印パ分離のドキュメンタリー

当時のものとしては珍しいカラー映像を交えた印パ分離時を取り上げた、BBCによるドキュメンタリー作品がある。

Pakistan And India Partition 1947 – The Day India Burned (Youtube)

この作品にところどころ挿入されるカラーの実写映像も同様にYoutubeで視聴できるようになっている。

Very Rare Color Video of Indian Independence 1947 (Youtube)

印パ分離により、双方からそれぞれムスリム、ヒンドゥーとスィクの住民たちが先祖代々住んできた故郷を離れて新たな祖国へと向かった。もちろん新国家のイデオロギーに感銘したり、賛同したりしてのことではなく、彼らが父祖の地に留まるのがあまりに危険になってしまったがゆえの逃避行である。双方から1450万人もの人々が移住を余儀なくさせられたとともに、移動の最中で暴徒の襲撃で命を落とした人々、両国の各地で発生したコミュナルな暴動による死者も数え切れない。

恐らく人類の歴史上、かつてなかった規模の巨大な人口の移動であるとともに、最大級かつ最悪の宗教をベースにした対立であったといえる。この出来事が今も両国の人々の間で記憶され、家庭で子や孫に語り伝えられるとともに、両国間の問題が起きるたびにメディア等による報道等により、新しい世代もそれを疑似体験することになる。さらに悪いことに、往々にして両国の政治によって利用されることであることは言うまでもない。

印パ分離は英国の陰謀か、ガーンディーの力及ばずの失敗か、ジンナーの成功かはともかく、政治が犯した罪は今も償われてはいない。カシミール問題も、印パ分離がなければ生じることはなかった。

ヒンドゥーがマジョリティーの『世俗国家』の一部となって支配されることに対するアンチテーゼとして成立したムスリムがマジョリティーのイスラーム共和国パーキスターンが存在するということは、国防上の懸念が将来に渡って続くことを意味する。しかしながら分離がインドにもたらした恩恵があることも無視できない。

現在のパーキスターンのバルチスターンの分離要求運動のような地域的な問題とは無縁でいられることはともかく、ムスリムがマジョリティーの地域ならではの、奥行と広がりがあり中央政界を揺るがすほどの規模の各種のイスラーム原理主義運動やアフガニスタンを巡る様々な問題と直接対峙する必要がないというメリットは非常に大きい。

またパーキスターンの北西部のアフガニスタン国境地域のFATA(連邦直轄部族地域)のような連邦議会の立法権限が及ばない地域が存在することは、治安対策面でも大きな問題がある。

独立以来、インドが一貫して民主主義国家としての運営がなされてきたのに対して、血を分けた兄弟であるパーキスターンは残念ながらそうではなかったのには、地理的・思想的背景があるように思えてならない。

印パ分離はまぎれもない悲劇であり、現在の両国は今なおその傷が癒えているとはいえず、分離による代償を両国とも払い続けている。

しかしながら現在、パーキスターンとインドが別々の国となっていることについては、少なくともインド側から見れば好都合である部分も決して少なくないことは否定できないことである。分離という大きな痛みからあと数年で70年にもなろうとしている今、これまでとは異なる視点から評価・検証する必要もあるように思う。

インドの次期首相候補最有力者 ナレーンドラ・モーディー

近ごろ、Androidのアプリでこんなものが出回っている。いろいろな種類があるが、ナレーンドラ・モーディーの写真、スピーチを取り上げたものであったり、簡単なゲームであったりする。この初老ながらも眼光鋭い男性、モーディーはご存知のとおり、現在のグジャラート州首相にして、近い将来にインドの首相の座に上り詰める可能性が高い人物だ。

ナレーンドラ・モーディー関係の様々なアプリ

来年前半、おそらく5月に実施されることになりそうな独立以来16回目のインド総選挙。BJPの優位と国民会議派の苦戦が予想されている。近ごろ評判が芳しくない国民会議派、支持の着実な高まりがみられるBJPのどちらが第一党になったとしても、いずれも単独過半数を獲得することはないと思われるため、連立工作が政権奪取への鍵となる。

