カッチ地方西部3 〈コーテーシュワル寺院〉

ナラヤン・サローワルから2キロほど西に進んだところにコーテーシュワル寺院がある。コーテーシュワルの地名は神話の時代にまで遡ることができるものの、この寺院はそのような長い歴史を持つものではない。

コーリー・クリークを臨む

コーリー・クリークに面した寺院のすぐ外には軍の詰所があり、遠くに軍用艦も停泊している様子が見える。彼方はパーキスターンのスィンド州だが、霞がかかっているためか何も見えない。

本来は、ここからひと続きの世界であったはずだが、分離独立後のインドからするとすでに海のあちら側は異郷なのである。歴史に「もし」はあり得ないにせよ、あえてもし分離がなかったとするならば、ここは辺境ではなく、カラーチーへと続くルート上にあり、人々の行き来が盛んであったはずとするならば、カッチ地方のありようは現在とはかなり異なるものとなっていたことだろう。

国境のあちら側、カッチ湿原の反対側にもこちらと同じような生活文化空間が広がっているはずなのだが、それを人為的に作られた国境とその分離以降の敵対関係により、これらが交わることなく、それぞれの「国」の一部として組み込まれるようになってしまっている。本来はここからひとつづきの大地のはずなのだが。そんなわけで、コーテーシュワル寺院はインド国内では最西端にあるシヴァ寺院ということになる。

階段を少し登った先にある境内に入る。寺の本堂入り口に鎮座して本尊を見上げる形のナンディの耳を両手で囲い、女子学生たちが何やらひそひそとお願いごとをしている様子はかわいいが、中年以降の男性たちも同じことをしているのはやや滑稽に感じられる。

〈続く〉

カッチ地方西部2 〈ナラヤンサローワル〉

グジャラート州カッチ地方のナラヤンサローワルは、チベットのカイラス山付近のマーナサローワル、ラージャスターンのプシュカルサローワル、カルナータカのパンパサローワル、同じグジャラート州のビンドゥサローワルとともに、インドの五大聖池のひとつとなっている。

アクセスすること自体が容易ではないカイラス山近くにある聖池は別格だが、ラージャスターンのプシュカルサローワルのようにあまりに有名で国内外から多数の訪問客が訪れる俗化したロケーションとは異なり、静謐な雰囲気を感じることができるはずだろう。満々たる水を湛えている時期であれば。

乾季に干上がった池の底、聖水を汲むためにしつらえてある井戸

この時期、つまり乾期のナラヤンサローワルは、すっかり水が干上がってしまい、ガートがただの階段となっている。もともとごく浅い池であるようで、ガートを下ってすぐのところが干からびた大地となっている。その乾いた「池」にあるごく浅い井戸から参拝客は水を汲んでは、ありがたい「聖水」を体にふりかけている。サローワルの手前には七つほどの寺院があり、どれもカッチ地方を支配した王族が建てたものだ。

境内では女性たちがバジャンを歌いながら踊っている。中年以上の人たちばかりだが、楽しそうでいい感じだ。グジャラートの人たち、女性は着道楽な人たちが多く、地場の染め物や飾りの入った伝統的な衣装をまとっている。
グジャラート州の寺院は概してカラフルで清潔にしている。日がな過ごしていても心地良さそうな空間だ。人々も概して穏やかながらもおしゃべりだ。とても居心地が良い。

マンドヴィー4  〈ダウ船〉

ディリープ氏の屋敷を後にして、しばらく歩いたところにダルガーがあり、その横のところで若者たちがカッワーリーの演奏の練習をしていたが、これがなかなか上手くて聴き応えがあった。

そこから少し戻り、バススタンドのほうに歩く。やはりここも2001年1月の震災でひどくやられたのかもしれないが、あまり伝統的な古い建物は残っていない。その前に来たときにはこんな具合ではなかったように思う。

