にぎやかな街 2

 このあたりは新宿の繁華街で働く人たちの「ベッドタウン」としての側面もある。また昔から中国系や韓国系を中心とした外国の人々も多く住んでいたようだ。  
 しかしバブル以降、以前からこの地域に生活するそれらの二世、三世たちに加えて自ら本国からやってきた移民第一世代の人口が爆発的に増えており、その流入は今も続いている。
 こうして同胞の数が膨らむとともに、土地とのかかわりを持たず地元社会に貢献することがなくても、地元の人々にはよく見えない××人空間、××コミュニティの中ですべてが事足りてしまうようになる。
 その結果、日本人社会から乖離した外国人空間がそれぞれのコミュニティに枝分かれすることになる。相互の接点はあまり(ほとんど)ない。異なる人々が融け合うことなく、また結合することもなく、たまたまそこに「集住」しているサラダボウルのような感じだ。
 そんな根無し草的な日常の中で、癒しを求める人たちも少なくないのだろう。界隈での宗教活動はなかなか盛んらしい。前述のイスラーム教徒の礼拝室はもちろん、外国系信者を多く抱える教会は多いし、ビルの地下に「××寺」を名乗る韓国の仏教系団体が活動拠点を構えていたりもする。「悪霊払いをします」ということだが、いったいどんなことをしてくれるのだろう?
 前置きが非常に長くなってしまったが、インドの大都会にも(インドに限らず多民族ではどこもそうだが)こういうところがあると思う。中国人やタイ人がいるというのではない。土地にルーツを持たない人が多いこと、おなじ地域を行き来していても相互に接点のない異次元コミュニティ空間があり、違った生活習慣や信条を持つ人々が集住しているといった点だ。
 デリーを例にとってみれば、インドで90年代から続く好景気の中で、首都圏人口が10年あまりで約四割増加したという。近郊のノイダ等を含めた工業化の進展、商業活動が盛んになったことにより、他地域から大規模な人口の流入が続いているためである。
 年々デリーの治安が悪くなっていることを懸念する声は多い。(だからといってデリーが危険な街だと言うつもりは毛頭ないが)確かにマスメディアでも犯罪率の高い増加傾向についてしばしば報じられている。
 また市内の主要な住宅地で鉄製のゲートにより夜間の出入りを遮断するところが増えている。変な時間だとわざわざ遠回りをする必要があったり、明るいうちに見つけておいた柵の破れ目みたいなところから出入りしないといけないなどということも珍しくない。昔はそんなことはあまりなかったはずだが。
 デリーにしてもムンバイにしても、昔からそこに暮らしている人たちに加えて近隣地域、そして国内にあっても言葉さえうまく通じない地方からやってきた者まで、実に多くの人たちが暮らしている。生活文化や価値観も異なる人々が重層的に集住する都会の良いところは互いに干渉されることなく、自分たちのやり方で日々過ごしていくことができることだ。しかし匿名性の高い社会だからこそ犯罪者やテロリストにとっても居場所を見つけるのはそう難しくないはずだ。
 単調な田舎の地域社会(その中でいろいろあるにしても)と違い、都会では何年暮らしていても、個人的な接点がなければ自室の壁一枚向こうで生活している人が何者なのか見当もつかないのが当たり前なのだから。
 大きな街の猥雑さと騒々しさは異なるコミュニティが軋みあう不協和音なのかもしれないが、その多様性こそが生み出す活気やパワーが周囲へ及ぼす影響もまた大きい。国こそ違えど、にぎやかな街に共通する匂いがあるようだ。
<完>

