マドガオン2

マドガオンでの宿泊先で付いていた朝食。プーリーバージーなのだが、使われているのがココナツオイルであることに、なんだか不思議なエキゾ感を覚える。

町中とくに繁華街やその周囲では、元々のゴアの人たちは何割くらいなのか?と思う。観光客ではなく地元で働いている人たちのなかで、明らかにゴアンであるとは思えない人たちがとても多いようだからだ。聴覚的にも、地元に住んでいると思しき人たち同士のヒンディーによる会話も聞こえてきたりする。

ポルトガル時代の建物
ずいぶん小さな教会があった。

インド各地からの移住は自由で、人口圧力の大きな州から大勢流入してくるのは当然のことだ。またビジネスを展開しようという人たちも沢山やってくる。現在、この州がBJP政権下となっている背景には、そうしたこともあるはずだ。

かなり南側に位置しているとはいえ、マラーティー語に近いコーンカーニー語のエリアなので、ヒンディー話者にとっては馴染みやすい言語環境(同様に地元でのヒンディー語受容度もすこぶる高い)であり文化圏であるため、北インドからを引き寄せやすい環境だ。

そんなこともあることから、話は飛ぶが、ポルトガル時代末期には、インド側のスパイや工作員の活動を防ぐことは困難であったらしい。革新志向のインテリ層の若者たちの中で、『祖国復帰』の活動のため地下に潜行したり、インド側の内通者として活動したりした者も一部あったようだ。

とはいえ、大方のポ領ゴアの世論はインドによる『返還要求』を脅威と捉えており、とりわけ受けた教育や社会的地位が高くなるほど、そうした傾向が強かったとのこと。

そんなポルトガル時代末期に、ゴアとパキスタンは蜜月時代にあったことがある。インド独立後にデリーから強硬な返還要求を拒み続けていたポルトガルは、インドによる経済封鎖を受けて、各方面に渡る様々な物資の入手をパキスタンに依存した。パキスタンにとってもインドと敵対するポ領ゴアは戦略上においても大きなポテンシャルを持つ『友好国』であり、食料、生活物資等々、多岐に渡る供給を支援していたようだ。

そんなポルトガル領ゴアとパキスタンの関係も1961年12月にインドが強行したゴア制圧の大規模な軍事作戦、『オペレーション・ヴィジャイ』により、粉砕されることとなる。

当時の貧しかったインドに呑み込まれることを恐れたことに加えて、よくも悪くもポルトガルによる同化志向の強い政策により、ゴア人として独自のアイデンティティとポルトガル本国との強い絆が涵養されてきた歴史が背景にあった。こうした面で、インドネシアと東ティモールとの間にあるものと、似たような土壌かあったとも言える。

復帰後のゴアは、中央政府による連邦直轄地となり、地元の社会・文化・政治環境等には配慮しつつも、16世紀から長く続いたポルトガル式統治のシステムと慣習をインド化することに力を注いだ。ポルトガル時代末期までの在地エリート層で、この時期に凋落してしまった例は少なくない。

ポルトガル語で教育を受けた官憲が英語教育で育った者に置き換えられただけでなく、インドが独立後に実施した土地の分配と同様に、ゴアでも大地主たちが所有していた農地等が分配されたことなどもある。ロンリープラネットのガイドブックで紹介されているBraganza家の屋敷の当主もそんな具合だったのではないかと思う。
ゴアがようやく『州』となったのは1987年のことだ。

インド復帰後のパワーゲームをうまく処理してゴアを上手にインドへ統合させたことになるが、ゴアで2012年にBJP政権が成立したことはエポックメイキングな出来事であり、ゴア問題解消に至るゴールであったと言える。かくしてゴアは普通のインドとなった。

さて、インドによる軍事侵攻に降伏してゴアを去ることになったポルトガル当局だが、1947年にインドを去ったイギリスと対照的なのは、ポルトガル籍を取得していた現地住民と一定ランク以上にあった政府職員への措置。

当時のポルトガルが保有していた海外領、とりわけモザンビークへの移住、再就職を積極的にサポートしたと聞く。もっともそれからまもなくモザンビークはポルトガル支配への闘争から内戦状態となり、インドから移住した官憲は当然攻撃の対象となる。そしてモザンビークは独立を迎える。期待した新天地での明るい未来は無かったことになる。

マドガオン駅は宿から徒歩すぐ。駅で大量に販売されていたが、ゴアのチッキーは、具材が豪華らしい。食べると歯の治療の詰め物が外れたりするのが悩ましい。

チッキー

ニザームッディーン行きのラージダーニーに乗車。Wi-Fiが利用できて良いと思ったのだが、しばらくすると使えなくなった。携帯電話を入れて、SMSで送られてくるIDとパスワードを入れてログインするため、結局はインドのケータイが必要となる。しかし発車してしばらくすると使えなくなり、シグナルも来ていない。駅だけのサービスというわけではないと思うのだが?

