下ラダックへ 4

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国道1号線をカールギル方面に進み、途中からジープ道に入ってしばらく進んだところにあるアティスィー・ゴンパに向かう。

荒涼とした景色の中の山の高みにあるその寺は、規模こそ大きくはないものの、そして僧侶は常駐していないとのことだが、なかなか趣きがある。ラマユルのゴンパの別院という位置づけだそうだ。

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お堂に飾られている高僧の写真の中には西洋人らしき僧侶の姿もあった。運転手のナワンさんの話によるとドイツ人であるそうだ。リンポチェがドイツに転生するとは興味深い。昔は、チベット仏教の世界はチベット仏教圏であったので、その圏内に転生することで良かったのだろうが、最近は遠く西洋に転生することもあるのだろうか。

ところで転生といっても変なところに転生すると、一般人として生活することになる。たとえば仏教圏でも日本に転生したら、日本社会でリンポチェ=活仏としては扱われないだろうから、「発見される」こともないことになる。すると仏教圏からはるか彼方のドイツに転生したとして、いったいどうやって見つけられるのか?と不思議に思う。

ラマユル遠景

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その後、ラマユルに戻り、ラマユル・ゴンパを見学する。境内はよく整備されているし、僧坊も同様のようだ。20年以上前に訪れた際には、ラダックのどこの寺院もひどい状態であった。やはり現在はお金の回りがよくなったのだろう。インド人観光客が増えている。文化財の補修や保守のため、どこかから補助が出ているのかもしれないし、インド経済そのものが向上しているため、このあたりにもお金が回って来るようになったのかもしれない。

同様に、外国人観光客から入場料を徴収するようになったこともこれに寄与しているのではないかと思う。多くの外国人観光客は寄付を置かないため、このような形で徴収すると、寺院の財政に寄与するものが少なくないことは間違いない。ちなみに現在、この寺院が外国人から徴収している入場料は50ルピーである。

寺院で日々を送る僧侶たちの生活にかかるコストがあるわけだし、法要や祝祭その他でかかる費用もある。また寺院の修復やメンテナンスにも相当な金額がかかるわけなので、こうした形で定収入を確保することは運営上必須だ。

こうしたチベット仏教の世界について門外漢なのでよく知らないのだが、寺院運営にかかわる事務方の人たちもかなりいるのではないかと思う。寺院の予算や収入・支出の管理、同宗派の他の僧院との連絡調整、地元社会との緊密な連絡等々いろいろあるはずだ。大学が教授・講師陣だけで成るものではなく、数多くの事務方の人たちがいるのと同様に、僧院が僧侶の修行だけで成り立つとは思えない。寺院の規模が大きくなるほど、そうした俗世間じみた仕事は多くなるはずだ。

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在家の人たちがこれに携わっているのかもしれないし、僧衣をまとっていてもそうした事務仕事を主に扱う役割の人がいるのではないかと思う。それはたとえば入場料のチケットを販売している人などだ。一般人もいれば、僧衣を着ている人の場合もある。寺院がどのような形で収入を上げているのかはよく知らないのだが、いくら名刹であっても、そこに僧侶という多数の人々の生活を支え、宗教団体としての活動を維持していくためには、きちんと営利を上げていくことと、きちんとした予算や収支の管理が必要であることは言うまでもない。お寺を訪問しても壁画や仏像の意味さえよくわからない私だが、そうした現実的な部分に関心がいってしまう。

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灌漑がなされているところには豊かな緑
ラマユルから少し下ったところにある通称「ムーンランド」

〈続く〉

下ラダックへ 3

ダーまで来ると、海抜はかなり下がるためか、少々暑苦しく感じる。それでも優に標高3,000mはあるはずなので、高地であることは間違いないのだが。

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さて、今晩はどこに滞在しようかと思い、アーリア人の村、ダーも魅力的なのだが、ここに来る途中で眺めの美しさに心打たれたスクルブチャンに向かうことにした。村では夕方遅くなってからも収穫作業中で、人々は忙しく働いていた。ゲストハウスの類はないので、どこかホームステイできるところはないかと尋ねまわってみたが、受け入れているところは見つからず、そのままラマユルに向かうことにする。

スクルブチャンの村は収穫の時期

カルツェ方面にしばらく走り、インダス川の対岸に渡り、カールギル方面への道を進む。ラダックはどこもそうだが、水があり、人々が耕作している地域以外は乾燥しきった大地が続き、木々の姿もない山肌が続いている。

