アンゴラでイスラーム教が禁止に

インディア・トゥデイのウェブサイトで、こんな記事を見かけた。アフリカ南西部に位置するアンゴラが、世界初の「イスラーム禁止国」となったとのこと。

Angola ‘bans’ Islam, Muslims, becomes first country to do so (India Today)

特定の信仰を禁止するということは、基本的人権にもかかわる由々しき事態ではあるが、アンゴラという国のことについては、今世紀初頭まで30年近く内戦が続いていた国であること、住民の大半がクリスチャンということ以外にはよく知らず、同国内での政治動向等に関する知識は持ち合わせていないのでなんとも言えない。

しかしながら、おそらくこれまでずっとイスラームとの関係が薄かった国で、近年急激に広まってきたイスラームの信仰や文化との摩擦が生じていたり、同国の政治にとって好ましくない政治的勢力が浸透しつつしていたりするということが恐らく背景にあり、危機感を抱いた政府が、これらの締め出しを図るようになった、という具合なのではないかと想像している。そうでもなければわざわざ政治が信仰に介入することはないだろう。

それにしても「イスラームの禁止」ということでこうした形で報じられることにより、当然「イスラームの敵」というレッテルを貼られることは必至であり、イスラーム世界とは縁薄い地域であるように思えるが、それでもこれを信仰に対する宣戦布告と受け止めて、同国内に存在する数は少ない信者たち、あるいは国外からの勢力から過激な行動に出る人たちもあるかもしれない。

とりわけラディカルな聖戦思想を掲げる組織にとっては、信仰を禁じて礼拝施設の取り壊しに出ている同国の政府に対する攻撃は、信仰の敵に対する戦いとして目的が非常に明確だ。志を同じくする仲間たちに連帯を訴える格好のターゲットとして、純真な若者たちをリクルートするための舞台装置としてアピールできることだろう。

非常に長い期間続いた内戦の後、ようやく平和を享受しているアンゴラにとって、何か新たな大きな危機の始まりであるように思えるが、これが杞憂であることを願いたい。

印パ分離のドキュメンタリー

当時のものとしては珍しいカラー映像を交えた印パ分離時を取り上げた、BBCによるドキュメンタリー作品がある。

Pakistan And India Partition 1947 – The Day India Burned (Youtube)

この作品にところどころ挿入されるカラーの実写映像も同様にYoutubeで視聴できるようになっている。

Very Rare Color Video of Indian Independence 1947 (Youtube)

印パ分離により、双方からそれぞれムスリム、ヒンドゥーとスィクの住民たちが先祖代々住んできた故郷を離れて新たな祖国へと向かった。もちろん新国家のイデオロギーに感銘したり、賛同したりしてのことではなく、彼らが父祖の地に留まるのがあまりに危険になってしまったがゆえの逃避行である。双方から1450万人もの人々が移住を余儀なくさせられたとともに、移動の最中で暴徒の襲撃で命を落とした人々、両国の各地で発生したコミュナルな暴動による死者も数え切れない。

恐らく人類の歴史上、かつてなかった規模の巨大な人口の移動であるとともに、最大級かつ最悪の宗教をベースにした対立であったといえる。この出来事が今も両国の人々の間で記憶され、家庭で子や孫に語り伝えられるとともに、両国間の問題が起きるたびにメディア等による報道等により、新しい世代もそれを疑似体験することになる。さらに悪いことに、往々にして両国の政治によって利用されることであることは言うまでもない。

印パ分離は英国の陰謀か、ガーンディーの力及ばずの失敗か、ジンナーの成功かはともかく、政治が犯した罪は今も償われてはいない。カシミール問題も、印パ分離がなければ生じることはなかった。

ヒンドゥーがマジョリティーの『世俗国家』の一部となって支配されることに対するアンチテーゼとして成立したムスリムがマジョリティーのイスラーム共和国パーキスターンが存在するということは、国防上の懸念が将来に渡って続くことを意味する。しかしながら分離がインドにもたらした恩恵があることも無視できない。

現在のパーキスターンのバルチスターンの分離要求運動のような地域的な問題とは無縁でいられることはともかく、ムスリムがマジョリティーの地域ならではの、奥行と広がりがあり中央政界を揺るがすほどの規模の各種のイスラーム原理主義運動やアフガニスタンを巡る様々な問題と直接対峙する必要がないというメリットは非常に大きい。

