ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

話は前後するが、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに行く前に、ヤンゴンのダウンタウンを訪れた。宿泊先から目と鼻の先だが、ダルガーの名前とおおよその場所をビルマ語で書いてもらうためである。ザファルのダルガーと言っても、通常タクシーの運転手は理解してくれないからだ。

ベンガル系の人々が集うモスクから出てきた紳士然とした壮年男性に書いてもらった。「これで運転手はわかると思うけど、今行くのならば私が話をするが、後で行くならばこの人に運転手に説明してもらってくれ」と、付近の露店のインド系男性に頼んでくれた。親切な人だ。

ついでにと、インド人街を散策する。インド人街でも、托鉢している坊さんや尼さんたちの姿は多い。明らかにヒンドゥーと見られる人たちも施しのために路上に出ている人たちが少なくない。朝早い時間帯から路上では茶屋が店開きしている。これまで国外のメディアで伝えられてきた暗いイメージとは裏腹に、とても社交的なムードがある。

ヤンゴンのダウンタウンのインド人が多い地区で托鉢する坊さんたち

植民地時代のコロニアル建築の建物に入っているシュリー・サティヤナーラーヤン寺の入口脇に、子供たちのためのヒンディーのレッスンについての貼り紙を見つけた。確かに、この地域では父祖の母国の言葉を使うことができる中高年は多いものの、若年層は理解しない人が少なくない。

ヒンディーのクラスについての貼紙

寺の入口にて、ヒンディーで会話している男性たち二人に声をかけてみた。ひとりは近所に住む人でも、もうひとりはこの寺の管理人であった。後者は、おそらく50歳くらいだろうか。先祖はUP出身で、彼自身はインド系移民五世であるとのこと。1962年のクーデター以降、この国の各地から大勢のインド系の人たちが本国やその他の国々に移住したということはよく知られているが、やはりこの街のダウンタウン界隈でも同様であったようだ。

サティヤナーラーヤン寺

「昔、このエリアはインド系の人たちばかりで、ビルマ人を見かけることさえ、ほとんどないくらいだったんだ。今とは全然違ったよ、あの頃は」

・・・というものの彼自身は、おそらくそのあたりの時代に生まれたと思われるため、実体験として「インド人の街」であったころの界隈を知っているわけではなく、おそらく両親からそうした話を聞かされて育ったのではないかと思われる。だが1962年のクーデターを境にして、インドの言葉(ならびに中国語)による出版が禁じられるなど、言語環境の面でも社会的な変化があったようだ。

「インド系移民に関心があるならば、ゼーヤーワーディーに行くと面白いと思うよ。あそこではインドから来た人々が今も大勢暮らしている。住民の大半がそうだと言っていいくらいだ。まるで、ビハールやUPにでも来たような気がするはずだよ。先祖がそのあたりから来たっていう人たちがほとんどだし。まあ、主に畑仕事やっているところで、とりたてて見るものはないんだけどなぁ。」

今回はそこを訪れる時間はないが、いつか機会を得て出かけてみたいと思った。

南インド系の人たちも混住している。ドーサの露店が店開きしていた。

再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

バハードゥル・シャー・ザファルの墓

5年ほど前に、「最後のムガル皇帝、ここに眠る」と題して、ヤンゴンにあるムガル朝最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーについて取り上げてみたことがあったが、今回久しぶりに再訪した。

場所はシュエダゴン・パヤーから比較的近い場所にあるのだが、ザファルのダルガーと言っても、インド系以外の人はわかってくれないことが多いので、ヤンゴンのダウンタウンで、インド系ムスリム男性にビルマ語で書いてもらった紙片をタクシー運転手に見せることにした。

ダウンタウンからさほど遠くはないところにあるダルガーは、前回訪れたときのような閑散とした状態ではなく、まさに溢れんばかりの人々が集まっていた。何かと思えば、うっかりしていた。今日は金曜日で、昼の礼拝の時間に当たっているではないか。うっかりしていた。バハードゥル・シャー・ザファルは、ムガル最後の皇帝として、また高名な詩人としても広く知られているが、ここミャンマーのムスリムの間では聖人としても崇められており、ハズラトという尊称が付けられている。

