11年後の処刑台の露

2001年の国会議事堂襲撃事件に関わったかどで収監されていたアフザル・グル死刑囚に対する絞首刑が執行されたのは今月9日の朝。デリーのティハール刑務所で処刑され、同刑務所内に埋葬された。事件から11年2か月後であった。

この事件によってエスカレートした緊張は、南アジアの事実上の核保有国同士が睨み合う、世界最初の核戦争まで一発触発の危険が揶揄されるまでに至り、日本その他の国の政府が自国民をインド・パキスタン両国からの退去を促す事態にまで発展した。

Afzal Guru hanged in secrecy, buried in Tihar Jail (The Hindu)

今月21日にアーンドラ・プラデーシュ州都ハイデラーバードで起きた連続爆破テロとアフザル・グルの処刑に関する関連性の可能性を指摘する声も一部ではある。

Hyderabad Blasts and Afzal Guru hanging link a mere sham? (One India News)

処刑は国内外で波紋を呼ぶことになったが、とりわけこの件によるインパクトが大きかったのはアフザル・グルの故郷カシミールであり、反政府活動の活発化の強い兆しが見られるようになっている。

近年は情勢が沈静化しつつあり、騒乱が始まった1980年代後半以前の主要産業であった観光業の復興の確かな進展がみられつつあった中、今後の成り行きが心配されているところである。

Afzal Guru’s secret execution raises concerns in India (DAWN.COM ※パーキスターン)

The hanging of Afzal Guru is a stain on India’s democracy (The Guardian ※イギリス)

カシミールのインドからの分離要求運動は、当局による逮捕、拘禁、投獄等の恐怖を前にしても怯むことのない活動家たちによって支えられている。もちろんその背後には、外国、つまりパーキスターンのISIや同国を本拠地とする原理主義過激派団体のサポートがあることはよく知られているものの、地元に暮らす人々多数が支持・共感する運動であるがゆえに政府の弾圧を乗り越えて継続されているわけでもある。

マハトマー・ガーンディーが中心となって率いた、イギリスからの独立運動の中で、ガーンディー翁自身も含めて多数の活動家たちが当時の政府当局に拘束され、投獄され、場合によっては命を落としたりしながらも、運動は粘り強く継続されていき、独立を手にするという輝かしい歴史と経験を持つインド自身の過去が、現在のカシミールという土地やそこに暮らす人々の痛みと苦しみと重なるように思われてならない。

テロや暴力を肯定するわけではないが、アフザル・グルの処刑はカシミールの分離を支持する人たちにとって、1929年4月に国会議事堂で爆弾を投げて「インキラーブ・ズィンダーバード(革命万歳)」を叫んで逮捕・収監され、1931年3月にラーホールの刑務所で処刑されたバガット・スィンのイメージと近似したものになるような気がしてしまう。

将来、カシミールがインドから分離独立ないしはパーキスターン側に編入されるようなことは決して有り得ないと私は信じている。それでも、万が一そのような時代がやってくるようなことがあれば、国会議事堂襲撃事件を後方支援したとされるアフザル・グルならびに襲撃実行犯たちは、故郷カシミールのインドからの分離のために自らを捨石とした憂国の志士として、祀り上げられることになるのだろう。

だが民族自決のために血で血を洗うような抗争がこの世にあってよいものなのか、私は大いに疑問である。とりわけインドのような民主主義国家にあっては、「共和国」の名に恥じない平和的な解決がなされることを望みたい。

「外国からの干渉」により、カシミールの政情不安が20数年間も続いているということは、問題の解決を強権による解決を求めた当局の大失態であり「世界最大の民主主義」の至らない部分にツケ込んだ隣国に足をすくわれてしまった結果であるともいえる。

「独立の志士」を生むことなく、異なる土壌に暮らす異なる民族、異なる伝統や信条を持つ人たちが、それぞれ異なる夢を抱きながら、共存・共栄していくことができる平和なカシミール地方を築いていってもらえるよう切に願いたい。