地層が垂直になっている巨大な岩盤

地面がむき出しであるがゆえに、地層の激しい褶曲を目の当たりにすることができるため、太古の時代には海の底であった現在のヒマラヤ地域は、インド亜大陸とユーラシア大陸が衝突して持ち上がった結果、形成させてきたものであることがよくわかるとともに、現在もさらに成長しているということも納得できるのである。同時に、山肌や大地の色合いからして、場所により地質が大きく異なることも観察できるようになっている。

おそらくラダックだけではなく、インドのヒマラヤ地域全域に共通することなのだろうが、他の地域では豊かな緑に覆われているため、そうとは気付かないものだ。

ラマユル近くの通称「ムーンランド」。ここの地質も特徴的だ。

ラマユルに到着すると、すっかり陽は暮れていた。ここはメジャーな観光地なので、ラマユル・ゴンパの周辺にはいくつもの宿が軒を連ねている。

宿泊したところの中庭には、バイクでツーリングしているグループが食事をしていた。デリーからヒマーチャル・プラデーシュのマナーリーを経てラダックまで走行してきたメンバーはスペイン人とフランス人で、そのリーダーはツアーの主催者であるスペイン人のパブロさん。恰幅の良い中年男性だ。

彼は、90年代にはデリーでラージャスターンの建築史を学ぶ学生であったという。その後、スペインで仕事に就いていたが、2年前から再びデリーにやってきて、旅行代理店を経営しているそうだ。彼の店はバイクによるツーリング専門で、お客がスペイン人、フランス人の場合は自分がツアーを率いて、それ以外の場合は雇っているインド人スタッフに任せていると言う。

10月にはブータン行きのツアーを予定しているそうだ。そのツアーは12日間で、デリーからバグドグラに飛び、そこからスタートしてジャイガオンからブータン入りするものだという。1日あたり2,500ドルもするそうだ。宿泊代は込みというがやはり飛び抜けて高い。かなり富裕な層の人たちが参加するのだろう。

自室に戻ってから、しばらく日記を書いていようかと思ったが、10時15分くらいで電気が消えてしまう。その後点灯することなく11時を回った。ノートPCのバーテリー駆動で日記を書いていたが、真っ暗な中ではとても目が疲れるのでやめて寝ることにした。

〈続く〉

下ラダックへ 2

荒野をひた走ると、やがてザンスカール川に出た。冬季にかの有名なチャーダルトレックが行われるあの川だ。

ザンスカール川

そこから川沿いにしばらく進むと、やがてインダス川との合流点に到達する。やや黒い感じの水のザンスカール河がミルクのような色のインダス河と交わると、その先は完全にインダスの色になって流れていく。人も水もそうだが、やはり量の多いほう、影響力の強いほうの色に染まるようだ。このあたりでは観光客向けにラフティングも行なわれているそうだ。

ザンスカール川(左)とインダス川(右)の合流点

滔々と水が流れるのとは裏腹に、どこまでも木々の姿がない荒々しい光景が続く。ただし水の流れがあるところにはちょっとした木立が形成されていたり、集落があったりする。

チェックポスト

本日向かうのはアーリア人の谷と俗称されるインダス沿いのアーリア系の仏教徒たちが暮らす地域。レーから一路カールギル方面に向かう。カルツェを少し過ぎたあたりにチェックポストがある。ここで、運転手がパスポートとパーミットの写しを持ってオフィスに向かう。この先が二差路になっていて、右側がダー、ハヌー方面、左がカールギル方面となる。前者のルートに向かう場合はパーミットが必要となる。

木々のない山肌の地層。褶曲具合がすさまじい。

ダー、ハヌー方面に進み、最初に訪れたのはスクルブチャンの村。ここには古い領主の館がある。外はややきれいに修復されているが、中は荒れ果てるがままといった状態。一階は仏間になっており、上階は居室になっていたらしい。ラダックの伝統建築として価値の高いものであると思われるので、今後も修復が進むことを期待したい。

スクルブチャンの村
昔の領主の館

村ではちょうど収穫の時期で、麦藁が畑や道端に積み上げてある。家屋も大きめで比較的きれいなものが多く、他に比べて豊かな村らしいことはわかる。詩的かつ牧歌的な眺めが美しい。かなり大きくて真新しい家もあるのだが、どういうところから収入を得ているのだろうか。

