ダイヤモンド・ハーバー

 その名に惹かれて訪れてみたくなった。 

エスプラネードのバスターミナルに行きダイヤモンド・ハーバー行きを探す。幾度か訪れたことがあるというコールカーター在住の知人の話では『1時間半前後だよ』という話であったが、バスに乗り込んでみると乗客たちは『3時間はかかる』と言う。

 距離にして45キロほどしかないので、何かの間違いではないかと思ったが、事実きっかり3時間かかった。ずいぶん飛ばしていたのだが、1時間に15キロしか進んでいないことになる。かなり大きく迂回ルートで走るバスであったのかもしれない。市街地の渋滞を抜けて郊外に出てからは、のどかな田園風景を眺めながら走るので心地よかった。 

ダイヤモンド・ハーバーに着いた。田舎町ではあるが、コールカーターから日帰りで訪れる人が多く、乗ってきたバスもそうであったが、降りてみるとそういう感じの人々の姿がよく目につく。 

カルカッタでもそうだが、このあたりでも舗装道路の表面の大部分はコールタールといった感じで、砂利のザラザラ感に欠ける。滑り止めということだろうか、規則的に小さなレンガ片が埋め込まれている。道路脇にはレンガを砕いた砂利状のものが沢山あるので、道路の基礎はそれらで作っているのだろう。 

ダイヤモンド・ハーバーの見所は、海かと思うほど幅の広い河の眺めと英国が残した商館跡。地元の人はキラー(城・城砦)と呼ぶが、コールカーター建設前の東インド会社が拠点としていた場所である。漢字で『商館』と書いてイメージするものとはかなり異なる、物々しい施設であったに違いない。 

河の船着き場に出た。空気が霞んでいて対岸が見えない。波がほとんどないことで、ここは海ではなく河であることが実感できる。今、ディガー方面に向かう船が出るとのこと。見た目にはどこに行くとも知れないところに出航していくかのような船の様子は印象的である。私も乗り込んでみたくなったが、まだ商館跡を訪れていないし、今日中にコールカーターに戻らなくてはいけないのでやめておく。 

この河の深さは相当あるようで、大洋から航行して来たと思われる巨大な貨物船が悠々と遡上していく。かなりの速度が出ているようだ。少なくとも道路を走るバスのスピードに近いものはあると思われる。 

コールカーターから楽に日帰りできる距離ではあるが町中に宿泊施設は多く、簡単な食堂を併設しているところもある。適当に腹ごしらえしてから商館跡に向かうことにする。 

幹線道路に貼り付く形で町が続いているが、通りから逸れて河岸の商館跡に至る小道に入るすぐ手前で5ルピーの入場料金が徴収される。岸辺では地元観光客相手にゴザやシートの上で料理を作る人たちがいる。頭上を見上げると、砂糖ヤシに素焼きのツボが取り付けられている。その樹液を集めてから、これを煮詰めて粗糖を作る人たちも何組かある。 

商館の建物がきちんとした形で残っているわけではないことは知っていたが、現地を訪れてみてびっくりする。ごく一部の基礎部分は残っているものの、『ここが東インド会社の商館跡である』と感じさせるものはほとんどないからである。 

こうなってしまった理由には、もちろん史跡として顧みられることがなかったということもさることながら、元々建物があった部分が大きく河に浸食されたこともあるようだ足元には大量の赤レンガ片があり、どれもすっかり角が丸くなっている。これらはかつてここに存在した建物の名残であろう。想像力を最大限に発揮して、往時の様子を想像してみる。 

商館跡の見物後、サイクル・リクシャーで鉄道駅に向かう。コールカーターからのバスを降りたところのすぐ近くである。幸いすぐに次の電車が来るとのことであったし、想像していたほど込んでいるわけではなかった。シアルダー駅まで2時間ほどとのこと。 ダイヤモンド・ハーバー駅はこの支線の終着駅だ。

電車は田園風景の只中を走る。大半は刈り入れが終わった殺風景なものだが、ごく一部では苗代があり、田植えの風景も見られる。時期外れの田植えの際の稲の種類は違うのだろうか、それとも夏に育成するものと同じだろうか?途中駅ではホームに籾を広げて乾燥させていたりする。のんびりしたものである。 

カルカッタではいろいろな地域から来ている人たちが多いため、人々の顔立ちには様々なものがある。だがこの車内はほとんどベンガル人ばかりのようで、乗客たちの顔を眺めているとあたかもバーングラーデーシュに来たような気にもなる。 

