コールカーターのダヴィデの星 2

 

英領のインド帝国首都であったがゆえに、バグダーディーの人々を引き寄せる商業的な誘因があったようだが、英領期以前からベネ・イズラエル、コーチン・ジューといったユダヤ系の人々が定着して活動していた亜大陸南西部と違い、コミュニティの人口規模はコンパクトなものであったようだ。 

1798年にコールカーター入りしたシャローム・コーヘン以降、英国本国から極東の香港や上海までを繋ぐ拠点としてのこの街で、オピウムやインディゴといった当時のインドならでは物産をはじめとする商品の国際取引、ラクナウを首都としたアワド王国、ランジート・スィン率いるパンジャーブのスィク王国との商売等で順調に成長していく。 

1826年にはこの街で最初の正式なユダヤ教礼拝施設、ネヴェー・シャローム・シナゴーグが建設された。だがその時点でもこの地のユダヤ人口は200を数える程度であったという。その建物は今も残っており、マガン・ディヴィッド・シナゴーグのすぐ隣にあるのだが、すでに廃墟といった状態で内部は公開されていないのは残念だ。 

しかしその後、1860年あたりでは600人、19世紀末には1900人を越えるまでに成長している。その頃にはパークストリートからサダルストリートにかけての地域で仕事場や住居を構えるユダヤ人たちも多くなっている。 

初期のバグダーディー・ジューたちの多くは、出身地の言葉であるアラビア語を話し、装いもアラビア式であった。だがこのあたりになると英語に洋装となり、疑似西洋人といった具合になってくるとともに、資本を蓄積してジュート工場、タバコ産業、保険業、不動産業等といった分野で大きな商いをする人々が増えてくる。 

1880年代には最初のユダヤ人学校がオープンする。それから20世紀前半にかけていくつか出来たユダヤ人学校の中には閉校してしまったものがあるいっぽう、ユダヤ人子弟の入学が皆無であるにもかかわらず、経営母体の民族色を薄めた一般的なイングリッシュ・ミディアムの学校として存続しているものも少なくない。 

タイムス・オブ・インディアによる以下の記事などはまさにその典型だろう。生徒たちのマジョリティがムスリムの『ユダヤ人学校』なのだそうだ。

The schools are Jewish, its students Muslim (The Times of India) 

1940年代前半、コールカーターのユダヤ人人口は最盛期を迎えるが、当時この街が彼らにとってそれほど魅力に満ちていたというわけではなく、日本軍によるビルマ侵攻から逃れてきた同国在住の同朋たちが逃れてきた結果である。彼らはもともとコールカーターやムンバイーから移住した人たちであったが、戦争という不幸な原因により『出戻り』となったわけである。 

インド独立といういわば『プッシュ』要因に加えて、イスラエル建国という『プル』要因もあり、それ以降はユダヤ人たち、とりわけ財力と能力に恵まれた人たちほど、インドを出てイスラエル、米国等に新天地を求めて流出する動きが続いた。 

もともとパレスチナ・イスラエル問題の進展により、もともとパレスチナに暮らしていたアラブ人と帰還運動に関わるユダヤ人たちとの衝突が始まるまでは、アラビア各地でユダヤ人たちはアラビア人たちと平和裏に共存してきた。それ以外の国々においてもムスリムとユダヤ人の関係はごく近いものであった。 

今でもシナゴーグの管理人や雑役などを引き受けている人たちはたいていムスリムであるし、ユダヤ人地区とムスリム地区とは隣り合っていたり、重なっていたりもする。 

それだけに2008年11月26日にムンバイーで発生したテロにおいて、ユダヤ教徒のコミュニティ施設として機能してきたナリーマン・ハウスがイスラーム過激派の犯行グループの標的のひとつとなり、司祭夫妻とそこに居合わせた訪問客が犠牲となったことは大変な衝撃であったことは想像に難くない。 

<続く>

コールカーターのダヴィデの星 1

 

先日取り上げたコールカーターの旧中華街近くに、見応えのあるシナゴーグがふたつある。ベテル・シナゴーグ(Beth El Synagogue)とマガン・ディヴィッド・シナゴーグ(Maghen David Synagogue)である。それぞれ『神の館』『ダヴィデの星』といった意味の名のユダヤ教礼拝施設だ。 

