ナガランド 暴徒による性犯罪者のリンチ殺害事件の背景

2月24日にナガランド最大の街であるディマープルで起きたナガ女性に対する暴行事件で逮捕された男性が収監される刑務所が暴徒に襲われ、この男性が外の往来に引きずり出されて殺害されるという凄惨な事件が3月6日に発生した。

Indian ‘rapist’ who was lynched by mob who broke into prison and beat him to death had ‘offered his victim £50 to keep quiet about the attack’, she claims (MailOnline)

メディアが掲げるヘッドラインを目にする限りでは、インドで近年増加している性犯罪に対して業を煮やした市民たちの怒りが社会の秩序と正義を求めて暴発という具合に読めるだろう。もちろんそれには間違いないのだが、もうひとつの側面がある。

文化も人種も異なる「抑圧者」インドに長年虐げられてきたとされる鬱積とベンガルやアッサムからの移民流入に対する不満の爆発で、こちらは前述の社会秩序や正義とは大きくベクトルが異なるコミュナルなものとなる。

今回の事件については、ディマープルでしばらく続いていた市民による抗議活動の延長線上にある。

Protest against Feb 24 rape rattles Dimapur city (Nagaland Post)

レイプ事件を起こした犯人はアッサム州出身のムスリム男性(2月24日の事件発生後以降しばらくはそのように伝えられていた)であった。そして被害者は地元のナガ女性。ディマープルは、ナガランドの最大都市でありながらも、州内のその他の土地と異なり、アッサム州に隣接する平地にあり、人口の相当部分がナガランド州外の平地から来た日々とであるため、まったくナガランドらしくない普遍的な「インドの街」に見える。
そんなディマープルの刑務所に押し掛けた数千人とも言われる群衆の大半は地元ナガランドの人々であったようだ。

ナガランド州首相は、この事件の背景にコミュナルな対立の構図があることを否定しているが、同州内のいくつかの有力な在野政治団体がこの機を利用しないことはないだろう・・・というよりも、そうした組織がこれを絶好の機会とみて、市民による抗議活動の中に活動家を合流させて扇動し、数の力に任せてこの事件を起こしたと捉えるほうが正しいことと思われる。この事件は、現在それなりの安定を手に入れたナガランド州をふたたび不安定な状況へと陥れる導火線となり得るかもしれないため、今後の進展から目を離すことができない。

また、2月24日にこの事件が起きた際の報道では、犯人の男性は「アッサム出身のムスリム」ということになっていた。また3月6日のこの事件を受けて、アッサム州首相は、おそらくこの事件がナガランドの野党勢力中の政治団体による反ベンガル人、反アッサム人のシンボルとして利用されていることを念頭に置いて、デリーの中央政府に対する治安強化を促す発言をしている。

殺害された性犯罪者について、いつしかナガランドポストのような地元メディア、そして全国をカバーする大手メディアでもこの男性をアッサム人ではなく「バングラデシュからの不法移民であることが疑われる者」と報じるようになっている。「外国人による犯罪」とすることにより、国内でのコミュナルな色あいを薄めようという当局の意思が反映されているのか、報道機関による自制ということなのかもしれない。あるいは隣国から不法に移住したがゆえに、逮捕された際に自らのアイデンティティーを偽っていたことが後になってから判明したということなのかもしれないが。

Centre concerned as tensions run high in Nagaland (The Hindu)

北東インドでコミュナルな色合いの濃い流血事件が起きると、その背景には奥深い闇が横たわっていることが多々ある。

ラージコート 2

朝6時過ぎに近くのモスクからアザーンの呼びかけが流れてくる。今日は7時まで寝ているつもりであったので、「起きるものか」と頑張ってみるが、数秒の間を置いて他のモスクからも流れてくる。互いに反響するみたいにワンワンと鳴るので、やはり目覚めてしまう。

しばしば思うのだが、この礼拝の呼びかけについて、スピーカーで電気的に拡声した声を流すというのはいつごろから始まり、どのようにして各国に広まっていったのだろうか。その過程でその是非について宗教者たちの間で議論などはあったのだろうか。

朝7時ごろ、部屋に朝食を頼む。移動する日には時間の節約のため朝の食事は抜いている。こうしてゆっくり食べると気持ちに余裕が出来ていいものだ。

オートでGO!