美しい田園風景はホータープルという駅でほぼ終わる。そこから先は田畑と市街地が入り混じり、そしてやがてカルカッタ郊外に出た。ほどなくバリーガンジ駅に着く。界隈で所用があるため、ここで下車する。

コールカーターのダヴィデの星 4

 

ひとつ西側を走るポロック・ストリートにベテル・シナゴーグがあるのだが、通りを挟んだ向かいにある建物は、元ユダヤ人学校であったものだが、現在は郵便局として転用されている。

元ユダヤ人街といっても、そのユダヤ系の人々がほとんどいなくなってしまったこの街で、シナゴーグを管理しているのは、やはりイスラーム教徒たち。訪れる人もほとんどなく、ヒマそうにしている彼らに『パーミット』を提示してカギを開けてもらい建物の中を見学する。 

内部ではASI(インド考古学局)の手による修復工事実施中であるため、ちょっと落ち着かないのでは?と予想していたが、作業自体はのんびりと進行中であるため、堂内に組まれた足場のような障害物があるものの、端正な建物の内部を自由に見学することができた。 

ベテル・シナゴーグを後にして、歩いて数分のところにあるマガン・ディヴィッド・シナゴーグに行く。ユダヤ建築について素人の目には、こちらのほうが華やかで印象深かった。 

ふたつのシナゴーグで、ともに現在進行している修復作業が終了すれば、本格的に歴史遺産としての公開が始まることになるようだ。 

マガン・ディヴィッド・シナゴーグの隣には、この街最古のユダヤ教会であるネヴェー・シャローム・シナゴーグが無残な姿を晒しているのだが、こちらは修復する予定も公開する予定もないのは残念である。

<完>

コールカーターのダヴィデの星 3

 

先日も記したとおり、ムンバイーでユダヤ教施設も標的となった2008年11月26日のテロ以降、ムンバイーのシナゴーグ外の路上では常に複数の警官たちが見張りに付くようになっている。 

同様にコールカーターのシナゴーグも『一見さんはお断り』といった具合になってしまっている。公には現在ふたつとも改修中であるためだが、それ以外にセキュリティ管理の体制が整うまでは一般公開を控えるようにという警察からのアドバイスがあるのだそうだ。 

実はベテル・シナゴーグ、マガン・ディヴィッド・シナゴーグ両方とも、今やユダヤ系コミュニティによる宗教施設として機能していない。コールカーターに常駐するユダヤ教司祭はすでにないうえに、同市に常住するユダヤ系人口は10~15人程度とのことである。礼拝を実施するには男性メンバーが最低10名は必要であることから、もう長いこと行われていないそうだ。その在住者にしてみたところで、全員高齢者とのことだ。 

そんなわけで、ふたつのシナゴーグは2007年からASI(インド考古学局)にその管理を委ね、文化財として保護されるようになっている。ただし本格的な修復の手が入るなど、きちんと動き出したのは2010年後半になってからのことだ。現在も工事継続中であるなど過渡期にある。 

そんなわけで、建物内部はもとより敷地内に入るのでさえ『パーミット』の取得が求められる。パーミットといっても、あるユダヤ系人物あるいはその代理人に手書きのメモをもらうだけのことである。シナゴーグの管理人に対する『この人にシナゴーグを見学させてあげてください』といった内容の走り書き程度のものである。その『パーミット』のためにコンタクトする先は以下のとおり。 

Nahoom & Sons Private Limited

Shop No. F20, New Market 

リンゼイ・ストリートに面した、屋根の付いたニューマーケットにあるベーカリー兼コンフェクショナリーである。英領時代から続いており、このマーケットの中でも最古参の部類ということになるようだ。ナフーム(Nahoom、Nahoumと綴られることもある)という名の示すとおり、ここはユダヤ人経営の店であり、今のコールカーターでは非常に珍しいものとなっている。ここで一世紀以上に渡り同じ商いをしているとのことだ。時代がかった店内は英領期の面影をよく残しているのではないかと思う。 

『ナフーム』といえば、英領期のこの街を代表する洋菓子屋のブランドであったようだ。年齢90歳を越えている現在の当主は創業者の孫であるという老舗。それだけでもこの店を訪れて、パンなり菓子なりを買って味わってみる価値がありそうだ。 