この村にあるゴンパを訪れてみた。階段を上ったさきのお堂は修復作業中で、仏像の作りかけのものも置かれており、壁にタンカを描く職人たちが作業中。そのさらに上のお堂はなんと岩をくり抜いて造られたものであった。坊さんがチャーイはどうかと勧めてくれたが、あいにく時間がないので丁重にお断りした。

作りかけの仏像
岩をくりぬいて造られたお堂

このあたりの人々は、普通のラダック人に見えるので、インダス川沿いのそう遠くないところにアーリア系の人々が居住している地区があるとは、にわかに信じがたい。

ところどころで清流が流れている。非常によく澄んでいるのだが、これがインダス河に流れ込むとやはりインダス河の色になって流れていく。

さらに進んでハヌーを通過してビャマー、そしてダーへと向かう。ハヌーに着いたあたりから確かにアーリア系らしき人たちが多くなった。ブロクパと呼ばれる人々だ。かなり日焼けしている人たちが多いため、見た目は平地のインド人のようにも見える。おそらく彼らが平地のインドに出たら、ラダックから来たとは思われないことだろう。それでいて名前を名乗るとまったくそれらしくないので、珍しがられることだろう。

ここから先にはガルクン、ダルチクといった村があるが、後者はムスリムになっているらしい。ハヌー、ビャマー、ダーといったところに住んでいる人たちは仏教徒だが、アーリア系の仏教徒というのは珍しい。もっとも改宗したのは19世紀くらいからであるとのことなので、それまでは独自の宗教があったのだろう。おそらくその時期あたりから外部との行き来が盛んになったということも示唆しているのではないかと思う。ブロクパの居住地域のうち、もっと西側のムスリム化されたエリアでもそのあたりから改宗が進んだのだろうか。

おそらく学術的に興味深いものがある民族なのだろう。彼ら独自の言葉があり、仏教以前の文化も残っているらしいし、そのひとつには収穫祭であったり、ほおずきや花を髪飾りにしたりするといった習慣があるようだ。おそらく独自の装いもあるのだろうが、現在では男性は洋服、女性はパンジャービーを日常的に着用しているのが見て取れる。こうして独自の伝統は次第に廃れていくことになるはず。

ビャマーで彼らのごく新しい仏教寺院を訪れたが、誰もいなかった。特殊な少数民族の寺であるにもかかわらず、完全にチベット仏教式であることには驚かされる。運転手が管理人を探してきてくれて扉を開けてもらって中を見学することができた。管理人の話によると、この寺は昨年できたばかりとのこと。建設資金はダライラマによる提供であるとのこと。

ビャマーの真新しい仏教寺院

お堂の中はかなり変わっていた。大勢が入ることができるホールになっているのではなく、いくつかの個室になっている。仏間のある部屋、その隣には応接室、そして寝室がある。貴賓、つまり高僧が訪れる際に宿泊施設として用いられるのだという。これが二階部分。一階部分は高位のラマの居宅になっているとのことで見学することはできなかった。

ビャマーの集落

村で若い女性たちの姿があるが、やはりアーリア系の人々であることが一目でわかる。アーリア人の谷、Aryan Valleyという俗称はなかなかいいので、まさにこの名前で観光客誘致するとかなりうまくいきそうな感じがする。だがアーリア人の谷といっても、北インドの人たちもまたアーリア系であり、欧州の人々もそうなので、「アーリア人」という言葉が何かエキゾチックなものとして彼らの耳に響くことはないのかもしれない。

ダーの村に来ると、ラダックの普通の家のようなものもあるが、どこか違うたたずまいの建物もある。横に細長い村で、どんどん進んでいった先にはゲストハウスがある。しかし電球がなく、聞くともともと電気は来ていないとのこと。ただ近くでの水力発電の電気により、庭にある電球は灯るとのこと。

村の中には水路が引かれており、明らかにラダックの他の地域の人々とは異なる風貌の女性たちが洗濯しながらお喋りに興じている。太古の時代に亜大陸方面に移動してきたアーリア人たちの中の小さなコミュニティがラダックのこの地域に住み着き、近代に入るまで外部との交渉も限られており、独自の文化と信仰を守り続けていたということは非常に興味深い。

ダーの村の家屋の入り口。ラダックの他の地域とはかなり違う感じがする。

〈続く〉

下ラダックへ 1

予約したクルマは、午前7時に宿の前で私を拾ってから出発ということになっている。運転手のナワンさんは、昨日夕方に旅行代理店で会って少し話をした。30代の彼は、毎年シーズンには妻子をザンスカールに残してレーに単身でやってきて、主にチャータージープの運転をしているという。

