部族の人々の木曜市 1

オンカデリーという集落で定期市が開かれる日である。

簡単な朝食を済ませて、昨日約束しておいたクルマに乗り込んで出発したのは午前8時。緑と水に恵まれた美しい丘陵地の中を通る州道をひた走る。途中の町で右折すると、そこから先はクルマ1台が通れるくらいの幅で路面もガタガタの田舎道となる。

このあたりからは丘陵地というよりも、山道といった感じになってくる。傾斜はさほどでもないが樹木が多い。そうした中にところどころ耕作された土地が見られる。この地域を含むオリッサ州の内陸部は、インド有数のトライバル・エリアとして知られている。

地形としては「ゆるい山間部」とでも形容しておこうか。他の地域とそれほど隔絶した世界というわけでもなさそうなのに、どうして様々な部族が多く残されているのだろうか。このエリアが発展から取り残された地域であることと、州自体の人口密度が高くないため、人口圧力もあまりないということがあるかもしれない。

ただしオリッサ州は地下資源が有望な地域でもあり、そうした資源開発と先住民の権利との間に生じる摩擦も絶えない。近年話題になっているものとしては、インド系英国資本(ムンバイーで創立され現在本社をロンドンに置いている)の ヴェーダンタ社によるオリッサ州のニヤームギリーでの操業は、元々ここに暮らしてきたドングリヤー・コンド族に対する『迫害』ということになり、深刻な人権侵害として複数の市民団体等から告発されている。

The Story of a Sacred Mountain (Tribal International)

Niyamgiri and Vedanta (Environmental Protection Group, Orissa)

運転手はオンカデリーに行くのは初めてのようで、このあたりからは途中で人に尋ねながら走っている。そうした相手の中には普通のオリッサ人もあれば、見るからに部族らしき人もある。オンカデリーに着いたのは午前11時くらいであった。コーラープトから3時間ほどかかった。

普段は静かなごく小さなマーケットであるが、毎週木曜日だけは近隣地域から部族の人たちが大勢集まって交易する場所として知られている。オリッサ西部の部族地域ではこうした場所がいくつもあり、場所により曜日は様々なのだが、こうした形で市場が開かれているらしい。

オンカデリーの集落の入口あたりでクルマから降りるが、通りにはずいぶん沢山の人々が集まっているのに驚かされる。その中には街中では見かけない格好をした部族の人々の姿がとても多い。ボーンダー、ガダバー、ディダイその他の部族たちである。

弓矢を持って歩くボーンダー族男性の姿が目立つ。この部族の女性たちはカラフルなビーズをあしらった頭飾りと特徴的な衣装を着ている。皆かなり小柄である。女性たちはマーケットで自家醸造の酒を売っている。大根から造ったものと米から造ったものがある。世の中に大根から出来た酒があるとは今日初めて知った。密造酒ということになるが、少数民族の生活習慣なので、定期市ではお目こぼしなのだろう。

ボーンダー族の男性たちにしてみれば、弓矢を身につけているということは、ちょうどスィク教徒にとってのキルパーンのように、男性としての象徴的な意味があるのだろうが、武器を手にしている男たちが酒を飲んで酔うという図には穏やかでないものがある。

ここに来てちょっと驚いたのは、外国人のツアー客らしき人たちの姿がかなりあることだ。最初に見かけたのは5名の西洋人グループ、そして7、8名の日本人グループがいた。オリッサの部族地域についてインターネットで検索してみると、地元オリッサや外国のツアー・オペレーターによる企画ものを紹介するサイトが引っかかったりするが、このようにして訪れる人々は決して少なくないようだ。

そのためだろう、普通に市場の眺めを撮影している分には問題ないが、特定の人物を近くで撮る(もちろん相手の同意が必要)場合、10ルピーを撮影対象の人物に渡すことが習慣になってしまっている。

都市部において、社会の周縁部から出てきた部族の人たちは、バーザールで売られているごくありきたりの衣類を着ているものだ。作るのに手間ヒマのかかる民族衣装よりも、バーザールで購入する大量生産された安価な衣類のほうが経済的に楽だろう。

また民族独自の衣装は、自らのアイデンティティを象徴するものではあるが、そうした『記号』的なものを見に付けることにより、インド人の大海の中では差別ないしは軽視される対象としての目印ともなり得る。

