最後のムガル皇帝、ここに眠る 1

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1857年の大反乱から今年5月でちょうど150年の節目となっている。メディア等でも何かとこの関連の記事が掲載されているのを見かけるこのごろだ。
インドやイギリスでは、この大事件の舞台を巡るツアーも出ている。主だった史跡の中にはこれを機に大きな改修の手を加えたところもあると聞く。ラクナウのレジデンシーのようなメジャーどころではなく、人々からすっかり忘れ去られたマイナーな戦跡等の中には、たまたまこうした風潮の中で観光客たちの姿を見かけるようになったような場所もあるのかもしれない。
私もこの機会に大反乱に関わる場所を訪れてみようかといくつかの場所を思い浮かべてみたが、結局ミャンマーのヤンゴンに足を延ばしてみることにした。ここは大反乱そのものとは縁がないが、騒ぎが平定された後にムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファル(1775〜1862年)がここに流刑となりこの地で没している。私は彼の墓を見に行きたいと思った。ここは現在ダルガーとして近郊の信者たちを集めているそうだ。
彼の治世のころ、すでにムガル朝は政治的にも財政的にも衰退しきってデリーとその周辺を治める小領主のような存在に成り下がってしまっていたともに、跡継ぎを決めるのも、地方から上京してきた藩王に謁見するについても、デリーに進駐していたイギリス当局の許可を必要とするなど、支配者としての主権をすっかり失っていた。当局の『そろそろこの王朝の存続を打ち切りにしてしまおうか』という意図も見え隠れしていた時期である。
イギリスに対して叛旗をひるがえした勢力は、名目上の首領として当時のムガル皇帝を担ぎ出すことになったが、老齢の皇帝自身もこの機を形勢挽回の最後のチャンスと見て賭けに出たのだろう。しかしその代償は非常に高くついたことは言うまでもない。


反乱平定後、各地の反乱勢力やそれに加担した人々の処刑が続いたが、老齢の皇帝については処刑をまぬがれた妻子とともにビルマのラングーン(ミャンマーのヤンゴン)へ流刑されることに決まった。輝かしい歴史を背景に17代続いたムガル朝の終焉である。
ラングーンのシュエダゴン・パゴダ近くのイギリス官憲管理下にあるSadar Bazar Road Number 58という住所の木造2階建ての建物に幽閉され、外部の人と接触することは許されなかった。
大反乱を経て、東インド会社の解体、そしてイギリス本国政府による統治となるなど、非常に大きな『行政改革』の波に洗われることになったインドだが、隣国ビルマも大きな変化の波に揉まれていた。
1824〜1826年の第一次英緬戦争、1852年の第二次英緬戦争に続き、1885年〜86年の第三次英緬戦争によりビルマ全土はイギリスによって平定された。1886年にビルマは英領インドと合邦してインドの中のひとつのプロヴィンスとなる。(1937年にインドから分離して英連邦内の自治領となり、1948年に独立する)
ところでビルマ側にも『もうひとりのザファル』がいた。イギリスに敗北したコンバウン朝の最後の王ティーボーである。彼は反対にインドへの流刑となり、ボンベイ近くのラトナギリで死去した。
こうした経緯から近代史において、1937年に英領インドの行政機構から分離されるまで、ビルマは一時期『もうひとつのインド』でもあったといえる。だがこの中で忘れてはならないことは、『イギリス』によりビルマが征服されたとはいえ、その軍事組織なり行政機構なりを構成する相当部分が『インド人』たちであったことだ。数の上では少なく大衆の目に触れる機会は多くなかったイギリス人たちに比べ、こうしたインド人たちこそが人々にとって日常的に目にする『征服者』たちであった。

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