ザファルの本当の墓がある地下の部屋では女性たちが礼拝に参加しているので、入場は遠慮すべきかと思ったが、入口付近にいた男性たちによると、構わないというので墓石を見学する。地下室の天井の一部は吹き抜けになっており、上の男性たちが礼拝しているフロアーでの説法がちゃんと聞こえるようになっている。女性たちは必ずしも頭を覆っているというわけではなく、チャーダルを被っている人はごくわずか。ゆるい感じでいい。説法は主にビルマ語で行なわれているが、時にアラビア語のコーランの朗誦が入る。またときにウルドゥー語での話となることもある。かなり荒々しい口調だが、またしわがれていて品のある声やしゃべりかたではないが、とても勢いと力に満ちた感じがする。

礼拝が終わるまで待とうと、境内のスナック屋でチャーイを頼む。ここの店主のみウルドゥー/ヒンディー語を理解する。他の人たち、主はに女性たちが働いていて、多少なりともインド系の血が入っていそうな顔立ちだが、言葉は通じない。現在、ミャンマーに暮らしているインド系ムスリムの人たちの間で、ウルドゥー/ヒンディー語が通じる相手とは、インド系コミュニティにどっぷり浸って生活している人たちか、そうでなければ極端に宗教熱心な人、民族意識が強くかつ教養もある人ということになるようだ。

また、ミャンマー在住のムスリムの大半がインド系であることから、父祖の出身地が異なっていてもムスリムであるがゆえに共有するコトバという認識もあるらしい。すると、自動的に、日本人でもウルドゥー/ヒンディーを理解すると、やはりムスリムであろう思うようで、お茶を飲みながらしばらく話をした男性は、私を「日本から来たムスリム」であると紹介したりする。そうではないことを伝えると、彼らは少々残念そうな表情をしている。

やがて礼拝が終了した。堂内に入って、風貌からはインド系とは見えないミャンマー人男性と知り合った。50代くらいではないかと思う。顔立ちは普通のビルマ人だが、先祖がインド系で、自身もインド系であると認識しているそうだ。35年間船乗りとして世界中をめぐり、現在ではアラビア語のチューターをしているとのこと。

金曜日昼間のナマーズが終わってからも、1階にあるザファル、妻のズィーナト・マハルと彼らの娘の墓所(どれもレプリカである)で、モールヴィーが信者たちに説法を続けていた。地下の墓所では、墓にバラの花を降りかけて、カラフルで刺繍入りの布に包まれている墓石に上からもう一枚のカラフルな布をかけている。そして大量の香水を降りかけての儀式が執り行われていた。

1858年にデリーからこの地に流刑に処され、失意の中で没したムガル最後の皇帝は、今もヤンゴンのインド系ムスリムの人々との絆を保ち、毎週金曜日には多くの人々を集めていることについて、心を動かされずにはいられない。

金曜日の礼拝を終えて帰途につく善男善女たち

 

携帯電話のレンタルSIM ヤンゴン空港にて

ヤンゴンの国際空港に到着して、びっくりしたことがふたつ。

ひとつは両替カウンターが出来ていたこと、もうひとつはレンタルSIMを扱う業者が出店していたことだ。

どちらも話には聞いていたが、実際に目にしてみるとなんだか信じられない思いがする。空港に両替屋があるなんて当たり前ではないか、と思われる方も少なくないかと思うが、昨年のこの時期に訪問したときはまだなかった。実勢レートで両替する業者が合法的に店を構えることができなかったため、とりあえず市内まではドル現金払いでタクシーに乗るしかなかった。

またSIMカードについては、インドやタイなどのように廉価で入手できる状態にはまだないため、レンタル業者があるのは助かる。レンタル料金は1日2ドルで、借りる際に50ドルのデポジットを預ける。通話料金は別払いとなる。

国内通話分と国際通話分と別々になっており、国内用は1万チャットで通話3時間分だという。国際用は10ドルだが、こちらは9分しか通話できない。通話代のチャージは外の店の多くでできるとのこと。ただし残念なのは、データ通信に対応していないため、スマートフォンであっても、ネット接続はできないことである。ごく最近、携帯用の3Gデータ通信のサービスも開始されたようなので、しばらくするとレンタルでも利用できるようになることだろう。

自前の電話から積極的かけまくるわけではないのだが、必要とあればいつでも電話を受けることができるのはありがたい。また用事があってこちらからかける場合も電話屋にいくことなく、手にしている携帯電話からかけることができるのは助かる。