ペリンへ

午前中はガントク市内を散策。せせこましい斜面の街並みに高層建築が増えているため、街路は陽当たりが悪く、寒々とした感じがする。
ガントクの乗合ジープスタンドから出発
予約した乗合ジープは昼過ぎの出発。できればもっと早い時間に出たかったが、いかんせん本数が少な過ぎる。州内の交通の大半が乗合ジープであるのは、道路が細くて舗装も貧弱であるため仕方ない。だが他州に較べると格段に人々の移動が少ないのではなかろうか。もちろん、それだけ人口が希薄であるということにもなる。
決して豊かな州ではないし、これといった産業があるわけでもない。その割には極端な貧困層は多くないように見えるのは、やはり人口が少ないことと、中央政府が予算配分で優遇しているということもあるだろう。国境線を巡って幾度か痛い目に遭わされてきたインドとしては、すぐ北にある中国に対する警戒心を解くわけにはいかない。
ガントク市内を南に下る。家並みが密集している中、ぽかんと開けた空間があった。Iリーグのスィッキム・ユナイテッドの本拠地グラウンドである。元インド代表ストライカー、バイチュン・ブーティヤーは現在ここに在籍している。この時期なのにピッチの緑がつやつやと輝いているのは、まさかグラウンドの整備が行き届いているためというわけではなく、おそらく人工芝なのだろう。
行けども行けども、山また山。スィッキム州の景色は素晴らしい。同じチベット仏教地域でもラダックのあの月面のような風景とはまったく違い、つやつやとした豊かな緑に恵まれている。水も豊富でところどころで岩清水が湧いては流れ落ちている。自然の恵みの豊かさを感じる。ラダックに較べると、チベット仏教色がやや薄く感じられるのは、仏教徒以外の住民も多いからに他ならない。
クルマに乗り合わせている人たちの大半はベンガルからの旅行者たち。私の後ろには四人の家族連れと最後の列の席にはカップルがいる。それにしてもジープに11人乗るので、かなりきつい。私は最前列の左側。運転手の横に私含めて二人座っている。それでも最前列はまだいい。後ろの席はもっと窮屈そうだ。乗合ジープはたくましい駆動力で山道を進んでいく。やはり4WDのクルマは、きれいに舗装された市街地で乗るものではない。悪路で荒っぽく使いまくるためにあるのだ。
街道沿いの茶店で休憩
タルチョが風にはためく
ガントクからペリンまで5時間半ほど。道のりを半分ほど来たあたりで、食事休憩が入った。天気は良く陽射しもいいのだが、気温はかなり低くてカゼを引きそうだ。休憩後走り出して間もなく、ラヴァングラーの町を通過する。スィッキム州では、山道を走っていると、いきなり町に入るのでちょっとビックリする。それだけ人々が密集して暮らしているということなのだろう。あまり広がりすぎると往来が困難になるとともに、おそらく電気や水道等のインフラの整備の関係もあるのではなかろうか。狭くコンパクトにまとまることにより、限られた費用で生活や産業の基盤を整えることができると考えられる。
どこもかしこも山景色
市街地に入ったときだけ、スマートフォンでインターネットに接続できるようになる。そして郊外に出ると可能なのは通話のみ。人口が希薄でアンテナ等施設の設置と維持に費用がかかる割には投資分の回収を期待できそうにない地域では、相変わらず民間の携帯キャリアではなく、BSNLが強いらしい。
それでも、ここ10年ほどでインドの通信事情は飛躍的に向上している。インターネットが普及してきたころ、ネットカフェで30分くらい費やしてもメールチェックさえできなかったりすることが珍しくなかったことが、ずっと遠い昔のことのように思える。今ではスマートフォンで手軽に見ることができるし、フェイスブックで友人・知人たちの近況を知ったり、こちらから投稿したりすることができる。インドの場合、スタート地点が低かっただけに、その成長ぶりには目を見張るものがある。
スィッキムはインドの東のほうにあるため、夕暮れどきがずいぶん早い。午後5時にはもう真っ暗。日没は4時半過ぎくらいではないだろうか。その理由のひとつに山並みが太陽を遮ってしまうことも挙げられる。
ペリン到着まであと少し
5時を回って「夜になる」と、満月が美しかった。山あいに点々と光る電光を目にすると、それらの場所に人々の暮らしがあることを気づかされる。スィッキム州の給電事情は良好だ。水力発電が盛んであるためだろう。すぐ隣のブータンもインドに売電しているくらいだから、スィッキムも州外に電気を売るくらいの余裕があるのかもしれない。
午後6時にペリンに到着した。アッパー・ペリンの宿の前で降車。小さな町ではあるが、正面には24時間営業の銀行ATMがあるのにはちょっと驚いた。チェックインの手続きをしていると、日本人旅行者Uさんに出会った。ちょうど明日は周囲を観光するとのことなので、クルマをシェアさせてもらうことにした。