今もどこかで

 世界各地のニュースをテレビやラジオなどで網羅するイギリスの公営メディアBBC。ウェブサイト上でも英語によるカバーはもちろんのこと、なんと43言語でのニュースを発信しており、南アジア地域で使用されているコトバだけでもヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、タミル語、ネパール語、シンハラ語、パシュトゥー語の6言語に及ぶ。
 文字で書かれた記事のみならず、音声でも聴くことができて便利だ。自国の出来事を各国語で流すのではなく、世界各地で国際ニュースを含めた「地元情報」として発信しているのだから恐れ入る。やはり「太陽が沈まない」とまで言われた大帝国を支配していただけのことはある、といったところだろうか。
 利用できる言語の数も、ニュースの充実度もアメリカのVOAと双璧を成している。
 どちらのメディアもインターネット出現や衛星放送が一般化する前から、ラジオの短波放送などを通じて世界各地の特にメディアへの規制が強い国・地域では「信頼できるソース」として定評が高い。
 世界各地の現場から報道しているだけに、不幸にも命を落とす関係者も少なくないようで、1月下旬にはソマリアで取材中のBBC女性記者が銃弾の犠牲になっている。
 真摯な姿勢で報道の現場に直接かかわる人々の意識はともかくとして、自国民の利益に直接つながらない海外でマスコミ事業をわざわざ行うことにはそれなりの意図があるわけだろう。また発信(国)側の都合によりバイアスがかかる可能性は否定できないが、それらを差し引いても自国の国境を越えグローバルな「公益性」が非常に高いことも間違いない。
 そんな中で日本語を含めた22言語によるニュースを発信しているNHKオンライン。世界各地でそれぞれの言語で流されるラジオ・ジャパンのプログラムを聴くことができる。南アジアの言語もヒンディー語ウルドゥー語ベンガル語で聴取できる。国際ニュースの量も質もはるかに見劣りするが、主に日本の国内ニュースが中心なので、外国の人たちに私たちの国で今起きていることを知ってもらうには良いかもしれない。
 NHKワールド「日本語講座」もあり、各言語による日本語の初歩の手ほどきがなされている。講座のヒンディー語バージョンはもちろんインド人を対象にしたものだが、毎週これを聴いている人たちはどのくらいいるのだろうか。
 ともあれインドで、特に都市部を離れると日本を直接あるいは間接的に知るためのソースは少ない。今もどこかで「ニッポン」にひそかに関心を寄せてくれている人たちが、静かに耳を傾けていることだろう。プログラムの今後一層の発展を期待したい。

働く日本語

 ビジネス日本語能力をはかる試験がある。JETRO Business Japanese Proficiency Testというのがそれだ。
 2005年は6月19日(日)と11月20日(日)に予定されており、受験料は7,000円。日本国籍でも母語が日本語でなければ受験できるということだ。
 日本在住の一般外国人や留学生が受験する日本語能力試験日本留学試験と違い、ビジネス場面での日本語コミュニケーション能力をはかるという、社会人としてより実践的な日本語スキルが求められるテストである。
 対象は「日本語を母語としない人」とのことで、日本国籍であっても母語が他の言葉であれば受験することができる。もちろん私は日本語ネイティヴだが、仮に受験してみたらどの程度のスコアがマークできるのだろうか?
 現在、日本を含めて14ヶ国で実施されており、アメリカ、香港、タイ、シンガポールといった日本語需要の高い国々と並び、インドも含まれている。どこで受けても試験日は日本と同じだ。
 インドで日本語といえばまだまだマイナーな外国語であることは疑う余地もないが、昔々デリーの大学で日本語を教えていた先生の話によると「志高い学生たちが日本語を専攻しても、みやげ物屋の手先になるくらいしかなかった」時代もあったそうだから、かなりの「出世」かもしれない。
 しかも従来の試験地、ムンバイとバンガロールに今年からはデリーも加わった3都市で行われるようになるのだ。開催国中、会場となる都市数では日本(12都市)、アメリカ(6都市)に続いてインドとオーストラリア(各3都市)が第3位なのだからずいぶん力が入っている。ちなみにインドでの受験料は750ルピー。
 例年どれくらいの受験者があるのかわからないが、南アジア、中東を含めた唯一の試験開催国であることも含めて、今後ビジネスにおける日印関係の大いなる進展を見越した上での先行投資であろうか。
 頭の回転が速くておしゃべりなインド人が日本語までペラペラになったら・・・。うっかり敵に回したらとても手強そうだ。

