯が入っているので日記を書いたりする際にとても助かる。

料理のメニューは、同じ並びのすぐ隣にあるジャスワントという名のレストランのもの。中は薄暗く、バーと兼用なのであまり雰囲気の良い店ではなく、上品な家族の所有らしからぬ感じがするが、尋ねてみるとやはりそこも家族で所有しているとのこと。この宿で供される料理はレストランから運んでくるのではなく、ここの家のキッチンで作っていた。奥さんが使用人たちを指揮して、出来上がるとせっせと運ばせてくれる。

居間には勲章なども飾ってあり、藩最後の宰相が受けたものであったり、この家から出た軍人が与えられたものであったりするようだ。最近はWi-Fiを用意している宿が多くなったが、ここのホテルも同様だ。宿泊先に必ずWi-Fiがあれば、インドの携帯電話がなくてもなんとかなる部分はあるのだが、やはり移動中に観光地を調べたり、観光中に検索したり、そして電話も使いたいので、やはり今の時代は旅行中でも地元のSIMは必需品である。

〈続く〉

チャーイは世の中を変えた・・・かもしれない


旅先で、食後にチャーイを啜りながら、この日はあと何をしようか?どこに行こうか?と考える。

お茶やコーヒーがなかった時代、私たち人類は、何を手にして思考していたのだろうか。19世紀以降に急激に加速した社会の進展、技術の進化には、茶、コーヒーの普及と深い繋がりがあるにちがいない。 欧州の有産階級が、茶、コーヒー出現以前にランチで嗜むのはアルコール類だったそうではないか。それはそれでいい時代だったのかもしれないが。

茶、コーヒーで思い出したのだが、茶葉の大産地インドで、喫茶の習慣が地元の人たちに普及し始めたのは1920年代末から1930年代にかけてのことらしい。かつて貴重で大変カネになる作物であった茶も、このあたりになるとインド・スリランカでの算出量増大、この地域外においてもマレーシア、ケニア等々の英領各国での生産が広がったことから、価格が下落していくとともに、在庫がだぶつくようになってくる。

そこで当時のインド紅茶局が全国で喫茶習慣普及推進の旗振りを始めて、各地でデモンストレーションを始めたとのこと。それまではマーケットになっていなかった茶葉生産のお膝元での需要拡大を図ることになった。当初は英国式の飲み方を導入しようとしたらしいが、地元の人々の嗜好から現在のチャーイの形で広まることになって現在に至る。

その背景には、欧州ではすでに値崩れして買い手が少ない低級品の大量処分という狙いがあったとともに、当時の庶民の購買力の関係もあったはず。お茶はお茶でも、本当に下のクラスのものは、カフェイン入りの色付きのお湯でしかないがゆえに、マサーラーで香りを付けるとともに、ミルクと砂糖で味付けする必要があったということにもなるのかもしれない。

西欧では、カフェ文化の浸透により、様々な市民が集まり議論を交わすようになったことが、民主主義運動を拡大させるとともに、労働組合活動を盛んにしていったと言われているように、インドでもチャーイの文化が広がる中で、反英独立運動が勢いを増していったということもあるかもしれない。

チャーイを啜りながら、そんなことをぼんやり想ったりする。

シェーカーワティー地方へ 4  〈タークルの屋敷〉

マンダーワーのタークルのハヴェーリーを見学。商家ではなく、小領主的な存在であったため、「城」を名乗っている。現在の当主はジャイプル在住とのことだ。

ここは現在、Castle Mandawa Hotelという名前で、おそらくリゾート運営の会社が委託を受けて運営しているようだ。他にもマンダーワーにあとふたつ、ジャイプルにひとつ、チェーン展開している。
建物内は自由に見学できるわけではなく、宿泊客以外はスタッフによるガイドツアーで見学することになっており、その料金は250RSもする。

それはさておき、「宮殿」といっていい規模と内容のヘリテージホテルで、一泊6,000Rsほどのようだが、「オフシーズンなので5,000Rsにしますよ」とも言われた。一般的な感覚として、このくらいの料金でちゃんとしたヘリテージホテルに宿泊できるのならば、充分に価値がある。ラージャスターン州からグジャラート州にかけて、数々の藩王国が割拠したところでは、それこそ無数にといっていいほど沢山の宮殿ホテルがある。とても手の届かない料金のところもあるが、ここのようにそうでもないところも少なくない。ここはそうした中で比較的エコノミーな料金で楽しむことが出来る宿泊施設と言えるだろう。

ただひとつ気に入らないのは、宿泊していない者が見学する際に250Rsという料金を取ること。その料金にはカフェテリアのメニュー内で250Rs分までの飲食が含まれているとのことであったが、実際にはソフトドリンクくらいしかその範囲で頼めるものはなく、結局はそれを大きく上回ることになる。そんな姑息なことをするくらいならば、「見学料金は250Rs」として欲しいものだ。

このホテルをガイド付きで見学してみた。立派な制服を来た(ラージャスターンの伝統的なスタイルの衣装)スタッフが案内してくれるのだが、建物内の特に立派な部分をいくつか回ってくれる。やはり屋敷というよりも、これは事実上の城、あるいはパレスである。モダンなスイミングプールがあったり、おそらく音楽の演奏や結婚式にも使われるであろうマンダップのある中庭もあった。敷地内に立派なシェーカーワティー式のハヴェーリーもある。

