南インドのドーサの類といえば、典型なベジタリアン食で、肉を入れるなど邪道の極みなのだろうと思っていた。
数年前、オリッサ州南部の丘陵地で、部族の人たちのマーケットを見に行くときに泊まった宿の食堂で、「キーマ・ドーサ」、「チキンエッグドーサ」といった変わったものがあり、これらがなかなか旨かった。
ふと、そんなことを思い出して、検索してみると、最近はけっこうあるらしい、ノンヴェジドーサが。
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ジャヤラリター逝去
昨日12月5日の夜11時半、チェンナイのアポロ病院で、ジャヤラリターが亡くなった。
本日12月6日のヒンディー語ニュースは、この女性、元タミル語映画のトップスターで、後に大物政治家となった、現職のタミルナードゥ州首相の葬儀のことばかり繰り返している。通常、ヒンディー語ニュースは、その言語圏内のトピックが大半となるが、一地方州のチーフミニスター、しかも非ヒンディー語州の首相が亡くなって、放送がそれ一色になってしまうのは異例だ。
女優時代にヒンディー語映画にも一作だけ(ダルメーンドラと共演したIzzatという作品)出演しているが、これほど大きく取り上げられるのは、やはり政治家としての存在感の大きさゆえのことだ。
タミル民族主義、裏返せば反中央即ち北インド感情、これと共振するところに反バラモン感情もあるのだが、その強烈なタミル民族主義の中核を率いる存在として君臨したのが、このバラモン女性というパラドックス。
女優時代は非常に美しく可憐で、長く政治家として頂点にあったときも、メディアのインタビューに応じるときには、上品かつエレガントな語り口で、豪腕政治家のものとは思えない優美さがあった。
近年、汚職により獄中で過ごした期間もあり、メディアでさんざん叩かれたこともあったが、さすがに今日の葬儀を伝えるニュースでは、彼女が行った貧困層や女性の地位向上の政策などを手放しで称えている。
享年68歳。南インド政界を代表する女傑が逝ってしまった。
Tamil Nadu CM Jayalalithaa dies at 68, to be buried at MGR’s memorial site (Hindustan Times)
パティヤーラー5
シーシュ・メヘル近くにあるグルドワラー・モーティーバグ・サーヒブへ。ここもまた名刹として知られるグルドワラーだが、敷地内にある大変立派で快適そうなダラムシャーラーがスィク教団の富を象徴しているようで印象的であった。
その後、Neemrana’s Baradari Palaceに行ってひと休み。ここは現在も王家が所有する宮殿だが、ニームラーナー・グループが運営しているヘリテージ・ホテル。お茶だけ飲みに立ち寄ったが、なかなかいい感じ。ただしお客が宿泊している雰囲気は感じられず、かなり空いているようであった。
〈完〉
パティヤーラー4
地図をもらおうと、パティヤーラーのパンジャーブ州政府観光局に行ってみた。不在だったが、職員の携帯番号が書いてあり、ダイヤルしてみたが、「1時間くらいしたらオフィスに行く」とのことで、「じゃあいいです。」と電話を切った。
そこからリクシャーでQila Chowkへ。ここはQila Mubarakの出入口前のバーザール。壮麗な建物なのだが、いかんせんメンテナンスがなっていない。現在、Patiala Heritage Walk と呼ばれる一連の見どころがあるのだが、それらの修復工事が一斉に行われている。
門をくぐって入り、右手が博物館になっている。中にはこのパティヤーラー藩王国の武器その他が展示させていた。
博物館見学していると、さきほどの番号からコールバックがあった。「あ、もういいです。」と再度断ったが、「あると便利ですから、博物館まで地図お持ちします。」と言われ、しばらくすると、本当にその人が現れた。
たかが観光地図一枚のことで、とっても恐縮であった。生の日本人を目にして話をするのは初めてだとかで、さんざんヨイショしてくれたが、なんだか申し訳ない。
キラー・ムバーラク界隈を散策。この城塞はキラーチョウクとその左右の壁は立派だが、裏手の部分はまったく飾り気がないし、場所によっては人の倍くらいの高さしかない壁もある。
キラー・ムバーラクから南下すると、旧王家の火葬場、シャーヒー・サマーダーンがある。
そこからシーシュ・メヘルへ向かう。ここは、1847年に当時のパティヤーラー藩主、ナレーンドラ・スィンによって建てられた宮殿で、その名のとおり鏡やステンドグラスを多用した美しいパレスであるという。だが、ここも修復工事中のため建物内には入ることが出来ず、中庭から眺めるのみ。
敷地内には、建立が1905年と記されたヴィクトリア女王の立像があった。他には藩王の像など。敷地内のチャーイなどを出す休憩場にやってきた5人連れの男たちはバングラデシュ人であった。インドで働いているそうだが、ときどきこうして小旅行をするのだとか。
パティヤーラー市内では、前述のとおり、Patiala Heritage Walkの一連の見どころの修復工事のため、ことごとく工事中のため入場できなかったり、入ることができても「カメラ使用禁止。スマホ、ケータイ撮影OK」という、無粋な措置がなされていたりするのには困った。機密であるはずはないし、質の悪い写真だけ手元に残させて、訪問者をガッカリさせようという意図があるとは思えないし、なんともいただけない。パティヤーラーの街自体は、かなり見どころがあって面白いのだが。
ファウンテン・チョウクにある有名店のGOPAL’sへ。1Fはスイーツ、2Fはレストランとなっている。食事してから〆で甘いものをと思ったが、疲れて食欲がないので、ミターイーだけにした。どれも香り高く、品格ある極上スイーツであった。後方左から時計回りに、それぞれサフラン、ドライフルーツ各種、マンゴー、バラをフィーチャーしたもの。
〈続く〉
パティヤーラー3
19世紀初頭にパティヤーラー藩王国の王位に就いたブーピンダル・スィン。46歳で逝去するまでに、国際連盟インド代表、円卓会議のメンバーなどを歴任した。現在も営業しているパティヤーラー銀行の設立者でもあり、現在はデリーの鉄道博物館で車両を見ることができるパティヤーラー・モノレールの創設者でもあった開明的な君主。
インド代表クリケットチームをキャプテンとして率いたことから、Captain Sahibとして現在も広く記憶されている。彼の孫で、現在国民会議派の議員で、州首相を務めたこともあるアムリンダル・スィンも同様にCaptain Sahibと呼ばれるが、彼は軍人としてパキスタンとの戦争を戦った経験があり、当時の軍での階級がCaptain(大尉)であったことによる。
大変な功績があった人でありながらも、現在、人々の間で共有されるプーピンダル・スィン伝説は、これとは違った側面らしい。
それは「絶倫王」だ。
10名と言われる正妻以外に25名とも言われる側室を持ち、判っているだけでも80名ほどの子供をもうけている。王というものは、スポーツ新聞ネタになるような部分でも、常人の域を大きく凌駕してこそ、人々に長く記憶されるものなのだろう。
〈続く〉