国民会議派vs BJPという構図は従前と同じだが、これまでとはその中身がずいぶん異なる。前者では現在副総裁の地位にあるラーフル・ガーンディーが党の主導権を握るに至り、党指導部の大幅な世代交代が予想されている。

後者にあっては、85歳にしてなお首相の座への意欲を見せていたL.K. アードヴァーニーが党内の争いに敗れて、グジャラート州首相の三期目を務める地元州での圧倒的な支持がありながらも、それまでの党中央との折り合いが良くなかったため雌伏を余儀なくされていたナレーンドラ・モーディー氏が次期首相候補に躍り出ることとなり、BJP内での勢力図が大きく塗り替えられている。

BJPは、従前からヒンドゥー至上主義の右翼政党として知られているが、ナレーンドラ・モーディーが主導権を握ることにより、右傾具合にさらに拍車がかかることから、これまでBJPと連立を組んできた政党の離脱と他陣営への接近といった結果を生み、政界の新たな合従連衡の再編の時期に来ているといえる。

凋落の方向にある国民会議派の新しいリーダーとしての活躍が期待されるラーフル・ガーンディーは、インド独立以来長く続いた「ネルー王朝」直系男子という血筋と支持基盤、そしてハンサムな風貌には恵まれているものの、政治手腕は未熟で、演説も青臭い「怒れる若者」的な調子で、とても「世界最大の民主主義国」にして、「多様性の国」の様々な方向性を持つ民をひとつにまとめて引っ張っていく器には今のところ見えない。首相としての任期をまだ半年残しているマンモーハン・スィンとの乖離には、副党首としての調整力の欠如は明らかだ。

対するBJPの首相候補のモーディーは、2001年にグジャラート州で起きた大規模な反ムスリム暴動の黒幕であるとの疑惑を払拭することができずにいるものの、しかしながらそれがゆえにヒンドゥー至上主義に賛同する層からは強力な支持を受けるとともに、インドでもトップクラスの経済成長を同州で実現させた政治的な力量と実力は誰もが認めるところだ。州外の人たちの間でも「グジャラート州のようになりたい。中央政界をモーディーに率いて欲しい」と思わせるだけのカリスマ性のある政治家である。

今後、両党のトップとなる二人の政治家たちの器という面からは、国民会議派のガーンディーの力量不足とBJPのモーディーが着実に積み上げてきた実績は比較のしようもない。

BJP体制になることにより、これまで国民会議派支配下にあることにより保護を与えられてきたムスリムや後進諸階級の人たち以外にも、不安を感じる人たちは少なくないはずだ。党内の有力者たちの中でもとりわけ「サフラン色」が濃厚で極右的な人物であるだけに、「ナレーンドラ・モーディー首相誕生」とは、それ自体がひとつの災害ではないかとさえ思う。それでもBJPが魅力的に見えてしまうのは、やはり国民会議派の無能ぶりがゆえのこととなる。

そうした状況なので、来年の総選挙により、インド中央政界は今後よほど想定外のことが起きない限りはBJP体制に移行することになるのだろう。今後の国のありかたを決定付ける大きな転機となるが、それを決める主体が国民自身であるということこそが、まさに世界最大の民主主義国インドだ。

だがBJPについては、同党の方針や政策そのものが大半の国民の大きな信任と信頼を得て当選ということにはならないであろう。最大政党のコングレスが不甲斐ないがゆえの、いわば「Protest vote」が集まった結果ということを重々認識しなくてはならない。

以前、BJPがインドの中央政権を握った際の首相はアタル・ビハーリー・ヴァージペーイーという、右翼政党指導部にありながらも、大いに自制の利いた賢者であった。ナレーンドラ・モーディーがどういう政権運営をするのかということに、彼の政治家としての器が果たして「世界最大の民主主義国の首相」にふさわしいものであるのかどうかが問われることになる。