オンカデリーのような集落の外の山々はまるごと部族社会であり、彼らの普段の生活圏内であるためだろう。まだまだ伝統的ないでたちをしている人たちが多い男性たちの間では洋服を着ている人々がかなりあるが、女性は民族衣装を着ている割合がとても高い。部族の人たちにとっては、山あいの村から『町に出る』週に一度のハレの日であるため、こうして着飾りたいということもあるのだろう。

もちろんそういう格好で各部族の人々が集まってくるがゆえに、そうした定期市を見学するツアーが企画されていたりもするわけである。そうしたツアーでは部族の村などにも訪問するようだ。

さらに観光化が進めば、こうした場で民族衣装を纏う動機が『観光客に撮影させて報酬を得る』という具合になっていくことも考えられる。ちょうどタイ北部の山岳少数民族でそういうケースが多いように。少なくとも前述の『撮影=10ルピー』という慣習から、これを臨時収入の手段として認識していることは間違いないだろう。

あるいは各民族の日用品等が『伝統工芸品』として販売されるようになったり、特徴的な衣装(往々にしてオリジナルをかなりアレンジしたもの)が観光客目当てに製造・販売されるようになったりすることもあるかもしれない。

定期市が開かれるのは、オリッサ人が主体の集落の中にあるマーケットである。そのため建物の中や常設のマーケットのスペースで商うのは、主にオリッサ人たちである。それに対して路上や空きスペースなどで、部族ごとに集まって品物を広げているのは集落の周辺地域(・・・といっても山道を数時間もかけて徒歩でやってくる人々もある)からやってきたマイノリティの人々である。

部族の人々は、酒以外には主に村で収穫した野菜や果実といった農作物を販売している。定期市は、彼らが現金収入を上げる手段であり、同時に村では手に入れることのできない工業製品を購入する機会でもある。

ロンリープラネットのガイドブックには『Onkadelli should only be visited with a professional guide』などと書かれていたため、一体どんなところかと思っていたが、案外普通の田舎のマーケットである。

ただ普遍的なマーケットと視覚的に異なるのは、様々な格好をした部族の人々が大勢来ていることだ。加えて密造酒が堂々と販売され、主に部族の人々がこれをおおっぴらに酌み交わしていることだろうか。

ただしここに集まっている部族の人々の姿をいろいろ目にしても、彼らの具体的な文化背景等が皆目わからないのはもったいない。そういう意味でやはりこの地域に精通するガイドを雇って訪れたほうがいいだろう。

少数民族目当てで定期市を訪れる外国人客がチラホラいるため、オンカデリーのマーケットでもガイドを自称する者たちが存在する。だが彼らの知識は非常に限られたものであり、ひどくブロークンな英語(並びにその程度のヒンディー)しか使えない人たちなので、敢えて雇ってみるメリットはあまりないように思う。

ただしこの地域の住民である彼らは、少数民族の村に囲まれたこの小さな町で生まれ育っているため、幼い頃から公立学校でそうしたマイノリティの子供たちと学校で机を並べ、また現在も日常的にそうした人々と接しているという生活環境下にあるため、近隣の民族の専門的な知識はほとんどなくても、彼らの中に知己が多く生活習慣等日常的なトピックにはけっこう詳しかったりするのだが。

<続く>

コーラープト 3 社会活動に熱心なジャガンナート寺院

 町中にあるトライバル博物館を訪れた。この地域の様々な少数民族に関わる展示がなされている。各民族が民族衣装を着けている姿の写真、生活用具や家屋の一部の再現、生業についての紹介その他があり、なかなか参考になる。 

コーラープット地域における稲作の歴史は長く、太古の野生種で原種の稲やその近隣種などが、今でもこの地域で栽培されているとのことだ。そうした原種なのかどうか、それらと関わりのある種類の稲なのかどうかは知らないが、現在部族の人々が村で栽培している稲の種類の展示もある。米の種類があまりに沢山あることに驚かされる。 

この博物館は政府の施設ではなく、コーラープットのジャガンナート寺院が設立した団体による運営である。入場無料(代わりに若干の寄付を求められる)で写真撮影も自由。部族に関するワークショップやメーラーも時折開催されるようだ。 この寺院は近くに部族の子弟が学校に通うためのホステルも運営するなど、まるでキリスト教団体のように社会活動に力を入れている。