眺めて面白いネパール語

基層語彙にヒンディーと共通するものがとても多いので、視覚的には解りやすいネパール語。新聞を開けば、何について書かれているのかはだいたいつかめる。
この看板は関係ないが、『警察』に『पुलिस』(pulis)ではなく、प्रहरी(praharii)言葉が使われていたりするなど、ヒンディーよりもオーソドックス感が強いのも良い。
同じデーヴァナーグリー文字を用いるのだが、外来語の転記の綴りも、ネパール独自のものがいろいろあるため、散歩していても小さな発見があって楽しい。

バンスベーリヤーとその周辺

バンスベーリヤーの鉄道駅

ハウラー駅から鉄道で、コールカーターの北60キロ余りのところにあるバンスベーリヤーへ。通常はバンデールで乗り換えるケースが多いらしいが、乗った電車は幸いなことにバンスベーリヤーまで直通であった。乗車時間は1時間半ほど。駅からサイクルリクシャーで寺院へ向かう。

ハンセースワーリー寺院
アナンタ・ワスデーヴ寺院
アナンタ・ワスデーヴ寺院
寺院手前で販売される供え物

13本の塔を持つハンセースワーリー寺院とテラコッタの装飾が見事なアナンタ・ワスデーヴ寺院を見学。すぐ隣にはラージバーリーがあり、なかなか絵になるセッティングだ。絵といえば、境内で水彩画を描いている女性がいたので、いろいろ質問しながらしばらく見物。とかくベンガルでは、若い人から年配者まで、絵画、音楽、写真、演劇その他の趣味に熱烈に傾倒する人が多く、文化的な感じがする。

絵を描く女性

たまたま参拝に来ていた地元の親切な20代くらいの男性が、これらふたつの寺院の由来や背景、ラージバーリー(旧領主の館)や旧領主にまつわる、詳しい話を聞かせてくれたのもよかった。言葉が通じる国のありがたいところだ。

ラージバーリーのゲート
ラージバーリー

同じベンガルでも、お隣りのバングラデシュだと、ヒンディーはもちろん、英語を話す人も極端に減るので、たいていの人たちと普通に話が出来る環境から、ほとんどの人とかんたんなやり取りさえも容易ではないという、正反対の状態になってしまうのだ。田舎の眺めはインドの西ベンガル州もバングラデシュも変わらないのだけれども。

バンデールのカトリック聖堂
バンデールのカトリック聖堂
バンデールのカトリック聖堂
近年の電動オートリクシャーの普及ぶりには目を見張るものがある。

そこからオートリクシャーでバンデールまで移動。16世紀にここに地歩を築いていたポルトガルが建てたローマンカトリックの教会に関心があったのだが、今の建物は近年になってからのものであり期待外れであった。ここからほど近いフーグリーには、なかなか風格のあるイマームバーラーがあり、バンスベーリヤーのついでに訪れた甲斐があった。

イマームバーラー
イマームバーラー
イマームバーラー
フーグリー河の眺め
イマームバーラー
イマームバーラー内で保管されているモハッラムの祝祭時のターズィヤー(山車)

帰りは再びフーグリーの駅に出て、ハウラー行き電車をつかまえる。バンデールからは80分くらいかかるのだが、スマホをいじっていると、あっという間にハウラーに到着していた。暇な時間には日記などを書くこともできていいのだが、その反面、車窓の景色はあまり見なくなるように思う。

サダルストリートを行き交う人々

サダルストリート

サダルストリートと交わるフリースクールストリート

サダルストリート近くでバングラデシュとの間を行き来する国際バスが発着するため、バングラデシュ人たちの姿が大変多い。

ここ西ベンガルと同じベンガル人はベンガル人だが、このエリアにおいては、やはりバングラデシュからやってきた人たちはひと目でそれと判ることが多いのが可笑しい。

まずずいぶん頑張ったよそ行き(とりわけ女性)格好であったり、店先をキョロキョロしながら物色していたり、手には大きなおみやげ袋を抱えていたりと、いかにもおのぼりさんといった風情。インド人旅行者がサダルストリートに来ることはあまりないし、地元カルカッタの人たちはこんなところに用事はないので、とりわけ目立つ。

また、こうした都会で初対面の見知らない店員たちに、いささかの戸惑いもなくいきなりベンガル語で話しかけるのも、いかにもバングラデシュ人たちらしいことかもしれない。都心近くの商業地では、周辺州(ビハールやUP等々)から出てきた人たちが多く、店先で働いているのはベンガル人でないことが多いためである。

まあ、目立つというか、ここで旅行者として訪問しているインド人みたいに見える風貌の人たちのほとんどがバングラデシュから来た人たちなのだが。

ストリート界隈で特定の商いを営む人たちの中にも特定のエスニシティがあるようだ。タクシー運転手はほぼビハール、UPから来た人たちのモノポリーなのはオールインディアな現象だが、この地域で両替屋のオーナーにはアングロ・インディアンが多いというのはちょっとオドロキだった。

ごくなんでもない風景の中にも、ちょっぴり興味深いことが見つかったりするのは、やはりインド亜大陸ならではの面白いところだ。他の国を旅行すると、あ〜景色が良かったとか、飯がうまかった云々で終わってしまうのだが、この亜大陸では、ただ座って雑談していても、いろいろな社会勉強をさせてもらえる。

Javed Khanを漢字で書くと・・・

コールカーター東郊外のチャイナタウン、テーングラーで見かけた地元有力政党トリナムール・コングレスの選挙時に壁に書かれたJaved Khan(地元トリナムール・コングレスという政党の重鎮)への投票を呼び掛ける壁書きを目にした。昨年の州議会選挙の際に書かれたものだろう。
ローマ字によるものと、漢字での表記のものとが並んでいたため、「ああ、こう書いてJaved Khanと読むのだな」と判るが、そうでないと一体何と記されているのか想像もつかないところだった。
テーングラーの主要産業である皮なめし業にしても、調味料等の工場にしても、オーナーは華人で、働く人たちのほとんどはムスリムだ。
コールカーターでは、華人とイスラーム教徒は、非常に密な関係にあることを象徴しているかのようなひとコマだ。

これで「Javed Khan」と読む