港湾として栄えた歴史を持つルクマワティ河の河口部分には、干潮時には広いスペースが陸地として現れる。ここではダウと呼ばれる木造船が昔ながらの工法で建造されており、海上貿易で栄えた港町の過去を彷彿させてくれる。本来は帆船だが、さすがに今の時代はエンジンを付けて航行するようになっている。

〈完〉

マンドヴィー3 〈ディリープ氏の館〉

マンドヴィー在住のディリープ氏のお屋敷を見学させていただく。ロンリープラネットのガイドブックに紹介されているが、日常的に公開されている家屋ではなく、社交的な氏が訪問者たちを快く受け入れているがゆえのことである。

彼の許可を得たうえで、屋敷の写真を掲載させてもらっているが、かつて商家として大いに栄えたファミリーの豪邸そのもののたたずまいはもちろんのこと、このディリープ氏による語りも大変興味深かった。

今はインドの西果ての片田舎となっているマンドヴィーだが、藩王国時代までは、広く外に門戸を開いたこの地域の窓口でもあり、現在のパーキスターンを含めた当時のインド国内各地はもちろんのこと、すぐ目と鼻の先にある中東地域とも盛んに交易を行なう港町であった。

かつてカティアーワル半島ととに、このあたりの沿岸もまたアラビアやアフリカとのネットワークがあり、多くの大志を抱く商売人たちを外地に送り出してきた。失敗するものあり、また成功する者あり。そのまま外地に定住する者あり、故郷に錦を飾る者あり。

曽祖父が抱えた負債に始末をつけるために、モザンビークへ渡ったディリープ氏の祖父。商売は成功して大きな富を築くこととなった。氏はその祖父の次男の息子であるとのこと。

モザンビークで蓄えた富とともに故郷に凱旋し、この地域に大規模な綿花の栽培を導入したのと彼の祖父であり、貿易業とともに製糸業やムンバイーでの工場の操業や投資などで更にその富を拡大させていったとのこと。

そんなわけで、祖父が自動車を購入したり、電話を引いたりしたのは当地の王家よりも早く、そのラージャーから物言いを付けられた、とは氏の弁だが、それをきっかけに王家と親交を結ぶようになったのだとも。

その後、祖父は家業を息子たちに継がせたのだが、長男は商売に向いておらず散財に歯止めがかからず、次男でありディリープ氏の父親でもある次男は裁判沙汰に相次いで巻き込まれたこと、ヤクザとのトラブルなどもあり、次々にそのビジネスや財産を失っていくこととなったということだ。

とりわけ強大な敵であったのが、かつてムンバイーのアンダーグラウンド一世を風靡したワルダーンバーイーとの対立であったという。現在で言えば、ダウード・イブラヒムのような人物ということになる。
「外国の人にとってはカーストなんて悪だということになっているようだし、ここでも人と人の間に不要な垣根を作ったりするネガティヴな部分もある。けれども出自に関わる強いプライドを与えてくれることも事実じゃ。」

ワルダーンバーイーの手下が強請に来たときに、父親が一喝して追い出した話、氏自身がワルダーンバーイーの家に一人で乗り込んだという武勇伝が続く。
「クシャトリア、誉れある武人階級の生まれだ。たかがヤクザごときを相手に縮こまってしまうわけにはいかん。」

裁判による係争については、「ハイデラーバードのニザームの次に豊かな弁護士」に依頼したところ、法外に高い報酬をむしり取られるだけで大損したということだ。
「だからこそ、彼はそれほどの金持ちの弁護士になったということが解った」とも言う彼の話には多かれ少なかれ誇張が含まれているとしても、おおよその部分は事実を伝えていることと思う。