もっと若い頃には、軍の基地関係の運転手をしていたこともあるとのことだ。1999年のカールギル紛争のときには、まさにカールギル界隈で仕事をしていたとのことで、戦争の恐ろしさを身近に感じたという。

2泊3日で同行してあちこち連れて行ってもらう相手なので、その人柄は少々気になるところ。ちゃんとした感じで性格も良さそうな人物なのは幸いだ。もっともラダックでは感じの悪い人に出会った記憶はあまりないのだが。

昨日の印象では好感の持てる人物だが、宿の庭に出てしばらく待っているものの、7時半過ぎても来ない。約束と時間には律儀な印象のあるラダック人だが、ちょっと気になるので昨日聞いておいた携帯電話にかけてみるが繋がらない。

しばらくやきもきしていると、ナワンさんはやってきた。「すみません。配車の関係でちょっとトラブルがありまして・・・。」

寝坊しただけなのではないかと思うが、旅行代理店で約束した車種であるので、まあいいのだが・・・。

月面のような風景の中をひた走る。国境地帯なので、どこに行っても軍施設が沢山あり、軍用車両が走り回っている。幸いなのは、この地ではまさに国境守備のための軍であり、地元の人々と軍との関係は良好であることだ。

高地戦の部隊として地元ラダックでリクルートされた「Ladakh Scouts」を除けば、外来の部隊がこの地の守備に当たっているわけだが、同じJ&K州の西部にあたるカシミール地区と異なり、インド軍の銃口は国境の向こうの敵軍に向けられている。

カシミール地区においては、国境向こうのパーキスターン側への編入ないしはパーキスターンによるバックアップによるインドからの分離を支持する意見も多い。さらには、パーキスターンによる工作や諜報といった活動はもとより、インドに対する武装闘争に加わる人々も少なくないという背景もあることから、軍の銃の向けられている先は、国境の向こう側であるとともに地元住民でもある。軍による地元住民に対する重篤な人権侵害の事例も多く、人々の中で自分たちがインドによる占領下にあると感じる人が少なくないのは当然の帰結である。そこまで毛嫌いしておらず、治安対策に関する必要悪だと思う人たちにとっても、あまり好意的には捉えられていないだろう。

話は戻るが、これに比較すると、同じ州内の東部にあたるラダック地区では、国境の向こう側の中国に対する感情としては、チベット文化圏に対する侵略者、抑圧者のイメージでしかないがゆえに、たとえ文化的・人種的に異なるJ&K州からの分離要求はあっても、インドからの分離、あるいは中国への併合要求などあり得ない。そして、インド軍は、恐ろしい中国の侵略を防いでくれる守護者であり、軍に関連する産業は観光や農業を除けば数少ない就労機会、そして投資機会を与えてくれる存在でもある。

地元の人々の人口の大半がチベット仏教、そして残りがムスリムであるこの大地で、幹線道路沿いや軍施設周囲に点在するヒンドゥー寺院やスィク寺院は、軍関係者が参拝するものである。

〈続く〉

一夜明けて 1

宿の建物の手前は家庭菜園

宿泊先の宿では、お客が庭先に出てきて本でも読み始めたり、おしゃべりを始めたりすると、ジャールカンド州から出稼ぎにきている使用人たちが、すぐにチャーイとビスケットを出してくれる。宿の清掃は行き届いているし、サービスも良く、非常に好感度の高い宿泊施設だ。

昨夜、外で夕食を摂って戻ってきた際にしばらく話をしたアメリカ人、ラダックで活動するNGO関係者のスイス人と彼が今回率いているスタディーツアーの参加者として来ている数人の欧州人たちと朝食を共にする。他愛のない会話をいろいろな国々からやってきた人たちとすることができるのは旅行の楽しみのひとつでもある。

その後、歩いてメインバザール近くのカフェでチャーイを飲みながら、WIFIでネット接続してメールのチェックをする。最近、こういう環境はインドでも着実に増えていて、ラダック地方では少なくともレーにいる限りは、ウェブ接続にはあまり困らない。

レーの町は電気の24時間供給体制という「歴史的な変化」でどう変わるのか?