そのD氏は高齢であるにもかかわらず、今も毎日元気に店に出ているそうだ。残り少なくなったコールカーターのユダヤ人コミュニティの顔役として広く知られている人物であるため、この街のユダヤ関係の記述やメディアなどで彼の名前をしばしば目にする。 

私が訪れたときは不在で、彼の代理としてレジを任させている中年のムスリム男性が対応してくれて『パーミット』とやらを書いてくれた。その足でとりあえずベテル・シナゴーグに向かう。 

ベテル・シナゴーグのあるポロック・ストリートは、先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街からごく近いところにある。一本手前にはエズラ・ストリートは、19世紀のこの街で不動産王として名を馳せたディヴィッド・ジョセフ・エズラに因んで名づけられたもの。かつてこのあたりはユダヤ人街といった様相であったらしい。 以下の画像は現在のエズラ・ストリートの眺めである。

ムンバイーのユダヤ資本がサッスーン・ドックを建設し、今日もデイヴィッド・サッスーン・ライブラリーが同市のユダヤ資本を代表した一族、サッスーン家の栄華を今に伝えているように、コールカーターでは不動産、金融、タバコその他の産業を通じて富を築いたエズラ家の名残を目にすることができる。 

それは今も名前の残るエズラ・ストリートであり、彼が寄進した土地に建てたベテル・シナゴーグであり、チョーリンギー・マンションでもあるが、視覚的に最も印象的なのはアール・ヌーヴォー建築の傑作、エスプラネード・マンションだろう。 

外観もさることながら、内部がどうなっているのか大変興味があるのだが、今も現役の建物であり、文化財として公開されているわけではないのは少々残念である。 

<続く>

コールカーターのダヴィデの星 2

 

英領のインド帝国首都であったがゆえに、バグダーディーの人々を引き寄せる商業的な誘因があったようだが、英領期以前からベネ・イズラエル、コーチン・ジューといったユダヤ系の人々が定着して活動していた亜大陸南西部と違い、コミュニティの人口規模はコンパクトなものであったようだ。 

1798年にコールカーター入りしたシャローム・コーヘン以降、英国本国から極東の香港や上海までを繋ぐ拠点としてのこの街で、オピウムやインディゴといった当時のインドならでは物産をはじめとする商品の国際取引、ラクナウを首都としたアワド王国、ランジート・スィン率いるパンジャーブのスィク王国との商売等で順調に成長していく。 

1826年にはこの街で最初の正式なユダヤ教礼拝施設、ネヴェー・シャローム・シナゴーグが建設された。だがその時点でもこの地のユダヤ人口は200を数える程度であったという。その建物は今も残っており、マガン・ディヴィッド・シナゴーグのすぐ隣にあるのだが、すでに廃墟といった状態で内部は公開されていないのは残念だ。 

しかしその後、1860年あたりでは600人、19世紀末には1900人を越えるまでに成長している。その頃にはパークストリートからサダルストリートにかけての地域で仕事場や住居を構えるユダヤ人たちも多くなっている。 

初期のバグダーディー・ジューたちの多くは、出身地の言葉であるアラビア語を話し、装いもアラビア式であった。だがこのあたりになると英語に洋装となり、疑似西洋人といった具合になってくるとともに、資本を蓄積してジュート工場、タバコ産業、保険業、不動産業等といった分野で大きな商いをする人々が増えてくる。 

1880年代には最初のユダヤ人学校がオープンする。それから20世紀前半にかけていくつか出来たユダヤ人学校の中には閉校してしまったものがあるいっぽう、ユダヤ人子弟の入学が皆無であるにもかかわらず、経営母体の民族色を薄めた一般的なイングリッシュ・ミディアムの学校として存続しているものも少なくない。 

タイムス・オブ・インディアによる以下の記事などはまさにその典型だろう。生徒たちのマジョリティがムスリムの『ユダヤ人学校』なのだそうだ。

The schools are Jewish, its students Muslim (The Times of India) 

1940年代前半、コールカーターのユダヤ人人口は最盛期を迎えるが、当時この街が彼らにとってそれほど魅力に満ちていたというわけではなく、日本軍によるビルマ侵攻から逃れてきた同国在住の同朋たちが逃れてきた結果である。彼らはもともとコールカーターやムンバイーから移住した人たちであったが、戦争という不幸な原因により『出戻り』となったわけである。 