この商家が栄華の極みにあった時代から、急坂を転げ落ちるように零落していった過程までを活写する話は、まるで映画かドラマのようにカラフルで大変興味深かった。

今はずいぶん荒れてしまっているものの、素人目にも往時のきらびやかな様子が容易に脳裏に浮かぶ27部屋もあるハヴェリー(屋敷)の内部。各部屋ごとに異なるタイルが壁にあしらわれており、天井に描かれた絵、おそらく元々は高価であったはずの家具類の数々。彼の祖父夫婦が寝室としていた部屋の天井には、氏が言うところの「男女のロマンチックな光景」(春画の類ではない)が洋風のタッチで描かれたものが残っている。

私が訪れたときには、文化財保護の調査にきた建築家にも話を聞く機会を得られた。何か具体的なプロジェクトがあるわけではないが、この家屋に対して何ができるかを調べに足を運んでいるのだという。アーメダーバードの大学も同様に文化財としての価値に注目しており、現在この屋敷を調査中とのことだ。

かつての栄華をふんだんに感じさせる建物であるが、今の氏の暮らし向きは厳しそうだ。それがゆえにずいぶん家にもガタが来ていて、今すぐにでも修復が必要な状態にあるようだ。それでも、この家屋は2001年1月にカッチ地方を襲った大地震の際にも大して損傷することなくよく耐えたという。

かつてはたくさんの使用人たちを抱えて、家の中もすっきりとまとまっていたことだろう。どの部屋も美しい装飾がなされているのだが、どこも例外なく散らかり放題となっている。そうした中にたくさんの骨董品、外国から輸入された高価な調度品などが埋もれている。氏が普段使用していると思われる日用品類は非常に簡素である。

家屋の周囲は同家の敷地であったとのことだが、時代が下るとともに切り売りしていったそうで、現在は窮屈に建て込んだ中にディリープ氏の屋敷が残る形となっている。

氏はガルフの国で働いていたことがあり、アメリカも訪れたことがあるのだと氏は言うが、現在の氏はかなり経済的に楽ではないようだ。氏は結婚していないため子供はおらず、氏は目の見えない妹さんと二人暮らし。氏も相当の年配であると思われるため、今後が大変だろう。

階下のガレージには非常に古い、1931年式だというシボレーの乗用車がある。もう動くようなコンディションではなく、ボロボロだが、このような時代に外国からクルマを取り寄せるというのは大したものである。氏にとっては子供のころからの大変思い入れのあるクルマなのだと思う。

本日はお昼が終わったばかりのところでお邪魔してしまい、長い時間にわたり、各部屋にて、そこにまつわる逸話について色々と話してくれた氏に大変感謝している。

やはりカッチ地方は興味深い。「kutch nahin dekha to kuchh nahin dekha (カッチを見なければ、何も見なかったのと同じ)」という、アミターブ・バッチャンによるセリフを、ひとりで呟いて頷いていたりするこの日の午後であった。

以下はディリープ氏の許可を得て、当サイトに掲載する屋敷の写真である。

〈続く〉

マンドヴィー2 〈Vijay Vilas Palace〉

マンドヴィー市街地に着いた。ルクマワティ河に架かる橋を越えたところで下車して、オートでヴィジャイ・ヴィラース・パレスに向かう。広くはない市街地を外れて、海岸線に平行して走る軍用の滑走路を左手に眺めながら進むと、やがて到着する。

敷地に入ったところで乗り物の通行料を徴収されるが、ここから宮殿まではさらにちょっとした距離がある。ここのパレスは今も王家の所有であり、外国人料金の設定はなく、誰が訪れても入場料は一律である。そのため、インド人にとっては国有のものと比較して少々割高(入場料30Rs、カメラ使用料40Rs)ということにはなる。

1929年にカッチの王家の夏の宮殿として完成したこのパレスは、幾度もヒンディー語映画のロケで使用されているため、何となく見覚えのある人もいるだろう。ラージプート建築と西洋建築のハイブリッドだが、上部の装飾に散見される大ぶりなベンガル風の丸屋根がアクセントになっている。瀟洒な外観の割に内部はやや地味ながらも、屋上からの周囲の眺めは実に素晴らしい。