またパーキスターンの北西部のアフガニスタン国境地域のFATA(連邦直轄部族地域)のような連邦議会の立法権限が及ばない地域が存在することは、治安対策面でも大きな問題がある。

独立以来、インドが一貫して民主主義国家としての運営がなされてきたのに対して、血を分けた兄弟であるパーキスターンは残念ながらそうではなかったのには、地理的・思想的背景があるように思えてならない。

印パ分離はまぎれもない悲劇であり、現在の両国は今なおその傷が癒えているとはいえず、分離による代償を両国とも払い続けている。

しかしながら現在、パーキスターンとインドが別々の国となっていることについては、少なくともインド側から見れば好都合である部分も決して少なくないことは否定できないことである。分離という大きな痛みからあと数年で70年にもなろうとしている今、これまでとは異なる視点から評価・検証する必要もあるように思う。

紅茶レジェンド

慌ただしい朝に少々時間を気にしながらも楽しむ一杯の紅茶、昼下がりに読書をしながら楽しむ紅茶、午後に友と語らいながら楽しむ一杯の紅茶、夕方になって傾く陽を眺めながら楽しむ一杯の紅茶。どれもとっても素敵な時間を与えてくれるものだ。

紅茶というものが世の中になかったとしても、同じように時間が経過していき、同じように日々が過ぎていくのだろうけれども、この一杯の安らぎのない生活というものは考えられない。コーヒー好きの人にとってのコーヒーと同じことだが、この一杯あってこその充足感、気分の切り替え、解放感がある。

味わいをゆっくりと楽しみ、気持ちがすっきりするけれども、酔わないのがいい。だから朝から晩まで、時間帯を問わず、場所を問わずに楽しむことができる。お茶を淹れることができる設備がないような場所では、もちろんペットボトルに入った紅茶だって立派な紅茶に違いない。カップで熱い紅茶を啜るのとはかなり気分は違うけれども、やっぱり気持ちを解放してくれる。

私は紅茶が大好きだ。けれども産地やブランドへのこだわりは正直なところまったくない。色合い香りともに派手なセイロンティー、上品で風格のあるダージリンティー、地元原種の茶の木がルーツのアッサムティー等々、それぞれの個性がどれも楽しい。

はてまた、イギリス式のティーでもインド式のチャーイでも私にとってはどちらも紅茶。どんなお茶でも自分で淹れるし、淹れていただけるならばどんな紅茶でも美味しくいただく。

あればいつでも嬉しい紅茶だが、長年茶商として営んできて、紅茶エッセイストとしても知られる著者によるイギリスと紅茶の歴史の本がある。

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書名:紅茶レジェンド

著者:磯淵猛

出版社:土屋書店 (2009/01)

ISBN-10:4806910155

ISBN-13:978-4806910152

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紅茶と血を分けた兄弟である中国茶の数々、中国沿岸部から雲南までを経てミャンマーへと広がる茶の栽培地域。そのさらに先にインドのアッサム、ダージリンといった紅茶の産地へと足を運び、それぞれの地域での特色ある喫茶習慣はてまた食べ物としてのお茶を紹介。

トワイニングとリプトンという、紅茶業の二大巨頭の事業の変遷、イギリスや世界各地での喫茶習慣の普及と大衆化についての流れが語られていく。

そしてともにスコットランド出身、それぞれアッサムとスリランカで茶の栽培の先駆者として歴史に名を刻んだチャールズ・アレクサンダー・ブルースとジェイムス・テイラーの生涯についても紹介されている。後世に生きて紅茶を楽しむ私たちにとって、どちらもありがたい恩人たちだ。

茶園で働く人々によって手摘みされる茶葉、製茶場での加工の過程、その後の流通やパッケージング等々に想像を働かせつつ、現在の紅茶世界の背後にある歴史に思いを馳せると、カップの中で湯気を立てて揺れている紅茶がますます愛おしくなる。

人類の長い歴史の中で、紅茶出現後、しかも紅茶の大衆化以降に生きることを大変嬉しく思う・・・などと書いては大げさ過ぎるだろうか。

蛇足ながら、近年刊行された紅茶関係の本としては、こちらもお勧めだ。

紅茶スパイ(indo.to)