国境地帯の地雷原

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 アフガニスタン、アンゴラ、カンボジアなど内戦が続いた地域では、各地に残された地雷によって多数の市民が負傷しており、そのありさまは日本でもしばしば報道されているが、インドでも同様の問題が起きていることがインディア・トゥデイ誌(12月6日号)に報じられていた。
 最近の印パ関係は比較的良好なものとなっているが、2001年末以降しばらくの間は一触即発の緊張状態が続いていた。
 きっかけとなったのは同年12月にデリーで起きた国会議事堂襲撃テロだ。国家中枢が狙われるという未曾有の大事件を受け、急遽展開した軍事警戒行動「オペレーション・パラークラム」の一環として、ジャンムー&カシミール州、パンジャーブ州、ラージャスターン州にかけての国境地帯におよそ100万個もの地雷が敷設された。
 その結果、2002年1月から2004年3月の間にこの地域に住む一般市民は、死者58名、負傷者310名という犠牲を払うことになった。現在もまだ地雷は除去されたわけではない。今後も悲劇はさらに続くことであろう。
 地雷は、軍人・一般市民の区別なく殺傷するとともに、敷設後長きにわたり人々の生活や往来を著しく阻害する危険な装置だ。一般的に地雷の製造コストは一個あたり3ドルからと言われるほど非常に安価だ。しかも敷設後に人員を配置することなく敵の行動を制限できる。そのため紛争地帯では実に手軽な兵器として使用されているのが現状だ。
 たとえ地雷が戦略上必要なものであったとしても、国際政治や両国の対立となんら関係もない庶民が、たまたま国境地帯に住んでいるがうえに負わされるリスクはあまりに大きすぎる。
 死亡者については25万ルピー、障害が残った者に対しては10万から15万ルピーの補償金が中央政府から支出されている他には、被害者へのリハビリテーションあるいは年金の支出といった対策は講じられていないというから、インドという国に対する地域住民の人心は離れていくのではないだろうか。
 今後急いでそれらを取り除く作業を進めていかなくてはならないはずだが、地雷の除去には製造コストのおよそ50倍の費用がかかるだけではなく、探知機と作業に熟練したスタッフをしても、5000個除去するごとにその中から1人の死者と2人の負傷者が出ると言われるほどのリスクがともなう大事業だ。

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国境線を誰が引く?

 インドでもパキスタンでもそうだが、アメリカなど第三国で出版されたニュース雑誌等に両国北部国境地帯の地図が掲載されている場合、「当国政府の主張する国境線を示すものではない」といった意味の但し書きがスタンプで押されているのを目にすることがある。当局により、係争地帯に関する部分についてはかなり厳しいチェックが行われているようだ。
 係争地帯とは言うまでもなくカシミール地方のことであるが、インドとパキスタン双方が同地方への主権を主張しており、事実上統治の及ぶ限界となっているLOC(Line of Control)は両国の停戦ラインに過ぎない。つまりインドにはインドなりのカシミール地方の形と大きさがあり、パキスタンや中国にもまた彼らなりの同地方の描きかたがあることになる。
 そのためインドで出版された地図中には、中国へと通じるカラコルムハイウェイ沿いのギルギットやフンザといった世界に広く知られるパキスタンの観光名所が非現実的にも「インドの町」となってしまうのと同様、逆にパキスタンで刷られた地図によればスリナガルがパキスタン領というおかしな具合になってしまうのだ。インドのJ&K州には、もうひとつの隣国、中国との間にも係争地帯がある。つまり中印紛争(1959年〜1962年)以降、中国占領下にあるアクサイチンの存在だ。
 中国との間には他にも東部で国境問題を抱えているのだが、このJ&K州にかかわる表記の問題から、デリー高等裁判所は中国製の地球儀の玩具輸入禁止を命じることとなったのだろう。中国で印刷される南アジアの地図では、インドの国土は頭頂部のカシミール地方を削った形で描かれる。ここにはインドともパキスタンとも異なる着色をしたうえで、この地域をほぼ南北に分断するLOCを境に、「インド実効支配地域」「パキスタン実効支配地域」と表記されるのだ。単にオモチャとはいえど、インドの将来を担う子供たちに間違った地図を刷り込むわけにはいかないのだろう。
 しかし思えばデリーが、イスラマーバードが、あるいは北京が何を主張しようと、誰もが必要とするのは生活の安定と平和だ。関係国「中央」の強固な意志のもとで、住民たちの思いを無視した不毛な駆け引きが続くカシミール。辺境に住む人々にとって、「民主主義」とはただ絵に描いた餅に過ぎないのかもしれない。
デリー最高裁 中国製地球儀玩具輸入禁止を命じる(パキスタン・DAWN紙)