昨年からのことのようだが、給電が午後7時から午後11時までというあまりに貧弱な状況からは脱却しており、レーとその周囲では、電気は基本的に24時間供給されるようになっている。もちろん停電は頻繁にあるのだが、「自家発電のある施設以外では1日に4時間しか電気が来ない」のと、「停電は多いが、市内全域で1日中電気を使うことができる」というのでは、事情が180度転換したと言ってもいいだろう。これは「歴史的な変化」として、地元の人々の間で共有される記憶となるのではないかと思う。

そんな具合なので、これまではなかなか難しかった商売が可能になったり、販売できなかった品物が売れるようになったりするということもあるだろう。人々のライフスタイルにも少なからず影響を与えることだろう。

そんなことを考えていると、やはり停電になった。店内にかかっていた音楽は止まり、ネットにも繋がらなくなる。するとそれまで黙って手元のタブレットやPCに向かっていた人たちが、手近にいる人たちとの会話を始める。電気が来ない、というのはそんなヒューマンな側面もある。でもはるか彼方の人たちと通信したり、ここからは目に見えないほど離れている国で起きていることなどの情報を入手したりすることよりも、本来ならば声をかければ振り向くことのできる距離にいる人たちと大いに語り合うことのほうが自然なことであるに違いない。

店内にいた若い北東アジア系男性は日本人であったが、アメリカの大学にて勉強中で、途中で休学してデリーの大学で環境建築を学んでいるとのこと。グジャラートの農村やラダックの農村などをはじめとする、環境と調和した伝統的な建築を調べているのだそうだ。この人は日本語がよくできないのかどうか知らないが、なぜかこの人との会話はすべて英語となった。

「日本人とふたりきりで英語で話す」というちょっとレアな体験。日本人以外の人を交えて話をする場合、「みんなで会話するために」当然英語で喋ることになるが、自国の人とふたりきりという場面で、英語で話すというのはあまり記憶がない。外国育ちで、国籍は日本であっても日本語は不得手というケースもあるので、「日本語は出来ますか?」というのも失礼かと思い遠慮しておいたが、陽気でおしゃべりな好青年であった。

トレッキングや登山のツアー参加者を募る旅行代理店の店頭の掲示

シーズンのレーの町では、インドの様々な地域の人々の姿があり、また様々な国々の人々が行き交っている。この時期の主要な産業といえば、当然のごとく観光業ということになるため、商業地区に無数に散らばる旅行代理店の店頭には、シェアジープ、トレッキング、バイクのツーリングその他の参加者を募るポスティングがなされている。

ツーリング仕様のエンフィールドのレンタルバイクをよく見かける。

このところ人気が急伸しているように見受けられるのは、ストク・カングリー(6,153m)登頂のツアーだ。高度からして本格的な登山ということになるので、素人が気軽に参加して大丈夫なのか?とちょっと気になったりもするが、あちこちに参加者を募る貼り紙を見かける。

本日、私が探しているのは、ある方面に向かうシェアジープなのだが、特定の場所についてはいくらでもそうした貼り紙が見られるのだが、今回の私の目的地の場合はその限りではない。旅の道連れがいれば、二人で割り勘にするだけでかなり違うのだが、そうでないのはソロで旅行する自由度との引き換えでのコスト高と思って観念するしかない。

いくつものモスクがある旧市街地と隣接する商業地界隈

商業地域がムスリム居住地区に隣接しているためか、あるいはこの業種自体がそのコミュニティの得意分野であるということなのかはよく判らないが、旅行代理店関係者はムスリムがとても多い。

今回、クルマのアレンジを依頼することにしたのは、そうしたムスリム業者ではなく、ラダック人仏教徒のワンチュクさんの店。30年以上に渡って営んでいるというから、この業界では老舗ということになるだろう。家長である彼の指揮下で、彼自身の息子と娘が取り仕切っているため、誰かが不在でもオフィス内での連絡がちゃんと行き届いている印象を受ける。

古からの交易路にあたるラダック地域では往々にしてあることだが、家族内でも顔立ちがずいぶん違う。典型的なチベット系の風貌のワンチュク氏に対して、息子はちょっと浅黒くて顔だちは父親とはやや違った感じ。色白で美人の娘さんはアーリア系の特徴が容姿やスタイルに出ているようで、家族3人と会っただけで、彼の一族には様々な民族の血が混淆していることが窺えるようだ。

レーのメインバザール。ラダックの「丸の内」といったロケーションながらも、商う人々はとても感じがいい。

〈続く〉