旧くて新しいホテル3

メヘラーンガルを仰ぐ絶好のロケーション

このほど、そうしたハヴェーリーから転用されたホテルに宿泊する機会を得た。場所はジョードプルである。Krishna Prakash Heritage Haveliというそのホテルは、マールワール藩王国時代の1902年に警察幹部が自宅として建築した屋敷。後にその身内で藩王国の内務大臣の職を務め、インド独立後は国会議員を務めた人物の居宅でもあった。

この大きな建物の中には身内の複数の世帯の人々が暮らしていたに違いない。中庭を核にして周囲にいくつかの部屋が並ぶ形になっているセクションが複数あり、それなりのプライバシーは保たれていたものと考えられる。

今のオーナーはこの屋敷をホテルに転用して現在に至っている。部屋はいくつものタイプがあり、その手前に小さな中庭があるものもある。ひとつひとつ違うので最初に見せてもらうといいかもしない。暑い時期には敷地内にある小さなプールで涼む宿泊客も多い。

メヘラーンガルの城壁を間近に仰ぎ見るロケーション。夕方から午後9時くらいにかけて美しくライトアップされた雄大な城砦を眺めながらの夕食は実にロマンチックだ。

最初からホテルとして建てられた施設の場合、部屋間のグレードの差はあれ、ある程度標準化されているのに比べて、ハヴェーリーの個人の屋敷であったがゆえに、部屋のサイズや居心地は様々だ。館の主やその直近の家族が寝起きしたところもあれば、どちらかといえば隅に置かれていた身内もいたかもしれない。もちろん使用人部屋だっていくつかあったはずなので、部屋に荷物を置く前にいくつか部屋を見せてもらったほうがいいだろう。

同じ旧市街で付近にはHeritage Kuchman HaveliやPal Haveli等、古いハヴェーリーを転用したヘリテージホテルがいくつかある。ちょっと覗いてみると、きっと宿泊してみたくなることだろう。

<続く>

旧くて新しいホテル2

そうした中、古いハヴェーリー、地域の伝統的な屋敷がホテルに転用される例が相次いでいるようだ。今からだいぶ前にシェーカーワティー地方を訪れたことがある。この記事を書いたのは2005年であったが、初めて訪問したのはそこからさらに4年前なので、今から10年くらい前のことになる。

かつてその地方が陸上交易で栄えた時代に富を築き上げた商人たちによって建てられたハヴェーリー(屋敷)が沢山残っていることで知られている。家の内外を問わず、壁のあらゆるところがカラフルな絵や模様で飾られているため、『オープンエア・ギャラリー』として知られている。

訪問時、地元の土豪の洋風の館の他に、ごく新しい宿泊施設で内部をハヴェーリー風に仕上げたものを見かけた。旧商家のハヴェーリーについては、博物館となっているものをひとつ見学したが、あとは今でも間借人たちが屋敷内を細分化して賃借しており、ほとんどは内部を見学できるような状態ではなかった。

そうした現在でも人々が暮らしている住居については、『ハヴェーリーに興味がある』と話した相手がたまたまそうした家屋の賃借人だったため好意で連れて行ってくれたり、あるいは道端で少し話をした子供に『君の家はどこ?』と尋ねると連れて行ってくれて、大人の家族たちの困惑したような表情を横目に、内部をチラリと見せてもらったくらいである。

どちらにしても、現在間借している人たちは、たいていの場合、これらを建てた人たちの子孫でもなければ身内でもない。陸上交易の時代が終わってからは商家の人々は都会に出てしまっており、血縁でもなんでもない人々が賃借しているのが普通だ。

それだけに建物の内外は荒れるに任せているといった具合で、もう少し文化的、歴史的な価値が見直されることがあってもいいのではないかと思っていた。それらを少しでも広く知ってもらうために、こうしたハヴェーリーのうちのいくつかが宿泊施設として転用されれば、その用を足すかもしれないし、シェーカーワティー地方の魅力の内外に広める役目も期待できるのではないかと思った。当時、この地方のマンダーワーという町のあるハヴェーリーでは大掛かりな改修作業が進行中だった。

『これからホテルになるのだ』という話を聞いて、これからはシェーカーワティーの宿泊先の目玉はこういうタイプの施設になると確信したものだ。

ロンリープラネットのガイドブックを開いてみると、シェーカーワティーの記事にはいくつものハヴェーリーを転用した宿泊施設の紹介がある。2000年及び2001年に私が訪れた際、ここ多いカラフルなハヴェーリーをホテルに転用したらどんなに良いことかと思ったものだが、今ではそれが実現されている。 ヘリテージホテルの新しい流れである。

ラージャスターンの北東端に位置し、デリーやハリヤーナー州から週末を利用して訪問する家族連れ、友人連れなどが多い。距離的に近いのに、ずいぶん地域色の濃い地域である。こうした建物が比較的エコノミーな料金で利用できることも、かなり喜ばれているのではなかろうか。