どちらも旧ユダヤ人街にある。先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街同様に『旧』としたのは、もはやそこはユダヤ人たちが住む街区ではなくなっているためである。 

マガン・ディヴィッド・シナゴーグに至っては、その外観がプロテスタントの教会にありそうな形をしていることから、これをユダヤ教会と認識している人は界隈にほとんどおらず、それとは裏腹にそこからふたつほど裏手の路地にあるアルメニア教会をシナゴーグと勘違いしている人たちがとても多いようだ。 

もちろん今の市井の人々には何の縁もない施設であるため無理もない。またユダヤ人とアルメニア人とでは、信条や先祖のやってきた場所は違うものの、ともに民族意識が強く、ビジネスマインドに富む商業民族であること、植民地時代には政府当局との繋がりが深く、支配者にごく近い位置で儲けてきた人々であるなど、似ている部分がかなり多い。加えてインドの都市部では往々にして居住地域も重なっていることが多かったこともあるがゆえの勘違いということもあるのかもしれない。

そもそもコールカーターのこのエリアは、植民地期には白人地区でもなく、かといって『ネイティヴ』の人々のエリアでもない、つまり当時の言い方にならえばWhiteではなく、かといってBlackでもないGreyな地区ということであったらしい。 

この街にやってきた最初のユダヤ移民の名前や出自ははっきりわかっているようだ。その人物がシャローム・コーヘンという人物で、現在のシリアのアレッポ出身であることに象徴されるように、コールカーターのユダヤ系移民の大半はいわゆるバグダーディー・ジューと呼ばれる人々である。 

インドのユダヤ人にはおおまかに分けて三つのグループに分かれる。2世紀にパレスチナの故地を離れ、そしてインドに渡ってきたということになっているベネ・イズラエルというインド化の度合いが非常に高い人々、そしてコーチン・ジューと称されるより高い職能集団ならびに商業コミュニティとして繁栄してきた人々。コーチンの藩王国で庇護を受けてきたグループだ。そして三つ目がバグダーディー・ジューで、主に比較的時代が下ってからアラビア地域からやってきた人々を指す。 

『バグダーディー』と言っても、必ずしも現在のイラクのバクダードからやってきたというわけではなく、アラビアのアデン、アレッポ、ダマスカスその他さまざまな地域からやってきた人々が含まれる。さらには非アラブのイランやアフガニスタンからやってきたユダヤ人たちもこの範疇にあることには注意が必要だろう。 

先に挙げた三つのカテゴリーの人々以外にも第二次大戦時には欧州からインドにやってきた人々もあった。ナチス勢力下での弾圧から逃れるため渡ってきたユダヤ人たちである。 

他にもミゾラムには『ユダヤ教徒』を自称するモンゴロイド系のコミュニティが存在し、ユダヤの『ロスト・トライブ』のひとつではないか?という説もあるのだが、出自が深い謎に包まれているため、通常は在インドのユダヤ人の範疇に含まれないようだ。 

<続く>

プリペイド・タクシー

 

(挿入画像は記事中の出来事とは関係ありません)

ふと思い出したのだが、深夜近くのコールカーターの空港から市内へのプリペイドのタクシーで感心しないことがあった。 

プリペイドのカウンターで、サダル・ストリートまで240 Rsの料金を支払い、チケットをもらうと、なぜか当のクルマの番号が書かれていない。「行けば係の者が手配します」との返事なので、まあいいかと外に出る。確かにそういう男性がいるが、クルマの番号を書き込むことなく「この人が運転手です」と言う。 

険悪な雰囲気の運転手の横にはこれまた感じのよくない若いチンピラみたいな若い男。「プリペイドだと運転手を選べないから嫌だな」と思った矢先、このチンピラは空港敷地を出て大通りに入ったところで、クルマ左側の窓から大きく身を乗り出して、道路脇に駐車しているタクシー運転手たちに「ニューマーケットまで100ターカー(西ベンガル州ではルピーのことをしばしばターカーと呼ぶ)で行くか?」と声をかけまくっている。 

もちろん状況からして、彼がニューマーケットまで行きたいわけではなく、そのエリアまで行くお客を『買わないか?』ということだろう。さてどうなるのか?空港から数百メートルのところから市内中心部まで100 Rsという破格の料金で行くクルマはあるのだろうか? 