レンタルのSIMは、不特定多数の人たちに貸し出されているがゆえのデメリットもある。レンタル中に、幾度か間違い電話がかかってくる。かけているほうにとっては間違いではないのだが、正しくダイヤルした番号はすでに他の人が利用しているのを理解しないことが多い。

「ハロー、ラジヴさん?」「マルホトラさんでしょうか?」「おーい、元気かぁ?」「アショーク?」突然電話が鳴って、出てみると、異なる相手がいろいろな名前で呼びかけてくる。

中には、わざわざこちらの番号を確認したり、前の借りていた人の番号を知っているかなどと尋ねたりする人もある。「間違いです」と切ってしまうと、また同じ人からかかってきて、「これはレンタルされている番号で、前の借主の所在等はまったく知らない」と説明しなくてはならなくなる。それでも食い下がってくる人がいるのにはホトホト呆れてしまう。

なぜか、インドの国際電話が多かった。よほどインド人の借り手が多いものと思われる。迷惑だが、こればかりは仕方ない。

Jetstar日本国内線就航

今年7月3日からオーストラリアを本拠地とするJetstarが就航する。

現在、日本を代表する格安航空会社といえば、今年3月に就航したPeach Aviation。我が国初の本格的なLCCという売り込みで注目されており、関空から札幌、福岡、長崎、鹿児島へ乗り入れている。今後、5月から関空・仁川線を飛ばすことにより国際線にデビューし、その後7月に香港、9月に台北へと路線を伸ばすことを予定している。

ここにきて、日本の国内線に外資系のJetstarが参入することにより、今後着実に日本国内の空のネットワークに大きな異変が生じることになりそうだ。今世紀に入ってから、アジア各国で急速にLCC各社が台頭している中、日本国内では相変わらず既存の航空会社による支配が続いていたものの、5年後、10年後にはずいぶん異なる様相となっていることだろう。

今までのところ、Jetstarは南アジア方面には就航していないため、Air Asiaのように、バンコク、クアラルンプル、シンガポール等で乗り継いでインドに向かうのには使えないが、今後ネットワークの拡大に期待したい。

Jetstarが打ち出している日本国内線の単一路線についての最低価格保証はともかく、国際線を乗り継ぐ場合は、LCCを利用しても、行先、予約時期や方法によっては、必ずしも既存の航空会社より安くなるとは限らなものの、移動の選択肢が増えること自体ありがたく思う。

BB AIRWAYS

ある方がフェイスブックに書かれていたことによって知ったのだが、在日ネパールの方でこんな試みに取り組んでいる人物があるとのこと。

「日本とネパールを結ぶ直行便を実現します」 BB AIRWAYS

BB AIRWAYSとは聞き慣れない名前だが、上記ウェブサイトによると、「2012年の運航に向けて準備中」であるとのこと。ネパールの首都カトマンズのトリブヴァン空港と結ぶ予定とされるのは、なんと茨城空港。9月の運航開始を目指しているのだという。

しかしこれまで名前さえ聞いたことのない会社なのでまったく見当もつかなかったのだが、ネパールのウェブサイトにはいくつか関連の記事が出ていることに気が付いた。

BB Airways gets ministry’s green signal (The Himalayan)

NEW AIRLINE: BB Airways Gears up for September Launch (Routes Online)

BB Airways acquires int’l operation licence (THE KATHMANDU POST)

BB Airways (ch-aviation)

日本在住のNRN(Non Resident Napalese)による航空会社だが、本拠地は母国ネパールとなるようで、就航先はデリー、バンコク、クアラルンプル、香港、東京(成田空港同様、茨城空港も便宜上「東京」?)、カタール、シンガポールとなっている。すでにネパール当局のライセンスは得ているとも書かれている。

これらの記事は、今年1月から2月時点のものであり、その後の進捗はよくわからないが、茨城空港への乗り入れはともかく、ネパールを本拠地とする新しい航空会社がスタートしていることは間違いないのだろう。

それにしても、この航空会社をスタートさせるというネパールから来たビジネスマン、ウェブサイトにあるように、最初は留学生として来日、その後日本で起業したということだが、BB AIRWAYSのリンク先を覗いてみると、いろいろ手広くやっているようだ。そこに来て今度は航空会社の設立と、ずいぶんやり手の人物のようだ。近々、日本の経済誌等でよく見かけるようになるだろうか。

どうなるのかまだよくわからないが、茨城・カトマンズ直行便就航計画の進捗を伝えるニュース等があれば、今後フォローしていくことにしたい。