ガントクへ

実に20年以上の年月を経て、スィッキム州を訪問することになった。前回訪れたのは確か5月だった。平地の暑気から離れてホッと一息ついたものだが、今回はその反対。心地よい気候の平地から入ってくると、西ベンガル州の山岳地のダージリンにせよ、スィッキム州にせよ、日が沈んでからの寒さがとてもこたえる。日本の冬と同じような気温とはいえ、基本的に暖房がないので着込むしかない。しんしんと冷え込む中、さっさと寝てしまえばいいのだろうが、日記その他を書いていると寒さが骨身に沁みるような気がする、などと言っては大げさすぎるだろうか。

バケツに温水を溜めて髪と体を洗う。湯を浴びているときはそれなりに気持ちはいいのだが、前後左右から冷気が迫るため、すぐに身体が震えるほど寒くなってくる。バスタオルで全身を拭くころにはすっかり冷え切っていて、即座にカゼを引いてしまいそうなくらいだ。背中から布団や毛布を羽織り、ベッドの上で足を投げ出して座ってしばらく書き物をしていると、膝に載せたノートPCの温もりが心地よく、湯たんぽのような効果があることに気が付く。

夕方以降の室内の寒さは、西日の当たり具合にも左右されるようだ。ガントクでの宿のこの部屋は、午後の陽がまったく当たりないロケーションになっているようで、日没後に外から戻ってくると、室内のほうが寒かったくらいだ。

今回、ガントクの街に着いてみて、果たしてこれが同じ場所なのかと首をひねりたくなるくらいだった。前回の訪問から20年以上の時間が過ぎているため、いろいろと大きく変わるのは当然であるにしても、これほど景観が変わってしまうとは想像もしなかった。何が大きく変わったのかといえば、ガクトクの建物のタイプが昔と根本的に異なっている。州都ガントクの中心部、MGマールグ界隈では、「昔と今」の鮮やかな対象を目にすることができる。

ガントクの建物新旧 木造二階建て「イグラー」を取り囲むコンクリートの高層建築
「イグラー」の建物は、ガントクにはごくわずかしか残っていない。

マーケットの中にごくわずかに残る「イグラー」と呼ばれる、スィッキム州独自の木造建築だ。普通、建物は緑色に塗られており、トタンで屋根を葺いた二階建てだ。一階部分は店舗、通常二階は住居や倉庫となっている。前に訪れたときには、州都最大の商業地区MGマールグ沿いの店舗のほとんどは木造のこんなスタイルであった。現在、ガントクではこういう建物で新築する人はいない。斜面の街の限られた土地を有効活用するため、いきおい高層化することになる。建物がローカル色のあるものから、全インド共通のコンクリ柱とレンガで作る普遍的なものに置き換わったこと、加えて高層化により空が狭くなり、昼間でも通りが暗く、往々にして陽当たりも悪くなったといえる。

2011年9月に発生したスィッキム地震の際、斜面という元々地盤の軟弱な土地であることもあり、多かれ少なかれ被害を蒙った建物はかなりあったという話は聞くが、全壊してしまったビルもあったというから恐ろしい。地盤がゆるく、傾斜のきつい場所には不釣り合いなほど高層であったことが災いしたということだ。