とにかく私は紅茶が大好きである。

バーングラーデーシュ市場に販路を目論むユニクロ

中国一辺倒であった生産拠点を他国への分散を図るユニクロがバーングラーデーシュでの製造に力を入れ始めるとともに、マイクロ・クレジットの成功で知られるグラーミーン銀行との提携で、現地会社グラーミーン・ユニクロを設立したのは2010年のこと。

ユニクロのソーシャル・ビジネスという位置づけにて、地場産業から調達できる素材による現地請負業者が生産した製品を、現地の委託請負販売者が顧客に対面販売をするという形での取り組みがなされていたことは以前取り上げてみたとおり。

Grameen UNIQLO (indo.to)

おそらくこうした試みの中で、このビジネスがモノになるという確信を得たのであろう。ユニクロは同国で今後1年間に30店舗のオープンという目標を掲げるに至った。カジュアル衣料販売で世界第4位の同社が、ZARA、H&Mといったライバルを追い抜いて世界トップに躍り出ることを画策する同社の狙いは、これまで競合する他社が手を付けていない最貧国市場での大きなシェアの獲得である。

11月17日(日)午後9時からNHKで「成長か、死か ~ユニクロ 40億人市場への賭け~」という番組が放送されていた。

内容は近年の業界の勢力図とライバル各社の動向、そしてこれまでターゲットとしていなかった最貧国市場への進出と現地でのスタッフたちが格闘する日々、そして現地を代表するアパレル企業トップからユニクロへのアドバイス他といった具合だ。

その中で、ユニクロが展開するカジュアル衣料は現地の女性たちにあまり受け入れられず、今年7月にオープンした第1号店ではあまりに女性客への売れ行きが芳しくないので、急遽地元のバーザールからシャルワール・カミーズを調達して店舗で販売するといった一幕、女性スタッフが現地の女性たちのお宅を訪問してクローゼットの中を見せてもらったら、誰もがほとんどサーリーやシャルワール・カミーズ以外の服をほとんど持っていないことに驚くなどといった場面があったが、いくら何でもこのあたりの事情については事前のリサーチで判っているはずの基本的な事柄なので、何らかの作為のあるヤラセのストーリーなのではないかと思った。

いずれにしても、今回の路線転換により、「ソーシャル・ビジネスです」と、トーンを抑えていた同国での市場展開が、「ビジネスそのものが目的です」という本音を剥き出しにした市場獲得へのダッシュとなったことは注目に値する。最貧国市場への浸透といってもこれが意味するところの地域は世界中各地に広がっているが、バーングラーデーシュは、人口は1億6千万人に迫ろうかという巨大な規模であるにもかかわらず、国土の面積は北海道の2倍弱という地理的なコンパクトにまとまっているという魅力があり、今後同業他社や異業種の企業等の進出も期待されている中、ユニクロの進出が呼び水となり、同国のマーケットとしての魅力がこれまでよりも大きく取り沙汰されるようになるのだろう。

こうした番組について、以前であれば「再放送されることを期待しよう」などとするしかなかったのだが、最近のNHKはウェブでのオンデマンド放送も実施しているので、興味関心のある方は視聴されることをお勧めしたい。本来は有料だが、まだアクセスしたことがなければ無料でお試し視聴もできるようになっているようだ。

成長か、死か ~ユニクロ 40億人市場への賭け~ (NHKオンデマンド)

Campa Cola

1990年代初頭に始まったインド経済の本格的な対外開放に踏み切るまで、インドのソフトドリンク市場の中のコーラの類の分野では、Thums Upとともに国内市場を二分してきたブランド、Campa Cola

れっきとした民主主義国家ながらも、経済政策面では社会主義的な手法を取り入れた「混合経済」として知られていたインドの経済産業界では、特に基幹産業部分に国営企業や国家の強い指導と統制の下で経済活動を行なう財閥が中核となっていた。

それに拍車がかかったのは、独立運動以来の「スワーデーシー志向」により、外資に対する規制も厳しかった。初代首相ネールーが親ソ的な政治家であったこともあるとともに、当時の指導者たちが総体的に(今から見れば)左寄りであったこともあり、経済とは国が統制すべきものであった。

幸か不幸か、それに拍車がかかったのはネールーの娘、インディラー・ガーンディーが首相の座にあった時代(1966-1977、1980-1984)で、金融その他の部門で急進的な国有化政策が実施された。

清涼飲料のコカコーラが存在せず、独自ブランドのCampa Colaが販売されていた時代のインドは、まさに「マッチ棒から人工衛星まで」といった具合の「自力更生」型の経済体制時代にあり、そこを訪れる人の多くが「外界と隔絶した独自の世界」にいることを感じたことだろう。

