下ラダックへ 2

荒野をひた走ると、やがてザンスカール川に出た。冬季にかの有名なチャーダルトレックが行われるあの川だ。

ザンスカール川

そこから川沿いにしばらく進むと、やがてインダス川との合流点に到達する。やや黒い感じの水のザンスカール河がミルクのような色のインダス河と交わると、その先は完全にインダスの色になって流れていく。人も水もそうだが、やはり量の多いほう、影響力の強いほうの色に染まるようだ。このあたりでは観光客向けにラフティングも行なわれているそうだ。

ザンスカール川(左)とインダス川(右)の合流点

滔々と水が流れるのとは裏腹に、どこまでも木々の姿がない荒々しい光景が続く。ただし水の流れがあるところにはちょっとした木立が形成されていたり、集落があったりする。

チェックポスト

本日向かうのはアーリア人の谷と俗称されるインダス沿いのアーリア系の仏教徒たちが暮らす地域。レーから一路カールギル方面に向かう。カルツェを少し過ぎたあたりにチェックポストがある。ここで、運転手がパスポートとパーミットの写しを持ってオフィスに向かう。この先が二差路になっていて、右側がダー、ハヌー方面、左がカールギル方面となる。前者のルートに向かう場合はパーミットが必要となる。

木々のない山肌の地層。褶曲具合がすさまじい。

ダー、ハヌー方面に進み、最初に訪れたのはスクルブチャンの村。ここには古い領主の館がある。外はややきれいに修復されているが、中は荒れ果てるがままといった状態。一階は仏間になっており、上階は居室になっていたらしい。ラダックの伝統建築として価値の高いものであると思われるので、今後も修復が進むことを期待したい。

スクルブチャンの村
昔の領主の館

村ではちょうど収穫の時期で、麦藁が畑や道端に積み上げてある。家屋も大きめで比較的きれいなものが多く、他に比べて豊かな村らしいことはわかる。詩的かつ牧歌的な眺めが美しい。かなり大きくて真新しい家もあるのだが、どういうところから収入を得ているのだろうか。

この村にあるゴンパを訪れてみた。階段を上ったさきのお堂は修復作業中で、仏像の作りかけのものも置かれており、壁にタンカを描く職人たちが作業中。そのさらに上のお堂はなんと岩をくり抜いて造られたものであった。坊さんがチャーイはどうかと勧めてくれたが、あいにく時間がないので丁重にお断りした。

作りかけの仏像
岩をくりぬいて造られたお堂

このあたりの人々は、普通のラダック人に見えるので、インダス川沿いのそう遠くないところにアーリア系の人々が居住している地区があるとは、にわかに信じがたい。

ところどころで清流が流れている。非常によく澄んでいるのだが、これがインダス河に流れ込むとやはりインダス河の色になって流れていく。

さらに進んでハヌーを通過してビャマー、そしてダーへと向かう。ハヌーに着いたあたりから確かにアーリア系らしき人たちが多くなった。ブロクパと呼ばれる人々だ。かなり日焼けしている人たちが多いため、見た目は平地のインド人のようにも見える。おそらく彼らが平地のインドに出たら、ラダックから来たとは思われないことだろう。それでいて名前を名乗るとまったくそれらしくないので、珍しがられることだろう。

ここから先にはガルクン、ダルチクといった村があるが、後者はムスリムになっているらしい。ハヌー、ビャマー、ダーといったところに住んでいる人たちは仏教徒だが、アーリア系の仏教徒というのは珍しい。もっとも改宗したのは19世紀くらいからであるとのことなので、それまでは独自の宗教があったのだろう。おそらくその時期あたりから外部との行き来が盛んになったということも示唆しているのではないかと思う。ブロクパの居住地域のうち、もっと西側のムスリム化されたエリアでもそのあたりから改宗が進んだのだろうか。

おそらく学術的に興味深いものがある民族なのだろう。彼ら独自の言葉があり、仏教以前の文化も残っているらしいし、そのひとつには収穫祭であったり、ほおずきや花を髪飾りにしたりするといった習慣があるようだ。おそらく独自の装いもあるのだろうが、現在では男性は洋服、女性はパンジャービーを日常的に着用しているのが見て取れる。こうして独自の伝統は次第に廃れていくことになるはず。

ビャマーで彼らのごく新しい仏教寺院を訪れたが、誰もいなかった。特殊な少数民族の寺であるにもかかわらず、完全にチベット仏教式であることには驚かされる。運転手が管理人を探してきてくれて扉を開けてもらって中を見学することができた。管理人の話によると、この寺は昨年できたばかりとのこと。建設資金はダライラマによる提供であるとのこと。

ビャマーの真新しい仏教寺院

お堂の中はかなり変わっていた。大勢が入ることができるホールになっているのではなく、いくつかの個室になっている。仏間のある部屋、その隣には応接室、そして寝室がある。貴賓、つまり高僧が訪れる際に宿泊施設として用いられるのだという。これが二階部分。一階部分は高位のラマの居宅になっているとのことで見学することはできなかった。

ビャマーの集落

村で若い女性たちの姿があるが、やはりアーリア系の人々であることが一目でわかる。アーリア人の谷、Aryan Valleyという俗称はなかなかいいので、まさにこの名前で観光客誘致するとかなりうまくいきそうな感じがする。だがアーリア人の谷といっても、北インドの人たちもまたアーリア系であり、欧州の人々もそうなので、「アーリア人」という言葉が何かエキゾチックなものとして彼らの耳に響くことはないのかもしれない。

ダーの村に来ると、ラダックの普通の家のようなものもあるが、どこか違うたたずまいの建物もある。横に細長い村で、どんどん進んでいった先にはゲストハウスがある。しかし電球がなく、聞くともともと電気は来ていないとのこと。ただ近くでの水力発電の電気により、庭にある電球は灯るとのこと。

村の中には水路が引かれており、明らかにラダックの他の地域の人々とは異なる風貌の女性たちが洗濯しながらお喋りに興じている。太古の時代に亜大陸方面に移動してきたアーリア人たちの中の小さなコミュニティがラダックのこの地域に住み着き、近代に入るまで外部との交渉も限られており、独自の文化と信仰を守り続けていたということは非常に興味深い。

ダーの村の家屋の入り口。ラダックの他の地域とはかなり違う感じがする。

〈続く〉

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