2011年9月のスィッキム地震で全壊したビルの跡地
しばしば地震が起きるスィッキム州。こういう建物もかなり危険なのではなかろうか。

それはともかく、MGマールグ界隈では、申し合わせがあるのか、それとも条例で定められているのか知らないが、コンクリート造の建物の外装は薄緑色になっているため、ガントクらしい雰囲気と統一感はある。現在では車両乗り入れ禁止の遊歩道となっており、通りの中央には花壇がしつらえてあるなど、なかなか洒落た感じになっている。ライトアップされた夕方以降など、なかなかいいムードになる。

なかなか洒落た眺めのMGマールグ

それでも午後8時を回ると、開いている商店もごくわずかとなり、まるで深夜のような静けさとなるため、これが州都の中心地であるとはにわかに信じ難い気もする。

こんなカフェも現在ではあって当然の州都ガントクのMGマールグ

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Dekeling Hotel

あまり料金が高いところに宿泊することはないのだが、それよりも個人的にちょっとこだわりたい部分はある。こだわりたいといっても、そうでないと泊まらないとか、その条件を求めて右往左往するというわけではないので、「あると嬉しい」といった程度ではあるが。

1. 居室以外の「居住空間」的スペース

ロビーが気楽に長居できるようになっていたり、何か簡単な食事や飲み物でも注文して口にすることができるようなスペースがしつらえてあったりするといい。同じように旅行している人たちと話す機会が増えるといいし、それもまた旅行の楽しみのひとつであるからだ。

2. 充分な照明度の室内

そして部屋の中は、往々にして薄暗いことが多いが、日本の家屋の室内並みに煌々と明るいといい。そうでないと、本などを読んでいても目が疲れて仕方ない。

3. 書き物空間

室内にはちゃんとしたデスクと椅子があって欲しい。ベッドに腰掛けて、あるいは足を投げ出して、膝の上にノートPCを置いて書き物をすると肩が凝るし、どうもリラックスできない。

1については、ホテルの料金帯に関わらず、そういう環境があったりなかったりする。もっとも、あまり高い宿泊施設になると、客層自体があまり気楽に声をかけられる感じではなくなったりもする。

2についても、料金レベルに比例するとはいえない。インドに限ったことではないが、南アジア以西の宿では室内がどうも薄暗い傾向は否めない。

3は、料金帯に比例するというか、ある程度以上の料金帯のホテルになると、用意されていることが多い。だが、もちろんそれ以下のレベルの宿でこれらがあると非常に嬉しくなる。経営者にとっては、往々にして無駄な投資ということになるのだろうが。

ダージリンで宿泊したDekeling Hotelは、これらの条件をすべて満たしたうえで、チョウラースターのすぐ下のクラブサイドの斜面に建っているため、ここからの眺めは抜群に良い。

Dekeling Hotel

上階にあるカフェ兼レストランの大きな窓からも坂に広がる街並みや遠くに望むカンチェンジュンガ峰の威容も目にすることができる。もうひとつ上の階にもソファの置かれたラウンジがあり、ここからの眺めも同様に素晴らしい。

Dekeling Hotelのカフェ兼レストランからの眺め

宿泊した部屋の一角には、小さな「書斎」といった感じのスペースが作ってあった。こういうのはなかなかないので、さらに嬉しくなる。ただし窓際で、折しも寒さの厳しい時期であるため、そこで何か書くという気にはならなかったが。

Dekeling Hotelの女主人は、てっきりブーティヤー族だとばかり思っていたが、実は両親がシガツェから難民として逃れてきたというチベット人であった。インドに移住した二代目にして、このような人気の宿を経営するようになるとは、商いの才覚とともに大変な努力があったことだろう。ダージリンの町外れにもチベット難民居住区はあるが、そうしたところに暮らしている人たちの暮らし向きは決して豊かであるとはいえない。

このホテルが入っている建物(下のほうの階には別のホテルがある)のグラウンド・フロアーには、Kunga’sといういつも込み合っているレストランがあるが、こちらもまた同様にチベット難民の経営だ。狭いスペースにテーブルとイスを無理やり押し込んであり、いつも誰か知らない人と相席になるが、この店が出す料理が旨い証拠でもある。