何台かは150 Rsだの120 Rsだのという返事をしていたが、やがて100 RsでOKというクルマが現れた。私の乗っているタクシーの運転手は、案の定「ブレーキが壊れた。ここから先のクルマの料金は出すから乗り換えろ」となどとのたまう。 

プリペイドの240Rsのうち、おそらく30~40Rs前後がカウンターの取り分であると仮定して、運転手には200~210Rs前後が渡るのだと思う。ほとんど走行することなく、空港敷地を出たところで他の運転手に100 Rs渡して引き継がせ、自分たちは空港タクシー乗り場にトンボ帰りして他の客を乗せるのだろう。 

これが可能なのは、客の行先が繁華街かその付近であることに加えて、空港近くで客待ちしている他の運転手が「ガソリン代くらいでも出ればお客のいそうなところに移動したい」と思う時間帯であることだろう。もしかするとシフトの時間も関係しているのかもしれない。 

空港からニューマーケット(私が向かおうとしていたのはそのすぐ近くのサダル・ストリート)まで100 Rsというのは、通常あり得ない金額であるが、この男自身がタクシー運転手であるがゆえに「繁華街での客待ちのために移動させるお駄賃」として受け入れられるギリギリの金額であろうと心得ているのだろう。 

加えてプリペイドのブースでチケットを売る男、タクシー溜りで運転手にお客を手配する男もこれにつるんでいるのかもしれない。 

運転手に「お前が連れて行け」と言い張ってみたところで仕方ない。最初からそういうつもりで走らせているので、そのまま走らせてもロクなことがないだろう。また彼には「ブレーキが故障した」という大義名分もある。 

なぜならば最初の運転手はそういう人間なので、「このクルマで行く」と固執して行ったとしても、ロクなことがないことは明らかだからである。やれやれ、これではプリペイドの意味がないではないか。 

だが乗り換えたところで、当初の運転手から渡された100 Rsという極端に低い金額で空港からサダル・ストリートまで行くということになった他の運転手が、道中であるいは着いてからガタガタと煩いことを言い出す可能性もある。 

最初の運転手は私が手にしているお客用のスリップ(プリペイドのタクシー料金の領収書)を渡せという。クレームを付けられないようにということだろう。前述のとおり、これにクルマのナンバーは書かれていないのだが。しばらく不愉快なやりとりが続いたが、もう夜も遅いので、こんなことで貴重な時間を取られたくないため、最後はこれを相手に渡して出発。やれやれ・・・。 

幸いであったのは、乗り継いだタクシーの運転手が至極まともな人物であったことだ。彼によると、私が想像したとおりの条件下でこうした姑息なことをする空港発のタクシー運転手はかなりあるのだそうだ。 

「ほんの1キロ走っただけで100 Rs以上を手にして、他の運転手には残りの行程をわずか100 Rsで走らせるのだからひどいもんです。ああいう輩がいるからコールカーターのタクシーのイメージが悪くなってしまって困ります」

朴訥とした話し方の真面目そうな中年運転手であった。

ともあれ彼自身もそうしたタクシーが通りかかる沿道で客待ちしていたのは、都合のよい場所に多少なりとものお金を手にして移動できることを期待していたようではある。 

以前、無線タクシーと題して、近年インドの大きな街でのサービスが広がっている無線タクシーのことを取り上げてみたが、従前からのタクシーの在り様からして、新手の「まともなタクシー」はインドのサービス業の中で最も高い伸びが期待できるもののひとつであるといっては大げさすぎるだろうか。

サダル・ストリート変遷

 

サダル・ストリートといえば、昔からバックパッカーたちがよく利用する安宿街として知られている。今では猥雑な小路に成り果てているが、18世紀後半には裕福な英国人の広大な屋敷と庭園を所有していたエリアだという。 

後に政府に売却されて19世紀初頭にSudder Diwani Adalatという裁判所が出来た。しばらくしてから裁判所は他の場所に移転したものの「Sudder」という名前がストリートの名として残ることとなった。 