ガーンディーが15歳のときまで暮らしていたという彼の父親の旧家へ。ここの藩王国の宰相であったという割には意外に簡素な家である。あまり大きくもない。建物内ではガーンディーや独立運動にまつわる様々な写真を中心とした展示がなされている。

その後、Watson Museumに行く。1880年代のイギリス人行政官のコレクションが元になっている博物館である。彼が集めたサウラーシュトラ地域の文物以外に、自然科学関係の展示もあった。だが内容としては田舎博物館という感じで、あまり見応えがあるものではない。

しばし徒歩で市街地の古い建物を見物する。この街を前回訪れたのはもう20数年も前のことになる。当時は快適そうなテラスや手の込んだ飾り窓などが付いた伝統的なたたずまいの建物がたくさんあり、テキスタイルを中心とする商業活動は盛んながらもひなびた雰囲気があったと記憶している。だが今はずいぶん様変わりしているようだ。レンガにコンクリートや漆喰、そしてペンキで塗られた四角い建物に置き換わっている。それこそ、インドネシアでもアフリカでも、つまり世界中どこにでもある普遍的な景色になっているといえる。地域性の希薄な建物だ。

当時、かくしゃくとしたご隠居さんであった人たちの多くはすでにこの世を去り、元気に働いていたおじさん、おばさんたちは隠居し、あのころオギャアー、オギャーと盛大に泣いていた赤ちゃんたちがバリバリとよく働く商売人、でっぷりと貫禄のあるお母さんになっていたりするのだ。それほど長い時間が経過しているのである。もはやふた昔半くらい、つまり四半世紀くらい過ぎているのだから。

だがそんな中にも古い街並みは少し残っていた。傾斜屋根の瓦、二階に突き出た出窓やテラスであったり、面白い意匠の飾り窓であったりする。なかなかいい感じだ。ただし、多くは残念なコンディションにあり、ところどころ崩れていたりもする。しばらく立ち話をした地元の人によると、2001年のカッチの大地震のとき、ラージコートでも相当な被害が出て、そうした古い家屋におけるダメージも相当あったとのこと。

古くからの伝統的なスタイルの家屋は、街や地方の個性を無言のうちに主張していたものだが、そうしたものはどんどん消滅している。遅かれ早かれ、これらは街中から消滅してしまうことだろう。こうした様式で新しく今風の建材で作ってもいい感じなのではないかと思うが、そうしたものはだ見ていない。

シンガポールやマレーシアのように、行政が主導して保存に取り組むことがなければ、こうしたものはすぐに消えてなくなってしまうであろうことは間違いない。街並み保存については、そうした措置を講じるほどの社会的な余裕があるかどうか、人々が今もそれらに愛着を抱いているか、保存にメリットを感じるかどうかによるのだろう。

その後、サーリーを機織りしている工房へ。ここでは糸からすべて手作りで生産している。婚礼シーズンで使われるという絹のサーリーを製作中であった。糸は最初から染めてあり、その色の間隔できちんとデザインを組み上げていくという職人技の世界。オートの運転手に携帯で話をさせて場所確認して行ったのだが、普通の住宅地に見えるところなので、ここを通過しただけだったら、まさかここがそれらの工房が寄り集まっている場所であるとは気がつかないことだろう。

通り過ぎただけでは機織職人たちのエリアとは判らないだろう。

おそらくこれらの品物の単価が高いからであろうが、どの家もかなり立派だ。作業場はそれなりに散らかっているものの、外から家を見ると、ロワー・ミドルクラスやそれよりも少し上くらいのクラスの家に見える。かなり経済的にうまくいっているコミュニティであることが見て取れる。

機織を見学してからしばらく徒歩で街中を散策してみる。途中、路上でハルモニウムを修理している人がいた。知的な風貌の人で、彼の名前のブランドでハルモニウムを製作しており、その顧客から依頼された修理をしているという。彼自身の作製したハルモニウムだというのだが、本当だろうか?

〈完〉

ラージコート 1

サーサンの宿を朝7時過ぎたあたりでチェックアウトした。幹線道路に出たところで、ディーウ島近くのウナーから来てラージコートまで行く直通バスがやってきた。昨日やってきた時のように、ジュナーガルで乗り換える必要があるものとばかり思っていたので、ちょっとラッキーな気分だ。

現在、グジャラート州営のバスは、どこもチケットは車掌が手にした電子機器からプリントアウトされるようになっている。昔のようにカバンから何種類かの金額別のチケットをちぎって渡すような具合ではない。乗車勤務が終わってからの精算も簡単なのだろう。

サーサンからジュナーガルまでは一時間半か二時間弱くらいであった。ここまでの道の路面状態はあまり良くない。片側一車線ずつの道路で道両側に大きな木々が植えてある昔ながらの道路といった感じだ。よく茂っている場所では緑のトンネルを形成していて美しい。

サーサン近くの湖のあたりのような、集落がほとんどないエリアでは携帯が2Gになったり圏外になったが、あとはほとんど3G環境。田舎道をバスで走っていてもフェイスブックで友人たちの動向がわかったり、書き込みをしたり、メールのチェックができたりするというのは、しばらく前には考えられなかったことだ。地元の若者たちにとっては当然のことになっていて、隣に座っている女子学生たちもスマホでいろいろやりとりしているようだった。