Kunga'sのチベット式パンとオムレツのセット

滞在先自体が魅力あふれる場所であれば、宿は「寝に帰るだけ」とも言えるが、宿泊先の居心地が良ければ、なおさらのこと滞在すること自体が楽しくなる。

寒い朝は、チャーイで身も心も温まろう

ダージリンティーの茶園訪問2

ハッピーバレー茶園の製茶工場

昨日カルスィヨンのマカイバリ茶園訪問で失敗したので、本日はダージリン市街地のすぐ外にあるハッピーバレー茶園に前もって電話してから訪問する。たがあいにく「ウチでは冬の茶摘みはしませんので、工場のラインは止まっていますが、それでもよろしければ・・・」という回答。この茶園では収穫期は春・夏・秋の3シーズンのみなのだという。

茶園に到着すると、ちょうどそこにやってきたポーランド人の夫妻があり、茶園の職員に率いられて、一緒に工場内を見学する。この茶園は150年くらいの歴史があり、インドで茶の栽培が始まった初期のあたりからあることになる。茶の木の寿命を尋ねると、かなり長いらしい。茶園が始まったころからある木がまだ沢山あるとのこと。

茶摘みの仕事をするのはすべて女性で、年代ごとにチームを編成し、若い人たちほど遠くのエリアで収穫作業をして、年上になるほど工場に近いエリアで茶摘みをするとのことだ。工場で働くのはほとんどが男性で、女性は数えるほどしかいないとのこと。茶摘み労働者たちの日収は90ルピーと少ないが、その代わりに住居、子供の教育のための学校、診療所は無料となっているそうで、家族のうち数人が茶園で働いていれば、なんとか食べていくことはできるだろう。ちょうどスリランカなど他国の茶園もそんな感じだ。

加工ライン
加工ライン
加工作業に用いられる送風機
これも加工ラインの一部
ここで加工の最終段階を経て最後の選別場に作業は移る。
ここで手作業にて茶葉を等級ごとに選別

収穫期ではないので、空っぽになっている作業場を見学。コンベアの上の茶葉に、最初に常温の風を大きなファンで送り、続いて熱い風を送る。これにより、茶葉が握ってもちぎれることなく、ソフトになるとのこと。その後階下で発酵・熟成の過程があり、最後に茶葉をグレード別に選別するというラインになっている。摘みのシーズンにより、加工の時間は適宜変えるとのこと。通常、茶葉はサイズが大きいほどグレードが上になる。ひとつだけ「ALOOBARI」という別の茶園の名前が記されている加工ラインがあった。同じオーナーが所有する茶園だが、工場が併設されていないため、ここに持ち込んで加工しているとのこと。

ハッピーバレー茶園工場のオフィス

茶園のオーナーは外資系が多いらしい。インド人所有のものではマールワーリーのビジネスマンが経営するものが多いとのことで、このハッピーバレー茶園もまたマールワーリーの所有だ。地元民族であるブーティヤー、レプチャー、グルン等の民族が運営する茶園は存在しないそうだ。

一緒に工場と茶畑を見学したポーランド人夫妻は仏教徒であるとのこと。日本国外でも盛んに布教活動を展開する創価学会かと思いきや、なんとカギュー派とのことで、チベット仏教徒である。ポーランドに僧院があり、そこで入信する人が少なくないとのこと。チベット仏教寺院がそんなところにあるとは驚きだ。これからスィッキムに行き、あるリンポチェに教えを乞うところなのであるそうだ。つまりこれは英語で行われるわけで、先述のポーランドにある寺院とともに、チベット仏教にはなかなか国際的な側面もあるかもしれない。

三人でしばらく茶園を散歩する。茶園の中の集落で、ここで働いている女性に声をかけてみた。茶摘みのオフシーズンには何をしているかと尋ねてみると、それなりに仕事はあると言う。主に茶園の整備や木の手入れであり、この時期にはしばしば茶畑の専門家が来て、茶の木の健康状態をチェックしたり、病気等の駆除の手当等を行なったりするのだそうだ。

茶畑

茶畑の中に点在する集落の家屋は、どれもここで働く労働者のためのものであるようだが、どれもかなり清潔感があり、ある程度の居住スペースはきちんと確保されているらしいのは幸いである。

茶畑従業員の住宅

<完>