その後、20世紀に入るあたりまで、当時カルカッタに多数在住していたユダヤ人たちが多く住み着いていたとのことで、ベンガルを拠点に当時英領であった香港や中国本土などとも手広い取引を繰り広げる豪商たちも少なからずここに居を構えていたという。 

そんなわけで、たとえ古ぼけていても、今なお少なからず残る当時からの建物にはなかなか風格を感じさせるものがある・・・と感じる方もあるのではないかと思う。 

ユダヤ人だけではない。近代インドを代表する詩聖ラビンドラナート・タゴールもここに起居していた時期があった。10, Sudder Streetである。その場所にタゴール家の屋敷が残っているわけではないので特に面影を感じさせるものはない。

 サダル・ストリートの凋落が始まったのは第二次大戦あたりかららしい。繁華街への交通の便が良いこと、軍の駐屯地から近いということもあってか、このあたりでそうした白人兵士相手のバーや娼館などが開業したのがその始まりだという。 

インドからイギリスが立ち去ってからも、一時滞在の外国人相手の商売のインフラがあったためか、1960年代から1970年代前半にかけてのヒッピー・ムーヴメント時代の西洋の若者たちがカルカッタを訪れるとここに出入りするようになった。その後、バックパッカーたちには安宿街として広く知られるようになる。 

そんなサダル・ストリートだが、ごく一部の例外を除いて安かろう悪かろうの宿、宿泊客は西洋人をはじめとする、いわゆる先進国の若者ばかりであったこの界隈だが、かねてより変化の兆しが見えてきていた。 

まずはバーングラーデーシュ行きの直通バスが付近から発着するため、バーングラーデーシュからやってきた人たちによる宿泊がとても増えたことがある。界隈にはほぼこうした人たちばかり泊めている宿もあるようだし、もっぱら彼らが持ち込むバーングラー・ターカーとルピーの交換を専門に行なっているような両替商も多い。バーングラーデーシュに行く用事でもあれば、そこでより安くターカーを仕入れることができる。 

加えて従来の外国人旅行者の客層の変化もあるようだ。昔のように「若者ばかり」というわけではなく、中高年の訪問も多くなっている。そのため宿泊施設の需要についても、その価格帯についてかなり幅が出てきているようだ。若者たちにしても、かつてのように「安ければ何でもいい」というタイプばかりというわけではないようだ。 

加えてインド人旅行者たちの存在がある。彼らにしてみれば「ヒッピーのような外国人たち」が宿泊するエリアを利用する「人品いやしからぬインド人旅行者」というのはまずなかったが、90年代以降の「旅行ブーム」もずいぶん長くに渡って続いており、旅行そのものが生活のサイクルの一部となった人も少なくないようだ。そんなわけで、かなりこなれたスタイルで旅行する人も増えてきた。すると施設や地の利が便利であれば、他のことにあまり頓着しない人も出てくることにもなる。 

ちょうどそうしたところに目を付けて、近年のサダル・ストリートでは4,000~5,000Rsの料金帯のホテルがいくつか出来ている。 

以前、安宿があった建物に大きな改修工事の手が入っていることに気が付いたのは前回コールカーターを訪れたときであった。今回それがすっかり完成していたので覗いてみると、ムンバイーでいくつかのビジネスホテルを展開しているBAWAグループによるBAWA WALSONというホテルであった。 

2010年9月に開業したのだという。フロントのスタッフもこのエリアでは珍しくちゃんとした態度というか、プロフェッショナルな応対。部屋を見せてもらったが、とてもスタイリッシュでいい感じだ。フロアーがぴかぴかの板張りというのもいい。 

部屋代を尋ねると示された料金表には5500 Rsと書かれている。「あぁ、そうですか」と踵を返して通りに出ようとすると、「今キャンペーン中ですが、いくらならばご利用されますか?」と尋ねてくる。テキトーに「2000」と答えてそのまま行こうとすると、背後から「いいですよ」と声がかかる。 

冷やかしのつもりであったが、もっと低い料金を提示しておけば良かったかな?とやや反省しつつも、それでも部屋の内容を思えば充分以上にリーズナブルなので利用してみることにした。 