その時期の世界において、いわゆる東側の世界の多くは、国家が決めた方針に基づく計画経済が実施されており、社会のあらゆる分野において統制が厳しく、国外の人々が自由に行き来したり、滞在を楽しんだりできるような体制ではなかった。国によっては国民による自国内の自由な往来さえも制限が敷かれているようなところも少なくなかった。

経済が国家による厳しい管理と統制下にあった国々の中で、インドの政治体制はそれとは裏腹に民主的に運営されており、国外からの人々の往来には寛容であった。経済開放前にはインドへの国外からの投資は今とは較べようもなく少なかったし、駐在その他で在住している外国人の数も非常に少なかった。それでも観光目的で訪れる人々は多かったことは特筆できるだろう。

他国と比較して格安に過ごすことができることやドラッグ類の入手が容易であったことなどもあり、1960年代から70年代にかけては、長期滞在するヒッピーが多く、ゴアやマナーリーあたりでは彼らの存在が社会問題化したこともあったが、そうした人々を強権で排除するようなこともなく、またヒッピーという存在が西欧社会から消えてしまってからも、しばらくの間はインドのそうした場所では彼らのライフスタイルを受け継いだかのような「亡霊」が彷徨っていたのは、やはりインドという社会の懐の深さゆえだろうか。

話はCampa Colaに戻る。外界から隔絶した社会の独自路線のコーラであったかのように言われることも多かったが、実はそうとも言えない。このコーラを製造販売してきたPure Drinks Groupは、1950年代から提携先のCoca Colaをインドで製造販売してきた企業であり、1978年にCoca Colaがインドから撤退するにあたり、Coca Colaブランドと同社のレシピを使用することができなくなり、独自のCampa Colaブランドと自前のレシピでの製造販売に切り替えたという経緯があるからだ。

外国の主要なメーカーやブランドの参入がなかった1980年代は、Campa Colaブランドが燦然と輝いた時代であったといえる。街中を走る車両のほとんどがアンバサダーやパドミニーといった旧態依然の「クラシックカー」ばかりで、トラックも大昔からのボンネット型、バスもヨソの国とは違ったこれまた苔むしたような感じの車両ばかり走っていた時代、当時はほぼ世界中どこに行っても見かけるはずであったCoca Colaが見当たらず、それとちょっと似て非なるCampa Colaの看板や味わいを前にして、それはもう相当なエキゾシズムを感じたということは想像に難くないだろう。

1990年代初頭に始まった経済開放政策により、清涼飲料の分野でインドにいち早く上陸してきたのはペプシであった。当初は外資の出資比率と外国ブランドの使用についての制限があったため、インド参入初期はLEHAR PEPSIという名前で製造販売されていた。

当時の地場ブランドのCampa ColaもThums Upも今の標準的なサイズよりもかなり小さい180 cc入りのボトルで販売されていたのに対して、アメリカからやってきたPEPSIは250 cc入りであったため、本場感覚と量の多さによる割安感もあり、一気にシェアを拡大したようだ。Campa Cola陣営は、当初「味わいは量に勝る」などと、負け惜しみのような広告を打っていたこともあったが、Campa Colaを含めた地場ブランドはまもなくボトルを大型化して増量に踏み切ることとなった。当時のメディアは、こうした地場資本コーラとペプシの攻防を「コーラ戦争」と表現していた。

だが1993年にCoca Colaが満を持してインド市場に復帰したことにより、Campa Colaの命運が尽きたと言えるだろう。ある程度年齢を重ねた人ならば、Campa ColaはCoca Colaが1978年に撤退したことを受けての代替品であったことを知っているし、そうした背景を知らない若者たちにとっては、見慣れているけれども垢抜けない地場コーラと較べて、華やかなCMや広告による宣伝とともに登場したアメリカ製品がとても眩しく感じられたことだろう。

その後、コーラ戦争の最終的な勝者はグローバル・プレーヤーのCoca ColaとPEPSIとなったことはご存知のとおり。だが皮肉なもので、Coca Cola社に買収された地場コーラThums Upやレモン風味ソフトドリンクのLimcaは、その後も一定の存在感があるのとは対照的に、暖簾を守ったPure Drinks Groupは、かつての栄華は見る影もない。