学校に通う部族出身の子弟のためのホステル

博物館のすぐ東側にそのジャガンナート寺院がある。建築自体はプリーにある同名の寺院を模して建てられたものである。プリーのそれよりもかなり規模は小さいが、ここは外国人でも入場することができる。

寺院への階段の参道の両脇には、寺院が運営する宿泊施設もある。これらはいわゆるホテルである。収益事業としてやっているのだろうか。参道に向かって右側はアティテイ・バワン、左側はアティティ・ニワスという名の宿だ。前者のほうが規模が大きく、食堂もあるが、後者は宿泊のみである。前者の食堂には菜食ターリーしかないが、これはジャガンナート寺院の本殿境内の脇でプラサードとして参拝客たちに出しているターリーと同じ内容だ。 

これらの宿はなかなか人気のようで、団体だか家族連れだかの客たちが次々に到着している。他にこのクラスの宿がないこと、私が利用した宿は昨年オープンであまり知られていないことなどから、現在競合しているのは近くで州観光公社が運営するヤートリー・ニワースくらいしかないということもあるだろう。 

コーラープトへは、オリッサ州都のブバネーシュワルはもとより、西ベンガル州都のコールカーターからも直通列車が運行している。この町自体にも部族の人々は多く出入りしており、周囲は基本的に部族エリアであることから、今後部族の人々のマーケット等を見学するといった形の観光が盛んになってくると、ここをその拠点として訪れる人々が増えると思われる。 

<完>

コーラープト 2 北インドと南インドの境目?

 町中では、マーケットその他の路上で野菜や生薬を売っている人々の中に部族の人々の姿がとても多い。周辺の村からバスや徒歩で町まで出てきてこうやって商売しているらしい。

 そうした人々の多くは自家製とおぼしき、通常よりも小ぶりな野菜類を扱っていることが多い。並べている量も総じて少ないことが多く、こんなので商売になるのだろうか?と気になってしまうような人も少なくなかった。自家消費から剰余が出た分を現金と交換するために行商しているというケースもあるのかもしれない。 

むしろの上で石の細かい破片のような鉱物を 広げている年配女性もいた。このあたりの部族の人々はたいていそうだが、自身の言葉以外にオリヤー語しか理解しないので仕方ない。

そうした中に男性も女性もいるのだが、特に女性のほうが目立つのは、特徴的な民族衣装を着ているからだろう。サーリーよりも丈の短い布を身体に纏っている。ペチコート類は下に着けておらず、太古の壁画に出てくる女性の姿のようでもある。

 この国では指定部族に対する留保制度があるため、おそらく政府関係の仕事に就く人は少なくないことと想像できる。また商業的に成功して、町で店を構えたり、家を建てている人もけっこうあるのかもしれない。もともとのスタート地点が低いことから、そうした形での社会進出は決して易しくはなかろう。それでも都市化して暮らしている人たちも少なからずあることだろう。 

 宿泊先のHotel Raj Residencyは、まだ新しいから快適というだけのことで、時間とともに『標準化』していくようなので特にコメントすべきものはないのだが、ここのグラウンド・フロアーのレストランはなかなか面白かった。

 何が楽しいかといえば、通常ドーサ類といえばヴェジタリアンだが、ここでは『ノンヴェジ・ドーサ』がいろいろあるのだ。

エッグ・ドーサ、チキンキーマ・ドーサ、マトン・ドーサetc.といった具合で、要はマサラー・ドーサーを注文すると中にマサラーで味付けしたポテトが入ってくるが、ノンヴェジではこれが卵であったり肉類であったりするわけだ。いろいろ試してみたが、どれもビールによく合う感じだ。 

他にも変り種で甘いドーサ類があり、コーヒー・ドーサにはネスカフェが入っているらしい。こちらは残念ながら試していないが、こうした『邪道』なB級グルメ的なアイテムがいくつもあり、食に対するこだわりも関心も特になく、日々クルマやバイクにガソリンを補給するような感覚で食事=作業をしている私でさえも、思わずニヤリとしてしまうような料理がいろいろあるのが良かった。 

それはさておき、オリッサ州南部で、アーンドラ・プラデーシュに近いためだろう、町中の食堂で用意している食事にはかなり南インド的なアイテムが多く見られるうえに、北インド料理にも南のテイストが加わっている。たとえばチキン・モグライを注文すると、ココナツで仕上げてあったりするなどといった具合だ。 