ふんだんに出るお湯で身体を洗い、ふかふかで清潔な寝具に飛び込んでぐっすりと眠る。朝食はバフェ形式で、席に着いているのはサダル・ストリートの宿泊者らしからぬアップ・マーケットな宿泊客たちばかりであった。 

1783年建造のコロニアル建築のFairlawn Hotel (同ホテルのウェブサイトの「about us」にサダル・ストリートを象徴するようなエピソードも書かれていて興味深い)やLytton Hotelといったアップマーケットな老舗は存在していたものの、古い建物を部分的に改造して開いた安宿が中心であったサダル・ストリートやこれと交わるフリー・スクール・ストリート界隈でちょっとベターなホテルがいくつも出来上がってきている。 

そうした中でBAWA WALSONのように、小ぶりながらもモダンで洒落たホテルが出てきたことは、このエリアの客層や土地柄の変化を予見しているかのようである。

コールカーター チョウリンギーの放牧

 

朝方、チョウリンギー通りを散歩していると、ちょうどヤギの大群を連れた人たちがチョウリンギー通りを南下してくるところであった。ヤギとヤギ飼いたちは悠々と大通りを進み、パークストリートの交差点手前あたりで道路を横断して広々としたマイダーンに行く。毎日決まった時間にこうして「放牧」に出かけているようだ。 

マイダーンは植民地期に造られたものだが、その目的は単に市民の憩いの場ということのみならず、カルカッタを帝都としていた頃のイギリス当局にとっては、有事の際の最終的な防衛の拠点としてのフォート・ウィリアムを市街地から隔てたところに保つ目的があった。 

デリーに遷都されてからも、また独立以降もマイダーンはそのまま残されたため、とりわけアジア諸国の中では稀有な桁外れに大きな公園が大都会の真ん中に存在し続けている。「市民のための広々とした公園」でありながらも、実はこの広大な土地を所有しているのは軍であるという意外な一面もある。人々にとっては夕方や休日の憩いの場、ヤギたちにとっては豊かな牧草地となる。 

昔、初めてインドに来たときもびっくりした。てっきり遠く郊外から連れてきているのだろうと思ったヤギたちの棲家は都心であったからだ。路地裏の古ぼけた建物の今にも壊れそうな扉がガタンと開くと、その中にはヤギたちがワンサカ。棒を手にした男たちが「さあ出かけるぞ!」と追い立てていたのだから。今も彼らは都市の中心部に住んでいるのかどうかは知らないが。 

着々と近代化が進みつつあるインドの他の大都市と比較して、コールカーターはその歩みがかなり遅く感じられる。その反面、長らく英領インドの首都であったことがあるゆえに、植民地期に建設されたインフラがあまりに偉大で、今の時代にまで残された街区、建築物等はことさら時代がかって見える。まさに「古色蒼然」という言葉がぴったりだ。 

そんな環境のためか、世界有数の高い人口密度を有する大都会でありながらも、意外に顧みられることなく放置されている空きスペースが都心にけっこうあったりする。有効活用すれば高い需要と相当な収入を見込めるロケーションであっても。もちろん地権その他の問題等あってのことに違いないだろうが。 

先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げてみた中華朝市が開かれるところのすぐ東には、コールカーターの伝説的な中華レストラン、1924年創業のNanking Restaurantの建物が、同店閉業後も40年ほど放置されていた。元々は駐車場であったと思われる敷地を含めて、ゴミ捨て場兼廃品回収分別場並びに不法占拠者たちの住居といった具合になっていた。それも最近になってようやく取り壊されて、今は新しい建物が出来ている。そんな具合なので、今でもひょっとすると「羊の群れと羊飼いたち」が都心で生き延びる余地はあるのかもしれない。 

近年はずいぶんクルマも増えたし、運転する人たちもせっかちになった。羊たちも彼らを追う羊飼いの男たちも、どうか事故に遭ったりすることなく日々過ごしてもらいたい。 

もちろんこれほど沢山のヤギたちを飼育する目的は食肉(および皮革?)としての用途であるはずなのだが、こんな大都会の真ん中で飼育することでコストは見合うか?という疑問が頭の中をよぎる。だが、これが生業として成り立っている以上、我々のものとは尺度の違う経済学が背景にあるのだろう。まことに懐の深い街・・・と私は思う。