桜バザー 2013 最終日

桜バザー会場

3月27日(水)から5日間に渡り、インド大使館敷地内で開催されていた桜バザーの最終日、3月31日(日)に訪れてみた。

もうだいぶ前、大使館が改築されて現在の姿になる前には、外交官の家族たちが自ら作った料理や菓子などを販売していたりもしていたものだが、何かにつけてアウトソースするのが時流の昨今らしく、このイベントで出店しているのはすべて外の業者となっている。

その分、開催が1日のみであったものが、ここ数年来、つまり大使館の改築後からは複数の日付にまたがって開かれるようになっている。

開催する側の都合や目的あってのことなので何とも言えない。少なくとも訪れる人々に対して複数の機会が用意されていいかもしれないが、中身はずいぶんよそよそしい感じになったと言えるし、訪れる人々の数も減ったと思う。開催日が数日間に渡るようになったため、延べ人数では多いのかもしれないが、1日の訪問客数で見ると、明らかに少なくなっているに違いない。

もちろんタイミングも良くなかった。桜の開花時期とはいえ、すっかりピークを過ぎてしまっており、もはや花見を楽しむという具合ではなくなってきているし、天気もすぐれなかった。桜が一気に開花した先週末であれば、また少し違った様子になっていたかもしれないが、事前に準備しなくてはならないので、こればかりは仕方ない。

インド大使館の前では、現在スリランカで起きている重篤な人権侵害を糾弾する座り込みの抗議活動が展開されていた。参加している人たちは、タミル系の人たちで、インド国籍の人たちもいれば、スリランカ国籍の人々もある。

剛腕でLTTEを壊滅させたラージャパクサ大統領については、その手腕に高い評価を与える向きも少なくない反面、あまりに行き過ぎたやりかたについて、内外からの批判も多い。現在もLTTEの残党狩りは続いており、治安当局による不当な拘束、監禁、拷問、殺害などが続いている。

だが、これらについて日本では人々の関心は非常に薄い。そうした状況であることを知らない人も多いのではないだろうか。通りかかる人たちの無関心ぶりには考えさせられるものがあった。

スリランカにおけるタミル系市民への迫害を糾弾する座り込み活動

横浜にある英連邦戦没者墓地

英連邦戦没者墓地

今年1月、東京で数年ぶりの大雪が降った数日後に、横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦没者墓地を訪れた。

沢山の墓標が並ぶ

この墓地は、1945年に開かれたもので、第二次大戦中に日本軍の捕虜となった英連邦軍人・軍属で、日本への移送中に亡くなった方々ならびに捕虜として日本国内で抑留中に死亡した方々1,555名に加えて、戦後の日本進駐中にこの世を去った方々171名、加えて朝鮮戦争での犠牲者の方々等が埋葬されている。

墓標は他国にあるCWGC管理下の墓地のものと共通のデザイン

墓地を管理しているのはイングランド南東にあるバークシャーに本部があるCWGC (Commonwealth War Graves Commission)だ。敷地は日本政府の国有地だが、終戦後に進駐軍に接収されるとともに、1951年のサンフランスコ講和条約により、英連邦戦没者墓地としてCWGCに永久無償貸与されている。一種の戦後賠償である。

インド兵たちが埋葬された一角
インド人に埋葬れているのはほとんどがムスリム
ムスリム兵士・軍属の墓標の中、唯一のヒンドゥーであるグルカ連隊所属のネパール人傭兵のものがあった。

同じCWGCが管理しているため、墓標のデザイン、記念碑の形状、敷地レイアウト等々、私が以前訪れたことがある他の英連邦戦没者墓地とよく似ており、墓地内を歩いていると、日本国内にいる気がしない。

柔らかな陽射しに包まれた墓地

~インドとミャンマーにあるCWGC管理の英連邦戦没者の墓地に関する記事~

マニプルへ5 インパール戦争墓地 (indo.to)

ナガランド3 コヒマ戦争墓地 (indo.to)

泰緬鉄道終点 (indo.to)