もちろん、見事なハヴェーリーが残っているのはシェーカーワティーに限らない。他のところにもそれぞれの地域のテイストの興味深い屋敷が沢山残っている。だがそれらの多くは今も個人の邸宅であるがゆえに、通常私たちがそれらの中を見物する機会はあまりないのである。

<続く>

旧くて新しいホテル1

インドでホテルといっても様々なタイプがあるが、かつて中級クラス以上のところは一部の例外を除けば、概ね洋風の宿泊施設が一般的であった。料金帯により建物、室内、接客その他サービス等のグレードが変わっていき、個人所有から大きなホテルチェーンが運営するものまで、経営母体は様々ではあるものの、宿泊施設としてはあまり特徴のあるものは多くなかった。

一部の例外的なタイプのホテルといえば、ヘリテージホテルということになるが、大別してふたつに分けられる。植民地時代から主にイギリス人を初めとする欧州系の顧客相手に営業を続けてきた由緒ある『コロニアルホテル』あるいはインド独立時に併合された旧藩王国の地域で、王族の宮殿を宿泊施設に改装した『宮殿ホテル』がそれらの代表格だろう。前者も後者もトップレベルのものは高級ホテルチェーンが運営を担っていることが多いが、それ以下は政府系の公社や小規模な民間業者が請け負っていたりといろいろで、前述の洋風の宿泊施設と運営形態は大差ない。

『コロニアルホテル』には欧印折衷の植民地建築を後世になってから宿泊用に転用したものも含めてよいだろう。またダージリンやシムラーのようなヒルステーションでは、植民地期に欧州人クラブであった建物ないしは欧州人が建てさせた邸宅などが宿泊施設となっているものもある。だが『宮殿ホテル』においても、ほぼ洋館といった風情の建物も少なくないため、両者の境目は判然としない場合もあるだろう。

細密画の手法が盛んであった時代には藩王その他の貴人たちの横顔が描かれていたものだが、インドにおいてイギリスの植民地化が進むに従い植民地当局の庇護下に入ると、写真技術が伝わったこともあり、近代に入ったあたりでは肖像画が正面から描かれるようになるなど、西洋の影響が大きくなった。建物や調度品等も同様で、ある時期以降は洋風のものが多くなっている。

ともあれ、従前はこれら『コロニアルホテル』『宮殿ホテル』を除き、地域色を感じさせるものはあまり多くなかった。

だが90年代からの高度経済成長とともに始まったインドの人々の間での『旅行ブーム』が起きた。以降、旅行という行動は一定以上の可処分所得のある人々の間で余暇の過ごし方のひとつとしてすっかり定着している。

災害、テロなどが起きれば、たとえシーズンであってもサーッと潮が引くように姿を消してしまう外国人旅行客に比べて、景気の変動があったり、異常気象が続いても人出にあまり影響の出たりしない国内客が増えたことは、観光業の安定的な発展には好ましいことだ。そもそもベースとなる顧客数自体が大幅に増えたことは、観光関連産業の隆盛に大いに貢献し、ひいては旅行インフラの整備へと繋がったことは言うまでもない。

宿泊施設の数は増え、訪れる人々のタイプや好みも多様化する中で、それぞれの土地ならではの『ご当地ホテル』が次々に出てくるのはごくもっともなことであり、今後もそうした流れは続くことだろう。

例えばゴアのパナジでは、ポルトガル時代に建てられた南欧風建築が次々に壊されて味気ない今風の建物に置き換わっているのとは裏腹に、それらをホテルやペンションに転用する例もまた増えている。

もっともこれは建物のタイプは異なるものの、旧植民地家屋という意味で、先に挙げたヒルステーションに点在する英国的な建築物から転用されたものと性格は共通するものがある。ゴアの外から来た人たちにとっては、ポルトガル風建築自体が普段馴染みのないエキゾチックなものであることは間違いないが、これとてコロニアルホテルの一種ではある。

<続く>

美しすぎる大臣の訪印

7/27にインドのクリシュナ外相と会談したパーキスターン外相ヒナー・ラッバーニー・カル氏

今年2月に『美しすぎる大臣?』として取り上げたヒナー・ラッバーニー・カル氏。ちょうどその時に同国の内閣改造時にパーキスターンの外務副大臣に相当する職に抜擢されており、ひょっとしたら将来大化けするかも?と思ったのだが、意外にもその日は早くやってきた。

しばらく空席になっていた外務大臣の職に任命されたのが7月19日。翌日20日には就任の宣誓を行なっている。同国初の女性の外務大臣であるとともに、34歳と最年少での就任だ。パーキスターンのリベラルな顔として、今後しばらく目にする機会が多いことだろう。