町中に貼られたポスター等の中で、アーンドラ・プラデーシュをはじめとする南インドを本拠地とする聖者たちの姿も数多く見受けられる。プッタパールティのサッティャ・サイババの関係施設もあった。

 

このあたりは、ちょうど北インドと南インドの境あたりという気がする。 

<続く>

コーラープト 1 近郊のコートパドへ

 列車内で目が覚めた。窓の外は起伏のある緑豊かな大地。ところどころに川が流れる田園風景が美しい。 

ダマンジョーリーという駅では沢山のタンク車両が線路上に停車している。どれもNALCOと書かれている。National Aluminium Company Ltd.という政府系企業の略称である。 

地域で採れるボーキサイトを原料とするアルミの生産を行なう拠点となっており、ここは丸ごと『NALOの町』であるらしい。 

朝9時半にコーラープット着。町は駅から少し離れており、乗り合いオートを利用する。このあたりは海抜870 m前後。高原というほどでもないが、お茶の栽培ができそうな丘陵地帯である。 

ここでの宿泊はRaj Residencyという2009年開業のホテル。まだ新しいので部屋等はきれいだが、ちゃんと手入れされているわけではない。そのため順調に『標準化』が進んでいるため、今後ずっと快適であるという保証はない。 

客室内の照明が明るいのは助かる。日記を書く習慣があるため、机があるとないとでは効率も疲労度もずいぶん違う。だがエコノミーな宿で、室内に机があるところは案外少ないものだ。何かしら書く習慣のある人以外にはほとんど無用のものであるからだろう。 

昼からクルマでコーターパドという町に行く。ここの町外れにある職人たちが暮らしている一角では、多くの家庭で手作りの布地を作っている。糸をつむぐところから仕事が始まり、染色から機織まですべての工程が手作業である。 

多くは綿地だが、タサルつまり野蚕を紡いだ糸で織ったショールもあった。タサルといえば、ビハールやジャールカンドで採れるものがよく知られているが、ここオリッサでも産出しており、アーディワースィーの人たちが収穫してくるとのことだ。 

コーラープトからジャイプルを経由して行ったが、ところどころ道がかなり悪い部分がある。ジャイプルはローマ字では新聞等でしばしばJaipurと書かれることがあるものの、概ねJeyporeと植民地時代風の綴りで書かれる、 

<続く>

ヒマラヤのドン・キホーテ

 ネパールに帰化し、自らNNDP (Nepal National Development Party)という政党を率いてネパール政界への挑戦を続けている宮原巍氏について書かれた本である。 

氏がヒマラヤ観光開発株式会社の創業者であること、ネパールのシャンボチェにホテル・エベレスト・ビューを建設した人物であることは以前から知っていたが、どういう経緯でネパールに根付くことになったのかについては、ほとんど知識がなかったこともあり、この本を見かけた途端とても興味が引かれた。 

もともと登山を通じて、このヒマラヤの国との縁が出来たそうだが、その後再びネパールに渡り、当初は工業の振興を志したが、この国の現状を踏まえたうえで観光業振興に力を注ぐことになったということらしい。 

2008年の選挙の結果は残念なものであったが、70歳を越えても決して立ち止まることなく、長らく暮らして来たネパールの国政に打って出るというダイナミック行動力には脱帽である。 この本によると、ネパールで政党がマニフェストを作成するのは、彼のNNDPが初めてのことであるとのこと。同党のウェブサイト上で、2006年の結党時に示したマニフェストが公開されている。 

マニフェスト Part 1

マニフェスト Part 2 

ところで、ヒマラヤ観光開発株式会社のウェブサイトからは氏のブログにリンクされている。同じくこのサイト上にある≪世界最高峰・エベレストの見えるホテルへ!≫というタイトルの下の山岳の画像をクリックすると、ホテル・エベレスト・ビューの紹介ページに飛ぶ。 

海抜3,880mに位置する日系ホテル。掲載されている写真も魅力的だが、サンプルビデオを再生してみても、そこが絶景の地であることがうかがえる。高いところは苦手なのだが、いつか宿泊してみたいと思っている。 

書名:ヒマラヤのドン・キホーテ

著書:根深 誠

出版社:中央公論新社

ISBN-10: 4120041719

ISBN-13: 978-4120041716