昔々、インドの女の子に電話するのはなかなか大変だったもの。家の誰が出るかわからないし、とりわけお父さんが出たらとても緊張した。当然、電話することができる時間帯もごく限られてしまうなどということは当然として、家に自前の電話がないということもごく普通であったため、直接顔を合わせることが唯一の意志疎通の手段さえであったりもした。当時のソーシャルコードや環境が現在とは大きく異なることもあるが、以前は通信手段が男女交際のバリアーになっていたという部分もあるだろう。

携帯電話の出現により、個々が自前の通信手段を持つようになり、誰が電話口に出るかわからないという不安が解消されるとともに、家族の監視の目から逃れることができるようにもなった。また、目の前で話していても相手が誰だか偽ることもできるし、時間の制約から解放されることとなった。そして通信費の大幅な下落がそれに拍車をかけることとなった。そしてスマホの爆発的な普及により、通話だけではない様々なコミュニケーションが可能となってきている。

このような事情から、昔と違って結婚前の男女が交際することがごく容易なものとなり、同時に結婚してからの不倫なども簡単になった。親が決めた結婚のあともそれまで付き合っていた相手との交際が可能ということにもなってしまっているという部分もあるだろう。そんな家庭内でのトラブルは今ではよく耳にするものとなってしまっている。

今では遠い昔となってしまった90年代前半までの若者たちと、現在のそれとではかなり大きな意識や行動の違いがあるのは当然のことだろう。こうしたことについては娯楽映画などを見ても内容が非常に変化していることが読み取れる。

ラージコートに到着

そんなことを思いながら、ジュナーガルを通過して、ラージコートに着いたのは午後1時ごろ。昨日朝にチェックアウトした同じホテルに投宿。ここは料金の割にきれいで広くて快適だ。

料金の割に立派な感じの宿泊先

私が宿泊するフロアーの廊下いっぱいに若者たちがいるので、何事かと思い尋ねてみた。この階の一室で、ある会社の就職試験の面接が行われているとのことだ。廊下で待っている誰もが緊張した面持ち。どこの国でも求職活動は大変だが、頑張ってほしいものだ。

〈続く〉

サーサンギルの野生動物保護区へ4 

サーサンの町の夕暮れ

宿に戻ると、闇サファリを勧誘する男が来ていた。夜間閉鎖されている国立公園にバイクで乗り込み、徒歩でライオンに接近するのだという。基本料金が1,000ルピーで、ライオンに出会うことができたら、成功報酬として更に1,000ルピーだという。

彼が曰く、大声を上げたり、駆け出したりしなければ危険はないのだという。そんなバカなことがあるだろうか。町中の夜間、野犬集団に囲まれても大変危険であったりするのに、大型肉食獣のライオンがそんなにおとなしいはずがない。

「夜10時出発だがどうだ?」などと言う。

おそらく、彼は客引きで、国立公園内の集落の住民が手引きするのではないかと想像したりする。ともあれ、たとえ間近にライオンを目撃することが出来ても、彼らのエサになるのは御免なので、当然お断りである。

闇サファリの客引きを追い返して部屋に戻る

〈完〉

サーサンギルの野生動物保護区へ2 

朝目覚めてすぐに部屋に簡単な朝食を頼む。これをそそくさと済ませて宿をチェックアウト。近くにあるバススタンドの外から出るマイクロバスにて、ジュナーガルに向かう。ラージコートから3時間ほどで到着。プライベートバスはバススタンドまで行かなかった。下ろされたところから乗り合いオートでサーサンギル行きのバスが出る交差点まで向かう。

さきほどラージコートから乗ってきたものと同じようなマイクロバスが現れて、これがサーサン行きであるとのこと。乗り込んでからしばらくは席がなくて立っていたが、ようやく何人か降りたので座ることができた。

グジャラートは乗り物の中が混雑していても殺伐としていないのがいい。大声で言い合う人たちもいないし、人々がちゃんとしているという印象を受ける。ジュナーガルから乗ってきたバスの乗客、そして沿道にもスィッディーと呼ばれるアフロ系の人たちの姿がときおり見られるのは、いかにもカティアーワル半島の南側に来ているという感じがする。

アラビアやアフリカ方面との海上交易が盛んであった地域であるがゆえに、黒人系インド人たちの姿がある。ディーウを領有したポルトガルによる部分も大きいようだ。今はインドの中の田舎となっているとはいえ、かつては大海原を越えての大きなスケールで人やモノの移動があったことを思い起こされてくれる。またこの地域が西方から見たインドの海の玄関口であったことも。

さて、ジュナーガルから2時間ほどでサーサンに着くことになるのだが、そのしばらく手前で湖があり、景色を楽しむことができた。サーサンの町は小さいのだが、国立公園があるため、やたらと沢山の宿があるようだ。これならば予約しなくても宿泊できたのではないかと思うが、バスを降りたところで、昨夜宿泊したラージコートから予約しておいた宿に携帯で電話をかけてみる。ほどなく宿の主人のニティンさんがバイクで迎えに来てくれた。

〈続く〉