就任直後に彼女はPTVの独占インタヴューに応じている。華やかな見た目に似合わず、落ち着いた低い声と自身に満ちた口調でシャープに応対している。演説もかなり上手いのではないかと思われる。

PPP Hina Rabbani Khar Sworn In As Foreign Minister

7月27日にデリーに到着し、45歳年上のインドのS.M.クリシュナ外相と会談。その後マンモーハン・スィン首相、ソーニアー・ガーンディー国民会議派総裁、BJPの重鎮L.K.アードヴァーニー、スシマー・スワラージ等とも会談している。

また在デリーのパーキスターン・ハイコミッション(大使館に相当)では、インドのカシミール地方で分離活動をしている指導者たちとも面会をしている。

今回のパーキスターン外相のインド訪問において、特に大きな成果があったわけではなく、かといって何か深刻な摩擦が発生したということもない。両国側とも粛々と日程をこなして、7月29日にはパーキスターンの指導者が訪印する際のお決まりのコースのひとつになっているアジメールのダルガーに参詣した後にパーキスターンに帰国している。

インドのメディアでは、印パ外相会談について、あるいはインドの他の指導者等との会談についての報道はもとより、スタイリッシュで若くて美しく、身分の高いパーキスターン人としてセレブ的な扱いもしていたのがとりわけ新鮮であった。日刊紙を複数購入して関係記事目にしてみると、彼女の『美』に関するものがずいぶん多い。インターネット上にもそうした調子の記事等がいくつも出ている。ヒナー・ラッバーニー・カル氏には、『重厚なオジサン政治家』にはあり得ない、グラビア的な輝きとヴィジュアルな魅力がある。

Hina Rabbani Khar’s date with India (NDTV Photos)

彼女のファッションについての話題も沢山見受けられた。日刊紙上では、イギリスのケンブリッジ公爵夫人キャサリン(ウィリアム王子夫人)よりもセンスが上、などと書いている記事も見かけた。

Hina Rabbani Khar fashion statement

Meet Pak’s youngest and stylist foreign minister, Hina Rabbani Khar

年齢的にも閣僚クラスとしては異例の抜擢であり、インド側としても彼女が突然、今年2月にパーキスターンの外務副大臣相当職にされてからようやく、『ヒナーってどんな人?』と云々されるようになった。これまで全くノーマークの人物である。

これまでにない若い世代の大臣であることによるしがらみの無さ、類まれな美貌とファッションセンスと相まって、インドでは好意的に迎えられるとともに、隣国との間の友好的なムードを醸し出す効果があったといえるだろう。

だが、出自が大地主層にして政治エリート家族の一員ということはあるものの、パーキスターン政界という、極めてマスキュリンな社会の中で若くしてめきめきと頭角を現してきたヒナー・ラッバーニー・カル氏は、ただのセレブではないし、無垢なお嬢様でもなければ、世間知らずのお姫様でもない。自分の父親かそれ以上の年齢の大物たちを相手に堂々と渡り合うことができる女傑なのだから、とりわけインドのメディアは鼻の下を伸ばしている場合ではない。

彼女の姿に、故ベーナズィール・ブットー氏の面影が見える気がするのは私だけではないだろう。今後の大きなポテンシャルを感じる。

古い写真の記憶

写真やアルバムは本人や家族にとって大切なものだ。年月を重ねるにしたがってその価値や重みを増していく。 その画像に写っている『現実』がどんどん遠いものとなっていくからだ。

大人になってから眺めてみる子供時代の写真、今では年取った親の若いころの写真、社会に出てからずいぶん経ってから、ふと開いてみる学生時代の卒業アルバム、そこには今とは違う自分や家族や友人たちの姿がある。

どれも懐かしい思い出に満ちている。時間の経過とともに記憶の中で特に良かった部分が、非現実的なまでに増幅して思い起こされるものだ。 そうした昔の写真は、さらに時を経てそこに写っている個人やその家族のみならず、そこに記録された時代を知る貴重な手がかりとして、万人にとって価値あるものとなってくる。

インドの古い写真をブログ的に取り上げているOld Indian Photosというサイトがある。1850年代から1970年代にかけての写真が取り上げられている。セピア色の画像の裏に繰り広げられていた当時の日常、そこに写っている人々はすでにこの世に無く、その個々を知る人さえない忘却の彼方に去って行った過去もある。今とはずいぶん違う景色、現代とは異なる装い人々の姿から当時の世相や習俗が伝わってくる。

想像力たくましくして、色褪せたモノクロームの写真に『記憶された』風景の背後に思いを馳せたい。撮影者の目の前にあった当時の日常生活、彩り豊かな失われた昔日をゆったりと眺めてみたい。そこには人々が歩んできた歴史があり、それは言うまでもなく今の私たちの時代に繋がっている。