インド独立といういわば『プッシュ』要因に加えて、イスラエル建国という『プル』要因もあり、それ以降はユダヤ人たち、とりわけ財力と能力に恵まれた人たちほど、インドを出てイスラエル、米国等に新天地を求めて流出する動きが続いた。 

もともとパレスチナ・イスラエル問題の進展により、もともとパレスチナに暮らしていたアラブ人と帰還運動に関わるユダヤ人たちとの衝突が始まるまでは、アラビア各地でユダヤ人たちはアラビア人たちと平和裏に共存してきた。それ以外の国々においてもムスリムとユダヤ人の関係はごく近いものであった。 

今でもシナゴーグの管理人や雑役などを引き受けている人たちはたいていムスリムであるし、ユダヤ人地区とムスリム地区とは隣り合っていたり、重なっていたりもする。 

それだけに2008年11月26日にムンバイーで発生したテロにおいて、ユダヤ教徒のコミュニティ施設として機能してきたナリーマン・ハウスがイスラーム過激派の犯行グループの標的のひとつとなり、司祭夫妻とそこに居合わせた訪問客が犠牲となったことは大変な衝撃であったことは想像に難くない。 

<続く>

コールカーターのダヴィデの星 1

 

先日取り上げたコールカーターの旧中華街近くに、見応えのあるシナゴーグがふたつある。ベテル・シナゴーグ(Beth El Synagogue)とマガン・ディヴィッド・シナゴーグ(Maghen David Synagogue)である。それぞれ『神の館』『ダヴィデの星』といった意味の名のユダヤ教礼拝施設だ。 

どちらも旧ユダヤ人街にある。先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街同様に『旧』としたのは、もはやそこはユダヤ人たちが住む街区ではなくなっているためである。 

マガン・ディヴィッド・シナゴーグに至っては、その外観がプロテスタントの教会にありそうな形をしていることから、これをユダヤ教会と認識している人は界隈にほとんどおらず、それとは裏腹にそこからふたつほど裏手の路地にあるアルメニア教会をシナゴーグと勘違いしている人たちがとても多いようだ。 

もちろん今の市井の人々には何の縁もない施設であるため無理もない。またユダヤ人とアルメニア人とでは、信条や先祖のやってきた場所は違うものの、ともに民族意識が強く、ビジネスマインドに富む商業民族であること、植民地時代には政府当局との繋がりが深く、支配者にごく近い位置で儲けてきた人々であるなど、似ている部分がかなり多い。加えてインドの都市部では往々にして居住地域も重なっていることが多かったこともあるがゆえの勘違いということもあるのかもしれない。

そもそもコールカーターのこのエリアは、植民地期には白人地区でもなく、かといって『ネイティヴ』の人々のエリアでもない、つまり当時の言い方にならえばWhiteではなく、かといってBlackでもないGreyな地区ということであったらしい。 

この街にやってきた最初のユダヤ移民の名前や出自ははっきりわかっているようだ。その人物がシャローム・コーヘンという人物で、現在のシリアのアレッポ出身であることに象徴されるように、コールカーターのユダヤ系移民の大半はいわゆるバグダーディー・ジューと呼ばれる人々である。 

インドのユダヤ人にはおおまかに分けて三つのグループに分かれる。2世紀にパレスチナの故地を離れ、そしてインドに渡ってきたということになっているベネ・イズラエルというインド化の度合いが非常に高い人々、そしてコーチン・ジューと称されるより高い職能集団ならびに商業コミュニティとして繁栄してきた人々。コーチンの藩王国で庇護を受けてきたグループだ。そして三つ目がバグダーディー・ジューで、主に比較的時代が下ってからアラビア地域からやってきた人々を指す。 

『バグダーディー』と言っても、必ずしも現在のイラクのバクダードからやってきたというわけではなく、アラビアのアデン、アレッポ、ダマスカスその他さまざまな地域からやってきた人々が含まれる。さらには非アラブのイランやアフガニスタンからやってきたユダヤ人たちもこの範疇にあることには注意が必要だろう。 

先に挙げた三つのカテゴリーの人々以外にも第二次大戦時には欧州からインドにやってきた人々もあった。ナチス勢力下での弾圧から逃れるため渡ってきたユダヤ人たちである。 

他にもミゾラムには『ユダヤ教徒』を自称するモンゴロイド系のコミュニティが存在し、ユダヤの『ロスト・トライブ』のひとつではないか?という説もあるのだが、出自が深い謎に包まれているため、通常は在インドのユダヤ人の範疇に含まれないようだ。 

<続く>