メインの建物の屋上からは町全体を見渡すことができる。ごく小さな町ではあるが、上から眺めてみると、大規模なハヴェーリーが多いことに改めて驚かされる。映画「PK」のマンダーワーでのロケの際、アーミルやサンジャイなどが宿泊したとのことだ。

〈続く〉

デリーのアフガニスタン人地区

ラージパトナガルⅡに出かけてみた。フェイスブックにて、ある方がここにあるアフガンレストランのことなどについて書かれていたので、せっかくデリーに来たので立ち寄ってみることにした。

地下鉄のラージパトナガル駅で降りて、しばらく東に歩いたあたりで、アフガニスタンの人たちが歩いているのを見かけるようになってくる。アフガニスタンといっても様々な民族が住んでおり、見た目はインド人と同じような感じの人たちも少なくないのだが、タジク人やパシュトゥン人たちは、「やや日焼けした白人」といった風貌の人たちが多く、私が聞き取ることのできない美しい響きの言葉をしゃべっている。

しばらく進むと、ペルシャ文字の看板が目立つようになり、そのエリアには、アフガニスタン人が経営している店あり、アフガン人顧客が多いインド人の店あり。そんな中にあったアフガンケバーブハウスというレストランに入ってみることにした。

店内で働いているのはアフガニスタン人、出入りするお客も同国の人たちが多かった。店内に踏み入れたときにいたのは、すべて男性で、揃ってやたらと整ったイケメン揃いである。女性はさぞ美しかろうと思っていたら、ちょうどアフガン人カップルが入ってきて、ふたりともまさに眉目秀麗という感じ。一日中、ああいうキリリとした顔をしていてくたびれないのか?思うくらいだ。

店主はタジク人。スタッフはタジク以外にもいろいろな民族の人たちが働いているそうだ。
「カーブルのレストランで出しているようなものを用意していますよ」とのこと。注文したプラオもコフタも大変上品な味でおいしかった。メニューを眺めてみたところ、やはりペルシャ風のアイテムが多いようだ。インドのムスリム料理に取り入れられたアイテムの原型といった感じで興味深い。

どれも美味であった。

界隈には、アフガンによるアフガン式のナーンを焼いて売る店、アフガン食材屋、アフガンのスナック屋台、各国の通貨を扱う両替屋、航空券他を扱う旅行代理店が多く目に付く。Safi Airwaysというアフガニスタンの航空会社のオフィスまであり、それらはペルシャ文字の看板を掲げている。このあたりでアフガン客を相手にするインド人たちには、多少のダリー語(アフガニスタンで広く通用するペルシャ語)が出来る人も珍しくはないようだ。

脇道から、色白で大変見目麗しい三人連れの女性たち出てきた。洋装なのでどこの人たちかよくわからないが、サイクルリクシャーを呼び止めて、行き先と料金のことをやり取りしている声が、さきほどアフガンレストランで耳にしたような訛りのヒンディー。尋ねてみると、やはりアフガニスタン人たちであった。

デリーではアフガンから来た人たちが多い(一説には1万人程度はいるとか)のは知ってはいたものの、ここに集住していることやレストランなどもあることは把握していなかったのは不覚であった。かなりアップマーケットな地域なので、レストラン等で雇われている人はともかく、ここで商売を営んでいるアフガニスタン人は、暮らし向きの良い層が多いようだ。ラージパトナガルⅡのアフガンレストラン出入りする人々の多くはアフガン人。けっこう可処分所得の高い人層が少なくないように見受けられる。

界隈には立派な身なりのアフガン紳士の姿もあるし、金余りのボンボンみたいなのも少々。どんな仕事をして稼いでいるのかはよくわからないが、昔から母国での不都合が生じた富裕層や政治家などが、デリーに逃れてきていたことを思い出した。最たる大物関係では、社会主義政権最後の大統領、ムハンマド・ナジブッラーは、ターリバーンが首都カーブルを制圧してから逮捕、処刑されたが、それに先だって家族をデリーに送っている。主人が処刑されて歎き悲しむ遺族のことがインドの新聞に出ていたことを、ふと思い出した。

インド人の不動産屋から「あの、お住まいはもうお決まりでしょうか?」と声をかけられる。モンゴル系のハザラ族アフガン人かと思ったとのこと。この人は、アフガン人が大切な顧客なのでこまめにチェックしているらしい。

翌日にもう一度この地域を訪れてみて、他のレストランで食事をしてみた。メニュー下部に「マントゥー」とあるのは餃子。メンズ豆の煮物とヨーグルトがかけてある。上の写真左側。
このマントゥーという名前だが、漢字の饅頭(韓国でいうところのマンドゥー。漢字で饅頭と書くが、日本の餃子のこと)と符号しているみたいなのは、何かの偶然なのだろうか、あるいは歴史的な背景が含まれているのか?それはともかく、まんま蒸し餃子であった。

左側が「マントゥー」

このアフガニスタン人地区、なかなか面白そうなエリアだ。今後もまた折を見つけて訪れて観察してみようと思う。