アクセス:JR保土ヶ谷駅あるいは関内から横浜市営バスにて「児童遊園地前」下車

11年後の処刑台の露

2001年の国会議事堂襲撃事件に関わったかどで収監されていたアフザル・グル死刑囚に対する絞首刑が執行されたのは今月9日の朝。デリーのティハール刑務所で処刑され、同刑務所内に埋葬された。事件から11年2か月後であった。

この事件によってエスカレートした緊張は、南アジアの事実上の核保有国同士が睨み合う、世界最初の核戦争まで一発触発の危険が揶揄されるまでに至り、日本その他の国の政府が自国民をインド・パキスタン両国からの退去を促す事態にまで発展した。

Afzal Guru hanged in secrecy, buried in Tihar Jail (The Hindu)

今月21日にアーンドラ・プラデーシュ州都ハイデラーバードで起きた連続爆破テロとアフザル・グルの処刑に関する関連性の可能性を指摘する声も一部ではある。

Hyderabad Blasts and Afzal Guru hanging link a mere sham? (One India News)

処刑は国内外で波紋を呼ぶことになったが、とりわけこの件によるインパクトが大きかったのはアフザル・グルの故郷カシミールであり、反政府活動の活発化の強い兆しが見られるようになっている。

近年は情勢が沈静化しつつあり、騒乱が始まった1980年代後半以前の主要産業であった観光業の復興の確かな進展がみられつつあった中、今後の成り行きが心配されているところである。

Afzal Guru’s secret execution raises concerns in India (DAWN.COM ※パーキスターン)

The hanging of Afzal Guru is a stain on India’s democracy (The Guardian ※イギリス)

カシミールのインドからの分離要求運動は、当局による逮捕、拘禁、投獄等の恐怖を前にしても怯むことのない活動家たちによって支えられている。もちろんその背後には、外国、つまりパーキスターンのISIや同国を本拠地とする原理主義過激派団体のサポートがあることはよく知られているものの、地元に暮らす人々多数が支持・共感する運動であるがゆえに政府の弾圧を乗り越えて継続されているわけでもある。

マハトマー・ガーンディーが中心となって率いた、イギリスからの独立運動の中で、ガーンディー翁自身も含めて多数の活動家たちが当時の政府当局に拘束され、投獄され、場合によっては命を落としたりしながらも、運動は粘り強く継続されていき、独立を手にするという輝かしい歴史と経験を持つインド自身の過去が、現在のカシミールという土地やそこに暮らす人々の痛みと苦しみと重なるように思われてならない。

テロや暴力を肯定するわけではないが、アフザル・グルの処刑はカシミールの分離を支持する人たちにとって、1929年4月に国会議事堂で爆弾を投げて「インキラーブ・ズィンダーバード(革命万歳)」を叫んで逮捕・収監され、1931年3月にラーホールの刑務所で処刑されたバガット・スィンのイメージと近似したものになるような気がしてしまう。

将来、カシミールがインドから分離独立ないしはパーキスターン側に編入されるようなことは決して有り得ないと私は信じている。それでも、万が一そのような時代がやってくるようなことがあれば、国会議事堂襲撃事件を後方支援したとされるアフザル・グルならびに襲撃実行犯たちは、故郷カシミールのインドからの分離のために自らを捨石とした憂国の志士として、祀り上げられることになるのだろう。

だが民族自決のために血で血を洗うような抗争がこの世にあってよいものなのか、私は大いに疑問である。とりわけインドのような民主主義国家にあっては、「共和国」の名に恥じない平和的な解決がなされることを望みたい。

「外国からの干渉」により、カシミールの政情不安が20数年間も続いているということは、問題の解決を強権による解決を求めた当局の大失態であり「世界最大の民主主義」の至らない部分にツケ込んだ隣国に足をすくわれてしまった結果であるともいえる。

「独立の志士」を生むことなく、異なる土壌に暮らす異なる民族、異なる伝統や信条を持つ人たちが、それぞれ異なる夢を抱きながら、共存・共栄していくことができる平和なカシミール地方を築いていってもらえるよう切に願いたい。