Campa Cola

1990年代初頭に始まったインド経済の本格的な対外開放に踏み切るまで、インドのソフトドリンク市場の中のコーラの類の分野では、Thums Upとともに国内市場を二分してきたブランド、Campa Cola

れっきとした民主主義国家ながらも、経済政策面では社会主義的な手法を取り入れた「混合経済」として知られていたインドの経済産業界では、特に基幹産業部分に国営企業や国家の強い指導と統制の下で経済活動を行なう財閥が中核となっていた。

それに拍車がかかったのは、独立運動以来の「スワーデーシー志向」により、外資に対する規制も厳しかった。初代首相ネールーが親ソ的な政治家であったこともあるとともに、当時の指導者たちが総体的に(今から見れば)左寄りであったこともあり、経済とは国が統制すべきものであった。

幸か不幸か、それに拍車がかかったのはネールーの娘、インディラー・ガーンディーが首相の座にあった時代(1966-1977、1980-1984)で、金融その他の部門で急進的な国有化政策が実施された。

清涼飲料のコカコーラが存在せず、独自ブランドのCampa Colaが販売されていた時代のインドは、まさに「マッチ棒から人工衛星まで」といった具合の「自力更生」型の経済体制時代にあり、そこを訪れる人の多くが「外界と隔絶した独自の世界」にいることを感じたことだろう。

その時期の世界において、いわゆる東側の世界の多くは、国家が決めた方針に基づく計画経済が実施されており、社会のあらゆる分野において統制が厳しく、国外の人々が自由に行き来したり、滞在を楽しんだりできるような体制ではなかった。国によっては国民による自国内の自由な往来さえも制限が敷かれているようなところも少なくなかった。

経済が国家による厳しい管理と統制下にあった国々の中で、インドの政治体制はそれとは裏腹に民主的に運営されており、国外からの人々の往来には寛容であった。経済開放前にはインドへの国外からの投資は今とは較べようもなく少なかったし、駐在その他で在住している外国人の数も非常に少なかった。それでも観光目的で訪れる人々は多かったことは特筆できるだろう。

他国と比較して格安に過ごすことができることやドラッグ類の入手が容易であったことなどもあり、1960年代から70年代にかけては、長期滞在するヒッピーが多く、ゴアやマナーリーあたりでは彼らの存在が社会問題化したこともあったが、そうした人々を強権で排除するようなこともなく、またヒッピーという存在が西欧社会から消えてしまってからも、しばらくの間はインドのそうした場所では彼らのライフスタイルを受け継いだかのような「亡霊」が彷徨っていたのは、やはりインドという社会の懐の深さゆえだろうか。

話はCampa Colaに戻る。外界から隔絶した社会の独自路線のコーラであったかのように言われることも多かったが、実はそうとも言えない。このコーラを製造販売してきたPure Drinks Groupは、1950年代から提携先のCoca Colaをインドで製造販売してきた企業であり、1978年にCoca Colaがインドから撤退するにあたり、Coca Colaブランドと同社のレシピを使用することができなくなり、独自のCampa Colaブランドと自前のレシピでの製造販売に切り替えたという経緯があるからだ。

外国の主要なメーカーやブランドの参入がなかった1980年代は、Campa Colaブランドが燦然と輝いた時代であったといえる。街中を走る車両のほとんどがアンバサダーやパドミニーといった旧態依然の「クラシックカー」ばかりで、トラックも大昔からのボンネット型、バスもヨソの国とは違ったこれまた苔むしたような感じの車両ばかり走っていた時代、当時はほぼ世界中どこに行っても見かけるはずであったCoca Colaが見当たらず、それとちょっと似て非なるCampa Colaの看板や味わいを前にして、それはもう相当なエキゾシズムを感じたということは想像に難くないだろう。

1990年代初頭に始まった経済開放政策により、清涼飲料の分野でインドにいち早く上陸してきたのはペプシであった。当初は外資の出資比率と外国ブランドの使用についての制限があったため、インド参入初期はLEHAR PEPSIという名前で製造販売されていた。

当時の地場ブランドのCampa ColaもThums Upも今の標準的なサイズよりもかなり小さい180 cc入りのボトルで販売されていたのに対して、アメリカからやってきたPEPSIは250 cc入りであったため、本場感覚と量の多さによる割安感もあり、一気にシェアを拡大したようだ。Campa Cola陣営は、当初「味わいは量に勝る」などと、負け惜しみのような広告を打っていたこともあったが、Campa Colaを含めた地場ブランドはまもなくボトルを大型化して増量に踏み切ることとなった。当時のメディアは、こうした地場資本コーラとペプシの攻防を「コーラ戦争」と表現していた。

だが1993年にCoca Colaが満を持してインド市場に復帰したことにより、Campa Colaの命運が尽きたと言えるだろう。ある程度年齢を重ねた人ならば、Campa ColaはCoca Colaが1978年に撤退したことを受けての代替品であったことを知っているし、そうした背景を知らない若者たちにとっては、見慣れているけれども垢抜けない地場コーラと較べて、華やかなCMや広告による宣伝とともに登場したアメリカ製品がとても眩しく感じられたことだろう。

その後、コーラ戦争の最終的な勝者はグローバル・プレーヤーのCoca ColaとPEPSIとなったことはご存知のとおり。だが皮肉なもので、Coca Cola社に買収された地場コーラThums Upやレモン風味ソフトドリンクのLimcaは、その後も一定の存在感があるのとは対照的に、暖簾を守ったPure Drinks Groupは、かつての栄華は見る影もない。

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